第73話 戦いの終結
少女が一歩、足を踏み出す。
幼い手に持つ不似合いな大鎌は、闇の魔素で形成されていた。
その度に、少女の足元に水たまりのように広がる闇が、ひたひたと濃さを増す。
小さな歩みが、死神の足音のようで――
風に舞い上げられた木の葉が、少女の闇に触れると、その瑞々しさは音も無く消えていた。
闇のオーラを取り巻くシルビアが、カレンデュラに近づいていく。
禍々しい威圧感で、カレンデュラの額に玉の汗が浮かぶ。
あと少し――
あと少しで、死神の大鎌が届く領域に入ってしまう。
少女の黄金色の瞳が、身じろぎ一つできないカレンデュラを捕らえた。
シルビアの小さな手が大鎌の柄を握りしめ――
「しるびー、ころしちゃ、だめ!」
ロシータがカレンデュラを庇うように、シルビアの前に飛び出した。
大きな紅色の瞳は真っ直ぐにシルビアを見据えている。
「かれんでゅら、ろしーたの、こぶん!」
いつになく真剣なロシータの眼差しに、シルビアが立ち止まる。
カレンデュラが驚愕したように、ロシータを見つめていた。
真っ黒な蛇のようにカレンデュラへと迫っていた闇の魔素が、シルビアの足元の闇の中に収束する。
「ロシータ……君も見ただろう? 躊躇なく屋敷を燃やし、人を殺そうとするような彼らと、これから共に生きていくと言うのかい?」
「ろしーた、おうちなくても、だいじょーぶだぞ!」
鷹揚に頷いたロシータに呆れたように、シルビアは息を吐いた。
「そういうことを言ってるんじゃないよ……」
ほんの少し闇の魔素が薄くなったのと同時に、辺りを包む威圧感が軽くなっていく。
ロシータの前にダークが飛び出した。
「ご……ご主人様……あのっ……そのっ……コイツらが悪いことは、百も承知なのですが……そのっ……隷属もさせましたし……そのっ……どっ……どうか……寛大な……お裁きを……お、お願い致したく……」
漸く息を吸えるようになったダークは、叱責を覚悟するかのように、両手を固く結び目を閉じている。
「ダーク……君もか……」
震えながらシルビアの前に立つダークの膝が笑う。
シルフィードが立ち上がって、ダークの背に手を添え寄り添った。
深い森を思わせるシルフィードのターコイズグリーンの瞳が、シルビアに向けられる。
「シルビアさん、私からもお願いします。私、この方たちと話し合う必要があると思うんです」
哀し気な色を湛えた瞳は、シルビアに冷静さを取り戻させた。
シルフィードを包む柔らかな風が、辺りを取り巻く闇の魔素を薄くしていく。
「フィー……君もかい?」
容認できない顔をしたシルビアが、不満気な声を出す。
シルフィード達を見つめたシルビアは、何か考え込むように立ち止まっていた。
暫く動きを止めていたが、結論が出たのか、小さく首を横に振る。
風に散らされた闇の魔素が、風に押し勝って周囲へと広がっていく。
闇の魔素が増し、息もつけない緊張感が辺りを包み込んだ。
肌を刺すような闇の冷気が、心臓を締め付けるようにその場にいる者たちに纏わりつき始めた時――
「シルビア様、もう……怒らなくていいんですよ」
シルビアがその顔を見上げる。
ユミィが穏やかな表情でシルビアの肩を抱き寄り添っていた。
辺りに広がる、あれほど濃かった闇の魔素が霧散していく。
初めて闇以外の存在に気づいたかのようなシルビアに、ユミィは優しく語り掛けた。
「だから、ね? ……赦してあげましょう、シルビア様?」
ユミィの紫色の瞳を見つめるシルビアの瞳から黄金色が消えていく。
辺りに残っていた闇の魔素も消失し、穏やかな木々のざわめきが聞こえてくる。
シルビアの漆黒の瞳は、ユミィの姿だけを映していた。
「……ユミィ……」
「シルビア様……」
シルビアはユミィの手を握りながら俯く。
「こういうことは、そう簡単な話じゃないんだ、ユミィ……」
屋敷を燃やし、自分達を皆殺しにすると言った妖精達。
「シルビア様……。わ、わかってます、だけど……」
今、命を奪わない事を選択したとしても、今後、彼らがこちらに牙をむくことになったら――
考えられるだけの山積みの問題に、ユミィの顔に焦りが浮かぶ。
(それでも……私は、彼らを助けたい……)
目の前で命が奪われるのを見たくないとユミィは思う。
そして、シルビアが命を奪うことも――
シルビアが再び、何かを考え込むように眉根を寄せる。
再び広がった闇の魔素が森をざわめかせ、隠れるのに耐えきれなくなった鳥たちが、森から逃げ出していく。
シルビアの足元の闇は、湖のように凪いでいる。
「……ユミィが手助けしてくれるなら……できるかもしれない……」
シルビアの思いがけない言葉に、ユミィは勢いよく頷いた。
「わ、私でよければ……私、何でもします……! だから、どうかっ……!」
シルビアが握っているユミィの手を持ち上げる。
真っ白で小さな手が、矯めつ眇めつするように、ユミィの手を撫で上げていく。
手首から指先へ、指先から手首へと往復する度に、ユミィの体の中に何かの熱が湧き上がってくる。
「……ユミィが……毎日……」
「私が……毎日……?」
細く長い指が、真っ白な蛇のように、ユミィの指に絡みついた。
指が絡むと同時に、向けられたシルビアの漆黒の瞳と、ユミィの紫色の瞳が一点で交錯する。
ユミィの手にシルビアの柔らかい頬が触れた。
「……ユミィが、毎日……ギュッとしてくれるなら……赦す……」
