神殿は面倒臭い
『はぁぁぁ……。サイアク』
私は用意された一室で、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
この世界の空はどちらかといえば青ではなく緑に近い常磐色だ。理由は分からない。ただ、天気が悪くなると空の色も変色し、雨が振り始めると紫色に、嵐がやってくると赤褐色になる。夜空が黒いという点だけは、前世私がいた世界と同じだ。
天は神様の御心を表しているのだと言う。西の空の雲行きが怪しいところを見ると、神様は今、お嘆きになっているのだろうか。それとも憤怒されているのだろうか。第二の勇者なんて選定しようとしているから。
神様は“現世”にあられながら、その御声を人間に聞かせることはない。神殿には巫女と呼ばれる神通力を持った人間がいるそうだが、そんな大層な名前を掲げる人物でさえ神の謦咳に接せはしないという。
御使いである私たちすら聞けない御声を俗世人が聞こうなどとはおこがましい。そう思うのは、紛れもなく魔獣としての“私”だ。
そう。私は魔獣なのだ。魔獣はいつ如何なる時も誇り高くなければならない。真に神の名を背負う者として、その名に恥じぬ働きと矜持を。
だから決して、人間になめられるようなことがあってはならないのだ。
――例えば、今のように食べ物で私を釣ろうとするなど!
『だから、やめてって言ってるでしょ!?』
無言で目の前のテーブルにご馳走を並べていく侍女らしき格好をした彼女たちに、とうとう堪忍袋の緒が切れた私は立ち上がって叫んだ。
威厳ある魔獣を演じようと、怒鳴ることだけはしないように決めていたのに。やはり私には、魔獣という種族そのものが向いてないのかもしれない。
「しかし、魔獣様。私どもは第二の勇者様より承っております」
抑揚のない口調で答えたのは、少し離れた場所に佇んでいた神祇官の男だった。
この男、なかなかどうして表情が変わらない。泰然とあるべき魔獣が大声を出したことに料理を運んでいた侍女たちは少なからず驚いているのに、こいつだけは一貫して無表情なのだ。瞬き一つしやしない。……目が乾燥しないのだろうか。
ここは神殿に隣接された建物の一室だ。ナギヒコが神殿切符を使ってしまった後、神殿に瞬間移動し、予想通り私たちは神殿の人間に歓迎された。
出迎えたのはこの能面男と他の神祇官幾人か。私たちが来ることを前もって分かっていたか、神殿にたどり着いたその瞬間には既にそいつらがいた。いきなり「お待ちしておりました」なんて言われて、私はといえば目が点だったもん。何その高級ホテル仕様。
加えて、私の懸念は現実と化した。神祇官たちはナギヒコに対して言ったのだ。“第二の勇者様”、と。それは間違いなく、ナギヒコをお姉さんの代わりに据えようとしている確かな言葉であった。
私が面倒に思うからという理由ももちろん大きいのだけど――魔力があった頃ならいざ知らず、今のナギヒコはただの一般人だ。勇者になどなれるわけがない。私はなんとか話を断ろうとした。
が。
お人好しなナギヒコは、せめて話だけでも、という神祇官の誘いにまんまと乗ってしまい、現在別室にて巫女とお話中である。
ストッパーである私と引き離された時点で、ナギヒコが彼らの話を引き受けてしまうのはもはや必然と言ってもよかった。ナギヒコなら断らない。三年寝太郎のくせに、いつも色んなものを安請け合いする悪い癖がある。やれるかどうかも分からないのに、きっとやれるだろうと楽観視して。
そして一方の私は、こうして饗されているわけではあるが、納得できないことが一つだけあった。
何故、この神祇官はあけすけにご馳走で私の機嫌をとろうとするのか。私は誇り高き魔獣だぞ! そりゃ最近はホデリの実か草しか食べてないけど。美味しそうな料理を前に、お腹がぐうぐう鳴ってるけど。食べ物で釣られるほど、安くはないつもりだ。
「第二の勇者様は、魔獣様にはとりあえず食べ物を与えておけばいい、と」
