その二
「おい、ユーク! ユーク・バロチルーはおるか!」
ナルに威嚇されたあの隊長が、慌てた様子で声を上げていた。その声がまだ陽が上らない朝の静寂を乱す。厩でエクルスたちの寝藁を取り換えていたユークはその声に気づき、作業を中断し、身体に付いた藁を叩きながら表に出た。
「おお、やはりここか!」
上官に敬意を払うため、ユークはぴしりと姿勢を整え、右手の指をすべて合わせて彼に手のひらを見せた。ここの敬礼だ。
「うむ、結構」
上官は答礼したが、すぐに慌てて彼の腕を取った。
「そうではない、すぐに来い!」
「ちょっ、ちょっと待ってください。寝藁を取り換えている途中で……」
「そんなことはどうでも良いのだ!」
「どっ、どうでもいいってそんな、汚いベッドで寝たくないでしょう、隊長もっ」
ぐいっと力強く引っ張られることに抵抗する。しかし小柄なユークよりも圧倒的に大柄隊長の力にはなかなか抗えない。
「それは別の者を呼ぶ! お前を呼んでいるのは、アスコルト長様なのだ!」
このアスコルトの兵士たちの最高責任者、それがアスコルト長という役職だった。その名を聞き、ユークは事の重大さに気づいてひどく焦って走り始めた。
隊長の案内に従い、とにかく脚を回した。
「お前、なにかしたのか!?」
「いっ、いえっ! 僕はなにも!」
「思い出せ直々の呼び出しだ、絶対になにかある!」
あれこれとこれまでのことを思い出し、適当に思いついたことを漏らした。
「ナルで誰かが乗ったエクルスを抜きました……あの丘で」
数日前のこと、いつものように芝の丘でナルを走らせていると、いきなり覆面で顔を隠した男(体格から推測)と、その愛馬であろうエクルスが現れた。そしてユークとナルを追い抜いた。
挑まれていると感じた一人と一頭は、無意識に追いかけてしまった。
相手は速く、ユークは試行錯誤してきたことを活かして、ナルを押し(追っ)た。
すればナルも往年の走りを取り戻したかのように一完歩ずつ前に迫り、やがて抜き去ったのだった。勝利を確信したユークは鞭を掲げて抜き去った相手に勝ち誇る。
すると相手はエクルスを止め、またどこかへと走り去っていったのだった。
「お前、それ相手がまさか……」
「そうかもしれないです……っ」
「なんでそんなことをしたんだ!!」
「だっ、だっていきなり前を走られたら、抜きたくもなりますよ!」
「ええい、ライダーのようなことを言いよって!」
アスコルト長の待つ部屋の前にたどり着いた頃には、二人とも息が上がってしまっていた。だから扉をノックする前に深呼吸し、息と気持ちを整える。
ユークはもう嫌な未来しか待っていないと感じ、全身冷や汗まみれだった。運が良ければ不行跡除隊、悪ければ投獄、さらには処刑。もうすぐにでも逃げ出したいという気持ちがはやり、失神しそうになっていた。
「失礼します。アスコルト長殿、ユーク・バロチルーを連れてまいりました」
ノックしてから隊長が言う。心の準備が終わっていないユークは内心、なにをしてくれているのだという風に悪態をついた。
「うむ、入れ」
扉を開けて部屋に入ると、立派なひげを蓄えたアスコルト長が立派な装飾のついた正装で待っていた。ぷかぷかとパイプをふかしていて、その香りが部屋に広がっていた。
ユークは震える手で敬礼し、アスコルト長は答礼して言った。
「うむ、楽にしてよい」
隊長はその通りにしたけれど、ユークにできるはずはなかった。その様子にアスコルト長は首を傾げながらも、尋ねることはしなかった。
「ああ、君はもうよい。ご苦労であった、こんな早朝から」
隊長が出ていった。部屋にはユーク一人だけになる。出ていく間際、隊長は彼の肩に手を置き、神妙な顔をしていった。だから余計に不安にもなる。
「さて、適当な話をしても無駄であるから、さっそく本題へと入らせてもらおう」
あの丘でのことではないようにと、ユークはカラカコスとエングリスの神にただ祈る。二柱の神の力ならば、きっと大丈夫であると信じるしかなかった。
