第二十九話 『こだまするもの 〜陰〜』
「さあ行くよあんたたち! 用意は良いね?」
人の手によって造られた月の真裏。巨大な静寂の闇の中でルシアが小声で号令をかけ、辺りを見回す。
人工であっても地上からそれなりの大きさで見える月だけあって、直径三百キロを超える衛星は、それ自体もある程度の重力を持つ。なのにそれでいながらその場所には、重力が存在していなかった。
自転を強制的に横回転軸に制御して公転の遠心力と90度につり合わせることで、裏側の宇宙港の一角の一部のみではあるが、大地に建設されたそのままの状態で重力と遠心力の釣り合いを平衡し、宇宙と等しく無重量となる調整を奇跡のように実現しているのだ。
つまり月の裏側の宇宙港は、地表にありながらそのまま直接宇宙船がストレス無く離発着できる造りになっているということだ。人工の月だからこそできる荒業といえる。
代わりに惑星アーディルから見えている表側は、遠心力がプラスされ重力が増大し、三百キロの直径しか無い微小重力にも関わらず、惑星の地表と同等レベルの重さを持つように保たれている。技術自体は失われて久しいが、宇宙物理の手品のような勝利と云える、特異なバランス技術だった。
その裏側の宇宙港はがらんとしていた。奥の方に壊れかけた船の残骸がひとつだけ、ぽつんと繋留されているだけだ。ずっと数百年誰も寄港していない。それが分かるだけの寂しさをたたえていた。なのにさすが月であり宇宙、ということだろうか。それとも機械が絶え間なく管理しているからだろうか。同じように突入した500年前と寸分変わらない光景だった。埃すら溜まっていない。デジャヴのようで眩暈がする。
無駄な塵一つなく清浄で、だがひどく空虚な感じ。壊れた様子もなく廃れた気配も無い。無重量なのに気圧もちゃんと保たれている。なのにならばなぜここは、これほどまでに虚無的なのか。人が居ない、それだけで、これほどまでに寂しく空しい光景になるというのだろうか。
一瞬だけ、まだ若かった頃の記憶や想いとシンクロする。それを瞬時に振り払った。今は、感傷に浸る時ではない。
辺りに動く気配はまるで無かった。まだ、見つかっていない?
そんなはずは無かった。
突如間近に出現した全長数十mに及ぶ船が、妨害電波を垂れ流しながらプログラムに強引に割り込んで、隔壁を無理やり開けて侵入したのだ。気付かれない方がおかしい。
それに、これは陽動だ。わざわざ大仰に進入したのだ。気付かれた方が良いし気づかれないと困るのだった。
こちらの突入前に、潜入班の5人は、移動用エア噴射装置をつけた宇宙服で少し離れた別のハッチ(個人用の小型与圧式入り口)から潜入済みだ。
そちらに少しでも敵が行かないように、少しでも見つかるのが遅くなるようこちらで敵を引き付け、そして月の防衛システムが動くのを出来るだけ遅らせる為の船の妨害波長を確保すること。それが重要だった。
突入陽動班は、ルシア、ナハト、デュラン、そして志願兵士4人。
船の護衛兼後詰班は、ムハマド、ナーガ、カルナ、志願兵4人。
潜入班には、コールヌイ、リーブス、ラーサ、志願兵2人、の割り振りだ。
病み上がりのコールヌイを行かせるのは不安があったが、隠密潜入にかけては彼の右に出るものはいなかったので、仕方が無かったし、本人の希望でもあった。ラーサには、潜入移動をしながら水晶球で敵や目的地の細かい探索をやってもらう手筈になっていた。攻撃力が少ないのが心配だが、リーブスやコールヌイが必ず守ると約束してくれたので、ナハトたちも頭を下げてお願いしていた。ナハトと班が別れた事には不満タラタラなラーサであったが、本人からの説得で何とか不満顔だが納得していた。