『ナギヒコがそんなこと言ったの!?』
ナギヒコめ、なんてやつだ! それではまるで私が卑しいみたいじゃないか。食べ物でどうにかなる魔獣、単純すぎて笑えてさえくる。
「お気に召しませんでしたでしょうか」
『なんて言うか、それ以前の問題。ナギヒコに勇者は無理ですよ。神祇官さん』
「……」
黒髪の神祇官は黙り込んだ。本当に人形みたいに表情のない人だ。折角人間に生まれたのだから、もっと感情の起伏を表に出してもいいような気がする。
神祇官は軽く片手を挙げ、侍女たちを下がらせた。
「そのことについては、一介の神祇官である私に決定権はありません。すべては神の思し召し。……それでは、失礼します」
そうやって、礼をとって退室しようとする神祇官。
私はすぐに彼を引き留めた。
『待ってください』
「何でしょう」
『まさかこれ、私一人で食べ切れなんて言いませんよね?』
視界いっぱいに広げられた料理の数々に、私はにこり、と。最大級の笑顔をプレゼントした。
『さっきの侍女さんたちを呼び戻してください。それと……あなたも』
逃がすものか、この唐変木め。
☆★☆★☆★☆★☆★
一時間後。香辛料で味を整えられた神の実の料理すべては、ものの見事に平らげられた。
もちろん、私一人の力でなかったことは明白だろう。
『……まあ、あなたは最後まで手を付けませんでしたけどね』
横目で神祇官の男を見遣る。
侍女は魔獣が命じれば、渋々だが席についた。けれどこの男だけは断固として首を縦に振らなかった。手厚すぎる歓迎というのもまた迷惑なものであることを、身をもって学んで貰いたかったのに。
「あなた様は神の御使いであらせられる。食事をともにするなど、恐れ多い」
恐れ多いって……私は何者だ。魔獣様か。なめてるか敬ってるのか、どちらなのか。
『でも、美味しかった。久々にホデリの実以外の実を食べました。なんだか癪ですけど、一応お礼を言っておきます』
「光栄です」
『神の実はそのまま食べても美味しいけど、やっぱり味付けが異なるといいですよね』
「はい」
『今度レシピ教えてくれません?』
「私の専門外になりますので」
『……』
今宵は無礼講だと同じ釜の飯を食べた侍女たちが引っ込んでいった後、暇を持て余した私は変わらず部屋の片隅に立ち続ける、微動だにしない神祇官と会話をすることにした。しかし、まったく続かない。あまりに無駄を省いた返答に、次の話題を探すのに苦労する。
神祇官って、みんなこんなんなの……? 機械的で信仰心に厚く、一言で言えば面倒臭い。神の存在を気取ることもできないくせに、どうして見えないものを崇め奉られるのか。確かある程度の魔力があればなれるんだっけ、神祇官って。
私は窓の外を見た。空はいつの間にか常磐色に戻っている。至って穏やかな天気だ。
ナギヒコはどうしているだろう。まだ巫女と対話しているのかな、長いなぁ。
……別に、巫女の邪魔をしても良かった。落ちこぼれとはいえ、私は聖なる魔獣の端くれだ。加えて神殿は神の分霊が祀られているだけあって、聖気に満ちている。この場所でなら、目の前の神祇官の隙を掻い潜ってナギヒコのいるところにも向かえただろう。
そしてナギヒコに言えばいい。勇者にはならないでと。ナギヒコはなんだかんだ言って、最終的には私の意見を一番に反映してくれる。私がお願いすれば、ナギヒコはきっと勇者にならない。
だけど。
その選択は魔力を失ったナギヒコを危険な目に遭わせないためのものではあっても、ちっとも私たちの生活の足しにはならない。私たちは現在、今日を無事に乗り越えたとしても明日はどうとは知れない身。ならば、衣食住と付いた“勇者”という肩書きに縋るべきではないだろうかと、利己心の塊になった私が言う。
そ、そうだよ。今まで何百匹の害獣を退治してきたんだ、こちとら。魔女を見つけて魔力を取り返すまでの間だけでも、神殿に養ってもらっちゃえばいい。援助金出るって噂だし、それだけのことはしてきたはず(ナギヒコが、だけど)!
