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その三

 数日が経ったある日。いつもの通りにエクルスの世話をし、兵士としての訓練を行っていると、姫からの招集がかかった。正装はしなくて良いと言われたので、洗濯してきれいにしてある乗馬服で向かった。

 呼ばれた場所へとたどり着くと、朝霧の中、庶民の格好をしたアリル姫とポリーが待っていて、その後ろにエクルス車があった。エクルスが引く車。つまり馬車だ。ドライバーと二頭のエクルスが待機していた。

「さあ、行くよ」

 車に揺られて一時間ほど。到着したのはレース場だった。もちろんエクルスの。

 ここはアスコルトからそう遠くないレース場、ニルベリンレースコース。しっかりと整備されたトラックコースではなく、元々あった芝の広がる起伏のある土地に柵を打っただけのものになっている。

 あまり規模の大きくない観戦用スタンドの予約エリアに通される。庶民の恰好だけれど、念のためらしい。最上階にあるため、コースの形状を眺められる。初めてのレース場にユークは興味を示す。

「まあ、エクルスレースに興味がなかったんだからその反応も当然よね」

 彼女はもう彼がエクルスレース未経験であることを知っていた。最初聞いたときはひどくおどろいて落ち込んでいたけれど、すぐに気持ちを切り替えていた。今回は勉強のために連れてきたということだ。

「ここはニルベリンレースコース。結構新しく出来たところよ。一周1マイリ7ファロン(約3000m)の左回り」

 スタンドから下を覗くと、今日の開催を楽しみにしている観客たちが大勢いた。簡単な作りのゴール板。その前が一番集まっている。ゴールの瞬間を見たいのだ。もしかすればあの中に隊長がいるのかもしれない。

「これからここで乗ることになるわ」

 レースが始まった。ユークはついでにということで、自分のなけなしの金からエクルス券を買った。どのエクルスが一着で入線するかを当てる、いわゆる単勝馬券というものだ。まだこの時代のエングリスではそれくらいしか種類がなかった。

「よしっ、そこそこっ!」

 最後の直線で姫が叫ぶ。対してユークはただじっと券を握りしめて黙って観戦し続ける。

 コースに広がるエクルスの蹄の響き、鞭の叩く音、観客の歓声。すべてが混ざり合って熱を帯びていった。ある者は賭け事として、ある者はひいきのエクルスや騎手への応援、関係者は勝利の先にある賞金と名誉のため。

 誰もが全力疾走するエルスたちに目が釘付けになっている。エクルスもただひたすらにゴール板を目指し、脚を伸ばしていく。騎手の激励に応えようとしている。

 ユークがこれまでで見たことのない景色がそこにはあり、十分に血をたぎらせた。

「やったっ!」

 姫が手を上げて喜ぶ。見事に的中していた。ここ数レースすべてを的中させていて、上級者であることを示す。ユークはかすったりはするものの、ここまでで一度も的中させることはできなかった。

「姫さま、こうやってお小遣いを増やしていらっしゃるのです」

「なによ、これもちゃんとした資産運用なの」

「よくそこまで当てられますね」

 全滅した券を悲しそうに眺めながらユークが呟く。少なかった金がさらに減ってしまっていた。あまり賭ける気はなかったのに、会場の雰囲気にやられてしまった。

「今日は調子がいいだけよ。でも、ある程度ちゃんとした予想をすれば、確率は上げられるわ。そうね、じゃあ次のレースで考えてみましょう」

 十頭立ての、ちょうどコースを一周する競走だった。出走エクルスの情報が載ってある紙を広げ、レクチャーを始めた。エクルスレースの話をするときの姫はいつも楽しそうにしている。

「下見所でエクルスの状態を確認する人が多いけれど、私はあんまりやらないわ」

「どうしてです? 姫さまであれば、調子の良し悪しなどわかるのでは?」

「明らかにおかしいのはわかるけれど、良いのはいまいちよ。結局、走るときの気分によるから」

 ユークはスタンドを下り、下見所で見、具合の良さそうなのを買っては負けてしまっていた。だからその言葉に強い説得力を感じる。

「ではどうやって予想しているのです?」

「騎手と展開よ」

「どういうことです?」

「各騎手ごとに特性があって、さらにエクルスの特性も考えて予想するのよ。そうすれば有利不利になるエクルスが予想できるの」

 意味がわからないので、視線をあさっての方向へと飛ばしてしまうユーク。見かねた彼女がよりわかりやすく説明をする。紙にペンを走らせ、レース場の簡単な絵を描いた。

「いい? まず一番のエクルスが先頭を取る展開になるわ」

 1と書いた字を絵の中に置く。

「ちょっと待ってください。どうしてそんなことがわかるんですか?」

「紙にこれまでのレースぶりが簡単に載ってあるでしょう? するとこの一番、フラレントはずっと先頭を奪う、逃げのレースをしてきているわ。それで結果も出ている。最近はちょっといまいちだけど」

 その予想に納得がいかず、ユークは腕を組んでしまう。

「でもこれまでがそうだからといって、今回も逃げるとは限らないでしょう?」

「そうね。絶対とは言えないわね。出遅れとかがあるかもしれない。けれどかなりの確率であることは間違いないわ。それの材料にしたのが騎手よ。このヘロルドという騎手は積極的な騎乗が知られているの。今回、このエクルスにこれまでの騎手から乗り変わることになったのだけど、所有者や調教師がどうして依頼を出したと思う?」