けれどそんな罰当たりなことをしてしまったのが良くなかった。
「私と一緒にウィンデイサー城へと行ってもらう」
あの丘で抜いたのは、軍の関係者ではなく、さらに雲の上のような存在の王族の誰かであったのだ。覆面をしていたのも当然だ。でなければ、王族の居城の一つであるウィンデイサー城に召喚されることなどない。
隊長に指摘されるくらいの、妙な賢しさがあるユークにはもう実質死刑宣告としか思えなかった。だからもう精神が我慢できず、とうとうぷっつり切れてその場で気を失って倒れてしまうのだった。
「君っ! 君っ!」
アスコルト長の呼びかけがぼんやりと耳に入っている。けれどそれはどんどんと遠くなり、そして最後に待っているであろう景色を振り払うかのように、完全に意識をなくすのだった。
ウィンデイサー城。陽は完全に上りきり、昼へと近づいていた頃。意識を取り戻したユークはお手伝いさんにされるがままに髪や服装を整えられ、フロックのデザインになっている紺色の軍服を着、王族の前へと連れてこられた。
侍女などお付の者が並ぶ中、立派な椅子に座って待っていた王族は女の子だった。ユークは当然、彼女のことを知っている。
エングリスの現国王の娘、つまり姫である、アリルケイト・ステライ・エングリス。通称、アリル姫だった。年齢は十六歳になる。とても可愛らしい顔立ちの少女で、煌びやかなドレスにも負けていない。国民からの人気も高い。
ユークもその愛らしさと伝え聞く振る舞いから、敬意としての好意を抱いていた。
「そなたがユーク・バロチルーであるか?」
がたがたと震えながら、ユークは敬礼をして弱々しく答えた。
「はい、間違いありません……私がユーク・バロチルーでございます」
「ほう」
その意味あり気な声の漏れが、またユークを失神手前までに連れていった。しかしこんなところでそうするわけにはいかない。ぎりぎりの精神で耐えに耐える。
「今日はそなたに用があり、私が呼んだ。来てくれて感謝するぞ」
「ありがたき幸せ……」
「そなたのことを色々と訊いてみたいところではあるが、それはのちのこととする。今回そなたを呼んだのは……数日前のことだが、アスコルトの丘で一頭のエクルスとともに駆けておったのは、そなたで間違いはないか? あの速さはトゥルグレッドかの、多分」
間違いなかった。
ここで否定しようがしまいがどちらにせよひどい未来なので、もうユークは観念して重く頷いて肯定した。死ぬ前に一度でもカラカコスの地を踏んでみたかったと、見知らぬも懐かしい土地へと思いを馳せる。
アリル姫は年齢の割には低く落ち着いた声をしていた。振る舞いも彼が聞いていたように気品にあふれて優雅、けれどその奥に王族としての力強さが見え隠れしていた。
「ほう。では、あそこで競ってきたエクルスを追い抜いたことも間違いではないな?」
「その通りでございます……」
どちらにせよ処刑なのだ。ならばすぐに行って欲しいと直訴したくなるくらい、ユークはもうひどく心の中をぐしゃぐしゃにしていた。
「そうかそうか。ならば、やはり決まりじゃな。ユーク・バロチルー。そなたを――」
ようやくやって来た死刑宣告に、彼は走馬灯を見る。生まれてからこれまでに様々なことがあった。
カラカコス人の父とエングリス人の母の間に生まれ、大きな病気もけがもなく順調に育ち、友達にも恵まれ、父親の影響でエクルスの近くで過ごし、国の役に立ちたいと思い立って兵士になり、厳しい訓練の末にアスコルトの所属になり、軍馬たちと触れ合い、仲間と上手くやり、そして色々と数えきれないくらいの思い出がよみがえった。
ちょっと後悔しているのは、実際に戦場に行ったことがないことと、残されてしまう父と母、友達みんな、そしてアスコルトのエクルスたち。
ユークはまぶたを閉じ、みっともなくもあがきたい気持ちを必死で押さえて続きの言葉を待った。
アリル姫は彼に言った。
「私専属のエクルスライダーに任命する」
彼女が言い終わると、その場にしいんとした空気が流れた。
