第79話 ギュッと
難を逃れたダークちゃんはいそいそとお風呂を終えたようで、光の速さで自室に避難していった。
うーむ。ダークちゃんの逃げ足の速さを見習わなくちゃな……
キッチンの片付けを終えた私もお風呂に入るけれど、『後で部屋に行くね』と言われたので今日は念入りに体を洗っておこう。
とは言っても……シルビア様はお忙しいから、そんな時間は取れないかもしれないけど。
ロシータちゃん達もお風呂から上がったみたいだけど、シルビア様は今、お風呂に入ってるのかな……?
彼女の白い素肌が水に濡れているのを考えると、何だか心臓がドキドキしてしまう。
シルビア様は顔も見姿も整いすぎて一見人形のようだけれど、微笑むと人形じゃなくて天使だったんだなって思っちゃうのよね……
いやいやいや……天使って……何言ってるのかしら、私……
恥ずかしくなってブクブクと湯舟の中に沈んでいく。
のぼせてしまったのは、シルビア様のことを考えていたからなのかな……
軽くお掃除をして、お風呂から上がって髪を乾かす。
脱衣室に備え付けられた大きなクローゼットから、真新しい寝着を取り出した。
小さな戸棚にはオイルや保湿クリーム等が入った綺麗な瓶が沢山あって、繊細な作りからそのどれもが高級品であることがわかった。
洗い物をしてると私も手が荒れるから、戸棚にあるオイルやクリームを手や顔なんかに使わせてもらえてとても有難かった。
フィーちゃんと私がロシータちゃんとチェリーちゃんに塗っている子供用の保湿クリームは、思わずペロリと舐めたくなっちゃう美味しそうなバニラの匂いがするのよね。
フィーちゃんから香る茉莉花のような柔らかい花の匂いは、フィーちゃんによるとオイルではなく精霊力そのものの香りだそうだ。
たまにフィーちゃんに近づいてクンクンと鼻を動かしていると、フィーちゃんは照れながらも私の顎の下を撫でてくれるから、それが結構嬉しかったりもするのだけど。
そして、なんといってもいい香りといえば――
身支度を終えて自室に戻ると、扉を開ける前から私を陶酔させるような甘い魔力の匂いを感じる。
扉を開けると、ベッドには既にシルビア様が腰掛けていた。
シ……シルビア様……本当に……いらしたのね……
シルビア様が自室にいたことに驚いて、心臓が跳ね上がっていく。
お風呂上がりのシルビア様は、滑らかな肢体を真っ白な寝着に包んで輝く様に美しい。
絹で織られた寝着を着ると、シルビア様の細い腰と大きな胸の対比がすぐにわかった。
平凡な体系の私が寝着を着ると、全体的にムチムチして見えて少し恥ずかしいのよね……
「ユミィ、待ってたよ」
シルビア様は、ベッド脇のサイドテーブルに水差しを用意してくれていた。
ゴブレットに注いだ冷たい水を、はにかみながら差し出してくれる。
「はい、どうぞ」
「あ……あり、ありがとう……ござい、ます……」
上ずった声が恥ずかしくて、ゴクリ、とゴブレットの水を飲み干した。
お陰でカラカラだった喉は潤ったけど、少しも落ち着ける気がしなかった。
それは多分、現実感が無いほどに美しいシルビア様がそばにいるからだわ……
私がゴブレットをサイドテーブルに置くと、シルビア様がベッドに腰掛けたまま両手を伸ばしてくる。
「ね……ユミィ……ギュッて、して?」
真っ白な肌にほんのりと頬が赤い。
大きな瞳は熱を帯びたように潤んでいる。
黒炭の色をした髪は、夜の帳の様に艶やかに後ろに流れていた。
人間で……ここまで美しい人って……いるのかな……?
純粋な疑問が頭の中を占め、シルビア様に見とれた私は完全に硬直して動きを止めてしまう。
何も考える事ができない……
「ユミィ~~! はやく~~~~!」
駄々っ子の様に足をパタパタとさせたシルビア様が、不満気な声を出した。
シルビア様に呼びかけられ、やっと我を取り戻す。
……そ、そうよ、ぼんやりしている場合では無いのよ……どうにかして、この状況を切り抜けないと……
目を泳がせながら、シルビア様の隣に無理矢理腰掛けた。
「えええええ……ほっ……ほんじつは……お日柄もよく……」
私が意味不明な事を言っている間に、シルビア様が私に抱き着いた。
「ふふっ! ユミィだ! ユミィだ! モフモフ~~~~!」
シルビア様の柔らかい感触に、私の思考は完全に停止してしまう。
抱き締められた私の心臓は、全力疾走をした時以上に速く鼓動を打つ。
嬉しいのに切なさがこみ上げてきて必死に声をこらえていると、目の前が真っ白になり、いつの間にか私は半分ほど獣化していた。
「ねぇ、ユミィも、ギュッて、してくれるかい……?」
シルビア様の大きな瞳に、私が映っている。
淡い紅色の薄い唇が物欲しげに震えているようで、何も抗う事ができなくなってしまう。
錆びついたブリキのように、ぎこちなく手を動かすと、私はシルビア様を抱き締めた。
密着するとシルビア様の香りを強く感じた。
ふんわりした薫衣草の花の香りには、乳香の香りが薄く混じっていて、それらの他に蕩けるような甘い魔力の香りもする。
シルビア様の柔らかな髪が私の頬に触れてくすぐったい。
晴れた日の長閑な野原にいるような……
雲の中にいるような……
柔らかな温かさが、私の全身を包んでくれる。
遠い記憶の中の何かと、この温かい感触が一致していく――
(なんて……幸せなの……)
今まで感じたことのないような幸福感で、心の中が満たされていくのがわかった。
温かくて、ふわふわして、いい匂いで――
それは、私の……とても大切な人の匂い……
石鹸とクリームと、魔力が混じった、いつまでも包まれていたくなるような香り――
いつの間にか鼓動が緩やかになって、切ない胸の苦しさは温かな気持ちに変わっていた。
シルビア様もその気持ちを感じたのか、頬を染めて心地よさそうな顔をしている。
「お風呂上がりだから、とても温かいね……」
子猫のように私の胸に顔を擦りつけるシルビア様に、愛しさがこみ上げてくる。
なんだか、保護した子猫が懐いてるみたい……
段々と私の体温が上昇してきて、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
暫く抱き合っていると、ポワンとした目でシルビア様が嬉しそうに言った。
「ユミィ……今度は……お風呂でギューッとしてくれるかい……? ……明日にでも」
…………………………え…………………………?
