第二十五話 『カルロス4 〜人のかたち〜』
ほの暗い廊下の先に、ぼんやりとした灯りがかすかに見える。静かに染みてゆく様に、澱む空気に溶け込む光。
初めは柔らかで包む様な優しいものに思えていた。だが、近づくに従いどんどん強くなる眩しさで、瞳の奥に痛みがにじみ広がってゆく。痛みを遮るものなど無い。道の先、廊下の奥で、燻り続けた何かが光を発している。
ずっと歩み続けていた青年が足を止め、倒れないように壁に背を預け、光を見つめ固まった。
「………くす、くすくす」
漣のように、微かな苦笑いが押し寄せては引いて、広がってゆく。
「……ったく、やってくれるやないか、コールヌイ」
アベルだった。コールヌイとの全力の闘いに勝つには勝ったが、逃亡を許してしまった後の自嘲だった。データを、持ち帰られてしまった。
この五年間で、初めての計算違い。
「まさか、転移装置まで扱えるようになっとったとはな……いい年して勉強熱心やないかコールヌイ。……そうか、気付けへんかったのか、俺は、そこに。あいつが部屋奥の転移装置に用があっただけやったってことに。そのために俺が邪魔やっただけやってことに。そろそろヤキが回ってきよったか?俺も。くすくすくす」
相手の血を見ないで済むように、熱振動剣で傷口を焦がしながら追い詰めた。
なのに、それでもコールヌイは反撃をやめなかった。そして最後には、予め端末から起動しておいたのだろう。気合を込め跳びかかってくると見せかけて、身構えたところに奥の壁の緊急脱出転送機に飛び込まれ、まんまと逃げられてしまった。
どうやら脱出のために起動させた装置の部屋にアベルがいて、起動完了まで装置の事を気付かせないよう気を逸らし続けた、というのがあの時の不自然な挑発の真相のようだった。
まんまとしてやられたという訳だ。出し抜かれ方のあまりの見事さに、怒りがそれほど湧いてこない。それどころか、賞賛の気持ちすら溢れてくる。
コールヌイも無事ではないはずだった。血だけは流れぬままだろうが、あの傷の深さでは生きるか死ぬか五分五分だろう。だが、それでも。あの男ならきっと生き延びるだろう。ならば、また生き汚く立ち塞がってくるのだろうか。執念深く地の底までも追いかけてくるのだろうか。
休憩を終え、そしてまた体を推して歩き出す。
「せやけど、まだや……まだ、動けんわけやない。まだ終えてへん」
コールヌイとの全力の死闘は、アベルにもかなりの重症を与えていた。
だが、それでも彼は止まれない。足が動いて前に出た。
歩いてゆく。光の中に歩いてゆく。止まらない。そのままアベルは偽装した小さな入口から中に入り、背伸びをするように光の玉に手を伸ばす。
「まだ動ける。せやったら俺は行く。コールヌイ、素直に賞賛を送ったる。まだ止められると思うなら来るがええ。この先にな……」
光の玉に触れたアベルの指先から、全身が侵食され透明化して消えてゆく。
エンタングルメント型転移装置。
その一番古い原型の一つだった。これがあることが、ここを選んだ理由だった。そこに、ナハトたちから複写したガイア封印用の遺伝子型エナジーを組み込んだ。遺伝子型の使い道は、封印や機械体どもの餌としてだけのものではない。これで、奴等の分厚いバリアにも浸透できる。
その装置は、巨大な装置に相応しいだけの跳躍距離を誇っていた。間にどんな頑強な壁があろうとも、力技で跳躍させるパワー重視のシステムだった。ただひとつ、パワーを貯める時間がかかるのだけが欠点だった。だが、それも終わる。修理を済ませて一年、今日のこの時間にエネルギーが満タンになるよう設定し見守っていたその玉の力で、アベルは転移し、基地の中から消えてゆく。
彼はどこに跳んだのだろう。その光の先はどこに繋がっているのだろう。