「積極性が売りのライダー……絶対に先頭で走って欲しいということですか、それも強気で」

 ここで凄く納得がいき、ぽんと手を叩く。そこまで考えている姫に敬意を示した。彼が思っている以上にレースの予想は難しいものであった。

「じゃあ、この一番を買ってしまえばいいんですね。早速――」

「いいえ、まだよ」

 早足で券を買いに行こうとした彼を止める。急にブレーキを掛けられてしまって、気がそがれてしまった。その様子に侍女も苦笑いを隠せなかった。

「そんな単純なものじゃないわ。確かにヘロルドの逃げは上手いし、勝てるかもしれない。けれど、その確率はかなり低いとみるわ」

「え?」

「だって格好の目標になるわよ。そしてそれを振り切れるほどにフラレントの能力は抜けてないわ。あなたも経験はあるでしょう? 競走などで、自分が先頭を走り続けることと、前に目標がい続けること、どちらが楽? ううん、どちらが勝てることが多い?」

 これまでのことを思い出し、すぐさまに後者であると答えた。前に抜くべき目標がいてくれたほうが、圧倒的に気分が楽になる。逆に先頭を走り続けるのは、具体的な目標を失ってしまって結果的に体力を多く減らしていくことがあった。

「エクルスもそうよ。もっと言えば、競走というものを理解していないからより顕著よ。あ、ちゃんとわかっている仔もいるけどね。それに先頭で走り続けることによって受ける空気抵抗もかなり体力を消耗させるわ。フラレントはそれらをすべて跳ね返せるほどではないの」

「ではどのエクルスを買えば? やはり圧倒的一番人気の三番ですか?」

「色々まだまだあるけど、終わることがないだろうから結論ね。私は五番のアクルトレイダーを買うわ」

「えっ、五番ですか。これってあんまり人気ありませんよ? 近走の成績も優勝がありませんし」

 思い通りの反応に姫がにやりとする。自分の予想に絶対の自信を持っているらしい。コースの絵に5の字を加え、それは1からかなり後方の位置に書いた。

「そうですそうです。このエクルス、後方にいることが多いですし、届きませんよ」

「ふふふ、甘いわね。一番フラレント、ヘロルドの逃げは積極的なのよ。つまり後ろを結構離すかもしれないし、そうでなかったとしても落ち着いたペースにはならないわ。それに圧倒的に一番人気の存在もある。騎手の心理的に、三番オラコロントルテルのエライヒは逃げているフラレントを捕まえに行くわ。強さを見せつける、そういう騎手よ。そして早めの先頭になる。オラコロントルテルの力を信じているからね」

 こくりこくりと頷き、続きを催促する。じわりじわりとエクルスレースにはまりつつある彼をにやにやと見ながら、口を開き続ける。

「確かにそのままオラコロントルテルが一着に入る確率はすごく高いわ。押し切れるだけの力もある。でも、それだと配当がね、すんごく安くて面白みに欠ける。それなら私は後方待機の、そして確実に脚を使うアクルトレイダーを買うの。早め先頭で脚を使い切ったオラコロントルテルを差し切れるかもしれないからね」

 と説明を終えると、彼女は一枚の券を彼に見せつけた。それは紛れもなく五番、アクルトレイダーの券だった。王族だけれど、驚くほどの賭け金ではないのは、お忍びであるからだろう。

 こういう庶民の格好でもこういう予約エリアにいる時点で、忍んでいるとは少し言い難いけれど。とにかく、一応一般の観客には気づかれてはいないようだった。

「姫さま、いつの間に……」

 ポリーが軽く取り乱す。万が一のことを想像してしまったからだ。みんなは姫に対して好印象を抱いているけれど、そうでないものだっているはずだ。もし気づかれてなにかがあれば、ポリーは親友としても侍女として一生後悔することになるだろう。

「大丈夫よ。一般のエリアには行ってないから。私だってちゃんと考えるようになっているの」

 もっと幼い頃はきっと普通に庶民にまぎれて買っていたのだろう。ユークはそれを想像し、さぞ関係者たちが血の引く光景であったと思う。変装はしていただろうけれど、ところどころに現れる変わった雰囲気に、気づいていた者もいただろう。

「それならば……。姫さまは幼い頃、ずっとここで券の購入を教わっていたのですよ、一般の方から」

「ええっ、やっぱり」

「ユーク。そんなことを話している暇はないわ。もうすぐ発走時間よ」

 はっと気づいて走って券売り場へと向かった。そして窓口係の人に購入するものを伝えた。内容はもちろん、

「次のレース、5番、アクルトレイダーを……ええい、ぎりぎりだけど50シュリンで!」

 ユークが二人のいるスタンドに戻ると、すでに各馬はスタート前にいた。一周のレースであるから、スタートはゴール板の前からだ。

(この世界のこの時代にスターティングゲートなどはなく、バリヤー式でもなかった。内から番号順に横並びし、スターターが旗を振りおろしたら一斉にスタートするという原始的な方法だった)

 スターターが旗を振りおろした。ばらつきながらも各エクルスが一斉に走り出した。発走拒否はなく、まず一つの関門を突破したと観客も関係者もほっとする。そうして隊列がどんどんと決まっていく。

 姫の予想通り、逃げる形になったのが一番のフラレント。積極的な騎乗を見せ、後続との差を広げていった。差は三頭分ほど。断然一番人気の三番オラコロントルテルは二番手のエクルスの後ろにつけ、ラチ沿いを快調に進んでいる。そうして五番のアクルトレイダーは中団からやや後方という、普段とあまり変わらない位置で進めていた。

