2.深い森の中で
星ひとつない暗闇が、闇夜にこちらの気配を消してくれる。
躊躇わずに闇夜の森を抜ける男の手には少女の手が握られていた。
「ヒズ、ヒズ、お兄様が…」
「わかっております。急ぎましょう。はやく森を抜けてできるだけ遠くに行かなければ」
「ヒ、ヒスクライヴ様、お待ちになって!早いですわ…っ」
旅の支度をもった侍女のマリアと合流し、その荷を持つと、ヒスクライヴは早急に城を立った。
マリアは可憐な少女だった。だが、その容姿に見合った運動能力しか持ち合わせていなかった。
リーシャはぐずぐずとしながらもその歩みは止めない。
ヒスクライヴはちらりと主たる少女を見る。
年の頃は12、3ほどにしか見えぬ、今年15になる王女だ。
いつもぼんやりとしている姿しか見てこなかった。
これほどまでに深い感情を表しているのはいつぶりだろうか。
自然と、はじめて会った5年前に意識がさかのぼる。
「……姫に仕えることになりましたヒスクライヴです」
「……」
騎士としての礼をするが返事がない。
普通なにかしらあるだろうとちらりと視線を少女に向けると、ヒスクライヴは固まった。
口をあんぐりとあけている。
驚いているのだろうが、こちらもその表情に驚きだ。
「………何か驚かれるようなことでも?」
「ふぁっ…あの……えっと、えへへ」
半笑いだ。
「あの、私の護衛になるって、そのう、ヒスクライヴさんは賭けか何かで負けたんですか?」
ヒスクライヴは再び固まった。
実際、その通りであったからだ。
仲間内で行った『誰に仕えるか』の勝負に惨敗したヒスクライヴは王宮内でも浮いていて、出世の見込めない第二王女の護衛となったのだ。
「いいえ。そのようなことは」
鋼の自制心でそのようなそぶりは見せないぞという気概で笑顔を作る。
――少々の笑顔は引きつっていたかもしれないが。
「まぁ、どうしましょう。護衛がつくなんて思ってもいなかったわ。どうしましょう」
おろおろとする少女に俺の方こそどうするべきなんだろうと困惑状態になるヒスクライヴ。一つだけ言えるのは。
「リーシャ姫、私は貴方の護衛です。さん付けはいりません」
「そうなの?ええと、じゃあヒス!」
誰がヒステリックのヒスだ。
その略称に一瞬幼少期に言われた腹立たしいあだ名を思い出す。無論、そういってからかった輩はすべて血祭りに上げたが。
「できれば、ヒス、とは呼ばないでいただきたい」
「わかったわ!ヒズね!」
………どこから来た、濁点。
この主は………大変変わっている。
たったこの数分の邂逅だけでわかってしまった。否、わかりたくもなかったが。
ヒスクライヴは後悔した。あの時、ポーカーでブタさえ引かなければ。今さら後悔しても遅いが。
「よろしく、ヒズ。いつだって私の元から去ってもいいのよ。私ははずれなんだから。いつだってお兄様やお姉さまのところにいってもいいからね」
そうやって花が咲いたように笑う少女は手を差し伸べたのだった。
「ヒスクライヴ様!!」
「…っなんだ」
マリアの声に足を止める。懐かしいことを振り返りすぎた。
「リーシャ様の足から血が…無理をしすぎですわ」
「それは……」
なぜ言わないのです。
と言いかけてやめた。
リーシャは言わない。辛いとも痛いとも。
それを悟れなかった自分の未熟さに反吐が出る。
「申し訳ありません、リーシャ様。気がつかなかった私の落ち度です」
「いいえ、いいの…ヒズが急いでいるのもわかるもの。このぐらい我慢できるわ」
にこりと笑った顔が引きつっている。
ヒスクライヴはリーシャを大岩に座らせると、足の様子を見た。靴ずれか。慣れぬ山歩きで血豆ができたらしい。
簡易キットを荷の中から出すと、丁寧に巻いていく。
「すみません。このぐらいしかできませんが」
「いいえ、ありがとう、ヒズ」
「あの、ヒスクライヴ様、わたくし、母からリーシャ様をお連れするようにとしか言われておりませんの。いったい、何が起こっているのですか?」
「歩きながら話そう」
ひょいとリーシャを抱えると、再び山を下りるために歩みを速めた。
「二日前にバルト帝国がいきなり攻めてきたのは知っているな」
「ええ、たしか国境を超えたのですわね」
「それがすでにもうここまで迫ってきているのだ」
「な!そんな…ありえませんわ…だって馬でも5日はかかるはずですわ」
「国境を越えたものたちは陽動、切り立った山を越えて本体が動き出していたのだ」
バルト帝国とは広いハルト平原とあまりにも斜面が急な岩山のイヴァルト山脈が接している。
王国の主力の兵はハルト平原に向けて出立したばかりだったのだ。
そこを、逆手に取られた。
すべてが出来すぎている、そう思われるほど、相手の攻撃は巧妙だった。
「でも、我が国を攻めてなんの得があるのでしょう。たしかに鉱山はありますが…」
「相手の目的はわからん。だが、まっすぐに王宮を目指したということは王家に用があったのかもしれないな」
国王は先の冬にはやり病で亡くなった。若きアルス殿下が王座に就かれる。その矢先のことだったのだ。
王を失って弱体化したこの時期を狙っていたとでも言うのか。
「ヒズ、私、逃げて、よかったのかな……」
「リーシャ様」
「だって、私も、王族の一人。その首に、それ相応の、重みがあるのなら」
この首で、助かる命があるのなら。
リーシャの言わなかった言葉の先まで悟ってしまう自分が苦しかった。
「アルス様はご自身のみで片をつけようとなさったのです。リステイン様と貴方様を御助けになって。それにアルス様はおっしゃいました。市勢の中で幸せを掴んでくれと。それは王族としてではなく、あなた個人に幸せになってもらいたいからです」
「でも……」
「小娘ひとりの首で何ができるというのです。それこそ、傲慢です」
「う……」
ヒスクライヴはあえて、痛烈な言葉を選んだ。
主にはこれぐらい言ったほうがよい。
……やさしすぎる主には。
「ヒス…クライヴ様…また…はやいですわ……」
「すまない、我慢してくれ」
この夜のうちに山を降りなければならない。
できるだけ、遠くへ。
首にまわされる力細い腕の感覚が、今はヒスクライヴの支えだった。
託されたものは、あまりにも重い。
だが、彼には、その重さを抱えて歩むしかなかった。
騎士が親衛隊に入った理由がひどすぎる…。