………と、おおよそ二十分前の私は結論を導き出し、今の今まで大人しく待っていたのである。
ごめんね、神殿の人たち! そっちの思惑に乗っからせてもらうよ。ちっとも悪いとは思えないけど、一応謝らせてもらう。
開き直ってしまえば、図々しくもいられるものだ。
『ねえ、神祇官さん。あなたはどうして神祇官になろうと思ったんですか?』
ナギヒコの姿もまだ見えないし、私は続くかも分からない会話を再開させる。こうなったらこの人のこと、根掘り葉掘り聞いてやろう。固く口を閉ざされれば閉ざされるほど、開かせたくもなるものだ。
「どうして……とは」
『楽しそうだからとか、面白そうだからとか。何か理由はないんですか?』
これで彼が面白そうだから、なんて答えようものなら私はどう反応すればいいのか分からないけど。
「理由はありません。敢えて言うならば、主が望んだことだからです」
『主?』
「私の恩人に当たります」
『恩人……』
この人でも恩義とか感じられるんだ、と大変失礼なことを一瞬だけ考えてしまったのは許してほしい。
人間味のある部分が見えてきたことで、私は少しだけ目の前の神祇官に興味が湧いてきた。
『じゃあ、自分が望んだ職じゃないんだ』
「……主の意思が、私の意思です」
『それって楽しい?』
理路整然と話す神祇官に、思わず本音が漏れる。だって随分と窮屈な考えじゃないか。何事にも囚われず、チートなナギヒコとともに世界各地を悠々自適に旅してきた私には共感し難い。
まあ、蓼食う虫も好き好き。考え方も人それぞれだよね。
「楽しさなど、必要ですか?」
だから神祇官のその問いかけにも、私は『人それぞれだね』と答えておいた。
『よし、今日からきみはツカサちゃんだ。ツカサちゃん、よろしく。私はミコって名前ね。なんだか今、とってもあなたとよろしくしたい気分だ』
「ツカサ……?」
『神祇官だからツカサちゃん。可愛い名前でしょ』
「……魔獣様に呼び名をいただけるとは、まこと幸甚に存じます」
きっと本気で有難がってはないだろうなーという真顔で、ツカサちゃんは形だけの礼をとった。口元が引き攣ることもない。あだ名は鉄仮面のてっちゃんでも良かったかなぁ。
いつの間にか私が砕けた口調になっていることも、ツカサちゃんは特に気にしていない様子だ。
『そうだ。ツカサちゃんに聞きたいことが――』
百年前に“魔女の厄災”を引き起こした魔女について、神殿側は何か有力な情報は持っていないか尋ねようとした、ちょうどその時。
部屋の扉が勢いよく開かれた。
「ミコッ!!」
そこから現れたのは、切羽詰まった表情のナギヒコだった。
『ナギ? どうしたの?』
ナギヒコがこうまで焦燥の色を露わにするのは珍しい。いつだってマイペースな彼が、一体どうしたと言うのだろう。私はすぐさまナギヒコのもとまで駆け寄った。
すると、私の小さな体はいとも簡単にナギヒコの手によって抱きかかえられる。
『ナギヒコ?』
「ミコ、置いてかないでっ。僕を一人にしないで……!」
『ちょ、ちょっと』
今にも泣き出しそうな顔のナギヒコに、首から中腹の辺りを親指でグリグリされる。モモンガだから、首はないようなものだけど。痛いってば。
『どうしたのナギ。何かあったの』
展開についてけない。ナギヒコは巫女様と談話中だったはずだが、そこで何かあったのだろうか。
視界の隅に、そっと部屋を退室してゆくツカサちゃんの姿が映った。
「ミコは、魔力なしなんかの僕は嫌い?」
『……巫女様に何か言われたの?』
「怖いんだ。友達を失うのは嫌だ、大切な人が消えてしまうのは怖い……」
ナギヒコの瞳に涙が浮かぶ。
それを隠すように、いや私をタオル扱いするかのようにお腹に額を押し付けてきた。やめなさい。
『バカだね、ナギヒコ。私とあんたは“魂の契り”で結ばれてるんだから、私が勝手にナギヒコを置いていくわけないでしょ?』
短く小さ過ぎる手のひらで懸命にナギヒコの頭を押し返しつつ、言葉優しく慰める。
けれど顔を上げたナギヒコは、尚も不安そうに情けない表情をしていた。
「ミコが僕の傍にいるのは、契約だから……?」
……本当にどうしたのだろう。
ナギヒコの口からこうまで弱気な言葉が出てくるとは。さては、明日は雹でも降るのか。
『よしよし。ナギヒコ、泣かないで。男の子でしょ?』
私が人間だったら、ナギヒコの体を抱きしめて背中を撫でてあげられるのになぁ。この短い手ではどうしようもない。仕方なく、近くにあったナギヒコの額をポンポンと叩く。