 向正面が丘になっていて、各馬が淡々と駆け上っていく。三コーナーから最終コーナーで下り、直線ではほぼ平坦になっている。距離も一周あるということが全員の頭にあるため、無駄な動きを誰もしなかった。

 レースが動いたのは、四コーナーに入った頃だった。内ラチ沿いに走っていたオラコロントルテルが外に出し、二番手のエクルスと身体を並べ、それからじわりじわりと前に出た。

 積極策が良かったのか、調子が良かったのか。逃げていたフラレントの脚色はまだ衰えていない。それに少々危機感を覚えたのか、捕まえるために早く動き出したのだ。騎手も、このエクルスならば長い直線でも脚がもつと自信を持っているような進出だった。

 最後の直線に入ると、オラコロントルテルは手応えよくフラレントのすぐそばまで接近した。すぐ後ろのプレッシャーを感じたか、フラレントの鞍上が手綱をしごき始め、むちを入れた。

 オラコロントルテルの動きに合わせ、周りも一斉にコーナーの終わりから動き始めていた。仕掛けだしている。けれどアクルトレイダーはコーナーではあまり動かず、直線に入って少しして、ようやく仕掛けたのだった。そのせいで先頭集団から少し離された形になっている。

「ひ、姫さま!」

「大丈夫、まだ直線は長いわ」

 直線の半分近くでついにフラレントの手応えがなくなり、オラコロントルテルが先頭に立った。後続じゃフラレントを飲み込み、次に圧倒的一番人気をも飲もうとしている。けれどなかなか差は縮まらない。後続も速く動きすぎていたのだ、結果的に。

「よしっ!」

 その中でも外からただ一頭脚色が違って伸びてきているのがいた。アクルトレイダーだ。騎手は必死に手綱をしごき、鞭を入れて扶助し続ける。周りに流されず、己の走りに徹したことが優位に働いた。

 一完歩ずつ確実に伸びている。ゴールまで残り半ファロン(約100m)でオラコロントルテルを追っていた後続から抜け出た。だから残すはあと一頭だけ。アクルトレイダーは目標を十分射程距離に入れている。

 一番人気はその人気に違わず能力が抜けていた。普通ならばこのまま完勝になってもおかしくはない。それだけに集団から抜け出せている。

ほんの少しの判断のずれと展開によって勝敗が大きく左右される。

 先頭の脚色は少々鈍り、追うエクルスは鈍らない。より鋭さが増している。だからその差はどんどんと縮まる。ユークは買った券を強く握りしめ、ぐうっと息をつめて応援する。掛けた金額は生活に大きく関わる額だ。

 ゴールはもうすぐそこまで来ている。観客の盛り上がりは地響きのような歓声となって表れ、二頭のエクルスはそれを裂いていく。各騎手も勝利を譲る気はなく、エクルスを押しては鞭を入れて激励し続ける。脚を使い切って苦しいことと、必死過ぎて騎手が修正を忘れているのか、オラコロントルテルはラチへとささる。

 その隙を狙ってアクルトレイダーが一着を狙う。そしてとうとう追い詰めたというところで、ゴール板を過ぎた。オラコロントルテル自身に意地があるかのように首を伸ばし、アクルトレイダーの急追を首差でなんとかしのぎ切っていた。

 面白いレースに観客は沸きに沸いたけれど、その中にはアクルトレイダーの券を買っていた者のため息も混じっていた。ユークもその一人で、へなへなと膝から崩れ落ちてしまう。

「そっ、そんなー」

「うーん、惜しかったわね。読み通りではあったのだけど。オラコロントルテルが予想以上に能力があったってことか」

 冷静に分析するアリル姫。そんなことをする余裕がないユーク。自分の世界に入り込み、彼女はまったくすっからかんになってしまった彼に気を掛けない。ああでもな、こうでもないと色々口に出してレースを振り返る。

 折れてしまったユークにポリーが近づき、ほんの少しだけ金を差し出した。

「これを」

「そんな、とんでもない」

「専属騎手の契約金の少しです。ですからなにも気になさることはありません」

「申し訳ないです……」

 受け取り、ポケットの中へ収める。これくらいあれば一か月はもつ。

 さらに彼女は耳打ちをしてきた。

「姫さま、どうしてあの五番に注目されたと思います?」

「それは話の通りで、唯一差せる可能性があったからでしょう?」

「いいえ、五番の父の名前を見てみてください」

 五番、アクルトレイダーの父を目で探す。するとそこにはヴァークロムと記載されていいた。まさかと察したユークは、さらに三番のオラコロントルテルの父を見てみる。へロルドだった。

「これってまさか……」

「そのまさかです。姫さまは、ヴァークロム産駒を応援したいがために、そのあと押しのために、今回の予想を良い方向にされたのです。表には出していませんけれど、きっとここまで来て一番驚いているのは……姫さまかと」

 知りたくのない話だった。つまり、賭けに勝つことよりも、ヴァークロム産駒がヘロルド産駒に勝つことのほうを重視していた。だからかなりポジティブに予想をしていて、ユークは気づかずそれに乗っかってしまっていたのだ。

