第99話 手術の後で
涙を拭ってくれる小さな手の感触が頬に残っている。
耳触りのいい鈴を鳴らしたような声が紡いだ言葉は、溶けるように光の中へと消えていって。
目覚めると、自室のベッドの上だった。
魔力硝子から入り込む陽ざしから、日が高く昇っているのがわかる。
窓辺に置かれた香炉から漂う爽やかな香りで部屋中が満たされていた。
体に染み入るような香りのおかげで、今までにないほど体に力が満ちていく。
ふと左手に温かさを感じて身じろぎすると、ベッド横にある椅子に腰かけたシルビア様がベッドに突っ伏して眠っていた。
その手が私の左手をしっかりと握りしめているのを見て、何故かポロポロと涙が溢れていく。
私……一体、どうしてしまったんだろう……?
とても幸福な夢を見ていた筈なのに、胸が切り裂かれてしまったように苦しくて切ない。
どうして……涙が止まらないんだろう……
全てが終われば、心は静かに凪いでいると思ったのにどこかもの悲しくて。
まるで……何か大事なものを失ってしまったような……
夢の中の消えてしまった幻影を目の前のシルビア様に重ね合わせてしまう。
存在を確かめるようにその頭にそっと触れると、シルビア様が驚いたように顔を上げた。
「……ユミィ、目覚めたのかい? ……どうして、泣いているの?」
「シルビア様……起こしてしまってごめんなさい……。お日様に目が眩んでしまって……」
心配させたくなくて下手な言い訳をし涙を拭いながら笑いかける。
シルビア様は全てわかっているように優しく頭を撫でてくれた。
「いいんだよ。気分はどう?」
「調子はいいです……あの……。手術、は……?」
おそるおそる尋ねると、シルビア様の目が眩しいものを見るように眇められた。
「成功したよ。よく頑張ったね、ユミィ」
「成功……じゃあ……!」
「魔物の爪は取れたし、後遺症も残らないはずだ」
その言葉に嬉しさと感謝の気持ちが込み上げてくる。
私の手術の為にどれだけの労力をかけてくれたのだろう。
穏やかに微笑むシルビア様の目は赤かった。
「よかった……ありがとうございます、シルビア様」
きっと、もう、色んな事を思い出せないんだろうな……それはまるで思い出に蓋をされたように感じて。
だけど、私の守りたい笑顔が目の前にある。その笑顔は私の心を癒してくれるのだと、誰に言われなくてもわかっていた。
シルビア様はゆっくり首を振って再び頭を撫でてくれた。
まるで宝物を扱うように耳に触れる細く長い指がくすぐったくて気持ちいい。
「ユミィ、左足を見せてくれるかい?」
「は……はい……」
手術を終えた左足には、薬液が染み込んだ布が巻かれていた。
シルビア様が指を鳴らすと、浄化魔法の光が全身を包み込み、水浴びを終えたようにさっぱりとした心地になる。
シルビア様の真っ白な手が左足を労わるように触れ、ゆっくりと布を取っていく。
慈しむように向けられたシルビア様の目が優しくて。
布を取られているだけなのに、何故だか裸にされていくみたいに感じて顔が熱い。
「わぁっ……!」
姿を現した左足は、昨夜手術したというのが嘘みたいに綺麗だった。
切った跡さえ残っていない歪みの無い足は怪我などしたことないように見える。
「痛みは無いかい?」
「はい……ちっとも!」
「よかった。光魔法を使ったから傷はもう治っているはずだよ」
「少し動かしてごらん」と言う声におそるおそる足首をまわしてみる。
「全く痛くありません……歩いてもいいんでしょうか?」
「うん。ゆっくりとだったら大丈夫だよ。今日は室内で、明日は外で歩く練習を始めよう」
シルビア様がほっとした顔で息を吐く。シルビア様……とても心配してくれたのね……
ずっと付き添っていてくれたんだろうな……とても疲れているのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。
大事にされていることが嬉しくてむず痒い。
「シルビア様……本当に、ありがとうございました」
「お礼はいいよ、ユミィ。一番頑張ったのはユミィだもの」
シルビア様がそう言うと、私のベッドから這い出してきたシルビアゴーレムが水差しからゴブレットに水を入れてくれる。
「この子ったら、一晩中ユミィと一緒に眠っていたんだよ……」
「まぁ! そうだったの?」
ゴブレットを受け取り、誇らしそうに頷いたシルビアゴーレムの頭を撫でているとシルビアゴーレムはにっこりと微笑んだ。
「少し食べられるかい?」と、シルビア様が異空間収納から温かい小鍋を取り出してくれる。
「ミルク粥だよ。フィーが作ってくれたんだ」
「嬉しいです。お腹空きました」
小鍋を受け取ろうとするとシルビア様が首を横に振る。
「まさか……自分で食べようだなんて考えてはいないよね?」
「えっ……。あっ、あのっ……」
シルビア様は優雅に小鍋の蓋を取ると、お粥を銀のスプーンでひと掬いした。
そしてそれは当然のように私の口の前まで運ばれて。
「あーん、して」
「えっ……あっ……そのっ……」
口の前から動かないスプーンに私は観念して口を開いた。
温かなミルクの味が口いっぱいに広がって思わず顔が緩んでしまう。
私の締まりのない顔を見たシルビア様は満足そうに笑って一匙一匙、お粥を口に運んでくれる。
時折、口の端を拭いてくれるシルビア様の真っ白な指にドキドキする。
「ユミィは可愛いね」
シルビア様のどこか哀しみを湛えているような瞳からは憂いが消えていて、穏やかな声には安堵の響きがある。
迷いの森に来てから初めて、私はシルビア様が心から安らいだ顔を見ることができた気がした。
窓辺のそよ風に皆がくれた色とりどりの花が揺れている。
温かい言葉は、ミルク粥と一緒に私の身体に染み渡っていった。