ゆっくりとまぶたを開いたユークは、彼女の言葉の意味がわからず首を傾げてしまう。
もう一度、姫は彼に言った。今度はよりはっきりと。
「私専属のエクルスライダーに任命する。つまり、私のエクルスに乗り、エクルスレースに出てもらう」
「え、あの、それはエンデュランスでしょうか……?」
エンデュランスというのは馬術競技の一つで、かなりの長距離を走破するもの。示した通りに馬術の一つであるため、それならばユークも何度か経験があった。技術を買われて各兵団対抗のものに駆り出されたことがある。
けれど明らかに姫が差しているものはそうではなかった。
「なにを言っている。エクルスレースなのだから、エンデュランスなどではない。トゥルグレッドを使った、あのレースのことだ。そろそろバンベリーもあるではないか。その専属騎手に任命すると言ったのだ」
隊長が夢中になっている、まさにそのものだった。姫は呑み込みが悪い彼に呆れているよう。
しかしその発言に驚いたのはユークだけではなかった。アスコルト長もそうであるし、周りの者たちも知らされていなかったらしい。一人の貴族の男が慌ててそばによって苦言を呈した。
「姫さま、なにをおっしゃっているのです。専属騎手などと……」
「なにか悪いことでも?」
「バロチルーという名、読みをエングリスのものに変えてありますが、あれはカラカコスの血をひくものですぞ。綴りをご覧ください。そんな者が姫さまのエクルスに乗ってレースに出るなどと……」
その声はもちろんユークにも聞こえていて、思わず彼は俯いてしまう。エングリスの人たちはあまりカラカコスの人たちに良い印象を抱いていない。小さく弱いカラカコスなど、取るに足らない存在だと思っている。悲しいことに、まだ幼いのだ。
「ほう、バロチルーよ。その通りなのか?」
「はい。父はカラカコスの者です」
その肯定に周りがざわついた。ひそひそとなにやら話している。
「そのことについて、お前は自分の血を呪ったことはあるか? 正直に答えるがよい。回答内容でどうこうするつもりはないが、嘘は許さん」
どう答えるべきか悩んだユークだったけれど、とりあえず最悪の状況を回避できたことに安心してしまって、ついつい本心を漏らしてしまう。
「いいえ。私は自分に流れる、カラカコスの血にも、エングリスの血にも誇りを持っております」
はっきりとした答えに周りはさらにざわつき、ひそひそ声もかなり大きくなってひそひそとは形容し難くなった。ユークは刺さる視線を受け続けながらも、表情を崩さなかった。内心、またもやとんでもないことを言ってしまったと思っていた。
「姫さま! やはりこのような者を専属騎手にしてはなりませんぞ! あのカラカコスの血を捨てずに持ち続ける者など、姫さまの前にはふさわしくありません」
そう言うと、男は次にユークの方へ向き、睨みつけて唾を飛ばす勢いでまくしたてた。
「おい、貴様! 即刻出ていけ! そして貴様のようなやつなど、除隊処分にしてくれよう! まったくこのようなカラカコスの者を入れて責任者は誰か!?」
アスコルト長の顔に血の気がなくなって真っ白になる。そして息苦しさを解消するために、服の首元を指で広げている。できた隙間から、つばを飲み込む喉の動きが見えた。
ユークは自分の失策を後悔しながらも、妙な爽快感に浸っていた。幼い頃から近所の子供たちにカラカコスの血をばかにされるたび、いつも立ち向かったことを思い出す。
小柄な体格のせいでいつも苦戦していたけれど、繰り返して喧嘩するたびにいつしか勝てるようになった。そういう彼の執念に圧されてしまって、最終的には誰もが彼のことをばかにはしなくなった。
「口を閉じよ、クロコント! 我が城であるぞ!」
姫が芯の入った声色でユークに唾を飛ばしていた男を叱った。彼は彼女よりも圧倒的に年齢を重ね、しわも目立ち、五十辺りに見える。けれどそう言われてしまえばすぐさまに従わなければならない。クロコントはユークを睨みながら黙り込んだ。
