第9話 あの子 ☆
山道を駆けているのは、5歳のわたしだ。
山の草原を抜けて、入った森の中は昼間でも暗くて少し不気味だった。
だけど、わたしは怖くない。なぜなら魔法が使えるから。
体の中心に力を集めて……体がポカポカしてくれば魔力が体にいき渡ったってことらしい。
「しんたいきょーか」っていう魔法だよって、お母さんが教えてくれたっけ。
いつものように強くなった体でひとっ飛びすれば、高い場所に生ってる山葡萄も苦も無く取れる。
今日の収穫量も、わたしの方がルネよりも多いはず。
ルネは弱虫だから森が怖くて入れないし、魔法もわたしより下手だから、わたしが頑張らなくっちゃね。
わたしの金の毛皮は暗い森でもよく輝くし、力だってルネの何倍もあるんだもの。
「沢山取れたから、もう家に帰ろう」
お父さんとお母さんは「今日もよく頑張ったね」っていっぱい褒めてくれるかな。
ルネも葡萄が好きだから喜んでくれるよね。
そんなことを考えながら家に向かっていると、森の中からか細い声が聞こえてきた。
『ひっく……ひっく……』
誰か……泣いているの?
この森はあまり人が入ってこないのに……一体誰なんだろう?
すごく可愛い声。
なんだかとても気になる。
わたしは泣き声のした方に駆け出した。
草むらをかき分けて進んだ先、大きな木の下にいたのは黒いロ―ブを着た女の子だった。
座り込んだ女の子は、どうやら泣きながら震えているらしい。
『どうしたの?』
できる限り驚かせないように優しく声をかけたつもりだけど、女の子はとても驚いたように顔を上げた。
星を宿したような真っ黒な瞳が、わたしを見つめている。
そのあまりの美しさにわたしは声を出すことを忘れてしまった。
長い黒髪は艶やかに流れて、ローブから見える肌は雪のように白い。
薄紅色に染まった唇と頬は、咲き始めた薔薇の蕾みたいに綺麗だった。
お姫様だ!
おとぎ話に出て来る、夢のように美しいお姫様。
わたしの心臓は早鐘を打った。
どうして、こんなところにお姫様が……?
もしかして、絵本から抜け出しちゃったのかな?
お姫様に見とれていると、彼女はしゃくりあげながらも話し始めてくれた。
『み、みちに、まよったの……』
小鳥の囁きのように可憐な声だった。
その声の不安気な響きに、わたしは心配になる。
『帰れないんですか?』
問いかけると女の子はコクリと頷いた。
『おうち……わから……ないんだもの……』
喋るたびにポロポロと涙を零す様子が可愛くて、思わず頭を撫でる。
ビクッと震えながら大きく目を開いた女の子に、わたしは言った。
『大丈夫です、お姫様! わたしがお家を探してあげますから!』
グズグズと鼻をすすって女の子は涙を拭いた。
まだ涙ぐんでいるけど、わたしの笑顔を見た女の子は少し落ち着いたみたいだった。
『本当……?』
『はい! 本当です!』
そう言ったわたしは四つん這いになって、人型から狼の姿に獣化する。
女の子は狼の姿になったわたしを見て不思議そうに目を丸くした。
もしかすると、獣人が獣化するところを見るのは初めてなのかもしれない。
ちょっと得意になりながら、わたしはお姫様を促す。
『乗ってください! わたしがお家まで送ります!』
『……いいの?』
『はい! だって、あなたはお姫様ですから!』
『……わたし、お姫様じゃないよ?』
『ええっ⁉ 嘘でしょう?』
『ふふっ、違うよぉ』
女の子は笑ってわたしの背中に跨る。
その笑顔がとても嬉しかった。
女の子の温もりと笑ってくれた事が、わたしの心を温かくする。
こんなに可愛い笑顔、見た事ない。
背中から感じる温もりを宝物みたいに感じる。
お姫様じゃないっていったけど、わたしにとってこの子はお姫様そのものだ。
身体強化をかけると女の子は羽みたいに軽い。
わたしは楽々と森を抜けて、女の子が来た方へ匂いを辿って行く。
『もふもふ~♡』
『……』
女の子は何やらわたしの毛皮をとても気に入ったみたいだ。
ふかふかすると言って後ろ頭に顔をこすりつけてくるのがくすぐったい。
けど、とても嬉しかった。
