第101話 霧の海
深い霧が立ち込めた森は、陰鬱で禍々しい雰囲気が漂っていた。
「シルビア様……霧が……」
怯える私の肩を抱きながら、シルビア様が手を振り上げる。
その仕草をしただけで、いつもなら何かの魔法が発動されるはずなのに。
「おかしい……魔法が、使えない……」
「魔法が……? ど、どうしてですか……?」
いつも冷静なシルビア様の顔に焦燥の色が浮かぶ。
「わからない……」と言ったシルビア様が、自身の影へと手を向ける。
「ダークを呼ぶこともできないとは……」
しゃがみ込んだシルビア様が地面の土を手に取る。
手から零れ落ちた土は地面に落ちる前にサラサラと宙へと消えていった。
「存在する物が概念で出来ている……」
「概念……?」
シルビア様を真似て私も小石を手に取る。
柔らかく摘んだ小石はパリンと割れて先程の土と同じように消えた。
再びその様子を見たシルビア様が、何か悟ったような顔をした。
「非存在の形だけの物質……魔力切れの状態……。どうやら、ここは……私達が居たのとは別の空間のようだ……」
「べっ、別の空間……? い、異空間ってことですか?」
シルビア様が物をしまう時に使う異空間収納が思い浮かぶ。
私の質問にシルビア様はゆっくりと首を横に振った。
「いや、私が魔力で作り出す異空間とも違う。この空間は、長い間蓄積された魔力が作り出した……言わば、亜空間だ。この亜空間が強制的に真闇を引き起こしているから、私は魔法を使う事ができない……」
「真闇を引き起こす……」
シルビア様によると、魔法を使う者には年に数回、真闇という魔法が全く使えなくなる日があるらしい。
いつ訪れるわからない真闇の日の為に、魔法使いは常に魔法の代わりになる魔道具や魔法石を携帯しているそうだ。
亜空間――
何故、そんなものが発生したのだろう……一体、何が原因なの……?
「皆は、大丈夫でしょうか……?」
「わからない。気配を察知する事ができない……」
この空間にいるのは私達だけなのかな……皆は一体、どうしてるんだろう……?
危ない目に遭ってないといいのだけど……
皆の匂いを嗅ぎ取ることもできず、私達がどこにいるのかもわからなかった。
背筋を冷や汗が伝う。いつの間にか震える肩をシルビア様が抱きしめてくれる。
腰につけた小瓶から魔法石を一粒取り出したシルビア様の指が、私の頬をそっと撫でた。
「ユミィ、口を開けてごらん」
言われた通りに口を開けると、虹色に光る黒の魔法石が口の中に入れられる。
「ユミィが口にしたのは『結界』の魔法石だよ。私のは『身体強化』のものだ」
私の周りをキラキラと黒い光が包み込み、安心感を与えてくれる。
シルビア様の魔力が血管を通じて体内の細胞の一つ一つにまで染みわたっていく。
赤い魔法石を口にしたシルビア様の体は赤く力強い光に包まれていた。
「魔法石は使えるようだな……」
腰ベルトから魔道銃を取り出したシルビア様が、銃砲に魔法石を装填していく。
「ユミィ、私の後ろにいて……」
「シルビア様、私だけが守られても……!」
結界で守られている私をシルビア様が背に庇ってくれる。
振り向いたシルビア様が微笑んだ。
「ユミィは、誰より守られていなければいけないよ」
「そんなっ……! 私ばかり、いつも――!」
シルビア様の背に私はいつも庇われている……いつも……?
不意に浮かんだ光景……黒いローブを着た少女が、手を広げて私を守ってくれている――
思い浮かんだ景色はシルビア様の声に遮られた。
「何かあったら、これを使って」
シルビア様が私の首のペンダントを手に取る。
手術の前にシルビア様が私にくれたお守りは、精霊力で織られた黒い編紐の先にシルビア様の瞳と同じ色の魔法石がついていた。
「これには、私の時魔法が込められているんだ。この魔法石を飲み込めば、この空間に来る前に戻れるはずだよ」
「戻ったら、その世界にいる私に助けを求めればいい」とシルビア様は穏やかに言った。
「そんなっ……それじゃあ、シルビア様は……?」
「もしも、の場合だよ。ユミィ」
もしも……考えたくない未来に抵抗するように頭を振る。
どうして……どうして、こんな事になってしまったのだろう……
まとまらない考えがグルグルと頭の中を回っていた。
その時、空間を震えさせる魔物の咆哮が響いた。
シルビア様が全てを察したように目を瞠った。
「なるほどね……この空間は、あの魔物が呪詛で作り出したものなんだ! ……皆は無事だよ、ユミィ。――この空間に呼ばれたのは、私達だけだ……」
あの魔物――魔物の呪詛――呪い――
皆が巻き込まれていなくてよかったと思いながら、記憶の中で何かが呼び起こされる気がした。
シルビア様が魔道銃を構える。
いつ魔物が襲ってくるのか分からず私は身構えた。
「ユミィ、私から離れてはいけないよ」
「シルビア様、私――」
あなたに守られてるだけじゃ、嫌です――
言葉にする前に辺りに濃くなった霧が漂いシルビア様の姿を覆い隠した。
それはまるで、あの夢のように――
あの夢……?
「シルビア様、ここはまるで――」
夢の中のあの少女と出会った森の中のような――
私は、一体……何を思い浮かべたの……?
まるで、あの日の再来のようで。
あの日……?
どうして、私は……そんなことを知っているの……?
シルビア様へと伸ばした手が、むなしく空を掴む。
ふらつかないように左足に力を込めると、手術した場所が疼くような気がした。
「そうか――私たちは魔鬼の作り出した空間で、あの瞬間をやり直しているのか――」
シルビア様の焦りの滲んだ声が遠くに聞こえる。
その声と同時にうっすらと霧が晴れて視界が開けてくる。
離れた場所で、シルビア様と魔鬼が対峙しているのが見えた。