その名前でユークは彼が有名な貴族である、クロコント卿であることを知った。落ち着いたデザインだけれども、素晴らしい生地で仕立ててある服装を着ている。そこまでの位にもなれば、カラカコスに唾を吐くのも無理はなかった。
「うむ、結構。さらに気に入ったぞ。騎手は己を強く持たねばなるまい。私が見てきた一流の騎手たちがすべてそうであったようにな」
「ひ、姫さま……っ」
「口を閉じよといったはずじゃぞクロコント。これは私の話だ、私が決める。さて、バロチルーよ、もちろん引き受けてくれるな?」
とても華やかな笑顔を向けているけれど、すごい強制力があった。長い髪のとても可憐な姫に圧され、ユークは仕方なく受け入れるしかなかった。
「ありがたき幸せ……」
「よし、決まりだ! これから専属騎手としてよろしく頼むぞ、ユーク・バロチルー」
「はっ。一生懸命励みます」
「では早速、私の所有するトゥルグレッドを見てもらう。支度するぞ」
図らずも姫の専属騎手になってしまったユーク。これからのことを考えるともう、気が気でなかった。
近くにいたアスコルト長はとりあえず最悪の状況は回避できたと、額の汗を拭っていた。
姫が支度のためにその場から離れると、残っていた周りの者たちも去っていった。その去り際にやはりユークのことを蔑んだような目をぶつけていく。慣れているとはいえ、彼は辛い思いを感じる。
「では、私もアスコルトに戻る。姫の御前だ、無礼がないようにな」
「はい。ありがとうございます」
アスコルト長はぽんとユークの肩に手を置き、
「私もエクルスレースが好きなのだ。君のライダーとしての活躍に期待している。あと、稼がせてくれよ」
「ははは、努力いたします」
みんなが帰ってしまって、その場にはユーク一人だけになる。きょろきょろと暇つぶしに辺りを伺う。ウィンデイサー城は様式よりも質を重視してあるかのように、あまり派手さはなかった。古くからある城であるから、流行に置いていかれている。
そうやって色々と興味深く観察していると、声を掛けられる。その方向へ振り向くと、一人の侍女が立っていた。
「厩へご案内します。どうぞこちらへ」
「は、はい」
小走りで近づき、案内に従う。侍女はまだ若く、姫と同年代であるようにしか見えなかった。小柄なユークと背丈はあまり変わらず、それは女の子にしては高い方であった。そして地味ではあるものの、きれいな顔立ちをしていた。こつこつと廊下に二人の靴音が響く。
「驚かれたでしょう?」
「ええ、それは」
「私たちも驚きました。まさか専属騎手をご指名されるとは、夢にも思いませんでしたから」
「どういうことですか?」
「姫さまはこれまで騎手に関してはなにも言われない方だったのです」
「え、ええ。ではどうして僕なんかを……僕、エクルスレースの経験なんてないんですよ」
「本当ですか?」
「本当です。エンデュランスの経験はありますけれど……」
「つまり草レースも?」
「草でもありません……」
侍女は顔を手で多い、ため息を漏らした。ユークは自分もそうしたい気持ちでいっぱいだった。
「姫さま、そういうそそっかしいところがあって……。私はてっきり、どこかの草レースでバロチルー様の騎乗を見、決めたものかと。アスコルトの丘とかおっしゃっていましたし」
「それは、ただ走っていただけで……そこで一頭抜きましたけど」
「そのエクルス、覚えていますか?」
侍女に尋ねられ、ユークはその特徴を必死にならずとも思い出した。彼は一目見たエクルスの特徴を覚えていられる。昨日の飯はすぐに忘れるのに。
「栗毛の額に満月のような星があって、右前脚だけ半白でした」
「それ、もしかして……」
厩に到着し、侍女とユークは中に入る。そして侍女が迷うことなく一つの馬房を指差す。人の気配を察し、差された馬房のエクルスが首を馬房の柵の上から外へと出していた。
「この仔じゃありませんか?」
「あっ、そうです。間違いないです」