一番攻撃力のあるナーガが後衛なのは残念ではあるが、本人から、譲渡されたエネルギーが膨大でまだ使いこなせていない上に、自分の攻撃では構造物の被害が大きくなりすぎて味方が危ないと言われては仕方なかった。その代わり、繋留ドックでは、広いからそれなりに船を守って闘えるとのことだ。任せるしかなかった。
と、いきなり内部に繋がる通路から、ワラワラと人型の機械体が溢れ出す。どうやら、陽動は成功しているようだ。
「じゃあ、行くよ。派手に暴れてやろうじゃないか。陽動とはいえ、こっちだって伊達じゃあないんだ。突破するつもりで突っ込むよ! 全力でド派手にいきな、出し惜しみしたらお仕置きだよ!!」
『応!!!』という仲間の声を背中に受けて小柄な老婆が先導し、走り出す。
振り上げたカルナに譲り受けた杖に、走りながらコマンドを呟く。と、突き出した杖の先から密度の高い風の壁が押し出され、敵をなぎ倒しながら扇形に広がった。そこに指向性を持たせ一本の風精として前に突き出す。激風! 機械体たちが飛ばされて、通路の入り口までの道筋が確保された。それを追って皆が走る。颯爽と走る老婆の後ろを、確保された進路に向かい、遅れまいと機械体たちの群れに向かって大男と少年、兵士たちも走り出した。
◆ ◆ ◆
二人が動いた。同時だ。お互いに右手側時計回りで、風を置き去り渦をまとわせ死角を求めて回り込む。酸素の摩擦で服が燻る。
青年が唸りを上げて脚を跳ね、散らばる機械の残骸が小山の様に盛り上がり怒濤のごとく相手に迫る! と、ビル一つ分はありそうな大質量の山津波が空中で写真のように停止した。風切りのみの音の群れが蜂の軍列と同じレベルの音圧にまで高まって、鼓膜を押して気圧を変える。
ーーー鞭だ。二つの発掘された古代鞭、その無数の乱舞が所狭しとぶつかり合い、空中に見えない壁を作っていた。少年が気合を発す。一瞬で音速にまで加速された鞭の先が衝撃の真空で破片の山を包み込み、全ての破片を分子の粉に裁断した。
そこに生じたわずかな隙を見逃さず、居合の構えで矢の様に、一筋の線と化した塊が鞭を振り切ったままの少年の懐深く潜り込む。
斬!、と音を残し一閃された剣筋が、空気を斬り裂き十字を刻む。逆らわず回転して逃れた少年の背中の皮膚を焼き焦がし、かすった剣筋と同じ形に痕を遺した。
痛みを気にせず回転しながら手品の様に、懐の第三の鞭と片手の中を持ち替えて、少年が新たなペアで二振り同時に螺旋を描く。大気に刻む螺旋の渦は、真空の刃となって旋を起こし、小型の竜巻に成長し機械の粉を巻き込んだ。断裁機の牙と化した凶風が、投げるがごとき鞭のしなりに押し出され、通り道の全てを潰して剣を構えた青年の眼前にまで押し寄せた。
細かな金属粉達が、金切り声で擦り合わされて雷纏う龍となる。
青年が正対したまま力を抜いて、青眼に構えた剣を、ふわりと上げた上段から気合の声で振り下ろす。
熱振動剣がフルスロットルで振動し、竜巻そのものを一刀のみで両断した。
「そん程度か。その程度で俺を説得できるとでも思うたんか? 粋がるなや小僧、おのれの弱さを認められもせーへんかった思い上がりなクソガキが、手前で何とか出来るとか可哀想に思い込みで妄想したか? どうせ何にもでけへん小人が勘違いしたまま生意気ゆうて出張るなや鬱陶しい……ッ!」
