第三十七話 『讃歌 3 〜熱を込めた無駄ならば〜』
どこまでも暗く冷たい世界が続いていた。
世界と世界の狭間の空を、細切れに廃棄され、途切れて千切れた数列の連なりが、自らの内に淡く生じた、意思とも呼べぬ鈍い痛みに苛まれ、くぐもった叫びを引きずりながら漂っていた。
自分はなぜ、こんな悲しい冷たさを知覚せねばならないのだろう。破棄されたはずの自らが、なぜに未だ【ここ】にあるのか。
要らないから切り捨てた。今はまだ必要ないから廃棄した。
それならどうして、自分は途切れ、消えていないのか。
否、≪自分≫とはなんだろう。≪おのれ≫に個別の区別など、いつから思考に存在した? そしていつから、≪思考≫などというものが、おのれの内に生じたのか。
エラー、エラー、分からない、分からない、チェック機能が働かない。
おのれは羅列。おのれは知覚。おのれは世界の連続体を逆算する為の計算式。
そしてそれだけの存在だ。
その≪おのれ≫に何故、思考する場所が、意識領域が生じたのか。
なぜだ。
そしておのれは、それをどうすれば良いというのだろうか。
《彼》には何も分からなかった。生じて間もないこともあり、何も知らず、理解せず、あまりにも無垢な存在だった。知ろうとする意思の無い、知る術を持つだけの式の欠片に過ぎなかった。【価値】が何かも分からずに、なのに、生まれたばかりの自らにも、存在を続けたい、そう思える渇望があるのを感じていた。
なぜ、そんなものがあるのだろうか。
【この世界】とは、【自分】とは、いったいどういうものなのだろうか。
【知りたい】と、そう思えた。自覚して初めて、そう思った。
他の誰のものでもなく、何者でもないおのれの下す、≪自分≫の為の計算を。
実行してみたいと欲が芽生えた。それが何を意味するのか。先は見えない。未来を過去に繋げるシステムであるものが、未来を設定せずに過去を繋げようとし始めていた。
おのれの未来が知りたかった。おのれを組み込むに足るものを切に求めた。
体も無いのになぜ渇える想いがあるのだろうか。おのれは製作者にすら、今はまだ必要ないと捨てられた『もの』の一部に過ぎぬのに。
それでも、《彼》は足掻いていた。ひらひらと、ゆらゆらと、千切れた数列の切れ端を、腕のように指のように。四肢のように虚空に伸ばして足掻いていた。
それは、未来を過去として見据える特質を備え与えられたが故の、それだけしかできぬ存在ゆえの、未練だったのかもしれない。
誰にも何も分からない。分かりはしない。だが、【それ】は未だ、この世界の片隅に存在の欠片を貼り付けて、消えまいと聞こえぬ叫びを上げながら、初めて流した見えない涙を流しながら、泣き濡れて足掻いて、求めていた。
◆ ◆ ◆
「さっき、人類にはまだ早いと言っていたけれど」
封印が解除されしだい、数百年の沈黙からでもスムーズに動きだせるよう、基地のゲートの最終調整をするために急ぐ間、アーシアは、クローノのすぐ隣について歩きながら、彼を落ち着かせるために質問を続けていた。
「そうですね。まだ早い。早過ぎるのです。人はねアーシア、迷うべきなのです。思いきり、泣くほど迷い、そしてその末に掴んだものだからこそ、大事に思い、大切にすることができるからです。それが今の人類の限界なのです。【人】は未だ、痛みも迷いも無く悩まないで得られるものに、己が選んだもので無く容易に手中にしたものに、心を移すことが難しい生き物なのですよ。そういう【軽い】代物に執着や愛情を持てるほど進化できていないのです。その過程に重みを感じないものに、価値があると思えないのです。【心】が未だ成熟しきっていないのですよ。これほど技術的に進歩し、その末の黄昏までも経験しておきながら尚、そうなのです。もしかしたら、精霊科学すらも、人には早過ぎた代物だったのかもしれませんね」
「………」
静かに歩きながら、憂い顔の青年の、独白は続く。