彼がアスコルトの丘でナルとともに抜いたエクルスがそこにいた。耳をピンと立て、じいっと前に立ったユークの顔を見つめている。警戒しているわけではなく、ただ興味を持っているだけらしい。ユークが鼻筋を一撫ですれば、気持ちよさそうにちょっとの間目を閉じた。
無口(ハミや手綱のない頭絡)には、名前入りのプレートがあった。
「アスルコート」
「はい。彼はアスルコート。オスの三歳。父はヴァークロム、母はミストレス。姫さまが考えた配合の、姫さまらしい良血です」
「えっ、アリル姫さま直々に生産をしていらっしゃるのですか?」
「ええ。姫さまは相当に力を入れておられますから。もうセリで買うこともなく、かなり小頭数ですが、すべて自家生産なのです。お産だって毎年手伝っておられます」
感心しきってしまって、そして親しみをより覚える。同じエクルス好きとして、仲良くやっていけそうだと考える。とにかく悪い人ではないことは、やはり当然のようにそうであった。
「この、ヴァークロムという種はすごいのですか?」
「それはとても。ただ、現在トップのヘロルドとその産駒、ハリンフラントを抜けるほどではありませんけれど。あの二頭の産駒は数々の大レースを総なめしていますから。今年のバンベリーとオアケスもそうでしょうね」
「それを付けなかったんですね。手っ取り早そうなのに」
「姫さま曰く、『確実にヴァークロムが主流になる日が来る』とのことで、最近はヴァークロムか、その産駒でしか付けておられませんね」
侍女はなかなかに詳しい。彼女もまたエクルスレースに魅了された人だった。ユークの知らないことを色々と教えてくれる。
母が同じでなければ兄弟と呼ばれないのが、エクルスのルール。けれど父が同じであるので、アスコルトの丘で競争したナルとアスルコートは異母兄弟であった。お互い気づいていたのかはわからない。
「その通り。必ず父系として主流になり、後世に名を残すのはヴァークロム、そしてアスルコートよ」
声の主はアリル姫だった。あの煌びやかなドレスから、エクルスに乗るための簡素な服装に着替えていた。長い髪も邪魔にならないよう、後ろで一本に束ねてある。また印象の変わる出で立ちだった。
言葉づかいも変われば、声色も年相応の活発そうなものになっていた。
座っていてわからなかったけれど、ユークよりも背は低い。
「姫さま、他の者は?」
侍女が慌てて言う。
「邪魔だから置いてきた。厩でわあわあされても鬱陶しいだけよ。クロコントとか特にうるさいし」
追い払うようなジェスチャーをし、それからこつこつとブーツを鳴らしてユークの前にまで来る。やはり背が低く、小柄なユークでも頭頂部が見えるくらいだった。
「ところで、なかなかトゥルグレッドに興味があるみたいね。いいわ、私が話してあげる。どうせあなたのようなエクルス好きは、あまり血統とか知らないだろうから」
やって来るなりいきなり、トゥルグレッド講座が始まった。ユークは気圧されながら、嬉しさを装って耳を傾けた。
「よい心がけね。じゃあまず、トゥルグレッドについてだけど、トゥルグレッドってどういうものはわかる?」
「えっと、レットエルをより競争向きに改良したものだと」
「そうね。じゃあ、どうやって維持されているかわかる?」
「え、それはトゥルグレッド同士を掛け合わせているのでは」
当然の答えに姫は頷くけれど、それでは足りないと肩をすくめた。
「トゥルグレッドはね、トゥルグレッドであるという血統がしっかりしてなければ認められないのよ。トゥルグレッド血統書に記載されている血だけを持つ仔が、トゥルグレッドと定義されるの」
「そうなんですね。てっきり、途中でレットグレッドとかを混ぜているのかと思っていました」
「トゥルグレッドは走る芸術。そういう混ぜ物は認められないの。その時点でその仔はトゥルグレッドではなく、レットグレッドの扱いになるわ」
なかなか厳しく品種管理されている。ユークは「へえ」と声を漏らし、「すごいんだね、君は」と声を掛けてアスルコートをまた撫でた。彼は親しい気持ちを込め、鼻をユークにこすりつけた。
