第102話 紫の雷
亜空間の歪みは私とシルビア様をお互いに手の届かない場所へと引き離した。
木々に囲まれ少し開けた場所で、シルビア様が魔道銃を構え魔物と対峙している。
シルビア様と魔鬼との距離は、今や数歩ほどしか無かった。
その大きな体躯に距離を詰められれば、逃れる事なんてできないまま屠られてしまうだろう。
残忍な顔には鋭い目。怨嗟にまみれた瞳にはどこまでも暗い眼光が宿っていた。
腹の底に響く高い唸り声を上げ魔鬼は目の前の敵を威嚇した。
シルビア様は全く怯むことなく顔色一つ変えずに魔鬼を見据える。
私のいる場所から二者の様子がよく見えて怖ろしさに汗が滲んだ。
何故、シルビア様はこんなにも冷静でいられるんだろう。
「――今度こそ」
全てを悟ったように静かな声は不思議とよく響いた。
「今度こそ、私がユミィを守る」
その声が、まるで死を覚悟しているようで――
居たたまれなくなって私は足を一歩踏み出し、慌てて立ち止まる。
魔鬼も、シルビア様も、相手の力量を測っているように身動き一つせずに睨み合っている。
今、私が下手に飛び出していっても、必ずしもいい結果は生まれないだろう。
そのことを悟ってぐっと踏みとどまり、悔しくて唇を噛み締めた。
魔道銃を低く構えたシルビア様の様子に、魔鬼も下手に手を出すことができないらしい。
唸り声を低くし、じっとシルビア様を睨んでいる。
シルビア様の集中力を削いではいけない。
何か、私にできることを見つけて、魔鬼を退治しなければ……
思い浮かぶものなんて何も無くて焦りで全身の毛が逆立った。
早く……早く、シルビア様を助けなくちゃいけないのにっ……!
一刻の猶予も許されない状況に、心臓が早鐘を打っている。
このまま私が身じろぎすることもできずに今にも戦いが始まってしまいそうで。
膝が震えないように立っているのが精一杯なんて、情けないにも程がある。
何のために私はここにいるの……
足を治したのは……シルビア様を害意から守るためじゃなかったの……!
『ユミィが魔力を取り戻したら、きっと誰よりも強くなれるよ』
思い浮かぶのは魔法の授業の時にシルビア様が言ってくれた言葉。
もし……もしも、それが本当のことなら。
手術を終えた私に、白狼本来の力が戻ってきているのなら――
でも、力って……一体どうやって使えばいいの……?
呼吸を整えて魔力に変えられる魔素を吸い込んでも、身体に変化が起こる様子は無かった。
もしかすると、この空間には魔素自体が無いんじゃ……
嫌な予感に痛い程拳を握りしめてシルビア様を見つめる。
こうしていても状況なんて変わらないのに、他にどうしていいのかわからない。
私に――私に力が使えたら――
何もできないことが、苦しいくらいに切なくて涙が滲んだ。
張り詰めた空気がピリピリと肌を震わせ、一瞬だって気を抜くことなんてできない。
だから……魔物と対峙するシルビア様が、私を振り向いて笑うなんて見間違えかと思った。
揺れる艶やかな黒髪、柔らかくほどける口元。
その目は信じられないほどに優しくて――
戦いの最中に敵から視線を外すなんて、あり得ないことなのに。
シルビア様が何故振り向いたのか、私にはわかり切っていた。
あなたはただ、私を安心させようと――たった、それだけの為に。
微笑んだ顔は儚く哀し気で。あまりにも美しくて。
それはまるで、勝てない事を悟っているかのように――
頭の中で様々な記憶が影灯篭のように目まぐるしく思い浮かんでいく。
『ずっと、一緒にいようね』
蘇った声は、ひどく懐かしくて。
記憶の中に居たのは、お互いに永遠を誓った女の子。
そうだ――私――この笑顔を守りたかったんだ――
その瞬間、私は全てを思い出していた。
胸の奥から湧き上がった力が全身を取り込んでいく。
今まで何も満ちる事の無かった体に、幼い頃のように魔力が一気に充足していくのを感じる。
身体がバチバチと帯電し、力の波が大きく渦巻く。
目の前の金色の光が――爆ぜる――
「シルビア様――――――――――――――――――――!!!」
魔鬼が手を振り上げるのと同時に、私は叫んだ。
振り下ろされる手が、ひどくゆっくりに見える。
空間のもの全てが、時を止めているようで――
シルビア様の目が大きく見開かれて。
魔鬼の残忍で淀んだ目が絶望へと色を変え、空に現れた光を見つめていた。
けたたましい轟音を立てながら、紫色の雷が空を斜めに切り裂いていく。
命を奪おうとする魔物の手がシルビア様に触れる寸前、私の放った雷撃が魔鬼に直撃した。