第三十九話 『讃歌 5 〜秘心〜』
「待たせたな。では……征くぞッ」
小さな低音の雄叫びが余韻を残してたなびいた。その一言を残し、ナニールの視界から過剰装備の一人戦車が掻き消える。
雄叫びと共に床を蹴り、男の姿が真っ正面からナニールに迫っていた。
凄まじい勢いで飛び込みながら、両の手の平に隠された器具を手加減ゼロで握り込む。空気を切り裂く音をさせ、腕に装着された手甲ナイフが両手の甲を覆いながら30cm程飛び出して、カチリという音とともに装備された。
姿勢を低くし、一足ごとに加速しながら両手のナイフをクロスする。
「若……この身は少々、若に甘すぎたのだと思っております」
言葉を発するのと同時だった。左手のナイフがナニールを内包した少年の肩口に凄まじい勢いで振り下ろされた。ガキンという音をさせ、体から数cmの所でバリアに頑と阻まれる。だが、コールヌイの動き自体は止まらなかった。
左手・右手、両足の甲にも出現させた四つのナイフで、秒間何発になるかも見えない程の刺突の雨を降らせ続ける。そして、その豪雨の最中でも、男の言葉は止まらなかった。
「若は……少し【痛み】というものを知られるべきと思いまする。あなた個人の痛みではない。他人の痛み。他の人間の個人的な痛み。そして、他の人間が貴方を思う時に感じる痛み。【ヒト】の痛みを!」
『無駄だ、コールヌイよ』
涼しげな顔の少年がナニールの歪んだ表情を突きつける。だが、コールヌイは止めなかった。
「若! 貴方の痛みを知れなかったこと、共に苦しむ事ができなかったことを、お詫び申し上げます。ですが、これから先はお独りには致しませぬ。コールヌイが共にお側に居りまする!」
『何を言おうともはや聞こえぬ。もはや届かぬ。二度と貴様の言葉にシェリアークが応えることは有り得ぬだろう』
顎を上げ、下目使いで睨めあげる。嫌らしい表情で、ナニールは最大限に少年そのものを侮辱していた。それを、
「関係などありはしませんな、そんな程度の事柄は」
『何?』
荒げぬ普通の声色で、コールヌイが返していた。ナニールが初めて訝しげな声を上げる。
「関係無いと言ったのだ。お前の中では無駄な事なのだろうな。無駄なことをすることそのものが無駄と思っているのだろう。だが、それがどうした」
『何だと?』
凄まじい速さで動きながら、コールヌイの瞳が冷えて燃え上がる。
「この身はとうに捨てている。その先の事などどうでも良い。己は若に語るのみ、語れる限り語り続ける。この身が滅ぶか若が死ぬまで語り続けるのみのこと。心に響かぬ言葉の主よ、黙るがいい。己が死ぬまでに一度でも若に届けば己の勝ちだ。お前は勝てぬよ。語る相手も応える相手もいなかった者に、真の語りを邪魔する力などありはしないのだナニールよ!!」
応えは、光だった。鋼に縛られた少年の瞳と指先が光を発し、闘う男に襲いかかる。
「遅い!」
コールヌイが一瞬早く跳びすさり、目の前を刹那に通り過ぎる光の筋を眺めながら、横走りで周囲を高速で廻り始めた。
「視線を向けねば放てぬ技など、このコールヌイに通用するかね闘いの素人よ。弱い、弱い、弱いなあナニール!」
ナニールの周囲の空間が黒く歪んだ。真黒きオーラが膨れあがる。
「怒ったか? 怒る心はまだあるのだな元人間。しかしお前のような弱者の怒り程度の質で、このコールヌイは滅ぼし尽くせぬと知るがいい」
周囲を囲む仲間達をナーガとラーサが守る中心で、飛び交う光条を視線の向きのみで避けながら、コールヌイが壮絶な笑みを浮かべて笑っていた。
◇ ◇ ◇
「これが……【カムイ】……」
ナハトの言葉が契機になった。
規模と景観に畏怖されて、数瞬動けずにいた皆の体がほぐれてゆく。
カルロスが先頭に立ち、皆を引き連れ部屋の中に歩き出す。
凍えるような冷えた冷気が静かに漂い出してくるその部屋に、数歩踏み込んだ時だった。前触れも無く壁全体に明かりが灯った。暗かった部屋から光が溢れ、眩しさに目を瞑る。驚いて目を閉じたまま武器を取る。しかしその光は、決して攻撃的なものではなかった。 柔らかな静かな明かりに促され、ゆっくりと瞳を開ける。
灯る明かりは、初め思ったほどには強くなかった。目に痛くないのにとても明るい。壁全体が光るので影が無く、まるで夢の中にいるかのように現実感が薄れている。車輪が回るような、小さな虫が飛び交うような、不快ではないが唸るような細かいノイズ。それらが次第に大きくなって、突然消えた。耳障りにならないように指向性を持ち、薄っすらと部屋を覆った。
