―降下―
奇妙だった。
出迎えたのは、コロニーを管理している公社の人間でもなければ軍関係者でもない。
白衣姿の老人、ただ一人なのだ。
シートから身を乗りだし、強化ビニール製の簡易ラダーを垂らすと、ザックは軽い目眩を覚えながらもゆっくりと機体から降りていく。
老人は電動の車イスを右手のレバーで器用に操作すると、ザックの元へ近付いてきた。
「君が、ザックか」
抑揚のない老人の声。
「ええ、あなたは?」
「……あれは、父親に似て気難しいところがあってな……父娘そろって、私の妻に似たのかもしれない」
ザックの問いに答えた老人は、微笑みとも憂いともつかない表情を浮かべた。
質問と噛み合わない老人の答えに、数秒の沈黙の後、勘の鋭いザックは瞳を大きくさせて息を飲む。
「……ダリアの? グレゴリー総司令のお父上ですか? そうだ、あなたは確かウォルト博士……宇宙工学の権威……」
老人は口許を緩めると、頭部の外周を僅かながら覆う白髪を右手で撫で付けた。
禿げ上がった頭に、ふしくれだった手の甲。年齢は八十をとうに過ぎているであろう。
「なぜこんな所にコロニーが? “ 終末の日”にナノマシンが暴走してから、人が地球に降下することを禁ずるために、月と地球の中継基地となりうるこの類いのコロニーは解体されて、月面都市建設のために再利用されたはずだと……」
――地球を神のごとく信奉する人間や、学術調査や興味本意など、その理由は様々だが、中継コロニーから地上に降下しようとする輩が後を絶たず、アルテミスの条例により、地球の衛星軌道上にあるコロニーは、表向き全て解体されたことになっていた。
ザックの問いに、再びウォルト博士は口を開く。
「特権階級の人間たちは、少数のコロニーの存在を秘匿し、月面でなんらかの問題が発生した際の避難場所としてそれらを確保していたのだよ」
老人はぼんやりと定まらない視線でスタリオン改を見つめた。
「息子は勝てなかったようだな。艦隊が全滅する様を、偵察衛星からの映像で見ていたが、アルテミスや他の都市が陥落するのも時間の問題だろう」
「そんな……何か手立ては!?」
余りにも他人事のように呟く老人に、声を荒げるザック。
「手立てか。ザック、君がここにいることが、その“手立て”だよ」
「えっ?」
汗と血で額に張り付いた前髪をかきあげながら、ザックは更に表情を険しくさせた。目の前の老人が何を言っているのか理解できない。
「さぁ、準備を始めようか、ザック」
◆
数時間後、ザックは再び機上の人となっていた。
スタリオン改には機体と同サイズのコンテナが接続されていて、その姿は戦闘機というより補給機と呼べる程に重鈍なフォルムに見えた。
目的地は地球。“終末の日”以来、100年以上、何人たりとも立ち入ることの叶わなかった母なる星。
「大気圏突入角度はオッケーだ。あとはオートパイロットに任せる」
キャノピーを通して視界に広がる真っ青な海洋。緑と茶で覆われた大陸が、まだら模様を作っていた。機体の先端から真っ赤な摩擦熱が発生していく。
周囲では宇宙の闇と大気の蒼穹がせめぎあい、荘厳な美しさで境界線を作って見えた。
(なんて綺麗なんだ)
記録映像でしか見たことのない絶景が、ふと、ザックの心に孤独を沸き起こす。
今、この瞬間、宇宙で自分は一人きりなのではないのかと。
「本当に、地球は……」
疑心暗鬼のまま、ザックは重力に身を任せた。みぞおちから下腹部にかけて、不快感が襲う。
戦闘機の加速度とは異なる重力。
瞬く間に機体は大気圏を突破し、雲海の中を突き抜けた。
キャノピーの端から霜がかかり、太陽の輝きを滲ませる。
戦闘機が姿勢を自動で制御し、先端部を持ち上げながら大気の抵抗を腹に受け始めると、コクピットは酷く揺れ始めた。
眼下には、肥沃な大地が広がっている。
「“H.L system”起動!」
激しい振動の中、ザックはコンソールパネルを手早く操作していく。
システムとザックの脳神経が接続され、機体を中心として数キロに渡り、自らの意識が広がる感覚に襲われた。
「鳥が……」
V字を描き、大空を羽ばたく野鳥の群れ。
草原を駆ける野生馬。
風に揺れる木々の葉音。
そのどれもが、ザックの五感を刺激した。
「これは……」
ふと、自らの頬に流れる涙に気付くと、ザックは満面の笑みを溢す。
(この感覚はなんだ? 生きている……全てが……)
『Get a brip! ザック、ドローンが!』
「分かってる。博士の言った通りだ」
スタリオン改の後方から迫る機影があった。
数は五つ。ザックが降下したポイント周辺を警戒範囲としてプログラミングされていたのだろう。野生の動物達の中にノイズのように紛れ込んだ無機質なそれらは、生まれて初めて触れる自然の中で、感動に浸っていたザックを苛立たせた。
長い両翼と垂直尾翼を備え、旧世紀のジャンボジェット機を戦闘機サイズにまで縮小した姿に見えた。
無骨なモスグリーン色の胴体には、長年風雨と日差しに晒されたせいか、酷く色褪せた国連維持軍の紋章がプリントされている。
許可なく大気圏外から侵入する物体を迎撃するためのドローンは、太陽光によるソーラーシステムを活用し、ほぼ無限に活動が可能だった。ナノマシンが暴走した“終末の日”以降も、それらの防衛システムは生き続け、守る者もなく世界をさ迷い続けていたのだ。
「地上スレスレまで降下してコンテナを下ろす! このままじゃ、ただの的だ」
機体後部に接続されたコンテナの過大な重量は、不慣れな大気圏内での戦闘に於いて、圧倒的不利な状況を作り出すのは明白。
機体を垂直落下させ、加速した。
「一気に突き放す! スクランブルブースト!」
迫るドローンが幾何学模様の編隊を組み、追従してくる。
スタリオン改のプロペラントタンクから強烈なアフターバーナーが噴出し、霞ながら加速する機体。
(これが地球の重力か!)
