第92話 一輪の花
「ルネッ!」
思わず大きな声が出てしまって、ルネが眉根を寄せる。
「……本……物……か……?」
ルネの耳が私の声を確かめるようにピクピクと動く。かすれた声が聞き取れない。
「どうしたの、どこか痛むの?」
ルネの口元に耳を近づけると、
「馬鹿ユミィ……ッ!」
「わぁあっ⁇」
弱い声だけど、耳に流れた罵倒は鼓膜中に響き渡った。
ルネの顔にはっきりと怒りが浮かんでいる。
「マメに連絡しろよ。心配するだろうがっ!」
「ご、ごめん!」
体調の悪いルネを怒らせないように素直に謝る。
身を起こしたルネは私を観察していた。
顔や首、手足を見て、私に隷属の首輪や足枷、怪我が無いか確認しているようだった。
私が捕らえられているわけではないとわかったのか、一通り観察を終えたルネがホッと息を吐く。
「とにかく……ユミィが無事でよかった……」
私の頭をガシガシと乱暴に撫でる手は、大きくて温かかった。
まだとても疲れた顔をしているけど、さっきよりはだいぶ回復したみたいで安心する。
「うん。心配かけてごめんね」
シルビアゴーレムが、サイドボードに置いた水差しからゴブレットに水を入れて渡してくれる。
ゴーレムちゃんがじっと見ているのは、私の尻尾だった……あらやだ、自然に揺れてしまったのね。
「ありがとう」
お礼を言ってルネに渡すと、ルネは不思議そうな顔をしていた。
「……ゴーレム?」
「うん、ゴーレム。シルビア様が魔法で命を吹き込んでくれたんだよ」
私がそう言うと、シルビアゴーレムはルネに向かって丁寧にお辞儀をする。
つられてルネもペコリと頭を下げ、受け取ったゴブレットに口をつけた。
ルネはよほど渇いていたようで、あっという間にゴブレットの中身を空にする。
シルビアゴーレムが何度もお代わりを注いでくれて、潤ったルネの表情は、先ほどよりもずっと柔らかくなっていた。
ルネ、起きたばかりだけど色々話して大丈夫かな……?
聞きたいことが山ほどあるけど、それはルネも同じだと思うし。
「ありがとう」と言ってルネがゴーレムちゃんにゴブレットを返すのを見て、おそるおそる尋ねる。
「……もしかして、私を探してくれていたの?」
起き上がった姿勢をとるのはまだ辛そうね。
ルネの背にクッションをあてがうと、素直に身を預けてくれた。
「ああ。ユミィから伝言鳥が来てすぐ、この森に向かったんだ。獣人の間では、薬師のシルビア……時魔法師シルビアは有名だからな」
「えぇっ⁉ あ、あれから……数週間は経ってるはずだけど――」
迷いの森を通って診療所まで辿り着ける人は、怪我人か病人、もしくはその付き添いの人だけに限られる。
健康で体力が有り余るルネが迷いの森を抜けるには、疲弊して倒れるしかなかったんだ……
申し訳なさで俯く私を見て、ルネは大きくため息を吐いた。
「……森にかかってる魔術のことは耳にしてたけど……失念した。……誰かさんのせいで」
「本当に申し訳ございません……」
ううう……考え無しに伝言鳥を送ってしまったけれど、色々と説明を付け足すべきだったわ……
私だって、ルネに……たった一人の家族に何かあったのなら、取る物も取り敢えず、駆け付けてしまうもの……
ルネ、少し頬がこけたんじゃないかな……飲まず食わずだったのよね……ううう……
「あのっ……ごめんね?」
許しを請うわけじゃないけど、もうこれしか口に出せる言葉が無い。
ルネはただただ無言で私の方を見ている。
怒ってる? 呆れてる?
「ごめ――」とまた発しそうになった瞬間、ルネに頭をガシガシされた。
「伝言だって断片的すぎるんだよ。何でいなくなったのかも言わないし、落ち着いたら帰るって聞いたけど、『頑張りたいことができたの』って言って、結局帰ってこないし……」
引き続き、私の髪はルネの両手によってくしゃくしゃと揉まれ続ける。
「魔法教えてもらって、足に異物があって、今度の満月の夜に手術……なんて、次々に聞かされて……こっちがどれだけ心配したのか、わかるのか?」
ルネの鋭い目に睨みつけられて、私の垂れ耳はビリビリと震えた。
「ううっ……本当にごめんっ……!」
「何があったか、ちゃんと話せよ」
「はい……」
観念して、ポツリポツリと話し始めるとルネは腕組みしながらも真剣に耳を傾けてくれる。
普段行かない場所に採取しに行き、奴隷商人に捕まったこと。
ロシータちゃんと一緒に闇オークションにかけられたところを、時魔法師シルビア様に助けてもらったこと。
シルビア様に保護されて、家事のお仕事や診療所の受付のお仕事をいただいたこと。
フィーちゃん、ダークちゃん、チェリーちゃんとの出会い。
カレンデュラさん、ブルーベルさんが仲間になったこと。
シルビア様から魔法を習っていること。
左足に異物があって、今度の満月の夜に手術を決めたこと……
色々と危険だった事は抑え気味に話したけど……ルネ、なんだか気づいているような顔をしてるかな……
「――……いっ、以上です……」
私の語彙力が低すぎて、ルネに沢山質問されたけど、そのお陰で大体の出来事は話せたはず。
人からこんなに説明を求められたことは無いから、喉がもうカラカラだ。
話終えて少しホッとしていると「……マジで、馬鹿だな」と呆れ声をもらった。ううっ……
「調子に乗って遠くまで行くから、奴隷商人の罠なんかに引っかかるんだよ」
「……返す言葉もございません……」