ようやく目が慣れてきた。見えなかった天井含め、明るさに慣れた視界の中に、その部屋の全体像が判明する。直径50mはありそうな円形、というよりも縦長の水晶の結晶の形に近いその部屋は、中央に向けてすり鉢状に凹んでいる。壁は薄青く、それでいて優しい光を放っている。中心にそびえ、数十m上空の先細りに尖った天井まで伸びた、ビルのような楽器のようなパイプの列。
その網目のように組み込まれたパイプの列の深奥に、さきほどまでは無かった淡い明かりが灯っていた。
「さあ、目的地に着きました。ここからはさっきまでよりも、ちょっとばかり急がないといけませんよ」
ムハマドが、表情を固くして口を開いた。
「……どういうことですか? ここまでくれば、安心なのでは?」
一番事情に疎いカルナが、問う。
「ここは500年間、メインシステム【ガイア】の中にありながら、その区画の独立を守り抜いた中枢ですから。そのため、部屋の外に蠢く、敵機械体を排除するセキュリティが張り巡らされていました。そのおかげで、【ガイア】すらも、その内に抱えた内部敵である【カムイ】を排除できないでいた。破壊できないその代わりに、封印を施されてしまいましたけどね。でも、そのセキュリティはさっき、皆さんの血液から読み取られたコードにより解除されています。つまり、ここは最大の味方の中心であると同時に、現在完全に無防備だということです。奴らが気付いてここを破壊し始める前に、【カムイ】を本格的に目覚めさせないといけません。
では、始めましょうか。入ってきたドアに注意していてくださいね。守りはみなさんに任せます。その間に、まずは、おいらが手動で下準備を展開します」
全員が静かに頷いていた。
皆が幻想的な光景の夢心地から目覚め、気を引き締めて目を見張る中、初めから正気のままのムハマドが床の傾斜を降りてゆき、中心のパイプの列に据えられた制御席らしき、くねった椅子に歩み寄り腰を据えた。指を伸ばし、鍵盤のような音の出ないコンソールを無言で叩く。そして指が、初めて触れたと思えないほど滑らかに、無心に盤上を滑り始める。
音の無い、音の羅列が紡がれてゆく。
見事なほどに淀みがない。部屋の明かりとは裏腹に、深奥の光ひとつ以外に全ての音も光も消えていたシステムに、次第に光と音が一つ一つ灯ってゆく。水晶のように煌めく巨大な管の塊が、音のない振動を震わせながら静かに色を変えてゆく。虹色にざわめくように、曲がった菅の外壁をグラデーションが疾走する。しぼんだ風船に、命が吹き込まれてゆくかのように光の列が膨れ始めた。
萎びた花に色が戻ってゆくかのように。
寂れた景色が、生まれ変わった明るい虹に彩られる。
音の吸収されるらしき鍵盤が、システムに光と音を産んでいた。
特大の煙突の集合のような筐体が、500年の眠りから巻き戻されて甦る。
イルミネーションの洪水が次々溢れ、部屋を覆って賑わい始めた。
数分後、孤高の至福の時間が終わる。演奏後のソリストのような静謐な汗を袖で拭きながら、青年が静かに手を止め振り返った。
「コード照合の準備、できましたよ。いまならいけます。どなたから接続に行かれますか?」
「……」
誰も言葉を発しない。入口を守るために傾斜の上で背を向けていたはずの全員が、ムハマドの方を向いていた。静かな沈黙が形を変える。重みを増したその沈黙は、さきほどまでの夢見心地のそれとは、明らかに違っていた。
ムハマドに向かう全ての瞳が、眉根を寄せて見つめていた。命の旋律に心躍りながらも、それでも不審は芽生えていた。見つめる先のその青年は、明らかにその椅子に座る姿が、不釣合いに似合っていた。
「? どうかされましたか?」
小首を傾げて問うてくる青年。視線をまるで逸らさずに。
「ああ! 封印解除に必要な遺伝子コードですね。数は五つ必要なんですが、大丈夫。心配はいりません。足りない分は、ここにあります」
ムハマドが、血液アンプルを胸元のケースから出して掲げた。
「……はぁッ!?」
誰もが目を剥いていた。さきほどの視線はそういう疑問の視線ではなかった。どこがどうとは云えない、ただの無意識の不審。それだけだった。だが、なんだ、それは。その用意の良さはいったいなんだ?!