「私のエクルス券術は素晴らしいー!」

 予想をした本人は外れたのに両手を上げて自画自賛している。ポリーに聞かされてしまうと、その姿はどうにもなにかを隠しているような大げさな仕草に見えた。

「券を当てるならば、自分なりの予想方法を確立するのがきっとよろしいですよ」

 すると彼女は当たりの券を彼の前に出し、にっこり笑ってみせた。圧倒的一番人気だけに、賭けていた金額はかなり大きいもので、ユークは目をぱちくりとしてしまう。

「私の全財産に近いものです。ふふ、かなりの自信がなければこんなことはしませんけれど」

「ど、どこにそんな自信が?」

「確かに姫さまの言う通りの展開にはなると私も思いました。けれど、一つ、足りない要素があったのです」

「それは?」

「前が残りやすい芝だったということです。今日の最初のレースから、前のエクルスが良く残っていました。かなり状態が良くて、減速しにくいのでしょうね」

「じゃああの早めに捕まえに行ったのも……」

 リルはこくりと頷いた。勘の良いユークを褒めるよう、歯を見せて。

「着差もあまりなく、ぎりぎりに見えますが、あれは騎手の狙い通りだったということです」

 エクレスレースは、かなり奥の深いものだと痛感するユークであった。くしゃくしゃになってしまった外れ券たちは、高くついたけれど観戦料と授業料ということにしておいた。そうでなければ悔しくて悲しくて辛いものにしかならない。

 そういう風に次のレースへと切り替えようとしていると、はっとしてリルが姫の肩を叩いた。最初は首を傾げていたけれど、すぐに彼女もなにかに気づき、慌てて言った。

「忘れてた! ユーク! あなた次のレースに出るのよ!」

 いきなりすぎる発言に思考が停止していると、ポリーに腕を引っ張られてスタンドから連行されてしまう。そうして騎手用の小屋へと連れて来られると、そこで赤に白のラインが入っているシャツ(勝負服)と、それに合わせた同じく赤色のヘルメットが渡された。

「これに着替えてください。外で待っています」

 ユークは急いでそれに着替える。乗馬服を着ていて良かった。ズボンとブーツは他人のものではしっくりと来ないからだ。ヘルメットをかぶり、ひもを締めて表へと出る。するとさらに鞍も渡された。

 そして彼女の先導に従い、検量を終わらせて下見所へと。そこではすでに出走するエクルスが周回していた。中へと入り、今回乗るエクルスの調教師の元へとたどり着いた。

「遅れて、すいません……」

「お、君か。うわさの変則乗りをする少年は。ポリーちゃんもお疲れさま」

 他の調教師が年齢を多く重ねている風貌に対して、その調教師はとても若かった。もちろんユークより年上であり、三十歳くらいに見える。彼は握手のために手を差し伸べ、自己紹介した。

「俺はスミス。ロバル・スミスだ。よろしく」

 ユークは彼の手を握り、自己紹介を返す。

「バロチルーです、ユーク・バロチルー。よろしくお願いいたします」

「バロチルー。もしかしてカラカコスの人かい? 友人にもいてね」

 握手と自己紹介が終わると、スミスは一頭のエクルスを指差した。鹿毛の若いエクルスだった。手入れをちゃんとされていることがわかる毛づやで、リズムよく歩いていた。

 ユークが持ってきた鞍を厩務員が取りに来て、エクルスを止まらせて着けた。

「三歳オスのカーラス。姫さまが練習用にと用意してくださった。見てくれは良いが、正直このメンバーで能力は落ちる。話は聞いているから、空気だけを感じてきてくれ」

「そういうことよ」

 庶民の格好の背の低い女の子が一人、三人に近づいて話しかけてきた。正体はもちろん、

「姫さまっ」

 アリル姫である。

 周りに聞こえないようにポリーが息を多く混ぜて言った。彼女の行動力がこうして侍女をはらはらさせる。スミスはいつものことで気にしていない。ちなみに彼女が離れている間は、別の者に色々とお願いをしていた。でもここにいるということは、その者も今とても焦って震えてしまっているだろう。

「大丈夫、ばれてないし、すぐに戻るわ」

「でも姫さまのエクルスとわかっているでしょう?」

 ユークの疑問にスミスが答えた。

「名義を変えているんだ。適当な名前をでっち上げてね。所有者が姫さまだとわかると、なにかあるかもしれないということで。姫さまはとても勝負に関して真剣でね、そういうのが起きないようにこうしているんだ。だから王族の中でも姫さまだけがエクルスを所有していないということになってる」

「そう、正面から正々堂々と勝ってこそ、そのエクルスの価値も上がるの。トゥルグレッドの改良という意味でも、真の良血が残るべき」

 歩いているカーラスに目をやり、姫は良い感想をスミスに伝える。

「相変わらず良い仕上げね。さすがスミス先生。私のわがままを通してくれて、ありがとうございます」

「お褒めに預かり光栄です。私自身、例のバロチルー乗りには興味がありますから、とても楽しみですよ」

 皮肉のようにも聞こえてしまうことを本人も気づいてしまって、ユークにフォローの言葉を入れる。

「もちろん悪い意味じゃないよ。俺は新しいもの好きだし、なにより姫さまが選んだ専属騎手ファーストライダーだ。すごくわくわくしてるんだ」

 ポリーが一本の鞭をユークに差し出した。とてもきれいな、特注で作らせたかのような新品の鞭だ。それを受け取ると、すごくしっくりとくる握り具合で、振ればびゅんと優しさを持ちながらしなった。

