第34話 古傷
二人きりの寝室で、シルビア様が私の背にそっと手を置いてくれる。
「足、見せて」
シルビア様の吐息が混じった柔らかい声が耳に届くと、やっと我に返ることができた。
いけないいけないっ、なにボンヤリしてるのっ。
シ、シルビア様はわざわざ診療しに来てくださっただけなんだからっ。
「は、はい……」
寝台の上で足を伸ばして座り直すと、左足の踝が歪んでいる場所をシルビア様の手がそっと撫でた。
「固くならないで。ユミィの嫌がることはしないから」
シルビア様の眼差しは、いつものように優しい。
(そうね……シルビア様におまかせをしよう。悪い事にはならないはずだもの……)
私は少しだけ、緊張をほぐすことができた。
青くて淡い光がシルビア様の手から触れた部分にかかる。
「あ……」
触られるとぞくぞくとした快感が背中を駆け抜ける。
踝の部分に触れた光が、青から赤へと変化した瞬間、シルビア様の表情は渋いものに変わった。
ど、どうしたんだろう……?
「ねぇ、ユミィ」
穏やかに、シルビア様は私に語りかける。
「は、はい……」
「ユミィは嫌かもしれないけど、やっぱり……この足は治した方がいいと思うんだ……」
シルビア様の声が少し低く重いものに変化したことに戸惑う。
「え……? ど、どうしてですか……?」
「この、踝のところ、右に比べると、少し歪みがあるよね……」
「……はい」
私の左足首は歪んでいて、踝は右足のものと比べると、少しだけ膨らんでいるように見える。
「今、透視魔法で見たけど、この部分にね、何か異物があるみたいなんだ」
「え……? い、異物って? 街の診療所では何も言われませんでしたけど……」
「……見逃したんだと思う。透視魔法を使える魔法医は、小さな街にはいないはずだ。傷口を開いてみないとわからないけど、多分、魔物の爪の一部などがあると思うよ」
「魔物の爪……」
過去の出来事を遡ると、思い当たるのは5歳の頃に起きた事件だ。
魔物に襲われて崖から転落した私は、左足に生死を彷徨うほどの深い傷を受けてしまった。
「私……昔、魔物に襲われた事があって……足を掴まれたんです……あまり覚えていないんですけど、その時に刺さったものかもしれません……」
「他に心当たりが無いなら、おそらくそうだろうね。……その時の事、他に何か覚えてる?」
「他に……ですか?」
あの日、何があったのか、襲われた魔物はどんな姿だったのか。
どうして私は崖の上に居たのか……しかも、たった一人で……。
(何度も、思い出そうとはしてきたけど……だめだ……)
魔物に襲われた前後の時間は、切り取られたかのように空白だ。
「――いいえ、何も……」
私は首を横に振った。
「そう……」
シルビア様が目を伏せると、流れるような黒髪は夜の帳のように彼女の表情を隠してしまう。
シルビア様の全身が、悲しみを帯びているように見える。
(それほど私の体を案じてくださっている、ということ……?)
あの日から、この傷はこのままで……このままがいいって思ってた。
この傷が消えてしまったら、本当に全て無かった事になってしまうような気がして。
この傷が残っているうちは、事件の恐怖を引きずってしまうんじゃないかって、母さんたちが大きい病院を探そうとしてくれたこともあったけれど……
目を閉じて、か細い記憶の紐をそろりそろり手繰り寄せていく。
10年前、すごく大事な何かが、そこにあったはずだ。
(私が一番怖かったのは、魔物に襲われたことじゃなくて――)
『ずっと…………いようね……』
瞼の裏に、背の低い人影が、一瞬浮かぶ。
その瞬間、脳の中で、たった一滴の甘い水のような記憶が、波紋のように広がっていく。
(『あなた』を、忘れてしまうこと――……?)