……お風呂で……ギューッ………………??
……そんなこと、お風呂でしていたら………………死んでしまうんじゃないの……?
「だっ、駄目ですっ! お風呂とギューッは分けられるんです!」
命を守る為に、私は断固拒否を表明する。
「分けなくてもいいじゃないか……ユミィは、ケチじゃないだろう?」
シルビア様が不満気に頬を膨らませる。
ワガママを言っても可愛いと思ってしまうけど、いけないいけない……
それよりも……ユミィ、これは切り上げるチャンスよ……
「ケチだから……今日のギューはここまでです……」
私はシルビア様からパッと手を離した。
その途端、普段の人化した姿に戻る事ができた。
焦ったようなシルビア様が、慌てて私の胸に縋りついた。
「あっ! まっ! 待って! ごっ、ごめんなさぁいっ!」
幼い子のように赦しを請う姿は、普段の凛とした表情とは対照的だった。
「ゆるして? お願い……」
潤んだ瞳で上目遣いに私を見るシルビア様が本当に可愛くて、今日森の中で戦ってた人と同じ人だとはとても思えない。
ここでゆるしたら……この混乱した時間を終わらせられるチャンスを、みすみす手放す事になるけど――
(もう、本当にしょうがないんだから……)
そう思いながら、私もこの温かさをずっと感じていたかった。
「はいはい……」
私は寝台の中央に座ると、シルビア様に両手を差し出した。
(とても恥ずかしいけど……約束……したものね……)
「来て、ください。シルビア様……」
こうやってシルビア様に手を差し伸べる私は、一体どんな顔をしているのか想像もつかない。
広げた手の中に、シルビア様が凄い勢いで飛び込んできて押し倒される。
シルビア様を抱きしめると、まるでこうしていることが自然で、離れている時の方が不自然なんではないかというほど、なんだかしっくりくる気がした。
「……ねぇ、ギュッとしながら頭を撫でてもいいんだよ?」
シルビア様が私に抱き着いたまま、チラリと顔を伺ってくる。
ギュッとするのは、親しい間柄……友人同士でもすると思う……
頭を撫でるのも、子どもをあやす時にするけれど……
(その二つを組み合わせると……恋人……みたいだし……)
突然心臓がバクバクいったようで、私はシルビア様から少し身を離そうとする。
「……それも駄目です。ギュッと、ナデナデも別なのです……」
「え――っ! そんなぁ!」
シルビア様が悲しそうな声を出す。
「文句があるなら、今日はここまでですよ!」
「あっ、まって……!! やだ……!」
シルビア様はすごい力で私に抱き着いたまま離れない。
ぴったりとくっついたまま、私は身動きが取れなくなってしまう。
「このまま、ずっといさせてね?」
「……駄目です……」
「え~~。お昼寝の時はいいのに……」
お昼寝の時は皆一緒だし……こんなに密着してないし……
「それはそれ、これはこれです。夜は研究があるんでしょう?」
シルビア様は物足りなさそうに切なげな顔をしながら、渋々と私から離れる。
「……明日も、だよ? 毎日……ギュッするって、約束したからね?」
その顔が子どもみたいで、薬師をしてる時のシルビア様とどちらが本当の顔なのかわからなくなる。
だけど、どちらもシルビア様なのよね。
「はい……わかってます。……研究、頑張ってくださいね」
「うん……ユミィがそう言ってくれると、頑張れる……」
ゆっくりとベッドから下りてドアまで移動すると、少し恥ずかしそうな、満足そうな顔でシルビア様が微笑んだ。
「おやすみ、ユミィ」
「おやすみなさい、シルビア様」
私もシルビア様に微笑みかける。
小さく手を振ってシルビア様が部屋を出て行くと、途端に心臓がバクバクしだす。
顔から火が出てしまうのではないかというほど、熱くて仕方ない。
「これを……毎日……するの……ね……」
全身がとても熱くて、この火照りはなかなか冷めないのだと感じる。
「私……こんなの……毎日……もつのかなぁ……」
もぅ……シルビア様は本当に甘えっこなんだから……
……仕方ないなぁ……
私はベッドに突っ伏して全身の力を抜き、狼の姿に戻った。