第38話 吸血生物
木漏れ日が魔力硝子から零れて、優しく診療所の待合室を照らしていた。
三人の獣人が去り、急に静かになった事に私は混乱する。
「え? え? あの三人はどうなったんですか?」
「彼らが奴隷商人に捕らえられてから今までの記憶を消しただけだよ。覚えていなければ、文句も何も言えないでしょ?」
シルビア様の言い分に呆然とする。
あの紫色の闇い光は、物事を忘れさせる魔法だったんだ……
シルビア様の頬から流れ続ける血を見て、私は慌ててポケットに入れておいたハンカチを取り出して、シルビア様の頬を押さえる。
頬は深く切れてしまっていて、ハンカチはあっという間に血で染まっていった。
「シルビア様……血止めの薬をください。跡になっちゃう前に治しましょう」
「大した怪我ではないよ。ユミィは心配性だなぁ」
ふっと笑うシルビア様が儚げに見えて、私の胸がざわめく。
「こんなの喫茶時間より頻繁にある事だもの。だけど、巻き込んでしまったね……ごめんね」
シルビア様の言葉に胸が痛む。
この人は今まで、どれほど傷ついてきたんだろう……
「……本当にごめんなさい……。私が出しゃばったから、あの人たちを余計に怒らせてしまいました……でも、言ってる事があんまり勝手だったから……」
悔しさで、私の目から大粒の涙が零れた。
「ごめんなさい……私、説得できなくて……」
もっと言葉を尽くせば、上手く伝える事ができたのかもしれない……
後悔が湧き上がってきて、同じ獣人なのにわかり合えなかった事がとても悲しかった。
「あれだけ興奮していたら無理だよ」
シルビア様は、あっさりと言い切る。
「私だってそうだ。――彼らはユミィに手を出した。それだけは赦せない」
……シルビア様は、彼らが私に手を出したから……記憶を……?
シルビア様がそっと抱きしめてくれる。
「ユミィ、人助けしても、必ず感謝されるとは限らないんだよ。私は慣れてるから大丈夫。心配してくれてありがとう」
真っ赤に濡れたハンカチから、血が滴り落ちる。
あの時、咄嗟に動くことができず、シルビア様を傷つけられたことがすごく悔しい。
私の足……治療していたら、シルビア様を守れたのかしら……
シルビア様みたいな優しくて懐が深い人を、どうして傷つけたりするの……?
「ユミィ、泣かないで。ね、泣かないで」
シルビア様が私の止めどなく流れる涙を指ですくってくれる。
痛いのはシルビア様なのに……
泣く事しか出来ない自分、涙を止める事が出来ない自分が腹立たしい。
「わっ、私……悔しくて……。シルビア様に怪我させて……どうして……っ。あの人たち……っ」
シルビア様は子供を宥めるように、泣き止まない私の背中を穏やかにさすってくれる。
もうハンカチは全て血で染まっていた。
「んー……、でもさ」
私の涙の粒をすくいながら、シルビア様は弾んだ声色で言う。
「あの人たちは、自分で罰を受けるんじゃないかな?」
「え……?」
「だって、捕まった時の事も忘れてしまったんだから。また同じ罠にかかるかもしれないよね?」
(あ……)
そうか……その可能性があるのね……
にっこり笑って言うシルビア様の言葉に、うすら寒いものを感じた。
(だけど、この人は――)
不器用で……
残酷で……
無邪気で……
……すごく可愛いらしい人……
シルビア様を嫌いになる事なんて、私にはできない。
「……シルビア様、血、止まったんじゃないですか? お薬、塗りましょう?」
泣いてくぐもった鼻声で、私はシルビア様からハンカチを取る。
「じゃあ……お願いするよ、ユミィ」
「えっ……わ、わかりましたっ」
シルビア様が異空間から出した薬の瓶を私は受け取り、薬を指ですくう。
手当を任せてくれるのが嬉しいけれど、薬をつけた指が震える。
人間と獣人は……もしかして、一緒にいるのは危険なのかもしれない……
山の小さな集落の出である獣人とシルビア様では、身分も違う。
別々に生きる方が自然だとも思う。
だけど何故だか、私は見えない力でシルビア様に吸い寄せられているような気さえする……
このままずっとシルビア様のそばにいたら、私、もしかして……
シルビア様から……離れられなくなるんじゃ……?
そんなことになったら、どうしよう……
時が経って、いずれシルビア様に素敵な想い人ができたとしても――
ズキッ――
胸が刺すように痛む。
この胸の痛みは……何……?
シルビア様に薬を塗る手が、ぴたりと止まる。
「……ユミィ? どうしたの?」
早く、シルビア様から離れないと……手遅れになる前に……だけど――
――離れたくない――
この澄んだ夜空のような瞳を……まだ見つめていたい……
シルビア様と私の視線が交じり合って、長いまつ毛の下の漆黒の瞳に、私が映っているのが見えた。
きっと、私の瞳にも彼女が映っている……
頬に薬をつけると、血と薬が混ざった匂いが、磁石みたいに私を引き寄せた。
薬で治してしまうのが勿体ないほど甘い血の匂い――
このまま彼女の血を――
ドサッ!