ナギヒコは大粒の涙を絨毯の上にこぼしていた。
「みんなみんな、いなくなった。僕が魔力を失ったから」
『あ~、やつらは野性的というかなんというか……強い人大好きだからね』
ナギヒコの言うみんなとは、ナギヒコが魔力なしになる直前まで契約を結んでいた六匹の魔獣のことだろう。特に尾裂き狐のヤビコは、親を失くしたばかりのナギヒコを心身ともに支えてきた一番の古株でもあった。そんな彼らが魔力を失った途端手のひらを返したように冷たくなった出来事が、やはりナギヒコの中では相当なショックだったのだろう。
あいつらにも悪気はないんだよ、悪気は。ただ少し、人間の心の繊細さというものを理解していないだけで……。
「お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも。みんな、僕を置いて家を出て行った。それでも平気だったのは、ヤビコたちがいたからだ。なのに、今はもうミコだけしかいない。そのミコさえ―――」
やがて、ナギヒコは静かに嗚咽を漏らし始めた。私を床に置き、両膝を抱えて蹲って。
どれくらいそうしていただろうか。すすり泣く声が弱まってきたと思えば、ナギヒコは顔を上げないまま、ぽつりぽつりと話し出した。
「……巫女様って人と話してきたんだ」
か細い声。
『うん』
「勇者になりませんかって。あなたにはその素質があるから、って」
『うん』
「でも僕は断った」
『う……、え!?』
断った? なんでもかんでも安請け合いしてしまうあのナギヒコが?
相槌を打ちそうになりつつも、しっかり驚きの声を上げた私にナギヒコは怪訝な視線を寄越してくる。
『断ったって、何で』
「魔力を失ったのに勇者なんてなれないよ」
『そ、そりゃそうだけど……』
おおよそナギヒコとは思えない真っ当な判断だ。いや、私がナギヒコという人間を誤解していただけかもしれないが、とにかく驚かずにはいられない。
「それに、僕は勇者になりたくない」
また。ナギヒコらしくない答え。
『どうして――』
「ねえミコ、お願い。ミコまで僕から離れていかないで。僕は勇者にならないけど、傍にいてほしい」
『……』
魔獣は魔力を多く有した人間を好む。神の令である害獣討伐を遂行しやすいからだ。故に、高い魔力保持の証である“勇者”という肩書きは、魔獣にとってこの上なく魅力的なものになる。
私にとってはチートな人間は魅力的でも、危険が伴う勇者業はそうでもないんだけどね。ナギヒコは自分が勇者にならなければ、魔獣の私が離れていってしまうのではないかと危惧してるのだろう。
『ナギヒコ、顔上げて。私はナギヒコが勇者にならなくてもいいよ。ずっと傍にいる』
「ミコ……!」
私の一言に、感極まった様子のナギヒコ。
でもごめん。まだ、続きがあるんだよね。
『衣・食・住。この三つさえ保証してくれたら』
「えっ」
『OK?』
「…………」
『…………』
「…………」
いや、だって。私死にたくないもん。その辺の道端で野垂れ死ぬなんて絶対嫌だし。私の理想は、香りのいい綺麗な花に囲まれて穏やかにに絶命することだ。やっぱりモモンガと言えど、女の子だもんね! 最期まで可憐な乙女でいさせてほしい。
「ミコ、なんて身も蓋もない……」
ナギヒコが両手で顔を覆って嘆いているが、結構大切なことだと思う。衣食住。
「ああもう、お姉ちゃんの嘘つき! やっぱり、ミコがこんな手に引っ掛かってくれるわけないよ」
『手? ……ちょっと待って、ナギヒコ。どういうこと』
「お姉ちゃんが、もしもの時はこれを使えって……」
そう言って差し出されたのはガラスの小瓶だった。ラベルに表記された文字を見て、私は絶句する。
『な、ナギヒコ……あんた……』
なんてやつだ。
ラベルには、こう書かれていた。
―――涙薬、と。
『さっきのは演技だったの!? なんで! どうして! うあああ、騙されたっ。おかしいとは思ったんだよ、ナギヒコが泣くなんて!』
ナギヒコは涙必須であるはずの感動系の物語を観賞したときも、顔面に向かって思い切り風を扇いで目を乾燥させても、試しに新鮮な玉ねぎのみじん切りに挑戦させても泣かなかった。瞳を潤ませることはあっても絶対に雫を零すことはない。
そう、たとえ、両親の訃報を聞かされた時だって。
ヤビコたちに聞いた話だ。当時、私はまだナギヒコと出会っていない――どころか、この世界に誕生すらしていなかった。