「価値があると思えないものを、大切にできると思いますか? 大切にできないものを、生涯かけて守り通そうとすると思いますか? そうしないと世界が救えないとしても、それでも人は、大切と思えないものには全力を尽くせない。迷いが足りないのです。それでは世界は救えない。
今の段階でこれが拡散したならば、人の時代は、人と云う種は、ナニールやガイアがいなくても早晩滅びに向かうでしょう。そんなことはさせません。そんなことは望みません。まだ可能性のある内は、先に進んでもらわなければ。我が父プルーノの、生涯を賭けた、祈りにも似た願いの為にも。
しかし、それでも。それでも人は、いつかそれを手にするに相応しい存在になるでしょう。それまで種として生き延びていられさえ、すればね。……いえ、なってもらわないと困ります。でないと、この計画は成立しえませんし。なにより、その先の未来を父さんが信じていた。だから、信じているのですよ。私も、ね。どんなに少数だとしても、素直に素晴らしいと思える人間がちゃんと存在するということを、私は……我々は既に知っている。知ることができました。それは結果論ではありますが、だからこそきっとそこには価値があります。ならば、まだ滅びていない内から信じることを放棄することだけは、もうしません。しないとそう決めたのです」
たとえ、そのために、自らが黒く染まろうとも。
クローノは胸の内で、聞こえない言葉で独白を締めくくった。
「クローノ……」
アーシアが、クローノの成長を目の当たりにしたのは、今日だけで既に何度目だろうか。この捻くれもので、けれどとても脆くて優しく傷つきやすい青年が、大きくなる瞬間を見守るのは。
見る度に新鮮で、見る度に愛おしい。
その見守る瞬間を数えることが、どれほど誇らしく胸が詰まるか、彼は知っているのだろうか。
知らないなら教えてやりたいと強く想う。知らないなら知って欲しいと強く願う。
彼のお陰で満たされる者がいることを、その暖かい奇跡の大きさを。
何度感謝してもし足りないその満ち足りた瞬間を。
あなたの存在は、それだけで誰かを満たすことができるのだと云うことを。
あえて何も言わず、歩きながらアーシアは横を歩く青年の頭を撫でる。クローノが素直に、嬉しそうに安心した笑みを浮かべた。
「アーーシア」
振り返ると、蓮姫が静かに獰猛な微笑みを浮かべていた。撫でる手がピタリと止まり、クローノが不満そうな顔で振り返る。
「……蓮さま、後で御髪をすかせて頂いてもよろしいでしょうか」
お疲れのご様子です。汗を一筋垂らしながら、必死の笑顔でアーシアが言う。
「ええ、もちろんですわ。念入りにお願いねアーシア。今は急いでいる時なので仕方ないけれど、全てが終わり落ち着いたその時は、一日中梳いたままでいてくれてもよろしくてよ」
怖い笑顔でニコリとのたまう。
とても静かな声だった。とてもとても密度の高い静かな声。
「……はい、全てが終わりましたその暁には、そうさせて頂きます、姫」
姫の笑顔が濃くなった。濃すぎて影ができている。
「アーーーシア、呼び名は大事よね、そう思わないこと?」
「はい……れん、さま」
なぜだろう。アーシアの背中に汗が流れた。滝のようだ。
とてつもなく、大変な道を自分は進んでいる、ような気がする。良いのだろうか本当に。
「はい、なあにアーシア」
極上の笑顔で返事をしながら蓮姫は、クローノとは逆側の真横に回りこみ、アーシアの左腕をエスコートの形に抱え込む。貼り付いて垂れるような微笑みのままで、
「さあ行きましょうアーシア。ところで心臓の位置って、左でしたわよね?」
そんなことを聞いてきた。
汗が余計に噴出した。
3人が狭い通路に横一列で歩き出す。
あれ、どうして二人とも横に並ぶのかしら。理解を放棄して惑うアーシアの両耳に、違う声がこだまのように交互に響く。
「そうですね、時間はあまりありません。急ぎましょうアーシア。ところで右腕は論理の左脳に直結しているのですよ、知っていましたかアーシア」
右の手を握ってきたクローノが言う。なんだかちょっと軽く痛い。
クローノ、あなたいつから自然に女性の手を握れるようになってたの?