「これは?」

「姫さまがオーダーメイドで作らせた鞭です。ヴァークロム産駒への使用を考えたものになっております」

「名付けてヴァークロムの鞭。ヴァークロム産駒は総じて鞭に敏感なところがあるから、それを考えて作ってあるわ。あと抜けたヴァークロムの鬣もちょっと混ぜてあるの。お守りのようなものね。いい? 勝利も大切だけど、ちゃんと無事に帰ってくるのが一番だからね」

 指を立てて専属騎手に厳命する。嘘偽りのない雰囲気に、ユークは心を引き締める。運によるところも多いけれど、悪いイメージを持てばそれに引っ張られてしまう。彼は姫ではなく、一人の雇主として敬意を払う。

「ありがとうございます。勝ってここに帰ってきます」

 コース入場が近づき、ユークはスミスの手を借りてカーラスに跨る。もちろん、その前に引いていた厩務員に頭を下げてからだ。相手はそうされたことがないのか、ぎこちなくそれに返していた。

「その強気、よろしい。じゃあ、私はスタンドで観ているから」

「あ、あの、作戦などは……」

「スミス先生に任せてあるわ。そちらに従って」

 帰っていくと、ポリーもついて行った。そうして入場までまだしばらくあるから、周回しつつスミスと話をする。

「良い鞍はまりだ。カーラスも気分良く歩けている」

「ありがとうございます」

「ま、気楽にいこう。指示は簡単だ。集団の前目につけてくれ。そして直線に入ってもすぐに仕掛けず、残り1と半ファロンの少し前で頼む。包まれて押せないかもしれんが、それはまあ勉強ということにする。けど俺だって調教師だ。なるべく上の着順を期待しているよ」

「はい、前目で残り1と半ファロンで仕掛ける。進路も確保」

「その通り。健闘を祈る。エクルスレースを肌で感じてきてくれ」

 そうして彼と別れ、本コースへと入場した。大勢の観客の目がユークに注がれている。新人騎手を誰もが興味を持っているようだ。歓声は小さいものの、静かなる重圧が掛けられてユークは少し怯えてしまう。

「うっ、思っていた以上だ……」

「カーラスに不安を与えないで。コースの上ではバロチルーさんしか頼れないのです」

 厩務員からの指摘を受け、その通りだと気を確かに持つ。エクルスは鞍上の気持ちを敏感に察知する。彼が不安ならばエクルスもまた不安になる。そしてそれは間違いなくレースに向けて良い要素にはならない。

「ではお願いします」

 ひき紐を外されると、準備運動のためのキャンターをする。このレースは1マイリ3ファロン(約2200m)。ニコーナーに合流するように延びている直線コースからスタートだった。そこへ向かうまでキャンターをするけれど、ユークがバロチルー乗りをすると観客の反応が凄まじいものになった。

「気にしない気にしない。これがより良いんだから。そう思うだろ、君も」

 カーラスは気持ちよくキャンターし、そうしてスタート地点へとたどり着く。あまりに軽い走りをするので、ユークは聞かされていた話とのギャップを感じた。

到着して止めると、先に着いていた騎手たちや、あとからやって来た騎手たちにユークは声を掛けられる。

 それはすべて嘲笑だった。

「おいお前、それはなんだ? その変な騎乗はよ」

「こいつ、名前から多分、カラカコスのやつだぜ。おい、お前。カラカコスではそんな気持ちの悪い乗り方をするのかよ」

「まったく、エングリスの神聖なるエクルスレースにカラカコスのやつなんか入れてよ」

「邪魔だけはするなよ」

 それらをすべて無視し、とにかくカーラスへ気持ちが伝わらないことだけを注意する。ここなければ、すでに殴りにかかっているところだ。しかしその鬱憤はレースの勝利という形で表すのが相応しい。

「えっと、このレースは七頭立てか。カーラスは三番。一番人気はあの、五番か」

 スタート前で待ちながら、ユークは各エクルスの様子を確認する。そうしてみて、ユークは希望を乗せて、カーラスにも十分勝機があるとした。このエクルスの中でも、一番競争に興味を抱いているのが、カーラス。その強みがあればと。

 ついにスタートの準備が始まった。スターターが旗を振った。遠く離れたスタンドから緊張感が飛んできて、それはユークにもぶつけられる。目を細めてみても、スタンドの上にいる姫やリル、スミスの姿は確認できなかった。

 所定の場所に、上手くその場に留まるように操作しながら発走を待つ。くるくる回ったりしながら、とにかくフライングなどの発走ミスがないことに気をつける。すべてのエクルスの発走準備が整うのを見計らい、ユークはカーラスの顔を前に向けた。

 旗が振りおろされた。一斉に飛び出す。カーラスも前に向けたことが功を制し、良いスタートを切った。そうしてすぐに腰を上げてバロチルー乗りへと姿勢を変え、オーダー通りの動きをこなそうとする。

「ちょっと良過ぎたかも」

 このままでは逃げる形になってしまうので、ユークはわずかにカーラスを抑える。そうして前を譲る構えを見せた。けれどどうにも他の騎手は行こうとしない。全員がユークを目標にし、わざわざ潰そうと考えているらしい。

「先生、ごめんなさい」

 謝りながらも覚悟を決め、ユークは先頭に立って内ラチ沿いの最短距離、経済コースを選んだ。残りの六頭は離して逃げさせることを良しとせず、すぐ後ろにつけて圧力をかけ続けている。