不審が不信に変わってゆく。不審の理由がどんどん明確にされてゆく。
「それ、誰の血液だよ……ッ?」
カルロスの問いにムハマドが答える。
「ファングくんのものです」
「な!!?」
『……え?』
いつの間に? 通信先の本人からも、疑問の声が届いていた。そう、彼に封印者候補の資質があったとしても、彼は機械だ。血液があるのかすらもわからない。その上、最後の数週間離れ離れになっていた。それなのに、どうやって採取したというのだ?!
「そのとおり、彼は、機械です。しかし彼の中には、彼の友人である【アスランくんの一部】が存在する。その組織を生かす為に、彼の髄液が彼の血液をも作り出し、ファングくんの中を巡らせているんです。だから、彼の中の友達の心臓は、未だにずっと動いている。つまり、封印者候補とは、そのアスラン君のことだったんですよ。彼の遺伝子はファング君が保存していた。その血もちゃんと流れていた。その彼の中から、採取しておいたんです。大丈夫、コードはちゃんと使えますよ。必要になるかもと思って一番最初の会議で、彼がまだ仲間として側にいた頃に採取しておいたんですが、やっぱり採取しておいて良かったですね」
平然と語るムハマドに向かい、不審の疑念は最高潮に達していた。
用意がいい? ……それは既に、用意がいいというレベルの話では、ないのではなかろうか? そして気付かれずに血液採取とかどんなレベルだというのだろう。ファング、彼もまたコールヌイの弟子として修行を治めた者だというのに!
少年少女たちの中の不信感が、限界を超えた。
少年の一人が口を開く。
◇ ◇ ◇
「若……若。一番お側に仕えながら、貴方のお心を解すことのできなかった己を、お許し下さい……。いえ……もはや許して頂くことは、できぬのかもしれませんな……。それでも」
コールヌイ。最大速度で動き回る黒衣を脱ぎ捨てた黒衣の男が、その灰色の、どこの誰でもない全ての人種が交じり合った顔付きに、巌の重みを貼り付けて少年の心無い【形】に向かい語り続ける。
「ですが、ならばせめて、若、もう一度貴方ご本人の口から直接文句を、辞意を言い渡して頂きたい。他の誰かによる代弁でなく、貴方ご本人の口からです。でなければ、己を諦めさせることはできませぬぞ。必ず貴方を取り戻し、貴方の笑顔を見てみせる。貴方を笑顔にしてみせる。この己の命全てを賭けて」
『無駄だと言ったぞ』
「こちらこそ黙れと言ったぞ下郎。それを決めるのは、決めて良いのは、断じて貴様などではない! 若、今起こして差し上げます。少々、いえ、さらに手荒になりまするは、どうかご寛恕いただきたく」
巌の男は重りのような装備を固めた両腕を上げ、下半身を動かしながらもピタリと留めて構えをとる。
光の筋がコンマ何秒間隔で連続して飛び交う中、コールヌイが平然とそれら全てを避けてゆく。ナニールがいらただしげに舌打ちし、光線の強度を上げる為ほんの僅かだけ飛び交う筋に隙間を作った。黒きを捨てた灰の男がその隙間を見逃さず、わずかだけ敵より早く床に向けて腕をふるった。
右肩口に吊るされた全ての筒が床に跳ね、二人を包む空間全てを覆いつくす濃密な煙の束を吐き出した。
指先さえも見通せぬ白と黒の煙の中で光の筋が走り抜け、何にも当たらず空しく抜けた。光条のみが煙に浮かび、増大された威力の大半を粒子に弾かれ減衰される。弱められた幾つかが偶然男に向かったが、クロスされた腕に貼り付けられた小型の鏡に反射されてはじかれ消えた。ならばと指と杖から放たれた電撃すらも、ほとんどが煙に含まれた導電性の金属粉に散らされて男の側まで届かない。わずかに届いた電流も、身体中に取り付けられたアースによって床に流され消滅した。コールヌイには僅かな傷も残らない。