闘いが始まってから、およそ二分。たったそれだけの間に、二人は数十合の激突を果たしていた。二つに分かたれ複雑に渦巻いて消えゆく竜の尾を背にし、アベルが歯を剥いて怒鳴っていた。そのまま猛攻し剣を何度も叩きつける。だが、怒りの青年の言葉とは裏腹に、少年は対峙前の予想に反して善戦していた。たとえ疲れの見える青年相手だとしても、善戦していた。
青年の怒りの一部は、驚きもわずかに含まれているかにみえた。
その怒りの怒涛の猛攻も、すぐに切り裂かれてしまうと思われていた鞭たちが、超高速に振動し全てを切り裂くはずの剣筋を、受け止めては跳ね返し、小さな少年の強い視線を守っていた。さらにはあらゆる死角からまるで別の生き物のように鞭の先端や腹が連続して反撃し、縦横無尽に猛攻中の青年に向かい襲い掛かる。
「炎蛇!」「紫雷!!」少年の気合とともに左右の鞭が金属音を立て擦れ合い、熱を帯びる。雷や炎を帯びた鞭たちがあちこちに空間を跳ね回り、剣を振り回し受け手で捌くアベルの額に皺を作った。
「へえ……思ったよりはやるようやな。それ、チタンテクタイト製か? それともタングステンカーバイト類質か? どちらにせよ、そんな超硬質合金すらをも軟性もたせて鞭に加工、さらには特殊機能まで追加なんぞ、ほんま大昔の技術者らぁは変態やで。なあ、そう思うやろ? せやけどな、そんだけなら単なる大道芸でしかあらへんけどなあ!」
アベルは幻惑する鞭の攻撃全てを見切る。捌ききり、避けきった。攻撃をかわした青年が反撃に出ようと前に出る。が、その刹那、生じたわずかな隙を狙われた。少年の攻撃は終わってなどいなかった。死角から蛇のように伸ばされた鞭の先で赤熱し震える剣を絡め取られた。超硬合金の鞭の先端が撒きついた剣を弾き飛ばせと振り回され、剣の熱に炙られて赤熱したまま煙を上げる。しばしの拮抗をかもし出し、力比べの様相を呈した戦場で二人の男が睨み合う。視線にすら攻撃力があるかのような眼差しで、死相の出始めた青年が少年の視線を受け止めていた。
「あぁ?知らねぇよ材質なんて。こりゃあうちの家宝さ、昔から伝わっていたシロモン、それだけでしかねえよ。……おれぁさ、アンタを説得できるなんて思い上がっちゃいねーよ。いねーんだよ。おれなんかにゃあその資格もねェ。分かってるさ」
力比べの絡む視線を真っ直ぐ相手に突き立てて、少年の言葉は重みを乗せられ止まらない。
「ただなぁ、おれぁあんたにムカついたから言いたいことだけ言いにきたんだ。おれはアンタに夢を見た。それはおれの勝手なハナシで、アンタの所為じゃねーし、アンタにゃあ責任もねぇ話さ。アンタみてーになりてェって思っちまった、人生の目標にしちまったおれが悪ぃんだ。アンタぁ欠片も悪くねぇ。けどな……おれだって悪くァねぇんだよ。一時期落ち込んじまったけどな。大事なのはそこじゃねえ。そこじゃねぇんだ。真実のアンタがどんな奴だろーが、おれが憧れた目標は嘘じゃねぇんだよ。嘘じゃぁ無かったんだよ。おれはそう教わった。そう納得できた。だからさ、おれは単に、そいつをアンタに突きつけに来ただけだ。ヘッざまぁみやがれってな」
少年の言葉が熱を放ち始めた。