「すごい力を感じる。この仔はこういうのに慣れてないようだし、どうするっ?」

 けれどここからさらに下げてしまうと、後ろと接触しかねない。それでは事故につながる。ユークにとって腹の立つ連中だけれど、そんなことは自分の誇りにも、そして姫たちにも傷がついてしまう。

「かかかっ、そんなに俺たちにけつ見せてよ、掘られたいのかお前!」

「男にけつ見せる趣味があるなんて、カラカコスはホモ野郎か!」

 そんな言葉に苛立つよりも、カーラスにとっての最善を模索し続けるユーク。ペースや息の使い方を必死で感じ取ろうとしている。スタート用の直線は終わり、向正面へと入っていた。

「考えろ、姫さまのように展開を。ポリーさんのように芝を。ナルのように勝つ方法を。この逃げる形からどうすれば勝利をもぎ取れるかを」

 咄嗟に思いつき、彼はペースを上げた。そうして後ろとの差を広げようとした。股の間から後ろを確認すると、後ろは追いかけて来ず、差が少しできた。上り坂であることと、オーバーペースと思い、ついてこないのだろう。むしろ後続はこれを狙っていたと言える。

「ちょっと速くても、これのほうがカーラスには楽なはず」

 エクルスレースのペースがまだいまいち把握できていないユーク。けれど後ろから圧力を掛けられ続けられるよりかはこの形を選んだ。カーラスは坂を上っていく。

「見ていたのと走ったのでは違うな。結構な丘だ」

 そろそろ三コーナーへと差し掛かる。ここから直線までずっと下り坂になる。スミスはぎりぎりまで仕掛けを待てと言っていた。ユークはそのことを忘れていない。

 特に道中のペースを操作することもなく、下り始める。後続の蹄の音がいまいち聞こえないことに気づき、もう一度確認してみる。すると差はさっきよりも広がってしまっていた。

「やり過ぎたかも。でも、これだけ離してくれたなら……殴られる覚悟はあるよっ!」

 ぐぐっと体重を掛け、コーナーを曲がっていく。思ったよりも上手くいかず、少し膨れる度に調整を繰り返す。コーナー途中にユークはなるべくペースを抑え、息を入れる。ここでわざわざ加速してくる相手はいない。

 下ることでのオーバーペースを後続は気にしているようだった。あの中には一番人気もいるから、誰もユークとカーラスを気にしていない。そこに付け入る隙がある。

「しまった、落とし過ぎた?」

 けれど後続との差は縮まっていない。彼自身が心配になるほど落としたのに、後ろはけん制し合っている。すべては一番人気の動き次第というレースをしている。

「ポリーさんは前も残りやすいって言っていて、一番人気もオラコロントルテルのような動きをしてこない。この仔だってやれる、なら強気に!」

 四コーナーに入っても動いて来なかった。だからユークは少しカーラスにハミを掛け、ペースを上げた。後ろがやり合っている間にぎりぎりのセーフティーリードを作る気だ。

 下りで勢いをつけ、そのままに直線へと入っていく。やはりコーナーで横にかかる力はこれまでよりあった。ユークは必死で体重を掛け、手綱を操作し、なるべくコースロスをなくそうと操作した。初騎乗の割にかなり上手く行けたのは、これまでの経験のおかげだった。

 まだ余裕だと思い込んでいるのか、ユークの耳にはカーラスの蹄の音しか聞こえない。バロチルー乗りのおかげか、スミスの仕上げのおかげか、カーラスはまだ手ごたえを十分に残していた。

「このレースがどれほどのものか知らないけど、勝てればナルの父さんの血が広がるかもしれないんでしょ!」

 まだ軽く仕掛けたくらいで、スミスの言っていた場所まで手綱を持ったまま動かない。カーラスはしっかりハミを取って前へと進んでいく。特異なバロチルー乗りを間近で見、観衆はひどくざわついている。

 スミスの発言からして、あまり脚を長く使えるわけではなさそう。その一瞬の伸びでどこまでリードを保ち、ゴールへと飛び込めるかだ。だからより一層仕掛けるタイミングがシビアになる。

 残り一ファロンと半分。ついにユークは鞭を抜き、カーラスを一叩きした。そうして手綱をしごき始めて押していく。より身体を伸ばして一着へと近づけるための扶助をする。

歓声や後続の脚色など気にしてはいられなかった。とにかく必死に押し続ける。

 ゴール板までの距離がすごく遠く感じられた。押しても押してもまったく縮まないような感覚すら覚える。リズムに合わせて手綱を動かし、カーラスの身体が伸縮した時を狙って鞭を打つ。

 気にしていなかった。そんなことに頭を使っていたくはなかった。しかしそんな彼の感覚に押し入る蹄の響きが後ろから。拒みたくてもがんがんと頭を打ってくる。

「うっ、なんだこれ」

 彼は戦場を知らない。けれどきっとこれに似ているのだと直感が示す。飲み込まれれば殺されてしまうような殺気がすべて一人と一頭に注がれている。ここから逃れろと本能が叫ぶ。恐怖に引っ張られる。フォームが崩れ始める。

 しかしカーラスが気弱になっていないことに気づく。初めて経験する展開でも己の力をすべて出そうとしている。息遣いは力強く、地面を叩きつける脚に迷いがない。

一瞬でも折れかけた自分を恥じようとして、

「そんなのはあとだ!」

 再び力強く押す。ゴール板はすぐそこだ。勝ちたい気持ちはもちろんある。けれどそんなことを考えている場合ではない。あらゆる思考は今いらない。ただ目の前のことを必死でこなし、結果を受け取るだけだ。