幼いナギヒコと姉である勇者様が家で大人しく両親の帰りを待つ中、残酷な知らせは村の長によってもたらされたと言う。不運な事故だったと。勇者様はその場に泣き崩れ、慟哭に顔を濡らしたそうだ。
けれど、ナギヒコは。訳も分かっていないようなキョトンとした顔で、簡単に両親の死を受け止めてしまったらしい。葬儀の最中も同様だった。ナギヒコが泣くことは、一度としてなかった。
“あやつは馬鹿だからな。両親が死んだということを、理解していなかったのだろう”
ヤビコはそう言っていたけど、真相は分からない。私にはナギヒコに直接訊ねる勇気もなかった。
だからそんなナギヒコが私のことで泣くなんて、おかしいなと――。
『ナギヒコ、正座! そこに正座しなさい!』
「ええ~、やだよ」
『どうしてこんな真似したのっ』
今の私は怒りMAXだ。腸が煮えくり返りそうだ。涙を武器にするなんて酷すぎやしないか。
この野郎っ、ととりあえずナギヒコを殴る。
うん、ポカポカと効果音の聞こえそうな攻撃だけど。殴るというより叩く……いや、むしろマッサージより力のない攻撃だけど。ああ、モモンガな自分が憎い。
「だって、ミコにまで見限られたくなかったんだよ。さっき神祇官の人と仲良く話してたでしょ? だから、僕、不安で……。僕からあの人に乗り換えるんじゃないかって」
『あのねぇ……、“魂の契り”は絶対に破棄できないものなの。知ってるでしょ?』
「うん。でも、他の相手と新しい契約は結ぶことができる」
『……』
そうか。盲点だった。ナギヒコが心配しているのは私が契約を取り消すことではなく、別の人物と新たに契約を結ぶことだったのか。
つまり、実質的な乗り換え。
魔獣も人間も基本的に同じ相手とは複数の契約を交わすことはできないが、相手を変えることで何度だって契約を結ぶことができる。ナギヒコが私を含め七匹の魔獣と契約していたように。ただ効率を考えると魔獣にとっては一人相手の契約だけの方が都合がいいのでみなそうしているだけであって、不可能というわけではない。中には複数の人間と契約を交わしている変わり者もいたりするし。
ナギヒコよ。あんたにしては、なかなかの着眼点……。
『だけど、私がナギ以外の人間と契約を結んだとしても、ナギとの“魂の契り”は効力を失わないんだから、傍を離れるわけがないでしょ』
私の知らないところでポックリ逝かれでもしたら困るからね。気づいたら私も道連れお陀仏~なんて嫌だ。
「……またそれ。ミコは僕の傍にいる理由を契約のせいにしてる」
『せいって……。そういうわけじゃないけど』
「そうだよ。ミコたちはいつも、僕が欲しい言葉をくれない」
『ナギヒコ?』
まずい、拗ねてしまったか、とナギヒコを見るも彼の表情は至って平常通りだった。先程の涙の跡もすっかり消えていた。
ミコたち。それは、過去に契約していた六匹の魔獣も含まれているのだろう。
「ごめん、何でもない。……お姉ちゃんがさ、近頃“おかしな魔獣”を見たって言ってたから、もしかしてミコもそうなんじゃないかって過敏になってただけ」
『―――おかしな魔獣?』
これまた初めて聞く話である。こいつは一体、いつお姉さんと連絡を取り合っているのか……。甚だ疑問だ。
私が口に出して反芻すると、ナギヒコは大きく頷いた。
「そう、おかしな魔獣。普通、魔獣は神様の望みを叶えるために、人間と契約を結んで害獣の退治に何よりも重きを置くでしょ?」
『……まあ、そうやって本能にプログラミングされてるからね』
「でもお姉ちゃんが以前に出会った魔獣は誰とも契約していない、契約する気のない変わった魔獣だったらしいんだ」
確かに、それは珍しい。というよりそんな魔獣が“現世”にいるはすがない。前世の記憶持ちな怠惰なこの私でさえ、“鎮守の森”を追い出されてからは契約だけはしなければという強迫観念に襲われていた。
私たち魔獣は神使だ。神が創りし、泰平の世に向けた導き手。人間と契約し力を貸す、そのことだけを本能に刻まれた神の御使いが誰とも契約したがらないなど、本来ならあってはならない。
“闇落ち”しない限りは。
『勇者様が出会ったとする魔獣は……本当に魔獣?』
「え? あ、うん。確かみたいだよ。お姉ちゃんがそこらの動物と魔獣を見間違えるはずがないから」
『……じゃあ、もしかして。勇者様が出会ったのは、闇落ちした魔獣だったんじゃないの?』
