【コラム】ジョシュア『自分にとっての聖書を決めること』
人は往々にしてなにかに行き詰ることがあると思う。特に創作家というものは、ことさら原稿に詰まってしまったりするものだ。先の展開が思い浮かばなかったり、書く予定であるが本当に面白いか悩んでしまったりするものである。あるいは、やる気が出なかったり、心に余裕がなくなってしまったり。
私自身もそのような経験がある。そのたびに、多くの者が何らかの議論をしてきたものだ。お風呂に入る、散歩をする、美味しいご飯を食べる、映画を見る。いろんな方法が検討されてきた。特に、普段と違う環境で刺激を受ける、非日常的体験をすることが挙げられることが多い。
が、しかし、それは大きな行動力に基づくもであるように思うし、往々にして余裕がなくなってしまったときというのは、行動を起こすことが困難なときであるように思う。
そこで私が提案するのが「自分の聖書を持つ」ことだ。
聖書とは、みなさんもご存知の通り、ユダヤ教およびキリスト教のおける教典である。教典の意味を調べると、スーパー大辞林において「宗教において,信仰と生活の上で規範とすべき基本的な教説が記された典籍」とされている。ここでは宗教や生活のことはさておき、執筆活動における教典の意義について少し考えようと思う。
みなさんは、書籍を読んで憧れを抱いたことはあるだろうか。あるいは悔しいと感じたことはあるだろうか。また、創作をしていく上で見本にしたいと思った、目指したいと思った作品はあるだろうか。
その作品こそが自分の創作の原動力になるのである。憧れもまた創作への動機になりうる。その作品は、自分と比べる対象ではなく、自分が目指すべき対象なのであるのだから、変な心の折れ方もしないだろう。
「オリジナル」という言葉に惑わされがちであるが、我々はなにかから受け取り、なにかを生み出す側なのである。この「受け取る」を蔑ろにしてしまっては、よい作品も作ることができないだろう。この「受け取る」から「生み出す」へダイレクトにつなげることができるものこそ、自分が定めた教典に他ならない。
ともすれば、この「ダイレクトに」というのはかなり厄介である。下手をすれば盗作まがいになってしまうのではないか、と思うだろう。だが、創作の基本とは真似である。そもそも「学ぶ」という言葉の語源は「真似る」と同じであることからも、自分が尊敬した作品に近づこうとする正当な努力はなんら間違っていないのである。
もちろん、だからと言って、最初に挙げたような手段が決して無意味なわけではない。人は同じような毎日が続いてしまえば自然と参ってしまうものである。そのために新しい風を吹き込むという意味でも、普段と違う環境で刺激を受ける、非日常的体験をすることはとても有用であるのには違いない。
ようはバランスの問題であるが、手短に、かつ大きな行動をせずとも、意欲を取り戻す方法のひとつとして、私は提唱したい。
自分の中に一冊の聖書を決めて欲しい。
きっとそれが、創作活動の支えになるだろう。
迷った時に手に取った一冊に救われるというのは、いささかロマンチックな言い回しかもしれないが、ありふれたことであるとも思う。
決して我慢はしないことである。最初にあなたが抱いた好きという感情が前へ進む原動力になるはずであり、自分の嫌いや辛い、苦しみに服従してまで進めることはないのである。
自分が見つけた作品が、あなたの好きが、よき創作につながることを祈る。