互いに決め手を欠きながらも、精神的に余裕があるのは生身の男の方だった。互いが互いに硬直状態を感じていた。その敵の僅かな緩みをまたもコールヌイは見逃さない。
焦れてきた刹那の小さな舌打ち。生身を忘れることのできていない生身でない男の無意識の小さな動作。
その瞬間の刹那のリズム、その隙間の死角を利用してコールヌイが消えていた。
『見えているぞ、コールヌイ』
誰もがその姿を見失い見回す中、ナニールの視線だけが止まらずに左斜め背後へ向かう。
果たしてそこに男はいた。鋲入りの足袋と漆黒の杖、それらが焦げ目を残し床を滑って火花を散らす。そのまま床を蹴りつけてナニールの背後へ向けてはじけ飛ぶ!
『コールヌイ……生身にしては素晴らしい速さで感服したぞ。だが、それだけだ。物理に囚われた肉のままではせいぜいそれが限界なのだ』
ナニールの捕らわれた身体の中で視線だけが動いて光る。憐れみを浮かべた目線で光子を収束、纏わせた終わりの光を一直線に飛び込む影に解き放つ。その刹那、ナニールの視線の向かう逆側で巨大な志向性の爆発がナニールに向けて爆裂する。トラップ! いつの間に!? 誰もが爆発に意識を引かれるその中で、ナニールだけが視線を敵から離さない。
『惑わされぬよ小童が』
背後に届く爆風と破片の欠片をバリアではじき、それでも視線は前方だけを凝視したまま、両の瞳と全ての両手の指先から光が弾けてほとばしり、赤黒いラインとなって飛び込むコールヌイの身体の中心部分を貫いた。直線の最短距離で肉薄していた男の身体と顔、そして手足に光の糸が降り注ぎ、空中で避けられぬまま光が男を通過して、顔の中央にも小さな穴を穿ってゆく。鼻が破裂し肉が飛び散る。くぐもった悲鳴が誰かの喉を這い登り、制御できずにまろびでた。と、貫かれた男の姿が歪んで滲む。確かにあった気配が消えた。
ほろほろとほどけた無数の単分子ワイヤー達が、編み込まれた人の似姿を解き放ち、金属のたわむ音を歪ませて床に跳び散りばらまかれた。
『ほう……?』
わずかにナニールが感嘆の声を上げ、その瞬間に左の腕を針が貫く。同時に爆風の内側から腹の皮を弾けさせ血だるまになったコールヌイがナニールの背後に向かい跳び出した。ワイヤーで分身を作り気配を乗せ、自らは腹に巻いた弾薬をそのまま破裂させて相手の意識を分散させたのち、完全に不意を突いた状態で背後から奇襲をかける。捨て身もいいところの自爆攻撃。だが、その成果はあった。流した血潮は無駄ではなかった。
ナニールの両肩と右の二の腕からも30cm以上ある針が数針、その長さの半分以上を埋めた状態で飛び出していた。力の抜けた腕が重力に引かれてガクンと下がる。
「馬鹿にしていた物理に支配された心地はどうだナニール? 物理もそうそう馬鹿にしたものでも無いとは思わんかね?」
『……なかなか、愉しめそうではないか』
「余裕ぶってなどいて良いのかね。まだまだ終わりなどではないぞ、ナニール!」
コールヌイがわざとリズムを乱した歩法と呼吸で幻惑し、網膜の死角をついて動き回る。
そのことごとくの全ての位置から針が飛び、八方から音もなく少年の体に吸い込まれる。投射された針たちは、乱れた姿勢から投げられたとは到底思えぬ程に完璧に、全ての尖端が身体中の点穴の中心を貫いていた。
「やった!」
五芒星の形に取り巻く兵士が嬉しげに小さく叫ぶ。だが、ルシア達は真面目な顔を崩さない。ナニールがこの程度で無力化されるのなら、彼らはここまで苦労などしていなかったろう。