油の中を進むかのような粘性が機体を包みこむ。それはザックが戦闘機のパイロットになってから始めての感覚だった。
空気抵抗は確実にスタリオン改の馬力を殺ぎ、本来の力を奪う。
刹那、コンソールパネルが赤く点灯した。
『ザック! ロックされました!』
「フレア用意! 合図で射出しろ!」
『ラジャー!』
広範囲に渡り、ドローンから放たれた20発の熱誘導ミサイル。白煙の尾が紺碧の空に幾筋ものラインを刻む。
耳障りなアラートが、スタリオン改のコクピットで鳴り響いた。
『ザック! 回避運動を!』
「まだだ! ギリギリまで引き付ける!」
数発のミサイルが上空と地上に別れて消えた。100年近くの時間は、ミサイルに内蔵された熱感知センサーを経年劣化させ、軌道を狂わす。だが、それでも以前として10発以上のミサイルがスタリオン改を追従している。
ふと、目まぐるしく変わる眼下の景色が山々と草原から荒涼とした平地へ。機体の向かう先に、ビルの群れが見え始めた。
「旧世紀の市街地か!」
『ザック! ミサイルが後方500メートルまで接近!』
「分かってる!」
H.L systemにより拡大された意識は、全てのミサイルの位置をザックに把握させていた。それだけではない。遥か前方に位置する街の景色すらも、手に取るように捉えていた。
「コンテナを投下する! 降下した瞬間、一気に上昇をかける!」
ザックは操縦桿を小刻みに操作して、機体を地上スレスレまで下降させた。速度はマッハを優に越えている。僅かでも操作を誤れば、地面に接触し、機体は一瞬で跡形もなく分解するだろう。
ジェット気流の爆風が砂ぼこりを巻き上げ、後方に迫るミサイルの群れを覆った。スタリオン改の腹と地上までの距離、僅か7メートル。
「今だ! コンテナ投下!」
機体を揺さぶる金属音が弾け、コンテナの接続が解除された。同時に、ザックは操縦桿を目一杯引き込み、機体を一気に上昇させる。
殆ど直角に近い異様な動きで転進する機影に、追尾していたミサイル数発が攻撃対象を見失い、百合の先端のごとく四方八方へ飛散していく。その数発は地面に激突し、赤黒い爆炎と共に盛大に土砂を撒き散らした。
「ぐっぅっ!!」
垂直に上昇していく機体。強烈なGがザックの全身を押し潰そうとした。バケットシートがミシミシと音を立てて歪む。呼吸が、出来ない。
(重力か!……)
ローンバスとの格闘戦には自信があった。だが、無重力の宇宙空間と地球の大気の中では勝手が違う。
機体全体にまとわりつく空気抵抗と地球の重力は、特殊鋼板と複合素材で構成された頑強な装甲を軋ませる。
追尾するミサイルは残り8発。
旧世代のスペースシャトルの様相で、スタリオン改はプロペラントタンクとスラスターから白煙を吐きながら天空目掛け突き進む。
『ミサイルとの距離、100メートル!!』
「まだだ!」
背中越しにチリチリと感じるプレッシャー。弾頭の信管がどの程度の距離で点火するのか分からない。だが、フレアを射出するタイミングを間違えば、熱感知誘導ミサイルは最初にロックした熱源を延々と追い続けるだろう。
スタリオン改には、ミサイルの追尾範囲外である大気圏外への離脱能力はない。
ザックは機体を旋回させながら、追尾するミサイルの動きを少しでも乱そうと試みる。
『ミサイルとの距離、40メートル!!』
「フレア射出!」
ザックの言葉に、ナビゲーションシステムはフレアを機体後部から放出した。拳大のマグネシウムが発火し、小型の太陽に似た黄色い輝きが大量に咲き乱れる。
それらは一瞬で高温に達し、熱感知誘導ミサイルを引き寄せ、爆発した。
(一つ、二つ……)
意識を集中し、機体後方に追従する残りのミサイルを数える。
「ミサイルはあと二発か! フレアの残量は!?」
『残弾数、ゼロ!』
元来、対ローンバス用に武器弾薬を設定されているスタリオン改に、囮の物体であるフレアは少量しか搭載されていない。ローンバスに対してもフレアは有効だったが、それ自体に破壊能力がないため、目眩まし程度にしかならないからだ。
尚も加速する機体後方に、肉薄する二つのミサイル。
「ぐっ!」
巨大な爆発が起こった。雲海を突き抜け、成層圏に達しようかという高高度。
紺碧の空に真っ赤な光点が輝き、その後に白煙が球体を作り、バラバラと幾筋もの残骸が落ちていく。
――ミサイルが直撃したのだ。