宮沢弘/谷田貝 和男『ぶれいぶ にゅう わあるど』
副題【SFはナンセンスに回帰するのか】
|<R15> 15歳未満の方は移動してください。
|この作品には 〔ガールズラブ要素〕 が含まれています。
この作品は、「第7回 創元SF短編賞 1次選考通過作品」だ。そちらのHPからも確認できる。
タイトルといい、『最後の過ち』といい、結末といい、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」(“Brave New World”)を意識していることは確かだろう。とは言え、コミューンのありかたなど、違いもある。
また、ジョージ・オーウェルの「1984年」を意識しているであろう箇所や、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」を意識しているであろう箇所も見られる。必ずしもはっきり読み取れるわけではないが、ザミャーチンの「われら」を意識しているであろう箇所も見られる。新井素子の「大きな壁の中と外」も、おそらくは含めていいだろう。幻影、あるいは夢に注目するなら、「未来世紀ブラジル」も含めることもできるかもしれない。もしかしたら、「Max Headroom」でさえ含めることができるかもしれない。
すくなくとも、私はそれらを連想した。だからと言えるかもしれないが、正直に言えば、この作品のそれぞれの要素が、この作品に組み入れられている理由がわからない。また、それぞれの要素の間の関係もわからない。
つまり、社会とテクノロジーとガールズラブ要素のどれを書きたいのかが見えてこないのだ。もっとはっきり言うなら、一番書きたい要素はガールズラブ要素ではないかと思える。そこに、SF的要素として未来的なICTサービスを付け足しているのではないかと思える。そして最後に、それらをありがちな管理社会という舞台に置いたに過ぎないと思える。
作者の意図はわからないが、もしそうであるなら、「すばらしい新世界」、「1984年」、「華氏451度」、「われら」、そしてその他の作品が持つ要素、あるいはそれらから持って来た要素に正面から向き合っていないという印象を持たざるをえない。
ただの寄せ集めに思えるのだ。
そして、それは別の疑問にも繋がる。
「第7回 創元SF短編賞 応募規定」にはこうある:
| 意気込みに溢れた新時代のSF短編の書き手の出現を熱望します。未
| 発表の“広義”のSF短編をお寄せください。
すくなくともこの作品は1次選考を通過している。あるいは過去のある受賞作からも感じることがある。「意気込みに溢れた」というのは、このようなものを言うのだろうか? 「“広義”のSF」とはこのようなものを言うのだろうか? まぁ、「“広義”のSF」であることについては、どうこう言うものではないが。
だが、いいアイディアが「どうしてこうなった」という作品になったと感じたことは確かだし、要素の寄せ集めが「意気込みに溢れた」と評されるのであるなら、「それはどうなのだろうか?」と考えざるをえない。
もちろん、それが業界の趨勢であるのなら、私は一読者としてそれを観察するしかない。
『ぶれいぶ にゅう わあるど』
作者名:谷田貝 和男
作品URL:http://ncode.syosetu.com/n3778dj/
紹介者からの但し書き: この作品はR15タグが付与されています