「ナルと、ナルィルィスと、カラカコスの誇りを僕に!」

 ぐうっとこれまでになく身体が伸びた。なぜだかはわからない。けれどその一番伸びたところでゴールを迎えていた。手応えがあったユークはほっとして前を見る。

 しかしそこには一頭のエクルスの後姿があった。勝負服の柄からして、一番人気の五番だった。そのエクルスの騎手は鞭を振り上げ、観客にアピールしている。そこでようやくユークは、自分たちが負けてしまったことに気づいた。

「差されていたのか……」

 ユークは減速させ、それから調教師の待つ広場へと戻った。他のエクルス、騎手たちとあまり顔を合わせたくなかったからわざと遅れる。着順ボックスの二着の所が空けられていて、そこにユークとカーラスが誘導された。

 厩務員がひき紐をつけ、その場から動かないようにする。そうしてユークは降りた。

「ごめんなさい、オーダーを守れなかったです」

「押し出されたなあ。まあ、できる範囲で頑張ってくれた。二着は初めてなんだ、こいつは」

 悔やんでいるユークの肩を叩き、奥の小屋を指差す。検量所だ。

「ほら、検量。話は終わってからだ。姫さまもいらっしゃるから」

 エクルスはレースで決められた重さを背負わなければならない。ちゃんと着替えてから下見所へ行く前にユークは量っていて、レース後にもなにか不正がないことを確かめるためにもう一度量る。

「127ポルド(約58キログラム)。合格」

 ヘルメットは脱ぎ、カーラスから外した鞍を持ったままに計測器に乗る。するとちゃんとレース前との数値と変わらず、問題ないと判断された。これでカーラスはこの競争で二着になったことがほぼ確定された。

「君、あの三番のエクルスのライダー?」

 声を掛けてきたのは、あの一着になった五番の騎手だった。確かあのオラコロントルテルにも乗っていた、エライヒだとユークは思い出す。ユークより年上、けれどまだまだ二十代前半の笑顔が似合う青年だった。顔や勝負服をキックバックで少し汚していた。

「そうです」

 またばかにされると思い、あまり口数を多くはしたくなかった。

「これまでどこで乗っていたの?」

「いえ、今のが初めてです」

「そうか、やっぱり……とんでもないね! なんとま! だよ!」

 エライヒがぽんぽんと背中を叩く。けれどそれにはどこにも悪意がなく、ただ感激のあまりに出てきてしまったものだとは、ユークにもわかる。

「な、なんとま……」

「すごいってことさ。あの乗り方もイカしてたよ。見てたけどね、いつものあのエクルスと走りが違ったよ。俺はエライヒ、君は?」

「バロチルーです」

「バロチルー、バロチルー、バロチルー。こうやって三回くらい唱えないと覚えられないんだ、俺」

「は、はあ……」

 優勝者の表彰式があるのだろう、エライヒは手を挙げて一言を彼に残して去っていった。

「今度も負けないよ!」

 彼の向かった先は人が大勢いて、身体から蒸気を発しているエクルスが立っていた。自身が勝利したことを知っているかのように凛とエクルスは瞳を強くしている。勝者だけが味わうことができる輝きを感じ、ユークは手を強く握った。

 表に出ると、スミスに加えて姫とポリーがいた。カーラスはまだ完全に息が戻りきっていなかった。

「よくやったわ。大健闘よ」

「ありがとうございます」

「ん? 顔が冴えないわね?」

 色々な思いが顔に出てしまっていた。それを姫は心配そうに近くで覗いてくるので、咄嗟に彼は離れた。庶民の格好をしていても、隠せない彼女の可愛らしさがそこにはある。

いや、ユークはエングリスの兵士として、主君である姫にそう思うことがいけないのだと戒める。

「先生のオーダーを守れなかったですし、そして勝てませんでした。申し訳ありません」

「まあオーダーを守れなかったけど、守ろうとしているところはわかったわよ。あそこまで周りを行かせようとしてね。最初から無視しているならともかく、あれなら仕方がないわ。むしろよく目標にされながら積極的に乗ったわ。そのファイトが騎手には必要よ」

 そんな風に言われることの方がより辛かった。騎乗ぶりを振り返り、あのとき、このとき、と色々考えては後悔してしまう。そういう暗い雰囲気を感じたか、姫が返されていたヴァークロムの鞭を彼の眼前で振った。

「うじうじしない! 確かに反省は必要だけど、そんなことをいつまでも引っ張らない。エクルスレースは負けることの方が遥かに多いのよ」

「その通りだ。俺だって数え切れないくらいに負けてきているんだから」

「ペースの判断とか勝負勘なんてのが最初からあるわけないの。ほら、これからに期待しているんだから、専属騎手ファーストジョッキー

 あのエライヒもきっと数え切れないくらいに負けてきて、今の技術と勝利を得ている。そう考えるとユークはちょっとだけ気持ちが楽になり、そうしてこれからのことをお願いするために深く頭を三人に下げた。

「絶対に、絶対にトップライダーになります。これからも、よろしくお願いいたします!」

 ようやく息が整ったカーラスがいなないた。あまりにタイミングが合っていたので、みんな思わず笑みがこぼれてしまう。

 今日はそのあと、ユークの騎乗はなかった。彼は券を買うことはなく、スタンドから熱心にレースの動きを見て研究をし始めた。立派な兵士として戦場に立つことだけではなく、また新しい目標のために真っ直ぐになった。