「え。まさか……」
魔獣が神の令を放棄し、害獣の如くこの世に害悪を齎すようになること――簡潔に言えば人間を襲うようになることを“闇落ち”と言う。ちなみに人間は闇落ちした魔獣のことを黒魔獣と呼んでいる。
闇落ちした魔獣は知性を失い、魔力を持った獰猛な獣へと成り下がる。害獣と違って厄介なのはその強さだった。神がお創りになられただけあって膨大な魔力を有する魔獣は、闇落ちすると倒すのがなかなか大変で一筋縄ではいかない。半年前のチートなナギヒコはいとも簡単にやっつけてしまっていたけれど、うん。あれはナギヒコがおかしいだけであって、普通は手こずるものだ。
魔獣にとって闇落ちは最も忌避するところである。闇落ちすると品性の欠片もなくなるに留まらず、闇落ちしてしまったら最後、同郷の仲間によって殺されなければならない。
「ミコ。残念だけど流石に分かるよ、黒魔獣かどうかなんて」
魔獣が闇落ちしているのか否かの見分け方は至極簡単だ。魔獣の行動に表れる。出会い頭にこちらを襲ってこようとするのが黒魔獣――たったそれだけだ。
だけどもしも。
『闇落ちした魔獣に、知性があったとしたら?』
「………」
魔獣が闇落ちする原因は長年謎に包まれていた。しかし近年、人間の研究データによると闇落ちした魔獣の大半が人間と契約していなかったことが新たに判明したらしい。
統計結果の正確性には言及しないとして、これが何を指すのか。私には、神の令を実行していない故の天罰に思えた。きっと、闇落ちした魔獣の中に意図的に誰とも契約していない魔獣なんていなかっただろう。ただ、適当な相手が見つからなかっただけで。
それでも神は罰を与えた。
「随分と、面白い話をしているね?」
その声に、背筋に走ったのは悪寒だった。
「!」
私とナギヒコは同時に振り向く。そこにいたのは白い装束を身に纏った、ナギヒコと同い年くらいの少年だった。
気配がまるでなかった。サバイバルな日々を送り、他者の気配に敏感になっている私たちですら気取れないなんて……と思わず冷や汗を掻いてしまう。これが敵だったなら、今のは完全にやられてた。
『あ、ツカサちゃん……』
少年の後ろには先程この部屋を出て行ったばかりのツカサちゃんの姿もあった。なんとなく私が安堵したことが分かったのだろう、ナギヒコの表情が面白くなさげにむくれる。
それにしても、ツカサちゃんを引き連れたこの少年は何者なんだろう。二人の所作を見るとツカサちゃんより立場が上っぽい。おまけに、断ってしまったけど一応は勇者候補だったナギヒコに気軽に話しかけているところを見ても、只者じゃないな。
「きみが、彼女の言っていた神子?」
珍しくナギヒコが自ら口を開いた。
彼女? みこ? 何を言っているのかちんぷんかんぷんだ。私のことを言ってるわけじゃ……ないよね。
少年はいかにもと言わんばかりに大仰に頷く。
「躾がなってないねぇ。私のことをきみと呼ぶのかい? 勇者殿の弟君、あなたは年長者に対する口の利き方も知らないらしい」
と、開いているのか分からないくらいの糸目をさらに細めた。
『年長者……?』
私は思わず呟いてしまう。
どこに年長者がいるというのか。
「おや、魔獣殿。あなたの慧眼でなら分かるだろうとも、私はこの見た目通りの年の数えではない」
『えっ』
「十年に一つずつ歳が若返る呪いにかかっている。だから私はこう見えて、大国が彼の国と戦争を始める以前からこの世に生を受けていたのだよ」
『嘘だぁ……!』
二つの国が戦争を始めたのは最近の話ではない。停戦期間を含め、戦争の歴史は五十年にも上る。つまり目前の少年は少なくともそれだけの歳を重ねているということだ。何の冗談だと笑ってしまいたくなる。
それに、十年に一度若返る呪い? そんなものがこの世にあってたまるか。時の流れに干渉できるのは私たちの主であらせられる神だけだ。安易に踏み込んでいい領域ではない。
「はは。噂の如く人間らしい反応を見せてくれるね、魔獣殿。あなたはなかなか興味深い」
『は、はぁ』
「さて。では改めて自己紹介をしよう。弟君が先程口にした通り、私は神子だ。ただし巫女とはまったくの別物であることをここに言明しておこう」
『……?』
何言ってんだ、この人。
私はチラリと横目でナギヒコを確認するが、私と違って特に混乱はしていないようだった。え、嘘でしょ。あんたこの人の言ってること理解できてるの?