「アンタは全てを憎んだかもしれねぇが、そのアンタは一人の人間に、真実の感動と生きる目標を与えちまったんだ! アンタ自身に嘘があったとしても、アンタが見せたモンは嘘じゃなくなっちまったんだってことさ! だからおれは今ここにいる。ここに立ってる! アンタ自身が見せたモンの力、アンタ自身で思い知りやがれッ。……叩きつけてやるさ。アンタがまだ本物を見せられるっていう事実をな。アンタ自身がアンタに絶望してようが関係無ェ。アンタにはまだ出来ることがあるんだ。あるんだよ!! だからさ、死なせねー……死なせねーよ。責任、目一杯取らせてやンぜコン畜生!!」
グン、力を込めて鞭を引く。アベルが抵抗して引いて戻した。
「十分、説得したがっとるやないかい……無駄なことや!」
アベルがふっと力を抜き体重を前に出し、引かれる力に逆らわず少年に向かって宙を飛ぶ。二つの力を利用したジャンプは倍のスピードで距離を詰め、そのまま突きの構えで切っ先が迫る。
少年は視線を逸らさぬままにもう一つの鞭の柄で切っ先を叩き軸をずらす。止まらない突進を紙一重で見つめてかわし、回転しながら絡まる鞭を振り回し遠心力で剣の圧力を押し返した。そのまま手首をひねって回す。
するりと解けた鞭を引き寄せて拮抗から飛び退った少年は、息を整える間も取らず両手の鞭を頭上に掲げ、タクトを振るかのように高速で振り回した。力を込められ震える腕が残像を残し増やしてゆく。しなる2本の金属が、絡まることもお互いに当たることもなく空間を満たし、風切り音をどこまでも高めながら奏でゆく。
キン! 鞭たちが音を残して消え去った。人の目に残像が残らぬほどの速度に達したのだ。甲高い音だけが羽音のように増えてゆく。音圧の壁がソニックブームの如く空気に膜を浮かばせた。
「行くぜアベル、師匠直伝! 断ン空牙ァッ!」
振り回したままで両腕を前に押し出した。指向性を持たせた大気の亀裂、高速で複雑に空を切る両の鞭によって生み出されたプラズマ纏うカマイタチが、無数にアベルに放たれていた。
◆ ◆ ◆
「……こっち。目的地はこっちね、間違いないわ!」
ポニーテールを揺らした少女が、集中をといて見つめていた水晶球から顔を上げた。とたんにふらついて両側から支えられる。集中しすぎてしまったようだ。
無重量である以上、地表でありながらもその地域に大気はほとんど存在しない。宇宙港から少し離れた場所、地表代わりの金属壁に設けられた個人用ハッチから侵入した潜入班は、カルナから渡された眼鏡型の電磁場視覚化装置によって監視カメラの位置を把握し、ルシアの描いた構造図に書き込みながら慎重に先へと進んでいた。
宇宙港を中心に数十キロに及ぶ地域全体に妨害電波を流しているとはいえ、完全にシャットアウトできているかは分からない。カメラの死角を縫って、静かに位置を移動してゆく。そして、角にたどり着くたびに、ラーサが確認する。その繰り返しのうちの出来事だった。
「大丈夫かね、ラーサ嬢」
「無理はなさらないようお願いしますね」
コールヌイとリーブスだった。ぐったりと軽く倒れた状態で両側から支えられたままのラーサは頭を振る。集中しすぎていたのだろう、凝視を止めて楽になったとたんに頭に上った血が降りてきて、ふらついたようだ。
「……だ、大丈夫よ大丈夫! 大丈夫だから、ええとその離してくれないですかしら!?」
目を開けると、いきなり目の前に渋系中年と超絶美形青年の心配そうな顔があった。間近で支えて両側から心配されていた。
近い、近いって! 驚いて顔が赤くなる。
(おちつけあたし。あたしの心はナハト様だけ! ナハト様だけなの! 勘違いしないでよね、っとにもう。今のは頭に血が上ったからドキドキしてるだけなんだからね!)