顔をこすりつけられる度に、なんだか胸がドキドキする。
この子を絶対に守るぞ! とわたしは密かに決意した。
『あ、兄様だ!』
『え……?』
山の麓の近くの女の子の匂いが途切れた辺りに、黒いロ―ブを着た男の子が立っていた。
襟までの黒髪と漆黒の瞳は彼女によく似ている。
男の子は微笑んではいるけれど、なんだかとても冷たい感じがした。
『一人で出かけないと、約束しただろう?』
男の子は優しい声で女の子をやんわりと叱りつける。
背中から降りた女の子の声が小さくなって下を向く。
『……ごめんなさい』
『この方に助けてもらったの?』
『そうです……』
兄様と呼ばれた男の子はわたしに向き直ると頭を下げた。
『妹を助けていただき、ありがとうございました』
『あ、ありがとうございました!』
慌てて女の子も一緒に頭を下げた。
わたしは人化して立ち上がる。
『い、いいえ、お礼なんて……』
恥ずかしくてあたふたしてしまう。
『あのね、また会いたいな。わたしはね――――っていうんだよ。あなたは?』
『わたしは、ユミィです!』
『よく知らない子に名乗ってはいけないよ』
男の子は冷たい目でわたしを見ると女の子の手を取って左手を振り上げる。
一瞬のうちに二人の姿は消えて、わたしはその場に取り残された。
『え……?』
夕暮れの中で、わたしの影だけが長く伸びていた。
***
それから何日かして、また森であの声を聞いた。
『ひっく……ひっく……』
案の定、道に迷ったあの子がいた。
『……どうしたんですか?』
『ゆ、ユミィ! 会いたかったよぉ!』
女の子は遠慮なく抱き着いてくる。
押し倒されそうになりながら、そのことがひどく嬉しい。
彼女は相変わらず可愛くて、優しくて甘い香りがした。
『え? あ、あの……』
『ユミィ、この前はごめんね! 兄様がね、怒ったの。もう、山に行ってはいけないって言ったんだよ。でも、ユミィに会いたくて勝手に来ちゃった!』
『……また怒られますよ。送りますから帰りましょう』
『ええ! いやだよぅ。ユミィと遊びたいよぅ』
『――――様』
『ユミィ……』
あの怖そうなお兄さんの目をかいくぐって来た理由がわたしと遊ぶこと?
なんだかとてもくすぐったい気持ちになる。
『……ちょっとだけですよ?』
女の子は笑顔になって頷く。
『うん!』
太陽みたいに笑うなぁと思った。
この子を見てると、胸が苦しい。
だけど、ずっと見ていたい気持ちになる。
なんでだろう?
二人で花を摘んだり木の実を採ったりして遊ぶのが日課になった。
彼女は物凄い方向音痴ですぐに道に迷うから、目が離せなかった。
でも、その危なっかしいところも可愛いなと思う。
この子といると、すごく楽しい。
会えない日は、とても寂しい。
毎日遊び終わると“兄様”とやらが山の麓で必ず待っていて、彼女を連れて一瞬で消える。
「転移魔法っていうんだよ!」と後で彼女が教えてくれた。
兄様の監視をかいくぐって彼女は山に来ているみたいだった。
だから、迎えに来た彼女の兄様にいつもすごく睨まれる。
それでも、彼女は山にやって来た。
わたしも彼女が来る事がとても楽しみだった。
***
目覚めると真夜中だった。
なんだか、とてもいい夢を見ていたみたい……
胸の中が温かい。
だけど、目を開けた瞬間、今の状況を思い出して背筋が粟立った。
暗い檻の中、赤い髪の女の子の手を握りながら眠ってしまったことを思い出す。
現実って、なんて残酷なんだろう。
目が覚めない方がよかった……
女の子の寝顔を見ていると、無意識に涙が零れる。
わたしたちは、もうすぐ死ぬのね。
他の獣人のすすり泣きとうめき声が聞こえてくる。
せめて、みんな安らかに死ねますように……
わたしは一心に祈って再び目を閉じる。
もう眠れないだろうと思っていたけど、わたしはまた夢の中に落ちていく。
シル――様に会いたいな。
夢の中でなら、あなたの事を思い出せるのに――
あなたに会えないなら、起きている意味なんてない。永遠に眠ってしまいたい。
絶望する暗闇の中、左手が強く握られた気がした。