腕、肩、体、足。次第に解けて消えてゆく。その薄まったアベルの顔に、強い光に埋ずもれて微かに見えた口元に、消える最後の瞬間に……彼自身すら気付かぬままに、静かに微笑みが浮かんでいた。
◆ ◆ ◆
「コールヌイが見つかったって!?」
「コールヌイさんが生きていたってホント!!?」
連絡を聞き、ルシアとラーサが医務室に現れた。
「ルシア、ラーサ、来てくれたか!」
アリアムが振り返り、外聞も無く安堵した顔をする。医務室に運んで衣を脱がして息を呑んだ。黒衣を脱がしても、体もあちこちが黒く焦げていた。特に傷口の奥までもが炭化していたのが問題だった。炭化した部分が深すぎて、国の医者では手に終えない状態だった。
たくさんの人間が慌しげに動いていた。せわしげに管や電極を当てて応急手当を始めている。
「……これは」
「どうなんだ、助かるのか?!」
「……ああ、そうだね。傷の割には出血が少ない。傷口が焼け焦げているお陰で、出血多量にならないで済んだようだね」
「だが、傷口が……」
「これは、たぶん、熱振動ブレードの太刀傷だよ。高速の振動で切り裂き、熱で傷口を焼くことで縫い合わせることをできなくさせる性質の悪い武器さ。けどこの程度の傷なら……体に開いた孔や傷は一生残るかもしれないが、大丈夫、助けられるさね。手術は必要だし重症だが、出血で死ぬことだけは無いし、今ならなんとかなる。不幸中の幸いだね」
傷口をあちこち調べた末に発した老婆の言葉に、アリアムはため息のような息を漏らす。
「そうか……そうか!」
「ラーサ、やれるね?」
「はい!準備完了、問題ないです」
しっかりとした足取りでポニーテール少女が前に出る。手の中の水晶球を掲げて睨む。
「では、やっておしまい!」
どこかの悪の幹部のように、ルシアがラーサに檄を下した。
「らじゃーです、紫外線消毒をしちゃいながら、同時に組織の壊死部分の除去と、治癒力の増強をやっちゃいますね、師匠! ふふふん、この短期間でここまでできるようになるなんて、やあっぱあたしって天才かも!」
どうやら、ルシアにつきっきりで水晶球の使い方をレクチャーしてもらっていたらしい。既に弟子よ師匠よと呼び合っている。
「いけそういけそう問題なし! コールヌイさん、待っててねっ、いま助けてあげるからね! あたしだってさ、もう悔しい思いはたくさんなの、こりごりなの、あんな思い、あたし……あたし絶対にもう二度とイヤ! だからちゃあんと助けてあげるからね! だってあたしは、決めたんだもん。もう絶対に諦めないって決めたんだから!!」
水晶球の光が広がり、患者を包む。その中で、炭化した部分を体奥から吸いだしながら、ゆっくりと生きている組織の活性を上げてゆく。
ラーサの瞳が燃えていた。黒光りするその瞳には、他の医師のサポートの中、素晴らしいスピードで治療されてゆくコールヌイの姿が、消えることなく映っていた。
「そうか……アベルの奴が隠していた情報は、やはりまだたくさんあったようだな」
「……そのようですね、残念ですが」
静かな風が、砂除けを掛けられた窓口をすり抜けて、ゆっくりと部屋の中に吹き込んでいる。個室として整えられたテントの中に、綺麗なベッドが設えられて患者の負担を減じていた。そのシーツの中に包まれて、意識を回復した患者が一人、横になったままで青年の質問に応えている。
「ともあれだ、情報を持ち帰ってくれて、感謝する。だが……」
「……」
先ほどまでの真剣な表情を崩した青年が、疲れたような苦笑を見せて軽く睨んだ。
「あまり心配させるな」
「……申し訳御座いません」
「生きていてくれて、感謝する、コールヌイ」
「……ありがとうございます」
アリアムとコールヌイだった。
あれから半日が経っていた。少女や医師たちの必死の治療のお陰で、命を取り留めたコールヌイは、つい先ほど意識を取り戻していた。意識を取り戻した男はすぐにアリアムを呼び、たった今、駆けつけた彼に詳細を報告し終えたところだった。