起き上がり背中を向けて、軽く振り向きながらじと目で睨む。なんでこう、好い男率高いのかこの仲間たちは。きっとナハト様が悪いのだ。いつまで経ってもこっちの真剣な気持ちに気がついてくれないものだから! 勘違いして魔が差しちゃったら目も当てられないので気を付けよう。
「ありがと……でも、大丈夫だから!」
ラーサは自分の乙女回路に叱咤しながら歩き出す。反省する。今はそういう思考をしている時ではない。世界が大変だっていう一大事。それにナハトさまたちが任せてくれた仕事なのだ。心配させないよう、ちゃんとこなしてみせねばならない。
「こっちよこっち! 遅れたら置いてくからね!」
反省を終えて、小声で怒鳴り角を曲がったそのときだった。
『どこへ行こうというのだね?』
「ひっ」
目の前に黒衣のローブがはためいていた。
巨大な音量の少女の悲鳴に大人たちが駆けつける。そして一様に眼前の光景に驚愕の視線を向けて固まった。
黒衣のローブがひらめいていた。風も無いのにゆらゆらと揺れていた。
「馬鹿な……早すぎるではないか!」
「そんな、まだ封印されているはずでは!?」
『何をいまさらその程度のことで驚いておるのだ? くくく』
ナニールだった。
驚愕しながらも瞬時にラーサの正面を二人が庇い、後ろを兵士が固めていた。
『我がここにいるくらいで、そこまで驚いてもらえるとは、光栄だな。くくく』
精神を侵すかのような冷笑が一面に漂い、全ての者の精神温度を下げてゆく。
「貴様がナニールである訳がない。我らは仲間を信用している。その仲間であるナーガ殿が言ったのだ、まだ数時間の間があると。ならば貴様は奴ではない。何者だ。答えてもらおう」
コールヌイが前に出て剣を構えた。隠した左手に鋼糸と針を隠している。リーブスも周囲に思考誘導ナイフを浮かべて睨む。
「そうですよ……どなたでしょうかお客様? ナニールは、ナーガさんが5日間封印したはずです。まだ半日以上時間がある。今のナーガさんが計算間違いするとは思えませんからね。封印はまだ解けてなどいないはず」
「そうだ。それに奴は今、若の体にいるはずなのだ。その姿であるはずがない!」
それを見て、黒衣のローブはため息をつく真似をした。その仕草は確かにナニールの様でもあり、そうではないようにも見えた。
『ふむ、騙されはくれぬようだ。面白みの無い。だがまあ、そうだろうな。我は培養品、コピーだからな』
「!?」
黒ローブの澄ました声に揶揄が混じる。
「培養品……コピーだと……!?」
『そうだ。お前達にも【手】は複数存在するだろう? クク。だが、侮るでないぞ。力は本体と同等だ。記憶もほぼ引き継いでいる。覚えているぞ貴様たち。何度も邪魔してくれるものだ。だが、この先は無い。お前たちはここでシね』
ゴウ! 宇宙の月の通路の中で、吹き飛ばされそうな風が吹き荒れ始めた。
◆ ◆ ◆
「遅いで」
言葉だけを残しアベルの姿が掻き消える。青年の消えた空間に無数の牙が突き刺さり、虚しく過ぎ去り空を切った。
「そんな出の遅い技が通用するかい」
失望した視線で見下しながら、アベルは空気の切れ目を目で見て全てかわしきる。視界の隅で、アベルを見失ったカルロスが、驚いて焦る姿をみせている。風と同化し少年の背後に移動する。移植された古代種の細胞が励起して、全身の活性を上げられた筋肉が常人の視界では捕らえられない脚力を生み出していた。
「ここまでや」
カルロスの背後に風と共に出現したアベルの剣が唸りをあげる。首筋に向かって振り下ろされた切っ先が刹那に迫る。
「読みきったぜアベル!」
金属音。鞭の柄が少年の首筋を守っていた。足元に風。
「!?」