「さて、じゃあ次は実際に乗ってみて」
「この仔にですか?」
「ちゃんと別のを用意してあるわ。来て」
厩をあとにし、しばらく歩いて小さな森を抜けると、そこに平原が広がっていた。そこに一頭、エクルスが鞍を付けられ、騎乗できる状態で待っていた。どうやらこの平原を調教場として使っているらしい。
「あの時と同じようにお願いするわ。丘での乗り方、そのままで」
ユークは渡された乗馬ヘルメット被って、待っている鹿毛のエクルスに近づき、首筋を撫でた。そうして引きひもを持っていた牧夫に補助されて跨ろうとした時、
「ちょっと待ちなさい。私はあの丘の通りと言ったはずよ」
「わ、わかりました。ではちょっと触りますね」
ユークはナルにしているように、鐙革の長さを主流となっている長さから短くなるように調整した。見たこともない長さに侍女も牧夫も驚きを隠さなかった。
驚いてぼうっとしてしまった牧夫を促し、ユークは騎乗した。少し曲がるくらいの膝が、比べて大きく曲がってしまっている。鐙革が短いから当然のことだ。
「こんな形です」
「キャンターでいいから、少し走らせてみて」
「はい」
牧夫が引きひもを外し、ユークはエクルスに指示を出して駈足をさせる。ゆっくり草原を走り始め、彼は姿勢をさらに特異なものに変えた。腰を浮かせて重心を前の方に乗せ、エクルスの走るリズムに合わせて足首と膝を使った。
これまでの常識を打ち砕いてしまうような、気味の悪いフォームに牧夫と侍女はさらに驚いてしまって、目をぱちくりとさせていた。けれど姫だけは満足そうににこにこと笑みを浮かべる。
「そこから私たちの前を横切るように、ギャロップできる?」
「はい。この仔素直なので、大丈夫です」
キャンターのまま少し遠くへと離れ、ある程度の距離となれば止まる。ユークの指示をしっかりと聞く、馴致のしっかりされているエクルスだった。そしてやはりトゥルグレッド特有の乗り味の良さがある。
三人の前を通り過ぎるくらいでトップスピードになる。それを計算しての距離だった。
「姫さまー! よろしいですかー!?」
大きく手を振られたので、それをスタートの合図にした。ユークが足で、前に行くように強めに指示を出せばかなりの速さで飛び出した。そしてすぐに襲歩、全速力を出すためのフォームに変化した。
ハミを取り、首を使って前へ前へと脚を伸ばす。ユークは腰を浮かしたままの騎乗姿勢から、手綱を絞って押す。鞭が必要ないくらい、このエクルスは走ることに夢中になっていた。
そうしてあっという間に三人の前を通り過ぎた。脚を芝に叩きつける走行音と息遣い、そして風切音がユークの頭を満たす。あまりの気持ちよさにしばらく止めることを忘れてしまい、思ったよりも走らせてしまった。
気づいてユークは手綱を緩め、そして引いて徐々に速度を落とさせた。
「よしよし、どうどう」
一度完全に停止させ、息を入れてやる。それからまたキャンターで三人の元へと戻った。馬上であることを詫びながら、姫にユークは尋ねる。
「これでよかったでしょうか?」
「ファルビュラス(素晴らしい)!」
褒めてもらえばユークもすごく嬉しくなる。うきうき気分で降り、ぽんぽんと労うためにエクルスの首筋を叩いた。大分息も整ってきたようで、ぶるると大きく息を吐けばもう元に戻った。
「姫さま、今のは一体……」
「面白いでしょ。私、アスコルトの丘でこれを見たから、彼を呼んだのよ」
「これは、絶対にお叱りを受けますよっ」
侍女が声を荒げれば、姫は眉をひそめた。そのやりとりの間に入ることはできないから、ユークと牧夫はただ眺める。
「なんでよ、どうして怒られなくちゃならないのよ」
「このような騎乗法、あるわけがないからです」
「あるじゃない。今ここでユークがやったわ」
まさかそのように姫から呼ばれるとは思ってもいなくて、彼は少し照れてしまう。
「そういうことを言っているわけではなく、姫さまが嗤われてしまいます。ただでさえ、専属騎手にカラカコスの……あっ」