両腕を針ネズミと化したナニールが、自らの少年の体を眺め口を開く。
『温い攻撃だなコールヌイ。この程度で一体何がしたいのだ?』
「それらは全て、体の神経を麻痺し肉体の意識レベルを低下させ、心の深層を拡大し浮上させる点穴だ。元々は肉体に誤情報を与えた上での洗脳か自白に使うものだ。痛みは無かろう? だがもはや、指先も視線も動かすことはできぬと知れ。シャットアウトではなく誤情報タイプのバグだから、情報が混乱して物質化解除も効かぬはず。油断したなナニール!! このまま深層を拡大し、若のお心を取り戻させてもらうぞ!」
コールヌイが再度正面から飛び込んだ。左腕の筒を床にぶち当て煙幕を張る。
『失望したぞコールヌイ、身体が動かせぬとて、同じ手が二度通用するなどと……む?』
ナニールが収束せずに拡散させたレーザーで煙塊の温度を上げて蹴散らした。しかし煙が薄まるその場所に、コールヌイの姿はどこにもない。
『また後ろか?』
振り返るがそこにもいない。
「どこを向いているナニール、己はこちらだ」
コールヌイの声がする。しかし近くから聞こえるようで、反響してどこにいるかが分からない。
『どこだ……まさか!?』
「遅い」
ナニールが瞬時に気づくがわずかに遅い。
同時に遥か天井と床の両方から飛来した百を超える数の針の群れが、硬直したナニールの全身の点穴の中心を完璧な精度で貫いていた。
壁潜り。コールヌイの得意技にして彼にしか使えない技だ。だが、だとしても、少年達が向かった先の一番近い壁まででも百mはあった。どこをどうすれば天井と床の両方から仕掛ける事ができるのか……まごうことなき、魔技、であった。だがしかし。
コールヌイが再度言葉を届かせようと、床下に潜ったまま近づいてゆく。油断、だった。
彼にして最大の、致命的な油断。技が完璧に決まり過ぎた故の、驕りだったのかもしれない。
「ぐ……?!」
どこかから、くぐもった悲鳴が囲む大人達の耳にも聞こえた。直後、同時に床から三本の蔦が破壊音とともに飛び出して空中でザワザワと気持ちの悪いうねりをあげる。
金属の蔦であった。その尖端が赤い色で濡れていて、静かに雫が滴っていた。
「コールヌイ!!」
その意味に気づいたデュランが叫びを上げる。
『人とは不便なものだなコールヌイ、分かっていても最後の最後で油断する。位置さえ把握できればそんな技、速度を殺す枷と同じだ。蔦を支配下に置くのに少しばかり手間取ったが、どうやら上手く当たったようだな?』
生えた金属の蔦の少しだけ横の床が崩れるように陥没し、血塗れの男がうずくまった姿勢のままの姿を見せる。
コールヌイであった。全身が血塗れのまま、震える腕で支えるように立ち上がる。
瞳は死んでいなかった。だが、血にまみれていない箇所がなかった。己の油断を悔しげに、歯を食いしばりながら嗤う敵の心を睨む。
『くくくくく、はははハは』
ナニール独特の怖気を伴う嬌声が、見守る全ての者の耳に木霊した。
◇ ◇ ◇
「……ムハマドさん。あんた、数ヶ月前倒れたルシアに出会うまで、普通の人として生活していたはずだよな?」
カルロスが真っ先に疑問の束を口にした。砂漠の小さな田舎の町で、クローノやリーブスと共に、ルシアの話を聞いたあの日の光景が思い出される。普通の、青年だった。お茶を淹れるのが抜群にうまくて、話をするのが大好きで、見知らぬ老婆を無償で介抱するような、善良な青年だった。だが、
「そうですよ?」
それが何か? 疑問に思うところがありますか?