剣が振り下ろされたのとほぼ同時だった。アベルの足元から蛇の動きで自動鞭が這い上がった。アベルが背後をとると読んだ上で、カルロスが事前に配置していた四本目の鞭。それが見事に獲物を捕らえ這い上がる。
「く……ッ!」
青年が超高速で体を捻り、手足を縛られるのだけは回避する。恐ろしい対処能力だった。だが、
「蛇化解除、ゲル化オン!」
設定された言霊で金属がゲル状に変化してアベルの腕にからみ付き、そして、
「仕上げだゴラァ! ポリマー融合! 硬化!!」
一瞬の出来事だった。先ほどの場面が少年の読みの全てではなかった。その先があった。アベルが逃れようとした隙を狙って、鞭を形状状態変化させたのだ。変化に伴うわずかな煙が消えたそこには、アベルの左腕とカルロスの左腕を、鎖のように変化し、手錠のように硬化した鞭が継ぎ目なく繋ぎ、ロックしていた。
「で、……なあんのつもりや?これ」
少年から1mの至近距離で、腕に凍りついた鞭の鎖を確かめながらアベルが尋ねる。
「へ、これで逃げらんねェだろ。不良デスマッチだ。アンタのスピードがすげーってのアリアムとコールヌイさんから聞いてたんでな。対策だぜ」
盛大なため息。
「ご苦労なこって。せやけど、剣と鞭やと攻撃力も攻撃スピードも違いすぎやろ。逃げられんのは同じやぞ? 殴り合いならともかく、自分から不利な間合いにしてどないすんねんお前。アホかい」
喋りながらも呆れた目をして振りかぶり、容赦なく振り下ろす。激突音。
「そこで無言で攻撃してこねーのが、アンタの良い所で悪い所だよなァアベル。心配してくれねーでも、おれの鞭の最高速度は音速以上だ。負けねーよ」
「へえそうなんや? せやけど」
振り下ろした剣が重ねた鞭の腹で止めてられていた。持ち上げては繰り返す。繰り返されて数を増す。速度が次第に速くなる。肘から先の部分が風にまぎれて消えてゆく。圧倒的な攻撃スピード。時には突きも混ぜられて、カルロスは防戦に徹せざるをえなくなる。
「鞭のような使い勝手の悪い武器を音速て、さあて見ものやで、その最高スピード、この至近距離でいったい何分、保つんかな?」
「ぐ、う、お、おおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
雨音が聞こえる。剣と金属鞭が打ち合わされる音の群れだ。次第に雨音が土砂降りに変わり、豪雨のごとく滝となった。無数の手が千手のように交差される。剣の切っ先と鞭の先端が音速を突破して、ソニックブームの衝撃波が二人を中心に吹き荒れる。折り重なって倒れていた機械体の残骸たちが、切り裂かれながら浮き上がり、二人の攻撃の余波のみで粉々になって吹き飛びながら舞い散った。
数分後。
雨音が止まっていた。
「……………、なかなか、やるやないか……い、小僧。……へっ、使いすぎたようやで、残念、や……」
先にガソリンが切れたのは、アベルだった。
手から剣が滑り落ち、腕が少年と繋がれたままズルリと体が倒れてゆく。
コールヌイとの激戦、数万に及ぶ守備型機械体との数日間に及ぶ連戦、そして数時間に及ぶコンピューター端末との格闘。その上でのタイマンだった。
さすがに古代種細胞の使いすぎだった。内臓の病が進行していたのだろう。床に落ちきる前に少年に腕を引かれ背中を支えられた青年の口の端から、血が一筋流れ落ちた。
「やっぱ、勝負を焦ってたんだな、アンタ。でなけりゃ、あんな読み合いでおれが勝つなんてありえねーし、ここで転がってたのもおれだったはずだゼ……」
カルロスも息を荒げていた。彼も限界に近かったらしい。
まさに、紙一重。アベルが万全だったなら、もしくはコールヌイが手傷を負わせていなければ、結果は違っていたのだろう。
「う……」