「じゃあ、また来る。疲れているところを、長居してすまなかったな。安静にしていろよコールヌイ」
「了解しました。どちらにしても、今日のところは動けはしませんがね」
「違いない」
二人の男が、しがらみを超えて苦笑を交わす。
「ラーサ嬢とルシア殿に、お礼を言っていたとお伝え下さい。ルシア殿に関しては、色々思うところの部分も多々あるのですがね」
ルシアには以前、完璧にあしらわれたことがあった。だが、いまの力を失った彼女に再戦を挑むわけにもいかない。まあ、もちろんこの先力を取り戻してもそのつもりは無いが。それでもなぜか消えない悔しさがある。まるで子供のような疳気だが、なぜだろう? 過去を思い出したせいだろうか。なぜだか、歳に見合わぬその稚気が、手放してはいけない大切なもののようにも感じていた。
入り口のところでアリアムが笑って手を上げ、それに応えた。
見舞い客、アリアムたちが出て行き、しんとした空気の中、コールヌイは考える。
また自分は負けた。100年の昔から負けっぱなしだ。だが、心の中を振り返っても不思議なほど悲壮感は感じなかった。悔恨もない。冷凍装置で冬眠させられた以前の記憶が曖昧だった頃までは存在した、矮小なプライドに支配された弱さは露と消えていた。もう、そういうものに縋る程度の自己憐憫に意味はなくなったということなのだろう。
(今の己には、やらなくてはならないことがあり、やれることがあるのだからな)
過去の後悔は消えない。けれど、それを理由に悔恨と慙愧に逃げることは、きっともう必要ない。
(アベル君……)
勝負に負けても情報は持ち帰った。それは、彼にとっても初めての不確定要素なのではないか。アベルにとって初めての小さなミス、綻びなのではないか。
最後に見た彼の表情を思い出す。表情の無いはずの彼の顔に一瞬だけ垣間見えた、驚いたような、心底悔しそうなあの彩りを。
(もしかしたら、そこには自分が考えていた以上の意味が、あるのかもしれない……)
入り口の布のこすれる音がして、視線を投げる。
軽く俯いた少年が、気後れしたように立っていた。
「カルロス君」
名前を呼ぶと、この少年には似合わないゆっくりとした歩調で近づいてくる。
「……見舞いに来てくれたのか。君が来てくれるとは思わなかった。感謝を。あまりお構いできない上に、ベッドの中から申し訳ないが」
「……アベルと闘ったって、聞いたから……」
少年から普段の明るい粗野さが消えていた。その理由を察することはできた。だが、コールヌイには何もしてやれなかった。少年が抱えている悩み。それは、誰もが自分の力で乗り越えなくてはならない類のものだからだ。
「その通りだ。……聞いた通りだよ。私は負けて、だが生き残った。彼はまた私を殺せなかったのだ。今回こそは、それが彼の計算上の出来事だとは思えない。だから、きっとそこには意味があるのだろう。ならば、できる事をしようと思っている」
「出来ること……」
ベッドを回り枕元にきた少年は、しかし椅子には座らず立ち続ける。
「私にはまだ出来ることがある。負けた後悔よりもなお、その事が誇らしい。だから、私も二日後、だったか? 月に行くのに同行させてもらおうと思っている。さっきそれを陛下に言ったら、呆れられてしまったがね」
珍しく黒衣の隠者が顔全体で苦笑をのせて破顔した。細かな目尻の皺の多さが、その強さと深さを表していた。
「……大丈夫かよ、相変わらず無茶なおっさんだな」
「君には言われたくないように思うのだがね?」
少しだけ、二人して笑う。だが、カルロスの笑みはすぐに小さく消えてゆく。
「おれは」
「何かね、少年」
何かを言いたくても言えなくて、もしくは上手く言葉にできなくて躊躇している少年を、コールヌイは促し、待つ。