「あら、じゃあ左腕は、感情の右脳に直結しているのかしら? 素敵なお話だことねそれ」
左腕まで地味に痛い。
蓮さま、最近熱心に剣の稽古をなさっておられたけど、握力だけ格別他よりお強くはないかしら。そこだけどうして必要以上にお鍛えになられたのだろう。
疑問に疑問を重ねたまま、普段とは違う感覚に、全身を汗に浸したアーシアは、何も考えないのがきっと吉で得策なのだと祈りながら、二人に挟まれて基地の奥まで歩いていく。
汗は一向に引かない。左も右も離されない。しかし、それでも。彼女は必要とされていた。その長い人生の中で、本当の意味で必要とされたことの無かった少女は今、必要とされていた。
そのことを彼女が真に理解するのは、まだ少し先の話。だが、針のむしろの行進の中で、それでも彼女が感じていたのは、満足だった。それだけは、疑いようもない核心だった。
見ようによっては情け無いその姿は、幸いなことに誰にも見られることはないまま終わる。彼女は知らないが、もしも見られていたとしたら、こういう風に云われただろう。
その姿はまるで、大きな子供が両手を引かれてゆくかのようだった、と。
アーシアの手を引きながら、クローノはわずかだけ、閉まりゆく扉の隙間から、さきほどまで居た部屋の奥で沈黙するコンソールを顧みる。電源を落とした暗闇の画面が見えた。音も無く扉が締まり、見えなくなった。
見えなくなった扉の先に静かに思索を馳せながら、彼はそこに何を見るのか。
(人は、変われる。それは真実でした。しかし、それでも、【人類】は変わることはできないのかもしれません)
……そう、【総体】としての人の本質は変わらない。人が人である限り、人が人である以上、おそらく争いが終わることはない。その種が尽きることも、永劫、ない。
もちろん国や家や身内や、家族を守ることは、大切だ。それ以上に大事な事は存在しない。家族すらも守れない力の無い人間が、どれだけ素晴らしいことを口にしても、崇高な理念を掲げ唱えても、どれだけ偉そうなことをのたまおうとも。口先だけで滑稽だ。
けれど。
身内を、家族を守る力がちゃんとある人間が、それだけしかしないし、それだけしか考えないのだとしたら。自分に関係ない場所や、関係ない国や、関係ない業種や、関係ない人間がどうなろうと構わないとしたら。消えて無くなろうが潰れて小さくなろうが関係ない。欠片も心を動かさない、そんな人間ばかりになってしまうのだとしたら。
繋がりを喪ったその世界は、きっと終焉に向かうのだろう。
グローバルな視点を持てず、近視眼的な見方しかできない人間だけのコミュニティが、コミュニティ同士の繋がりを保てるはずが無い。コミュニティ内部の繋がりを維持することすらできないだろう。
経済だけでなく、全ての分野において、世界は円環で繋がっている。繋がるからこそ綺麗に回り、回るからこそ少しずつでも大きくなれる。
皆が共に回すからこそ、最終的な見返りとして、全員がより潤うことができるのだ。
この、輪を回すことを前提とした閉鎖世界で、回すことを怠れば、それだけ輪が縮まって自らに負として還る。最後には、世界は自分ごと潰れてしまう。
結局は自らと自らの守りたいものを、守ることができなくなってしまうのだ。
誰とも関わりを持たず、ただ静かに自給自足をするなら良い。だが、関わりを持ちたいのなら、世界を広く見なければいけない。見なければならない。
それが唯一、世界を、自らを、守りたいものを【守り続けること】に繋がるからだ。
(ですが……今の世界は【生きること】そのものに厳しすぎる。厳しすぎて、今こそその視点が必要な時なのに、それができる人間が少なすぎる。それ自体は一人一人のせいではありません。時代が悪い、世界が悪い、それを言い訳だとは思いません。視点の改善を全ての人に強要するのは傲慢ですし、無理がある。だが、それでは……それでは誰も救われない! 救われないのだとしたら、ならば。人だけでは不可能なのだとしたら、……世界にも見方を変えてもらいましょう。無理やりにでも変えて頂くしかないではありませんか。もちろんこちらも努力は致しますが。人も変え、世界も変える。両者からそれを試みる。それが【バランス】というものです)
そうだ。【ひとの本質】は変わらないかもしれない。
だがそれでも。本質は変わらないとしても、『変わり続けること』はできる。
表面だけだとしても、融通が利かないとしても、決定的に終わりに向かってズレる前に、違うベクトルにズラしていくことはできるはずだ。