アベルが痛みを訴えるように腕を揺らし、鎖の場所を押さえた。
「大丈夫か!」
カルロスが急いで手錠型に変化した鞭を外す。とたん、地面が爆発した。落ちていた剣がそこから消える。
アベルが最後の力で床を蹴り、武器を拾い距離を開けたのだ。
「アベル!」
「……あ、甘い……で、小僧………」
カルロスが泣きそうな顔をする。目の前の青年の顔に死相がハッキリ浮き出ていた。目の隈が恐ろしく深く暗い。肩で息をするのがいつまでも収まらない。
それを見て、少年が唇を噛む。
「まだやるのか、やるってのかよ!? それ以上やったらアンタの体は!」
「……言い訳は好きや、ないんでな、そんくらいにしといてんか。恥ずかしいや、ないかい……」
アベルが弱々しげな口調で、下手くそなウインクと作り笑顔で抗議の声を上げていた。
◆ ◆ ◆
「ナーガさん! 突っ立ってないでちょっと手伝っていただけませんか」
『それくらい自分でやりたまえよカルナ君。ボクは今警戒任務中なんだけどね』
それに突っ立ってってなんだい失敬な。なんて酷い言い草だ。さしものナーガも口角を曲げて苦笑いするしかない。
「なに言ってるんですか。昔はセレンシアの19人議会にも居られたのでしょう? なら手伝ってくれてもいいじゃないですか。ああ……クローノ先輩は素晴らしい方でしたのに。あの方ならきっとすぐに手を差し伸べてくれました。今回だってあの方と肩を並べて闘えると思っていたのに、ほんとどうして先輩を苦しめて国を出た方などと一緒に作業などしているんでしょうね、ぼくは。あぁ、どこに行かれてしまったんですか先輩、早く帰ってきてください先輩……!」
本気で泣いているように聞こえた。ナーガはさすがに呆れ返る。
『ええとさ君、言ってる内容分かって言ってるかい? 全然論理的じゃない飛躍だよそれ……理不尽て言葉を知ってるかい? 君、クローノ君とそれ以外の上司や元上司に対して、ちょっと態度が違い過ぎないかな……?』
汗の出ないはずの精霊体なのに、ナーガはじと汗が滲んだ気がした。居心地がすごく悪い。
「そんな訳ないでしょう。なに言っているんですかまったくもう。神官見習いなんですよ? いくらぼくでも、たとえ昔に先輩に酷いことした人にだって、差別なんて恐ろしいことするわけなんて無いじゃありませんか。仲間じゃないですか、ははは」
目が笑っていない。
『く、黒い、黒いよ君! どこが純粋?! アベル君、クローノ君、君たちの人物認識、鑑定能力はとても激しく間違っているよ!?』
「あ、何か聞こえた。手伝ってくれるんですね、ありがとうございます! はい、これとそれ、そっちに持っていって組み立ててもらえますか? 兵士の方々にお渡しした発掘武器と同じものですが、壊れた時のために予備品はちゃんと作っておかなくちゃいけませんよね。はい、キリキリさっさと急いでくださいね!」
『……ぐ……!』
ナーガは辛かった帝国留学時代ですらあまり経験の無いほどの理不尽さに、落ち込んでいる自分を感じていた。
『……無自覚の差別って、自覚が無い分酷いよね?』
ナーガの呟きに、周りの兵士たちまで苦笑した瞬間だった。
『そうか。では、差別しないで潰してやろう』
『!?』「!?」
驚愕の表情を貼り付けたままに、全員瞬時に武器を構えて船を守る体勢をとる。黒いローブがはためいていた。内部の通路への入り口に、泥のような漆黒が佇んで哂っていた。
『そんな……まだ封印空間の境界結晶は壊れてなどいないはずだ!』
『ナーガさん!』
操縦席のインカム越しにムハマドの声がする。
『ムハマド君はそこにいて対処してくれ! ……どういうことだ。侵食も浸透も転送波すらも感じなかった! その全てを無効化する空間にあと半日は閉じ込めたはずだ……そうか! ガイアめ……ナニール本体をを培養したな!? 思考パターンまでをも合成したのか!? おのれ、なんという禁忌を……!』