「……いま、少しだけ、思い出しました……!」
「えっ……?」
「崖から落ちていく時に、誰かの声が聞こえたような……落ちる前に、その人と何か大切な話をしていたような気がするんですよね……」
「その人の事、何か覚えてるっ⁉」
シルビア様が私の両肩に手をかける。
その顔がとても苦しそうで、見ていると何故か切なくなって胸が締め付けられた。
「いいえ……ご、ごめんなさい……」
「……いや、いいんだ……」
気落ちしたシルビア様の手の力が緩む。
なんだか、とても悪い事を言ってしまった気がするわ……
シルビア様を悲しませることしか言えない自分が、嫌になってしまう。
「あの、シルビア様……?」
「……ユミィ、これから言うことを、落ち着いて聞いてほしい……」
「え……は、はい……」
シルビア様が私の手を握ってくれる。
「この傷は、呪いだ」
「ええっ⁉」
「ユミィ……君は、呪われている」
思わぬ言葉に背中がゾクリと震える。
の……呪いって……? な、何でそんな不穏なものがっ……⁉
「今、透視魔法で診て、赤く光った部分に呪いの媒介があることがわかった。……ユミィ、もしかして君は昔、魔法が使えたんじゃないかな?」
「は、はい……そうです」
言い当てられたことに驚き、ただただ頷いた。
「いつから使えなくなってしまったの?」
「……子どもの頃は使えました。崖から落ちるまでは……」
「そう……やっぱり……」
「……シルビア様?」
言い淀んでいるように見えたシルビア様が、決意したように私を見る。
「ユミィ……ユミィを襲った魔物はね、死ぬ前に呪いをかけたんだ。自分が倒されることを悟って、相手を命がけで呪った……それがユミィだ」
「ええっ⁉ ま、まさかぁ! 私、こんなに弱いんですよ⁉ 倒せるわけないじゃないですか!」
「いや、倒せたんだよ、ユミィは……白狼の名は伊達じゃない……」
夢物語を言われたようで戸惑うけれど、シルビア様の目は真っ直ぐで苦しそうだった。
「だけど、その呪いのせいでユミィは魔力を失ってしまった……」
「魔力を……失った?」
確かに、小さな頃は体を強くする魔法とかを使えたと、親から聞いたりしたけれど……
大怪我をして負担をかけた体では、もう使えなくなってしまったんだと思っていた。
魔力が使えないのは、私がオーガを倒して呪われたからだなんて……
正直なところ、すぐに飲み込むなんて出来ない話だけど、シルビア様が言う事は真実だと感じる。
「呪いの媒介は、ユミィの足に刺さっている魔物の異物だ。これがあるせいで、ユミィの魔力は別次元に逃げてしまっているんだ。だからユミィは魔法を使えなくなった。ユミィの白狼としての力が弱体化してしまっているのも、そのせいだと思う」
「え……そ、そんなっ⁉」
「……この異物は、今後も君の生活、いや、人生そのものを妨げると思う。これさえなければ、奴隷商人の罠だって、君は楽に外せたはずなんだ」
「そう……なんでしょうか……?」
あのトラばさみの魔道具はとても頑丈だった。
あんなものを自力で外せる力が、私の中にあるだなんて信じられない。
「そして、呪いは君の記憶も雲のように覆い隠してしまった……」
ドクンと心臓がはねた。
記憶って、その時の……よね?
どうしても足を治したくない――そこに拘る理由が、自分でもわからなかった。
治してしまったら、大事なものを今度こそ忘れてしまいそうで……
呪いによって思い出せなかったなんて……
「ただね……記憶というのは、すごく繊細なんだ……。この異物を取り去れば、魔力が戻って魔法が使える様になるとは思う……けど……」
「けど……?」
「ユミィの当時の……怪我した前後の記憶は消えてしまうかもしれない。私の魔法で、無理矢理記憶を蘇らせることもできるだろうけど……どこかで綻びがうまれるだろう」
「そんな……」
シルビア様の言葉に絶句してしまう。
「ご両親や弟さんの事を忘れてしまうわけではないよ……忘れるのは、その当時の……些細な事かな……それでもね、ユミィ……私は、異物を取ってしまうのが一番いいと思う。……たとえ怪我した時の記憶は消えてしまっても、ね」
シルビア様が私を思いやって、言葉を選びながら伝えてくれていることが分かる。
「……手術は私が執刀するから、ユミィ……考えてみてくれないかな……?」
シルビア様の気持ちが分かるのに、それがとても嬉しいのに、私は首を縦に振る事が出来なかった。
優しい微笑みが、とても哀しそうに見えるのは何故だろう……
「少し……時間をください……一人になって考えたくって……」
シルビア様は私の気持ちを察して、部屋を出て行こうとする。
部屋のドアに近づいたところで、もう一度こちらの方へ振り返った。
「ユミィ、できることなら……過去ではなく、今を選んでほしい。……今、ユミィが健康で幸せに生きている事が、何よりも大切なんだよ」
「シルビア様……」
ドアが閉まってからも寝台の上でしばらく考えこんでしまう。
私の、大切な記憶……何も無い私が唯一持っている、何か。
何の記憶かもわからないのに、それは私の中で信じられないほど大切なものだと感じる。
手術して異物を取ってもらうのが一番だってわかってるけど……
ためらう必要なんてないのに……
「何でだろう……」
思い出せもしない記憶なのに、消えてしまう事がすごく悲しい。
ポロリ、と涙が一筋流れる。
あの時の事、思い出せない。
思い出せないのに、大切なものだってわかるなんて矛盾してるよ……
このまま異物が足にあって呪われたままなら、また危ない目に遭うかもしれない。
答えなんてわかり切っているのに、その答えが出せない。
シルビア様は、何か知ってるのかな……?
私、どうすればいいんだろう……
夜が更けても、私は眠る事ができなかった。