 すべてのレースが終わると、すっかりレース場は西日に照らされていた。黄金に輝く芝が、たまの風に揺られてより光を放つ。観客たちは色々な表情を滲ませながら各々帰っていく。

「バンベリーはいつあるのですか?」

「もう少し先だけど」

 帰りの馬車の中、ユークは姫に尋ねた。

「ぜひ観戦したいです。一流が集まるのですよね?」

「なに言ってるの。出るのよ、アスルコートで」

「え?」

 姫の隣に座っていたポリーが呆れている。

「姫さま、まだ伝えていなかったのですか?」

「いやー忘れちゃってた」

 軽く彼女は言っているけれど、まったくそんな程度で言い放てるものではなかった。エクルスレースを知ってしまったユークにとって、それはとても全身に冷や汗をかかせる。

「だからそれまでになんとか私もエクルスを用意するから、多くの経験を積んでもらうわよ。仲の良い所有者のも回してもらうから。バンベリーが行われるイープムを中心にね」

 アスコルトのある州の隣の州シュレーにイープムはある。移動時間も今回よりかかる。こういう風にスケジュールを組まれてしまうと、兵士としての仕事はかなり少なくなる。アスコルト長はその辺りを考えてくれるだろうけれど。

 アスコルトに到着し、ユークはナルたちの待つ厩へと帰った。陽はもう眠る寸前になっていて、中はもう暗くなっていた。

「ただいまー」

 各馬房を見回る。代わりの者はちゃんと作業をしてくれたらしく、寝藁もきれいにされていた。ゆっくりと寝ている仔がほとんど。けれど一頭だけ彼をじっと待っていて、窓を開けると顔を伸ばした。

「うわっ、ナル」

 彼はとても走りたがりそうに前足を何度が寝藁に叩きつける。なだめることを諦め、ユークは出して装備を着ける。厩の壁を利用して跨り、いつもの丘へと移動した。

 丘には夜風が吹いていた。目を凝らせば、うっすらと前が確認できるくらいの明るさ。ナルにははっきりと見えているのか、躊躇なくギャロップをし始めた。

「うわっ」

 振り落とされないようすぐに姿勢を作る。怖さを覚えるので、腰は浮かさずそのままに。そうして満足するのを待とうとした。

「わ、わかったよ」

 するとナルは彼を無理矢理に振り落とそうとした。適当にしているのが気に入らないらしい。腰を上げていつものバロチルー乗りをすれば、すぐに落ち着いて速度を速めていった。

「どこまで行くの?」

 ナルはまるで決められたコースがあるかのように、見えないラチがあるかのように丘を大きく駆けていく。勝手にコーナーを曲がり、その時にユークが操作をしないとわざとらしく外へ膨らんで行ったりもした。

 夜の丘を走り続け、四回目のコーナーを曲がり終わればナルが自らハミを取った。ユークは普段と違う行動に首を傾げる。するとナルは首を大きく振って不服を表す。だから彼は押し始めた。

 首を低くし、地面を這うようなフォームでナルは伸びる。そして騎手に気づかれないくらいに上手く手前を変える。脚色はまったく衰えない。

種となったのに彼は自分の体型を維持するように動き、餌も制限している。そのおかげかあの現役のカーラスよりも力強く前へ進む。

 前にうっすらと勝手に走り始めた地点が見える。きっとあれがゴールであるのだと思い、必死に推し続ける。姫から渡されていたヴァークロムの鞭を振るう。

 するとこれまでよりも加速し、どこまでも飛んでいきそうな矢のようにゴールへと飛び込んだ。彼はとても頭が良く、ゴールを過ぎるとすぐにしぼっていた耳を立て、減速した。

「ナル、レースを教えてくれたのか?」

 完全に止まり、その質問にナルは目で答えていた。帰ってきた彼のことを察し、思いついたのだろう。コーナーの曲がり方や、直線での仕掛けのタイミングなどを自分なりに彼へと伝えたかったのだ。

 ナルは大きくいなないた。そしてユークを乗せたままに後ろ足だけで立ち上がる。尋常ではない腰の強さを見せつけ、彼を激励するようだった。

「ああ、わかった。わからないことがあれば、お前にも訊くよ」

 丘向こうの低い位置に月が、弦月があった。ユークとナルはしばらくそれを見続けた。あの方角にバンベリーを行うイープムがある。大きなコースなので、きっとナルも走ったことがある。

 少し息を整えると、またナルは走り出した。久しぶりにここまで長い距離を走ったからか、二週目はたまにバランスを崩すところがあった。けれどそれをなんとかユークはできる限り立て直す。

 その晩、ユークはナルに合格点をもらえるまで、ずっとエクルスレースの特訓をしたのだった。疲労も空腹も眠気も忘れ、延々と手綱と己の重心移動に気を配り続けた。

 一度だけだけれど、押しながらコーナーをきれいに曲がることができた。まったく膨らむことなく、速度が落ちずに回りきれた。

 感動してナルの首筋を撫でれば、彼も満更ではない表情をする。

 いずれエクルスレース界に革命を起こすであろう姫さまの専属騎手は、こうして見知らなかったエクルスレースに夢中になっていったのだった。

 穏やかになったとはいえ、まだこの世界は戦乱の火種があちこちにある。けれど今はそれを忘れて彼は草原を走り続けるのだ。


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