あまり口にしてはならないことに気づき、侍女は途中で続きを言わなくなった。ユークは特に気にせず流したけれど、許さなかったのは姫だった。明らかに表情を曇らせ、声を低くした。
「ポリー。これは身分関係なく、幼馴染の親友として言うわ。そういう血がどうであるとかくだらないことは忘れなさい。それができないにしても、傷つけるようなことをしてはいけない。ポリーにはそんな風になって欲しくないの」
ポリーと呼ばれた侍女は落ち込んでしまい、俯いてしまった。その仕草、表情にユークは彼女に対する申し訳なさを覚える。彼女は彼に謝罪した。
「申し訳ありません、バロチルー様」
「いえ、気にしてませんから。姫さまのことを思ってのことでしょう?」
ポリーは気まずさからなにも返すことはなかった。
そうして気を取り直し、姫が話を戻す。あのユークの騎乗法についてだ。興味津々に、とてもわくわくしているのがわかる。
「それで、あの騎乗法は誰かから教わったの?」
「いえ、自分で考えました。アスコルトに今、レットグレッド生産用の種トゥルグレッドがいて、息抜きに走らせている中で色々と」
「あの時に走っていた仔ね。名前は?」
「ナルです。競走馬名は、父と同じのヴァークロムでした」
その名前に聞き覚えがあったらしく、手を口の前で広げて目を大きく開いた。瞳にこれまでで一番星が瞬く。
「それ、もしかしてヤングヴァークロムじゃない? 青毛の」
「ええ、青毛です。とても真っ黒な身体の、誇り高きエクルスです」
「間違いないわ。ヤングヴァークロムね。あ、父と同じだから分けるために一応ヤングってつけてるの。引退してどこにいるのかと思えば、まさかそんなところに……種の登録もなくて、探そうかと思っていたところなの」
「やはり優駿でしたか」
「もちろんよ。ゴールドステークスの優勝経験もある、名ステイヤーなんだから。マッチレースであのトロトンティにも勝ってるの」
そのトロトンティという名前はなにかで見た記憶がユークにはあった。つまりそれくらいのスターをナルは破っていたのだ。きっとたくさんの金が動いたはずだ。隊長はなにも言っていなかったけれど、どちらに賭けたのか。
ナルに威嚇をされていたということを考えれば、そういうことなのかもしれない。
ユークはちょっとおかしくなった。
「でもそのレベルのエクルスがどうしてレットグレッド生産用に? 話を聞く限り、人気種になってもおかしくないですね」
「多分、ヴァークロムの血統と、かなり遅咲きだったのが気に入られなかったのね。ポリーから聞いたでしょうけど、今はヘロルドとハリンフラントの系統がすごく人気だから。『ヴヴァークロムはこの二頭に嫁を提供しているだけ』とか言う人もいてね。まったく、ヴァークロムだってすごく優秀なエクルスだったのに。無敗なの、それも段違いで」
並々ならぬ熱意を感じる。絶対にヴァークロムの系統を成功させてみせるという、そんな思いが隠されずに周りに放たれている。
「ヤングヴァークロム、ナルの仔が産まれたら、出来を教えてね」
「あ、はい。わかりました」
そこで話が一段落したようになり、姫は城へと戻ろうとした。呼び止めようとしたユークの前に気づき、照れた笑みで続きを始めた。
「そ、そうね、あの騎乗法についてだったね。ははは、すっかり忘れてた」
ここまでで色々とアリル姫に抱いていたイメージが変わっていくユーク。けれど嫌悪感は抱かない。もう少し落ち着いているものかと思っていたけれど、明るく楽しい性格はとても接しやすかった。
「私もね、最初見た時はとても不恰好だと思ったわ」
「そうだと思います。腰を浮かし続けて乗るなんて、ありませんから」
「でもあんなに気持ちよく走るトゥルグレッドは初めて見たから、なにか秘密があると思ったの。正しいものだと。そこで……鞍と鐙を」
指示されると、慌てて牧夫が言われた物を取って来た。それを受け取ると、次にユークに対してとんでもない命令をする。
「ユーク、そこで四つ這いになって」