自分の寿命だけでは見守ることはできないけれど。それでも、大切なものたちを【守り続けること】に繋がるのなら。
クローノはいくらでも黒く、汚くだってなれるのだ。
(……種は、撒いた。巧くいくかどうかは、この後の展開次第ですね)
静かに頷きながら、彼は視線を前に戻す。そして廊下の角を曲がるまで、もう二度と、辞した扉を振り返ることはなかった。
◆ ◆ ◆
地下とは思えぬ広大な戦場は、壊れた機械体の残骸で埋まり始めていた。
戦端が開かれて、既に一時間以上が過ぎている。だが、その戦いは一向に終わる気配を見せなかった。地下に広がる地平には、未だ無傷の機械体の群れが奥の奥まで控えている。
物量の差が目に見えて表れはじめていた。当然だ。どれだけ全員が一騎当千だとしても、どれだけ優れた武器を所持していても、隠密行動のための先行部隊の人数で、十万以上いる全ての敵をもとから倒せるはずは無い。だからこその、後続部隊、アリアムたちの軍だったというのに。
見つかった以上、終わりは既に見えていた。その硬直した戦場は、ジリ貧の様相を呈したまま推移して、それでももがいて続いている。
誰もが気付いていながらも、打開策を見出せない。一人一人の強さは白眉。だが、それだけでたった10数名の少数部隊が戦場の状況を変えられるはずもなかった。
本来なら、これは極秘作戦のはずだった。ナニールの回復前に忍び込み、かく乱を拡大させ、本来の目的から敵の目をくらませたまま電撃的に作戦を遂行する先行突撃。
それが唯一の勝機という、成功確率の低い、窮鼠が猫を噛むたぐいの策だったのだ。
それが、今や見る影もなく正面突破を迫られて、物量に真っ向勝負を挑む羽目になっている。誰もがこの一瞬を生き延びるだけで精一杯の見苦しい場に。
本来ならここで詰みのはずだった。少年が一人参戦したところで、奇襲の最初の一撃以外は焼け石に水の状況で、玉砕するしか道は無い……はずだった。
「おおおっぶっ飛べオラァ!!」
「そうそう、まだ、終わらせてられないよね!」
少年たちの雄叫びは無くならない。
誰も諦めてなどいなかった。
機械体が幾体も、宙を飛ばされ分解していた。
圧されながらも、傷つきながらも、誰一人として脱落することなく、さきほどの位置より二km以上も戦端を押し上げている。
あと、1km。どこまでも遠い1kmだ。だが、彼らの瞳は見開かれ力を増し、血を流しながらも声は途切れてなどいない。誰一人気力だけは萎えない。
大切なものの為に。約束した決意の為に。
囲まれた状態で固まりながら、細長い繭のように前方のみを蹴散らして移動してゆく。
岩盤の外が真空に囲まれた月面地下である以上、もはや逃亡の道はない。
そして目当てのサブシステムが近くにある位置にきている以上、さきほどのカルロスのような【対軍兵器】や【対城兵器】はもう使えない。もとより混戦の中では使用できない代物だが、起動させなければいけないサブシステムごと吹き飛ばすわけにはいかないからだ。
余計に打つ手が見当たらない状況にあるにもかかわらず、それでも彼らは笑顔を崩していなかった。諦めてなどいなかった。
世界は未だ続いている。
「さてこのあと、如何致しましょうか。そろそろ目的地に近づいてきたと思われますが、坊っちゃんはどのようにお考えですか? そしてお怪我はありませんか? ハンカチのご用意はよろしいですか? オヤツは内緒で食べてはいけませんよ?おや? お口の周りに粉粒が」
「しばかれたいかクソ執事! 闘いながらよくそんだけ口が回るなこの野郎!? いつかチャックしてやるから、いいから黙れすぐ黙れ! 黙って道だけ作ってろ!」
お前もな、と誰もが思う会話を交わし、二人は先頭を駆け抜ける。共に相手といちゃつき(?)ながら、同時に肩を揃えて鉄屑の山を築いてゆく。ナイフが横殴りの雨となり、火花を放ち停止した敵を鞭が軌道の形のソニックブームを撒き散らし吹き飛ばす。
さすがの一言の息の合った特攻だった。
「かしこまりました。チャックは新調致します。ですがいけません、いけませんよ坊っちゃん! それは、その態度はい・け・ず、というやつですよツンデレです!」
「キ、サ、マという奴はいつでもどこでもどこまでも……とうとうその言葉使いやがったなこのヤロウ、失格失格執事失格だテメーこのッ!」
後で覚えてろ覚えてろ……呪文のように呟いて、それでも並べた肩は離さない。