そんな風に普通の顔でまっすぐに見つめている。
あの時、ルシアを追って老婆を見つけ、乗り込んだ家で初めて会ったその時から、感じていた違和感があった。ずっと、気のせいだろうと気にしてはいなかった。だが。
どうして、そこまで善良で、お人よしで感情豊かで、魔法の小瓶に関わっても使用してもいなかったのに、仲間として側にいたのに、ルシアは彼に、封印者候補に推薦しなかっただけでなく《小瓶の使用に足る人物という感覚すら感じなかった》のか。
そうだそして、このムハマドという青年は、いつも視線を逸らさなかった。どんな時でもまっすぐに、ただその黒き瞳で冷静に全てのものを見つめていた。
天才的な弓と操縦技術を見せつけて、みるみる内に自分の知識を増やしていった。
(仲間の中でもこいつとは、付き合いはワリと長いはずだ。はずなんだ。なのに、ずっと一緒にいたはずなのに、どうしてオレたちはこいつのことをここまで何一つ知らないままなんだ?)
ずっと共にいた中で、この人物だけが、どうしてずっと影が薄かったのか。そして、どうしてその事に、今の今まで誰一人気づかなかった?!
まるで、わざと目立たない様にしていたかのように。
カルロスの疑問に補足して、ラーサが真正面に直に問う。
「……なら、どうして、見たことも触ったことも無い機械を、そんなに簡単に操作できるの? 今回は練習もしていないのに。なのに間違いもなく、カンペキに。アタシたちの誰一人としてできないことを」
水晶球使いの彼女ですら出来ないことを。
たぶん、まず間違い無く、あのルシアですらできないレベルで。
水晶球を操作するために、幼かった修行時代、猛烈な特訓をしたことのあるラーサが、問う。気味が悪いとまでは言わないが、座り心地がとても悪い椅子に座っているかのような顔をして、不思議そうに質問する。
「それだけじゃ、ないよね。以前も、一度説明を聞いただけで、砂動車を上手に運転できたらしいしね。同じように、いくら説明役のルシアさんが傍にいたとしても、初めて見たはずの飛行機械を操縦してたし。あれだけファングが、思い出すまでに苦労した飛行機械を、さ」
武器を触ったこともなかったはずの人なのに、弓をあそこまで使いこなせてしまっているし。
ナハトが細かい指摘をし、詳しく知らないカルナすらもが、不審な視線を青年に送る。
「だから、どうだと言うんです? どうしたっていうんですか皆さん? おいらにその適性があった、そういうことで、それだけの話だと思うんですが」
やんわりと困った顔をしながらも、やはり視線は外さなかった。こちらに向けて、繋げた視線を外さない。困った顔をしながらも、視線を一度も下げていない。そうだ、ずっとそうだった。彼が視線を外したことは、これまでも一度も、ない。
何一つ、やましいことなど無いと言うかのように。
何一つ、疑問に思う必要など、無いと言うかのように。
そして皆、ようやく気づく。ずっと異常な事態が続いていて、感覚が麻痺していたが。しかしこの状況で問いただされて、それでも冷静に、汗もかかず口調を乱しもしないまま、落ち着つき払ってこちらの瞳を見つめることの、その精神の異常さに。
とてもではないが、この黄昏の時代の田舎の青年に、できる芸当では無いということに。
有り得ないのだ。そう、これはこの星の今の時代の普通の人間の反応では、有り得なかった。
カルロスが鞭を構えて詰問する。
「アンタ、いったい何モンなんだ……!?」
「えええ、いまさら、それをここで聞くんですか?」
それでも冷静に、「ことここに至ってこの状況で?」ムハマドは呆れたように呟いた。
全ての不審の視線を受けて、なお、作りものではないちゃんとした笑顔で、わずかだけ困ったように、欠片も慌てることも無く姿勢も崩さず座っていた。
そう、ファングの告白を受けてルシアが取り乱したあの瞬間、冷静に的確に、ルシアのパニックを防いだあの時と同じように、見つめていた。
それは、柔らかな物腰に隠された鋼鉄の意思と覚悟を溶かし込んだ、全てを見透かし貫くような、そんな濾されたスープのごとく、とても透明な眼差しだった。
第三十九話 『讃歌 5 〜秘心〜』 了.
第四十 話 『讃歌 6 〜不協和音〜』に続く……