騎乗法の話に、鞍に鐙。もう嫌な予感しかしなかったけれど、姫の命令に逆らうことはできない。彼は指示のままに四つ這いになった。すると背中に鞍が置かれた。もちろん腹帯で固定などはできないし、身体の幅が違うからすかすかに隙間がある。
「ではちょっと我慢して、失礼」
鞍の上に姫が跨った。そうして鐙に足を掛ける。いつも通りの騎乗姿勢になれば、ユークの背中に彼女の体重が掛かる。小柄なおかげでかなり楽ではあるけれど、この姿はなかなか男の子にきつい。
「現在の主流はこれね。長い鐙で、鞍に腰を落としたまま乗る。道中もそうだし、最後の直線でもこのまま手綱をしごく。ちょっと動いてみるわね」
ポリーと牧夫に説明を始めている。自分なりの研究結果発表だ。二人は乗られているユークへ気の毒そうな表情をしながらも、姫の機嫌を損ねないように聴いている。とにかく彼は耐えるしかなかった。
手綱はないけれど、それを想定した動きをする。けれどしっくり来ないのか、さらに注文をする。
「ユーク、エクルスが走っているときの動きを真似しなさい。この場で」
「はい……」
何度も見てきた動きをできる限り再現する。やはり特徴的なのは上下の運動だ。これがなかなか兵士といえども堪えるので、歯を食いしばりながら続ける。
そうして姫は再び押す動きを真似た。いつもやっているように身体を動かした。
上下運動のせいで、余計に姫の体重が背中に掛かる。その度にエクルスになったユークが苦痛の声を漏らす。
そうして彼女はひとまず満足したように彼から降りた。まだ終わりでないことはわかっているけれど、ユークはその場に倒れて回復に努める。
「はい、じゃあ次。起き上がる起き上がる」
四つ這いの体勢に戻されると、鐙革の長さを短いものに調整される。まだ慣れていないから、ユークほどに短くはしない。そうしてからもう一度跨った。やはり先ほどに比べて膝が曲がる形になる。
「次にユークの騎乗法ね。一つに鐙が短いこと。二つに腰を浮かし続けていること。えっっと、バランスがとられないから、これは動かないでね」
彼女なりにユークの騎乗法を真似てみせた。短い鐙に足を掛け、腰を浮かしては立ち上がったようになる。ユークとは違った形になっているけれど、これが一番姿勢を保ちやすいので仕方がない。
「こうすることによって、体重が鐙に乗せられているから、背中も含めて負担が少なくなるの。それに手綱をしごくときも背中に腰が置かれていないから、エクルスの動きの邪魔になりにくい。多分、長い距離であればあるほどに、差が大きくなるはずよ」
(このユークが思いついたフォームは、まさにみなさんの世界で言うところの「モンキー乗り」に限りなく近いものであった。比べて鐙が長かったり、上体が起き上がっていたりという差異から、限りなく近いと表現した。発展途上と表す方がより的確かもしれない。
とにかく彼は誰にも教わることなく、この革新的フォームを編み出したのだ。エクルスの負担を減らそうという彼らしい考えが、この方法を生み出したのだ)
「ありがとう、ユーク」
降りて鞍を外す。そうされてまたもやユークは芝に倒れこんでしまう。人に話したくない経験をしてしまった。特に両親には知られたくない。
今の解説を聞き、牧夫は納得のいかない様子であった。けれどポリーは手を組み、素晴らしいものだとあっさり認めた。そうしてさらに実感を得るため、汚れることを無視して彼女も四つ這いになり、姫に乗るよう催促した。
一回目は現在主流の方法、二回目はユークの方法。
彼女は確かな感覚を得、もうひどく興奮した。
「姫さま、これは間違いなくファルビュラス(素晴らしい)です! 私、とても感動しています!」
「でしょう!? 私も気づいた時にはまるで雷に打たれたかのようだったわ!」
「この方法に名前をつけましょう」
「彼の名誉のため、バロチルー乗りと名付けましょう。構わないわね? ユーク」
「え、ええ、それでお願いします。ありがたき幸せ……」
彼はとても恥ずかしくなった。