「一般的に知られてはいないけど、神和ぎは二人存在するんだ。とは言っても、言葉で表現するにはいささか難儀だね。弟君が今しがた会っていたのは神に祈りを捧げる巫覡の舞女――巫女であり、対する私は神託を得る神懸りに必要な御神子――神子なのだよ」
『……えーっと?』
やばい。言っている意味がさらによく分からなくなってきた。
何なのこの人。宇宙人なの? 頼むから同じ言語を話してほしい。
「私の真名は随神の道の上教えることはできないから、好きに呼んでくれて構わない。尤も、神子だと魔獣殿の名前と混同してしまうね?」
普段使わない頭をフル稼働させて少年の話を理解しようと頑張っていたところに、突然そう言って笑い掛けてこられたので、私の答えは『え、まあ、そうですね……?』と生返事になってしまった。正直、少年が何を言っていたのか聞いていなかった。
「ミコ、聞いてよ! さっき僕、それに騙されたんだ!」
ナギヒコが私を抱き上げて訴えてくる。その“ミコ”って、私のことでいいんだよね。ややこしいなぁ。
「ここに来た直後、神祇官の人たちにミコと離れ離れにされたでしょ? そのとき『ミコ様からお話があります』って言われて、僕てっきりミコのことかと思って部屋に行ったんだけど、そこにいたのはミコじゃなくて巫女様で……」
『本当ややこしいね』
「巫女様だって初めから分かっていたなら、ミコと別行動なんてしなかったんだよっ? 本当だよ」
『うん、分かったから、ナギ』
これ以上、私が混乱するようなこと言わないでくれるかな。
『それで、イトメくんは……』
「「イトメ?」」
ナギヒコと少年の声がハモる。
あ、好きに呼んでもらって構わないって言ってたから勝手に糸目とか呼んじゃったけど、流石に失礼だったかな。コンプレックスだったらどうしよう。
「イトメとは私のことかい? ふむ、しっかりと特徴を掴んでいる。面白い綽名だ」
「み、ミコ! この人のことも気に入っちゃったの?」
予想に反して満足そうな少年……もといイトメくんと、見当違いな心配をしている我がパートナー。ナギヒコよ、あんたは私があだ名をつけるイコール気に入ったから的な方程式作るのやめてくれないかな。
『ごほん。えっと、イトメくんはどうしてここに来たの? ナギヒコはもう勇者の件については断ったって……』
「ああ、その件について打診しに来たわけじゃないよ、私は。勇者選定は舞女……もう一人の巫女の役割だ。私はそこに関与しないことを決めている」
あ、そうなんだ。てっきり勇者になるまでここから帰さねえぜオラァみたいな流れになるのかと思ってた。秘匿にされてる神子が登場した時点で面倒臭いオーラがプンプン漂っていたから。
でも、そうじゃないとなると……。何だろう、嫌な予感しかしない。
「あなたたちは先程、興味深い話をしていたね。知性のある黒魔獣――この話は、一体誰から聞いたんだい?」
「―――…」
それは、どこか核心を突いた科白だった。
和やかな雰囲気は変わらず、でもイトメくんの目に確かに宿る懐疑の色。何かがさっきまでと違う。もしもここで「勇者様から」などと答えようものならどうなるのか、そんな一抹の不安が過るような質問の仕方だ。
私とナギヒコは押し黙る他ない。
「そうだね、話したくないのならそれでいい。秘密にしたいことの一つや二つ、人間にならあるだろう。舞女もね、私に内密に事を運んでるようなんだよ。酷いと思わないかい? 私だけ仲間外れだ」
「……」
「第二の勇者に先代の勇者殿の弟君であるあなたが選ばれたのは、実は魔力の含有量が基準ではないんだよ。舞女があなたを推したんだ。……どうしてだろうね? 一度も会ったことのないあなたを、何故」
『……ナギヒコ?』
私を抱くナギヒコの手が僅かに震えていることに気がつく。心なしか顔色も悪く、いつもの厚顔がすっかり鳴りを潜めている。イトメくんの話す内容はナギヒコにとって良くないものなのだろうか。
それがどうしてなのか私には分からないけど、咄嗟にナギヒコを守らなければと本能が働いた。
『アー! 空飛ブ絨毯ガアンナトコロニー!』
他人から見れば実に滑稽だっただろう。私は自分のあまりに下手な演技に泣きたくなった。棒読みにも程があるぅぅ!!