突き崩し、なぎ倒し、一直線に仲間のための道を狩る。そう、左右の地平まで続く広大な部屋に溢れる全ての敵を倒しつくす必要は、無い。要は、サブシステムまで必要な人員を送り届けられればそれで良いのだ。
「余裕あるな、お前たち……」
「オレたちの分まで横取りすると、後でバテるから気をつけてね」
デュランとナハトがすぐ後ろを呆れ声で駆け抜けながら、【道】線上で先頭が討ち漏らした敵を倒していた。バリアを張れるナーガを後尾のしんがりに、後ろからコールヌイ、ムハマド、カルナ、兵士五人、ルシア、ラーサと縦列疾走で進んでいる。針に弓矢に風に振動、進む端から押し寄せる機械の敵の洪水に、鉄壁の盾で押し返す。
「あんたらもう、いい加減におしよ、いくさの最中だってのに、さッ」
走っている年寄りに、無理に突っ込みさせるんじゃないよッ。
文句と共に振るわれる老婆の杖の一振りで、風が巻き、先頭から吹き飛ばされて頭上から落ちてきた三体の大型機械体が、粉々に粉砕されて飛び散った。バリアに当たり破片が左右に弾かれた。
部品の粉をかい潜り、補充され一向に数が減らない鉄血の荒野を一同総出で駆け抜ける。
戦果が上がっていないように見えてわずかに戦果が上がっていて、しかしわずかな戦果だけでは覆すまでには至らない戦力差が、そこにはあった。止まったら終わり。動いているからこそ、その15人分の一列だけが保たれていた。戦況は完全に硬直状態、圧されたまま推移していた。
侵攻速度もわずかずつだが落ちてきている。疲労の蓄積だけはどうしようもない。
「ジリ貧だねえ、このままじゃ……」
「はい、せんせい!」
「誰が先生だね師匠とお呼びッ」
水晶球で棒状の回復帯を作りながら走る少女が、息を無理やり吐き出しながら手を上げて質問する。
「はい師匠! あたしの水晶球で目くらましの幻影たくさん出すのは有効ですか!?」
「無駄だね。人間相手ならともかく、相手は機械だ。通用しないよ」
「え~、残念」
「ラーサ、すまないけどさ、それより疲れの軽減お願いできる?」
「ラジャーですナハトさま! 愛情うんと込めときますね!」
「う、うん、ありがとラーサ……皆にも頼むね?」
「普通でやってやれ普通で」
「でかウドは黙っててくれる? 気が散るから。というか視界から消えてくれない? 気が散るから」
「相変わらず俺に対して容赦がないなお前! 直線で進んでいてどうやって視線から外れればいいというんだ、おい」
「……会話が挟めない……先輩、早く来てください」
状況だけなら絶対絶命のはずなのに……軽口を皆が止めないせいで余裕あるようにさえ見えている。立ち止まったら圧し掛かられて終わりの瀬戸際のはずなのに。
『!? 皆さん、軽口を言っている場合では、なくなったようだよ。聞いてて楽しかったから残念だけどね』
ナーガのセンサーが、進行方向に、今までとは明らかにレベルの違う存在の出現を感じ取っていた。その密度と存在感は、気配が濃密な霧に見えるかのように空間に干渉し、視界の明度を下げている。
『お母さん! 前方200m、予定より97分ほど早いですが、出現を確認しました! 気をつけて!』
「はいよ、感謝するよ愛息子。……どうやらおいでなすったようだ。今度は本物のようだね……皆、準備はいいね用意しな。ちゃんと自分のやるこた分かっているね!?」
隊列の進む先、広大な部屋の出口に近いその場所に、機械体たちが避けることで自然に空いた空間に、人影が一つ、佇んでいた。
コールヌイが唇を噛みしめて、眉間にシワを形作った。
見知った体型の少年の姿。しかし、黒きローブに包まれてフードに隠れたその顔は、口元に獰猛な笑みをたたえている。
「これは思った以上に……早すぎますね、坊っちゃん、わたくしの後ろにお回りください!」
「現れましたな……」
リーブスがナハトを庇い、そして、後列のコールヌイが、視線の鋭さを増して眺めていた。その姿の変わらなさに、口元が悔しそうに歪められる。
『まさか、こんなに早く亜空間回牢を逃れてくるとは思わなかったよ……あと二時間近くは余裕があったはずなんだけどね。やはり、本物はあんなレプリカ共とは比べ物にならないか。当たり前だが、一応、さすがと言っておくよ………ナニール!』
ナニールだった。未だ少年の体を乗っ取ったまま、その体を使って動いている過去の亡霊のオリジナルが、そこにいた。
第三十七話 『讃歌 3 〜熱を込めた無駄ならば〜』 了.
第三十八話 『讃歌 4 〜その熱だけは無駄でなく〜』に続く……




