コルネーリスの死について
一夜が明け、王の意識は次第に明瞭になっていった。一時はその人生の全てが夢物語のように思われていたのが、鼻先に生臭い血を突きつけられたことで、否が応でも現実を見つめなければならなくなった。コルネリアが一日に何度も助言を仰ぎにやって来るのを拒んだのは、足繁く王の元を訪れることで生じる政治的な不利益を考えてのことではあったが、しかし半ばは体力を消耗することを王が嫌ったからであった。意識がはっきりしていると言っても、短い短刀で腹を貫かれた傷は癒えておらず、未だ身体を満足に動かすこともできなかった。
王は従者の一人からツェーザル・ハーマンという少年を選び、このツェーザルにコルネリアとの連絡役を任せた。間に第三者を置くことは意思の疎通を阻害する可能性もないではなく、またツェーザルが空っぽな権威をそのまま権力と勘違いしてしまうのではないかという恐れもあり、さらには情報が何らかの形で彼から漏れてしまう危険さえあった。それでも王がそうした決断を下した背景の核心には、ツェーザルへの溺愛という情緒が存在した。
ツェーザルは異国の生まれで、その出自ははっきりとしていないものの、東の乾いた大地と呼ばれる赤色地帯から、あるいはその彼方からやって来たのだという者もあった。いずれにしても、長男のコルネーリスが孤児院から彼を連れてきたとき、王はその透き通るような肌の白さよりも瞳の奥にある何かを見出し、従者として取り立てることにした。ツェーザルはこの一族によく可愛がられたが、その中でも最も彼を愛したのは、やはりコルネーリスであった。
そんなツェーザルが、この非常時に長女コルネリアとの間の連絡役となり、政治の世界の一端に身を置くことになった。それは王にしてみれば、コルネーリスに対する一種の弔いの気持ちがあったのかもしれない。
ツェーザルは暗号化された文書を持って王宮の中を駆け巡った。南のグラント連邦と違って議会のないこのマドロス王国では、王宮こそが政の中心部であった。その広くも狭い王宮の中にうごめく人々は、皆が噂好きであり、新たな役目を得たツェーザルに対する嫉妬の目もあれば、その成長を喜ぶ声もあった。
ところで、明瞭になってきたのは王の意識ばかりではなかった。日を追うごとに長男コルネーリスの死の状況が明らかになってきた。そもそもコルネーリスが西のナタリア群島へと赴いたのは、群島を治めていた領主を追放した叛徒を王の命によって鎮圧するためであった。この軍事行動のためにコルネーリスは過分とも思われる戦力を率いていた。それは国庫に対しては大きな負担ではあったが、地方の叛乱が他に燃え移る危険性を考慮すれば、むしろ経済的だと言えた。実際のところ、水平線上に現れた無数の艦船を見た叛徒はさしたる抵抗を示すことなく、群島の核となるナタリ島の中心部に広がる森林地帯の中に逃げ込んだ。後は手順を踏んでナタリ島を制圧してしまえば良かった。
このときに採り得る方策はいくつかあり、コルネーリスはその最も近道と思われる選択肢を選んだ。つまり、周辺の島々を押さえる労を嫌って、ナタリ島への直接上陸を選んだのである。後になってみれば失策となったこの選択だが、しかし必ずしも不合理なものではなかった。というのは、ナタリア群島をこれだけの艦船が行き交った歴史はなく、周辺の海洋状況に対する知識が欠けていた。そのために最もよく状況の知られているナタリ島への直接上陸が妥当とされたのである。そのためにこれをコルネーリスの勇み足と捉えるのは片手落ちであり、彼の側近たちもその判断を支持していた。尤も、戦術的には否定し難い判断が、戦略の不備の上に成り立っていたことも忘れてはならない。
さて、コルネーリスはまず小型船をナタリ島へと接近させた。大型艦の進路を確保し、なおかつ敵の出方を見ようとしたこの慎重な態度は、猛烈なる弓矢の嵐によって迎えられた。両者にとって初めての戦闘となったこの衝突は、王国軍の惨敗となった。突然の攻撃に壊乱状態となった先発隊を救うべく動き出したある軍艦は、しかしコルネーリスの指示を待たずに先駆けとなった。コルネーリスはすぐに制止するよう指示を下したが、彼の側近たちは軒並み反対の意思を示した。先発隊が窮地に陥っている以上、すぐにでも彼らを救うべきであると。それでもコルネーリスは指示を翻さなかったが、第二、第三の軍艦が独自の動きを見せ始めたとき、彼はその行動を黙認した。のみならず、全軍に攻撃の指示を出した。統率が取れない状況になる一歩手前のぎりぎりのところで、コルネーリスは決断を下したのだ。
この決断は、女神の微笑みによって迎えられたかに思えた。大型艦の接近を見た敵は、後方のコルネーリスには未だ明瞭になっていなかったが、その姿を見せまいとするようにして森林の中へ遁走したようだった。コルネーリスは小型船を上陸させると、簡単な陣地を築かせた。その陣地の完成を待って、コルネーリスは連絡船への搭乗を始めた。報告によれば、海岸線には敵の姿は見られないとのことだった。細心の注意を払って、コルネーリスはナタリ島への上陸を果たそうとしたのである。
ところで、ナタリ島は双子の島であった。西に向けて口を開いたような形になっているナタリ島の、そのくの字型の真正面にごく小さな、まさに双子島と呼ばれている島が存在した。王国軍の艦船はその双子島に背を向けるようにして布陣していた。そのあまりにも小さな島に関心を払うものはなかった。そのために双子島の陰に隠れていた小型船が艦隊の中に侵入してきたことにすぐ気付いた者はなかった。ちょうどコルネーリスを乗せた連絡船が進発した直後であり、その行く手を先導する護衛船の準備に追われていたときだった。不審な小型船の出現に気付いたときには、もう為す術はなかった。
聞いたこともないような乾いた音が大型艦の間に反響し、小型船はそのまま艦隊の中を横断して姿を消した。後に残されたものは、コルネーリスの死骸だけであった。……
コルネーリスの死の状況について将軍から説明を受けた王は、すぐにはその悲しみを表そうとはしなかった。それよりもその後の状況、コルネーリス亡き後の艦隊の様子について知りたがった。側近の一人が指揮を引き継いでいるとのことだったが、これ以上の被害を恐れて進撃もできず、また周辺の島々からの散発的な襲撃を受け、容易に退却もできずに日々を無為に過ごしているとのことだった。そして状況は日増しに悪くなっている。艦隊の中には厭戦感情が芽生え、また兵糧も充分な蓄えがあるとは言い難い。王国が誇る勇猛なるコルネーリス麾下の艦隊は、その主人を喪って崩壊寸前にあった。
今後の処置について将軍は王の指示を仰いだが、王は即答を避けて一度将軍を下がらせた。ベッドの上に仰臥した王の涙を、従者ツェーザルだけが目にした。