眉間に皺を寄せたルネが盛大に溜息を吐いた。
「満月の夜……って、もう明後日の話かよ」
「うん……」
「不安……じゃないのか? その、シルビアって人。腕は確かなんだろうな?」
ルネが疑うような訝しむような顔をするのは、ルネがまだシルビア様と対面してないからだと気づく。
その人柄を知ってもらえれば、ルネも安心すると思うのだけど。
「シルビア様の腕は確かよ。私も治療を受けたし、他の人の治療に立ち会ったりもしたもの」
「そうか……」
「ただ……手術を受けると、怪我した当時の記憶が少し消えてしまうかもしれないって、シルビア様に説明されたの……でもね――」
瞬時に顔をしかめるルネに、畳みかけるように言葉を紡いだ。
「父さんと母さんやルネの事を忘れてしまうわけじゃないから、心配はしないで。消えてしまうのは家族以外の、些細な日常の記憶よ……」
それが本当に些細な日常の記憶だけかなんて、私にはわからない。
消えてしまう記憶の中に、大切な何かがあることを、私はもう気づいていた。
言葉では言い表せない、自分でも思い出せない記憶を、ルネに上手く伝えるのは不可能なことも。
だけど、ルネに心配をかけずに、納得してもらう為に私は言葉を続ける。
「私、シルビア様を信じてる」
言い切った私を見て、ルネがハッと目を見開いた。
私に家族以外に信頼できる人が出来た事を、ルネは驚いたのかもしれない。もちろん、私も。
『私達は家族だ』と言ってくれたシルビア様の言葉が、胸の中で響いていく。
「……そっか……それじゃあ、手術が終わったら、家に帰るんだな?」
そっぽを向いて呟いたルネの顔は、少し拗ねているように見えた。
「私、帰らないよ」
「かえ――……はぁっ⁉」
「さっきも言ったけど、お仕事をいただいたの。これからはここで住み込みで働く事になったのよ」
言いながら、少し誇らしい気持ちになる。今までは雇ってもらうことができなくて、仕事に就くことなんて考えられなかったものね……
「住み込みで……? 家を、出るのか?」
「うん! 今はご飯を作ってるだけだけど、これからは診療所の受付のお仕事もするんだ。とても楽しみにしてるんだよ! ……あっ、お腹空いたでしょ? 今、何か食べる物作ってくるね!」
「え……ああ…………うわっ……!」
「えっ……ル、ルネッ……⁉」
ルネは獣化した勢いでベッドから落下していた。
「大丈夫っ⁉ どこか、怪我してるの?」
「い……いや、そうじゃない……腹が減っただけ……」
大人しくベッドに戻ったルネは、上掛けから狼の顔だけ出して力なく首を横に振る。
急に獣化してしまうなんて、まだ調子が悪いんだろうな……
「? そう? じゃあ、横になって待っててね」
「……ああ……」
手を振るゴーレムちゃんを残し私は病室をあとにした。
「ユミィが……家を出る……」
ルネの呟きは、私には聞こえなかった。
***
病室を出るとダークちゃんが外の廊下でなにやら怪しい動きをしているところに遭遇する。
メイド服から普通の黒いローブに着替えてしまったダークちゃんは、もとの中性的な感じに戻ってしまっていた。もう少し見ていたかったわ。
籠を持ったダークちゃんが通り過ぎた部屋の前には、一輪の花がドアに貼りついていた。
これ、ダークちゃんが……?
何のつっかえも無いのに、花は不思議とドアに張り付いていた。これも魔法なのかしら?
よく見ると、皆の部屋のドアに飾られているような……そっか……!
私は足音を殺してダークちゃんに忍び寄る。
「わっ!!」
「うっ、うわあああっっっ!!!」
驚いて飛び上がったダークちゃんが、壁にペタリとくっついた。
「バ、バ、バ、バカッ! 驚かすなっ、ウサ犬!」
「ふっふっふっ。ダークちゃん、これは何? もしかして……花祭りだから?」
ドアに貼り付けられた花を指さすと、ダークちゃんの顔が真っ赤に変わっていく。
「べ、別に、お前の為にやったわけじゃないからなっ!」
「はいはい。でも、ありがとう。元気が出たよ」
にっこり微笑むと、ルネを心配して緊張していた心が和んでいく。
「……お前、弟と……。っじゃなくて……、お前の住んでいた山は、ここから……遠いのか?」
俯きながら言うダークちゃんは、何故か目を逸らしていた。
「えっ? ……んーと、魔力を使わなかったら、竜鳥車で一週間くらいはかかっちゃう、かも?」
きちんと調べたわけじゃないけど、記憶の中の地図とシルビア様の話から大体の位置はわかる。
だけど、どうして急にそんなことを?
私が不思議に思っていると、「お前の料理は……」と聞こえた。料理?
「ダークちゃん、お料理がどうかしたの……?」
「……なんでもない……」
「そう……?」
何か言いたい事があるのかもしれないわね。だけど、ルネを待たせてもおけないし……
ダークちゃんを置いてキッチンへと向かう……のをやめて廊下の角に佇んだ。
ほんの少しだけ、ゆっくりしてもいいわよね。せっかくだから、ダークちゃんが戻るのを待って、もらったお花を持って行こうっと。
「………………から、………………ぞ……」
ダークちゃんから見えない場所に潜んでいると、ダークちゃんの声と、立ち去る足音が聞こえてくる。
ドアについたお花を手に取り、自然と笑みがこぼれた。
『――不味くないから、ここいにてもいいぞ――』
「素直じゃないなぁ……」
手に取った花は優しい香りがした。