しかし。そう、しかし。空飛ぶ絨毯というのが珍しかったのか、私の下手な演技が功を奏したのかイトメくんとついでにツカサちゃんまでもが、私の指差した方向に顔を背けた。
「ふむ。空飛ぶ絨毯……」
自分でやっといて何だけど、あんたたち馬鹿なの? こんな分かりやすい手に引っ掛かるなんて、馬鹿でしょ。本当は馬鹿なんでしょ。
私はその隙に己に眠る数少ない魔力を引っ張り出し、ナギヒコを掴んで窓の外に押しやった。ガラスが割れ、ナギヒコの体は宙に投げ出される。うん、良かったナギヒコ。防御力の高い装備してくれていて。その後をすぐに追い、ナギヒコの手を掴む。
ここは三階だ。いくら硬い装備を身に着けていたって、打ち所が悪ければ死んでしまう可能性だってある。このまま落下すれば無傷では済まないだろう。
えーっと、筋力増強、身体強化、それから……。
「勇者殿の弟ナギヒコ君、それから魔獣ミコ殿。此度は拝顔に預かり光栄だ。故に今だけは見逃してあげよう。そして覚えておくといい。私が神子であることを。現世で唯一、神の声を聞くことができるのだと―――」
それから、部分膨張!
前脚から後脚にかけて張られたモモンガ独特の飛膜を魔力によって膨らませ、それにより重力に従って空中を降下していた私たちの体は、風の抵抗を受けて宙に浮く。どうだ、これぞ私にしかできないモモンガパラシュートだ。うん、部分的に大きくさせているから、傍から見ると顔だけ小さくてとても怖い絵面になるんだけどね。気にしない。
「わぁ。久しぶりだね、ミコのこれ」
『最終奥義だからね。魔力の消費が激しいからあんまり使いたくないんうげぇぇ……』
いつの間にやらナギヒコは平常通りに戻っていた。
後ろを振り返ると窓からイトメが手を振っているのが見える。あいつ絶対ヤバイ奴だ。混ぜるな危険、近づくな危険。イトメなんて呼び捨てで十分だな、うん。
『ナギヒコ、近くの林に不時着……うぷぅぅ……』
ダメだ、久しぶりに魔法なんて使ったから……。吐く、死ぬ、うぇぇ。
窓を割ってきちゃったけど、器物破壊罪とかにならないよね? 指名手配とかされないよね? ねっ?
どうでもいいかもしれない裏設定
③ミコの魔力が魔獣失格なほど低いのは、一年もの間“鎮守の森”に引きこもっていた所為。生まれてすぐに“現世”に堕ちれば、他の魔獣同様に防衛本能的な何かが働いて自然と高い魔力を持てていた。つまり欲望に負けたが最後。
④ミコは魔獣だけどどちらかと言えば人間よりで、森を巣立つのに一年も費やした理由がそれ。前世の記憶持ちな部分はさして関係ない。本能に刻みこまれていた『“現世”への堕とし身』を達成する前に、自分の欲を目覚めさせてしまったからこそ、人よりの思考を持った比較的怠惰な魔獣に。




