掛け値なし
このお話は、蜘蛛とか虫とかカエルとかを想起する表現が出てきます。
苦手な方はご注意ください。なお、本体は出てきません。
やっぱり、味が落ちた。
私は食べかけのスープカレーを見下ろした。
スパイスの効いたさらりとしたスープの上に、彩りよく素揚げされた野菜とよく煮込まれたチキンが載っている。
ジャガイモ、パプリカ、ピーマン、なすび、そしてゴボウ。
以前はもっと、イモやゴボウがほくっとしていた。絶品だった。なすびはとろけるようで、ピーマンはシャキッとした食感を残していた。
それが今は、――ゴボウが噛み切れない。
私はゴボウを持て余し、きつく眉を寄せた。
カフェ風のおしゃれな店内も、ギトギトのテーブルでは台無しだ。
まあ私だって会社帰りで色気のないパンツスーツだし、髪も簡単にまとめただけだしメイクもとれかけだ。おしゃれ感なんて求めていない。
床がべたつくのは以前からだし、それもまあいい。
でも味が落ちるのだけは許せない。
オープンキッチンなので誰がメインで作っているのかはすぐに分かる。
少し前まで端の方で皿洗いをしていた少々清潔感に欠ける男の子がシェフの位置に立っていた。
そちらをしばし睨みつけ、さらにオレンジ色の光が満ちる店内を見回すと、フロアの子と目があった。
彼は感じのいい笑顔を浮かべてすぐに近づいてくる。
黒いシャツに店名入りのエプロンがよく似合う、大学生くらいの男の子だ。美肌で細身で笑顔が可愛い。一定の人々にモテそうな雰囲気だ。
名前は確かササダ君。
「ねえ、シェフはどうしたの?」
「あ。シェフ、ですか? いまはその……」
言いよどむ様子を見てピンときた。
「引き抜き?」
「え? いやいやいや、そうじゃなくて」
彼は慌ててあたりを見回した。
そんな気を使わなくても、もともと客の入りはまばらだ。いつもはこの時間でももっと賑わっていたはずなのに。
けどまあ私もシェフの行き先を聞いたらもう来ないと思う。
それでも、ササダ君は声を潜めた。
「ちょっと、裏回ってもらっていいです?」
表に出ると、少し風が冷たかった。草むらから聞こえる虫の声と相まって秋の到来を感じさせた。
スーツの上着を羽織るかどうか迷っているうちに裏口がガチャリと音をたてて開いた。ササダ君が体を丸めるように不格好なお辞儀をしながら外に出てきた。
「実はですね」
と、ササダ君は内緒話のポーズで妙なことを言い出した。
「あの人、ちょっと異世界に行ってるんです」
「あ?」
「そんなすごまないでくださいよ。あのほら、これ、見えますか?」
と、ササダ君は開きっぱなした裏口を指さした。目を凝らすと、蜘蛛の巣があった。
「それがなに? 蜘蛛の巣くらい取ればいいじゃない」
ただ、気になるのはそれが光って見えることだ。電子機械がよく発する蛍光緑の光が横糸沿いに流れるように点滅している。
店内の明かりはオレンジで蛍光緑じゃない。外灯もオレンジだ。ならば一体どこの光を反射しているのだろう。
気になって凝視していると、ササダ君はどこかほっとした様子で「よかった」とつぶやいた。
「お客さん見える系ですね。つまり、これが異世界のゲートなんです」
ササダ君は笑顔で蜘蛛の巣を示した。
そんなことを言われても、どうにも理解が追い付かない。私はふと蜘蛛の巣から目をそらし、店の奥でダラダラ働くスタッフを見やった。
味が落ちるわけだよ。そう堂々と私語をするんじゃない。鍋見て鍋!
「聞いてます?」
「一応?」
「よく見てください。ちょっと光っているでしょう」
私は不承不承うなずいた。
「いや~、あの人は見えない人っぽかったからまさかあっちに行っちゃうと思っていなくて。ははは、まいりましたね~」
笑いごとじゃないっつーの! あんたらのスープカレーじゃ満足できないから怒っているのに。
「けど異世界か……」
呟きながら私はシンガポールに思いを馳せた。
例えばシェフの移動先がシンガポールだったならば、毎週通うのはちょっと無理だ。月一でも厳しい。でも、異世界なら旅費がかからない。
「よし! プライスレス!」
「え? ちょっ! ええっ」
背後から悲鳴じみた声が聞こえてきたが、私は構わず蜘蛛の巣へ顔を突っ込んだ。