ほんのりと頬を染めたシルビアが、恥ずかしそうに目を伏せた。
一瞬、時が止まったような静けさが辺りに広がる。
その場にいる全員の視線が、ユミィに集まっていた。
「……は?」
思いがけない言葉にユミィは真っ赤になりながら戸惑う。
「えっ……ええっ??」
慌てて周囲を見回すと、皆示し合わせたように頷いていた。
「やったー! ゆみーのぎゅー、ろしーたも、だいすきだぞー!」
「あらあら……ユミィさん、お願いできますか?」
「……くぅっ。ご主人様が……お望みならば……」
何故こんなに息を合わせたような答えしか返ってこないのだろう。
「な、なに、それっ?」
どうしていいかわからず、ただオロオロと慌てるユミィの手が、真っ白で小さな手に強く握られた。
「……ユミィ、ギュッて、してくれる? 毎日だよ?」
シルビアが期待を込めた熱い眼差しでユミィを見つめる。
その視線と周囲の注目に耐えられなくなり、ユミィは降伏する。
「もっ……もうっ……し、しょうがないですね!」
その途端、上空の雲は晴れ、カラリとした日差しが、眩しいくらいに広場を照らし始めた。
先程までの緊迫した空気が、嘘のように溶けていく。
森に住まう幼い精霊達が闇の魔素が消失した事を祝うように、それぞれの属性の光の粒を広場に降り注いでいた。
満面の笑みをしたシルビアが、カレンデュラを振り向く。
驚いたカレンデュラが、怯えたように肩を震わせる。
上機嫌の面持ちのまま、シルビアは軽い足取りでカレンデュラに近づいていく。
「みんなが君たちを赦すそうだから、私もそれに倣おうと思う」
「……ほ……本当にっ……⁉」
信じられないといった表情でカレンデュラが目を瞠る。
「けどね。悪いが羽を封印させてもらうよ。それが君たちを生かす条件だ」
カレンデュラの顔から血の気が引き、シルビアから一歩後ずさった。
シルビアが人差し指を振ると、何も無い空間が透明に歪んでいく。
異空間収納に入れられたシルビアの左腕は見えなくなり、再び見えた時には、左手には細長い紙と筆が握られていた。
シルビアが縦長の紙に向かって、何やらサラサラと事務的に書き込んでいく。
書き終えた紙の符を妖精たちの額に当てると、符はカレンデュラとブルーベルの体内に吸い込まれていく。
「これはね、東洋に伝わる、呪符だよ」
呪符が完全に吸い込まれた瞬間、二人の妖精の羽が消えた。
「百年経ったら、もとに戻るはずだよ。それまで君たちは、私達に仇なす事はできない」
シルビアの言葉に、カレンデュラはキュッと口の端を結んだ。
そして、諦めた様に頷く。
「わかったわ……。その代わり、ルー様を助けて」
唇を震わせたカレンデュラが、燃えるような瞳でシルビアを見つめる。
頷き了承したシルビアが、シルフィードに呼びかけた。
「フィー、無効化の魔法石を出せるかい?」
「はい」
シルフィードが目を閉じ、意識を集中させると、その手のひらに無色透明な石が現れる。
現れた魔法石をシルフィードがブルーベルの体の上で砕くと、魔法石の無色の光がブルーベルの身体を包み込んだ。
無色の光が触れた部分から、ブルーベルの肌の色が回復していく。
魔法石が体内に回った毒素を無効化していくと、ブルーベルの顔に血の気が戻っていく。
「ルー様っ‼」
カレンデュラがブルーベルの胸に突っ伏して涙を流す。
ブルーベルがカレンデュラの頭に手を添えながら、シルフィードに尋ねた。
「無効化の魔法が……使えたのですね……」
シルフィードが頷く。
「ええ……貴方の結界を解除する為に、戦いの中で使ったのは、シルビアさんの強力な無効化の魔法石でしたけど……解毒くらいだったら私も……」
自信なさ気に言うシルフィードの言葉に、ブルーベルが自嘲する。
「解毒くらい……ね……」
その解毒ができなかったから、自分はこうして身動きが取れずに恥を晒している。
「わかったかい、ブルーベル。君たちが侮っていたフィーは、君たちを上回る魔力・精霊力・資質を持ち合わせている。いずれ、彼女の精霊力は上位精霊の段階まで到達するだろう」
シルビア様の言葉に、涙で目を赤くしたカレンデュラが顔を上げた。
「妖精国に戻って、王に伝えるがいい。フィーは半妖精だが、君たちが利用していいような存在ではないと」
「……私たち……妖精国に戻れないわ……戻っても、任務に失敗した者は処刑されるもの……」
カレンデュラが苦痛に耐えるような表情をする。
シルフィードが気の毒そうに目を伏せた。
「シルビアさん……なんとかできませんか?」
「なんとかって……?」
ロシータがエプロンドレスを翻しながらシルビアに飛びつく。
「こいつら、ろしーたのこぶんだから、ろしーたがめんどうみるぞ! こいつら、もりにすまわせて、ばんにんにしよう!」
「……番人、か……」
ロシータを除けながら、シルビアはその可能性を思案しているようだった。
「……シルビア様、私からもお願いします」
ユミィが言うとシルビアは頷いた。
「いいよ……彼らを森の番人にしよう。それと……ユミィ……」
「は、はい……?」
一瞬、尻尾を震わせたユミィの両手を、シルビアの小さな手が握りしめる。
「さっきの約束、忘れないでね?」
シルビアが太陽のような笑顔でユミィに笑いかけた。
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