「うわっ⁉」
シルビア様に、赤い何かがのしかかり押し倒す。
「ロ、ロシ―タちゃんっ⁉」
「もー、がまん、むりい――――!」
ロシ―タちゃんはシルビア様にのって、頬の傷を夢中で舐めていた。
傷口にロシ―タちゃんの長い舌がチロチロと這う。
「あっ、やっ、やめっ!」
「んまんまんまんまんまぁ――――――い――――――ぞ――――――!!!」
シルビア様は抵抗してるけど、ロシータちゃんを全く押し返せていない。
傷は綺麗に消えていくのに、シルビア様の力がどんどん抜けて座り込む。
「シルビア様、大丈夫ですかっ⁉」
「うん……ただの貧血だよ……ロシータは、他者の血を飲む……吸血生物だから……」
「吸血生物⁉ ――って、なんですかっ……⁈」
青ざめるシルビア様を、ロシータちゃんが執拗に舐め続ける。
「ち、うまい――! もっとおくれ、もっと――――――‼」
「駄目! ロシ―タちゃん、離れなさい!」
「……むむっ。しるびーのち、ろしーた、しってるぞ……⁇」
ロシータちゃんの動きがやっと止まり、目を閉じて熟考し始めた。
「あ――――――――っっ! ろしーたのこぶん、おちびしるびーと、おなじあじだぞ――――! しるびーと、おちびしるびーは、おんなじ、しるびーか――⁉」
ロシータちゃんは目を見開いて意味不明な事を言うと、うんうんと頷きながら、再びシルビア様の血を舐めとる。
ロシ―タちゃんがチロチロと舐める度に、傷は綺麗になり、ほぼ完全に塞がっていく。
だけどシルビア様は青ざめた顔で、『今更気づいたのか……』とポソリと呟いたかと思うと、そのまま横になってしまった。
「シルビア様っ⁉」
あらかたシルビア様の血を吸って正気に戻ったロシ―タちゃんが顔を上げる。
「あ~~……みちたりた……おなかいっぱい……。ろしーた、いまなら、おしろこわせる……」
とんでもない事を言っているのに、ロシータちゃんは不思議と憎めない。
「ああっ、シルビア様っ、大丈夫ですかっ⁉ すぐに診察室まで運びますからね……!」
ぐったりとしているシルビア様を、そっと抱き上げる。
シルビア様の体は、女性的な丸みを帯びながらも、とても軽かった。
いつか教科書で見た、どこかの国にある石像の女神様にも負けないくらいのスタイルだと思う。
(って、違うでしょユミィ! こんなこと考えてる場合じゃないわっ。……貧血だから、取り合えず回復薬、かな)
病室まで辿り着いて、シルビア様を寝台に寝かせると、薬瓶が並ぶ戸棚を探す。
回復薬と書かれた薬瓶を持って来て蓋を開ける。
「シルビア様、回復薬です。飲めますか?」
「ん……」
シルビア様の上体を起こして、口に瓶を当てがうと少しずつ口に含んでくれる。
形のいい唇がチュッチュッと薬を飲むのがとても可愛らしい。
(……よかった。飲んでくれなかったら、どうしようかと……)
こういう場合は、どう対処していいのか分からないわ……これから処置の仕方も学んでいきたいなぁ。
(あっ、そうだ! そんな時は、前にシルビア様が私にしてくれたように飲ませ――……)
闇オークションから助けてくれたシルビア様に、声が出る薬を口移しで飲ませてもらったことを思い出した。
って……何考えてるの、私……
頭に変な考えが浮かんで混乱する。
一体、私、さっきからどうしちゃったんだろう……
回復薬を全部飲んだシルビア様に上掛けをかけると、シルビア様が目を開いた。
「ユミィ、ありがとう」
「いえ……大丈夫ですか?」
「うん。少し眠れば大丈夫」
「……よかった……」
シルビア様の微笑みを見る事ができて、やっと安堵できた。
この人はもう私の中心にいるんだ……
「ユミィ、一緒にお昼寝しよう?」
「えぇっ、まだ午前中ですよ? シルビア様だけ、ベッドで安静になさってください」
「……ユミィ、そんなこと、どうだっていいじゃないか。一緒に眠ろうよ」
シルビア様が私の服の端を引っ張る。
子どもみたいな上目遣いに、思わずどきりとする。
「ゆみぃ、いっしょに、ねよー」
いつの間にかシルビア様の寝台にロシ―タちゃんが潜り込んでいた。
「あ、ロシ―タちゃん! いつの間に!」
ロシ―タちゃんも私の服を引っ張ると、シルビア様が頷く。
「……三人で寝るには、ベッドが小さいと思います……」
シルビア様が指を僅かに動かすと、魔法で寝台が二倍くらいの大きさに拡張される。
「大きくなったよ?」
「……もう、しょうがありませんね」
上掛けをめくってロシ―タちゃんを挟むように横になる。
寝台の中は温かくて、心が安らいでいく。
「みんなで、おひるね、すきだぞー! ゆみぃも、うれしい?」
ロシ―タちゃんがくりくりした目を輝かせ聞いてくる。
「おー! ゆみぃも、うれしいぞーっ」
ロシ―タちゃんの動作が微笑ましくて、ロシータちゃんの口調を精一杯真似て答えてみた。
シルビア様が私たちを見てクスクス笑っているので、私も笑ってしまった。
二人の体温がとても心地よくて……
皆で一緒に眠るのも悪くないなぁ……
寝不足の私はすぐに夢の中へと入って行った。