「どういうことですかナーガさん!?」
横で棍を構えるカルナが訊く。
『クローン体。神聖国の神官見習いなら習ったことがあるだろう? あの禁忌の代物だよ。あの大災厄、大戦期ですら、大手を振って使われることのなかった禁断の技術だ。幾ら作ってもテロメア問題をクリアできなかったこともあるけどね。テロメアだけを幾ら伸ばしても、なぜか本体と同等の寿命を付与することは最後までできなかった。それが世界の抵抗だと皆が悟った。だからこそ、バイオマテリアルではなく精神改造を基調とする精霊科学が進歩したんだ。まあ、それだって結局は歪んで似たような末路をたどるわけだけど……。
だいたいね、脳を合成したって、何にもならない。本能すら無い無垢な脳に全てのデータやパターンを教え込むなど、手間や時間だけがかかって効率が悪いじゃないか。倫理を抜かしてさえ効果が薄い。一気に脳に完全に記憶をダウンロードすることは、結局我々には無理だったんだ。なぜなら、【個】とは本人が一生かけて死に物狂いで形作ってゆく、取替えなど効くわけがない一品ものの芸術作品なのだからだ。それに、コピーを重ねれば重ねるほど劣化し寿命が短くなるのも止められなかった。その上、生身だから弱いし。簡単な命令しか聞けない特攻兵にしか使えず人道にももとると封印された。永劫の封印をされた技術なんだよ。それを……ッ』
冒涜にもほどがあるぞ! ナーガの叫びにナニールの姿の男が静かに返す。
『お前達の未熟な技術と比べてもらっては困るな。冒涜などという概念は、未熟な技術を持つことへの言い訳に過ぎぬのだと知るがいい』
『!?』
ご高説は終わったか?それにな? 黒いローブがせせら笑って歪んでいる。
『我はコピーでありコピーにあらず。精霊体の憑依体としての肉の器であり、本体の精霊体が動けぬ時でもバックアップ保存された【ナニールパターン】で動かすことができる。憑依体であるならば寿命や肉体能力の低さなど関係ない。肉的に不十分で十分だ。なにせ、取替えが利くからな』
「そんな……それでは!」
個としての核や聖性、尊厳はいったいどこにあるというのだ!?
『なるほど……禁忌のオンパレードだね、全く』
気持ち悪い。吐き気がする! そこにいる全員が、汚濁を見るような視線でナニールの姿をしたものを睨んでいた。
ナニールの姿をした【もの】は、既にナニールですらなく、ナニールという【個】すらをも侮辱し冒涜する存在としてそこに居た。
『質問はもう良いのか? では、死ぬがいい』
『煩いね。君などに【死】の概念を語ってほしくなどありはしないよガラクタ君。君は、ナニールすらをも馬鹿にしている。あいつに同情する気も余地もないが、少なくとも、あいつには意思があった。憎しみだとしても感情があった。お前にはそれすらない! あいつは憎むべき相手だ。あいつが万が一改心したとしても仲間になど到底なれはしない。けどね、それでも、侮辱されたら許せないことはあるんだと教えてあげよう。躊躇するなよカルナ君、あれは毒だ。過去のヘドロだ。完膚なきまでに破壊するぞ!』
「……はい、どうやらそうしなければいけないみたいですね」
剣と棍、そしてそれ以外も。様々な武器を構えた者たちが散開して、体勢を整える。操縦席ではムハマドが空間歪曲式バリアを展開するための準備を急いで始めていた。広い宇宙港全体に不気味な哂いが低く低く響き渡り、そして、ここでも闘いが始まった。
第二十九話 『こだまするもの 〜陰〜』 了.
第三十 話 『こだまするもの 〜悲〜』に続く……




