14.依存
その日のヒスクライヴの仕事は、娼館に行く主の護衛だった。
「こんなことも護衛の仕事なんすねぇ」
「言うな」
娼館は甘ったるい、本能に染み込むような匂いがしていた。
喉が鳴る。
妙に喉が渇いて仕方がない。
「あー、駄目だ。俺、限界っす。仕事終わったら買おうかな」
「……」
仕方がない、娼館とはそういう場所だ。
本能に働きかけるような匂いも、その一環だろう。
ヒスクライヴも喉が渇いて仕方がなかった。
控えの部屋で待っている二人、…特にヒスクライヴに対する娼婦の目は熱かった。
美貌の護衛、しかも所作が美しく、その動作にも見惚れてしまうほどの極上の男。
ハインツが用足しに部屋を離れた隙に、娼婦の中でも力のある女性が部屋にするりと入り込む。
「ふふ、素敵な殿方ね」
ブルネットの長い髪に豊満な体。唇の下の黒子が妙に艶めかしい。
「あなたはお買いになりませんの?」
「仕事中だ」
「あなたなら、お金も要りませんわ」
ちらりと女性に目を向ける。
リーシャに仕える前は、ヒスクライヴも適度に遊んでいた。
経験豊富な娼婦とも、美しい未亡人とも。
そういった経験は、その美貌に比例してある。
…子守をしている間に枯れ果てたと思っていたのだが。
非常に喉が渇く。
「深夜でよければ」
「まぁ、お待ちしておりますわ」
妖艶に微笑む女性は部屋番号をすらすらと胸元から取り出したメモに書き込むと、ヒスクライヴの懐に挟み込む。
そうして美しく笑むとその場を去って行った。
「便所が豪華すぎてしたきにならなかった」
「知らん」
ハインツと軽口を叩き合いながら、主が戻るのを待つのだった。
妙にすっきりしたワーデルを屋敷に戻すと、その日の仕事は終わりだった。
喉が渇いたまま、リーシャを寝かしつける。
「おやすみ、リィ」
「おや…すみなさ…い…」
リーシャの夜は早い。
昼間しっかり働くためか、10時には眠りにつくことが多かった。
渇きを、剣の手入れなどをしてごまかす。
そうして、完全にリーシャが眠ったことを悟ると、静かに部屋を出て行った。
鍵を外側からかける。
リーシャが起きる前に、戻ってこなければ。
「おや、ヒスクライヴさん今からお出かけですか?」
「少し野暮用でな」
閉店の準備をしていた女将にリーシャを頼むと夜の町に消えていった。
「お待ちしておりましたわ」
妖艶に微笑む女性を見ると、喉の渇きが抑えきれないほどになっていた。
上着を椅子に掛けると、下着のような仕事着の娼婦の体にのしかかる。
「ふふ、急なのね」
「言葉はいらぬだろう」
甘い体に触れていく。
ひと時の蝶の夢のような時間を。
それが空しいものであると知っていながら、その甘い夢を――
ヒスクライヴは娼婦の胸に押し当てた手を、それ以上動かすことができなかった。
『ヒズ、ヒズ』
「……………いかがいたしまして?」
難しい顔をして動きを止めてしまったヒスクライヴを、娼婦が怪訝そうに見つめる。
ヒスクライヴは押し倒した娼婦の体から身を起こす。
喉の渇きは、彼女の声が脳裏に浮かんだ時に消え去ってしまった。
「やはり、心配だ」
自分は終生を誓った身、こんなところで何をしているのだろうと冷静になる。
ベッドから降りると服を着こんでいく。
「ちょ、ちょっと、なによ、急に。なんなの」
「すまないな、急用を思い出した。恥をかかせたんだ。通常の倍の金額を置いていく」
「こ、このインポ野郎!!!」
娼婦の怒り狂った声を後ろに聞きながら、ヒスクライヴは足を速めていく。
まったく、自分自身が愚かしい。
あの匂いに催したのだとしても、意思が弱すぎる。
「あれ?ヒスクライヴさん、お戻りで?」
「用は済んだからな」
夜明けまでは帰らないと言ってたんですが早かったですねーと主人と話をしながら、ゆっくり、静かに階段を上がっていく。
そうして、ゆっくりと鍵を開け、部屋に滑り込む。
まったく、ろくなことのない一日だった。
そう、息を細く吐いた時だった。
「ヒズ?」
小さな、本当に小さな囁くような声が聞こえる。
「起こしてしまったか?」
自分の失態に舌打ちが漏れそうになる。
明りをつけると、毛布にくるまったまま、憔悴した様子のリーシャが見えた。
「リィ!?」
ずるずると、毛布をかぶったままベッドから降りてヒスクライヴにしがみつくリーシャ。
「ヒズが、外にでたとき…起きてしまって」
「それからずっと起きていたのか?」
眠っていたらよかったのに、そう言おうとした言葉が次の言葉を聞いたときに凍りつく。
「ヒズが…もう…帰ってこなかったらと…思ったら…眠れなくて……」
ぎゅっとしがみつく力が強くなる。
そうだ。
そうだった。
彼女は、眠っている間に、裏切られたのだ。
マリアは、眠っている間に、消えてしまっていた。
そう思えば思うほど、眠りが怖くなっていたのだろう。
自分の考えの至らなさに、怒りさえ覚えてくるようだった。
「リィ…いや、リーシャ様」
しゃがみこみ、しがみつくリーシャに目線を合わせる。
その瞳は憔悴しきっていた。
「もう、決しておそばを離れることはありません。貴方様をおいて消えることなど、いたしません」
「ごめん…なさい…ヒズ…ヒズも…自由のときが…ほしいって…わかってます。わかってるのに……こ…怖くて…怖くて…」
冷や汗と焦燥に冷え切ってしまった体を掻き抱く。
リーシャが自身に抱いているのは、信頼を通り越して依存であった。
普段は感じないだろうに、必ず戻ってくると信じているだろうに、その不安は、時として牙を剥く。
ヒスクライヴの喉からは完全に乾きは消え去り、腹の底からわき出るような熱が生じていた。
この、少女を守らなくてはならない。
王子に言われたからだけではない。
魂の底から、この存在を、ただただ守りたいと思った。
心底怖がらせてしまった少女を、ヒスクライヴはただ抱きしめることしかできなかった。
はい、リーシャは滅茶苦茶ヒスクライヴに依存していますが、その実、ヒスクライヴもリーシャに依存していて、共依存の関係にあります。
二人は確かに愛情を感じていますが、それは家族愛と呼べるものです。
家族愛から恋愛感情にもっていくのが大変そうですが、物語の見せどころというものでしょう。
次回、ほのぼのです。