「………おれは、どうすればいいのか分からないんだ。どうしたいのか、何をしなければいけないのかは、何となく分かる。けど、それをするにはどうすればいいかが……それに、おれなんかが……おれが出張っていいことなのかすらも分からねェ、し……」
「君のしたいようにすればいいのだよ」
「したいように……」
少年が、いつもと比べ信じられないくらい弱い目線を上に上げる。
「アベルの奴も、そうなのかな。あいつも、だからあんな」
「それは違う」
「ちが、う?」
「そうだ、違う……!」
ベッドに横たわったままで、だがコールヌイの視線も口調も強く強く澄んでいた。その強さに魅入る少年に、彼は強く言葉をつなぐ。
「彼は、もしかしたら自らの意思でやっているつもりなのかもしれない。そうなのだろう。したいようにしているつもりなのだ。だが、違う。違うのだ。彼はただ、止まれないだけなのだよ。自らの意思でやっているつもりで、自分でそれに気づいていないだけなのだ。だから、誰かが止めてやらなければいけないのだ。いけないのだよ……」
「……!」
少年の瞳がいっそう強く、大きく見開かれた。少年に今コールヌイが言った言葉の意味が、浸透してゆく。真意がどこまで伝わったかは、分からない。だが、それでも少年の中の何かを呼び覚ますだけの力は、あったようだった。
「そうか……そうだったんだ。そうなんだな、きっと」
「カルロス君?」
少年はこぶしを小さく握っていた。目の高さで握り締めたこぶしを開き、その中の何かを見つめながら、少年は口を開く。
「……なら、それは、その役はおれがやる。おれが止めるよ。……やらせてくれ」
「……できるのかね」
「……分からねェ。けど、さ。あいつが自分の意思でやってるっていうんなら、今のおれに止める言葉は、無ェよ。欠片もねェ。説得できるだけの言葉なんかおれなんかの中にあるわけねぇ……!」
少年が唇を噛む。ギリギリと万力のように歯が鳴って、少年の悔しさを音として表していた。
「……」
「そんな権利だってありゃしねえ。けど、あいつが止まれない、そういう事なのなら……おれが止める。おれが止めなきゃいけないんだ、きっと。あいつに憧れて、あいつの真似しようとしてる。【おれが憧れたあいつに】なろうとしてる【おれ】が、止めなくちゃけないんだ。止めてやらなくちゃいけないんだ。それが、きっと【あいつに憧れ目指したおれ】の責任なんだ。
他の誰かに任せたらダメなんだ。おれがやらなくちゃいけないんだ。でなきゃ、それぐらいの覚悟が無けりゃ、あいつがどんな奴だろうとそれでもおれが憧れたあいつを目指すなんて、口が裂けても言っちゃいけないんだと思う。けど、おれは目指したいから。おれが憧れたあいつが嘘だったとしても、おれが憧れたそのことまで嘘にしたく無いから。それは確かにあるんだって、目指す先にあるんだってきっと思うから。だから……おれが、やるよ」
「……」
コールヌイは、目を細めて少年を見た。
男が、足掻きながら成長するその瞬間を、見た気がした。大切な瞬間を目撃した気がした。
まだまだだ。まだまだ一人前にはまるで足りない。
それでも、涙を浮かべながらそれでも一歩を踏み出した少年の顔が、とてもとても眩しかった。重症の体にまで力が湧いてくるほどに、嬉しかった。全てを終えた時、リーブスにこの事を話したら、きっと彼は悔しがる。それが分かって愉しみが増えた気がした。
生き延びる為の目的が、生き残る為の目的が、……死に逃げない為の目的が、一つ確かに増えた気がした。
「ならば、任せよう。頼んだぞ、カルロス君」
コールヌイが少年を見つめ、重みを一つ渡してゆく。
「ああ! サンキュな……コールヌイさん」
少年は静かにそれを受け取った。
目線を上げたカルロスの瞳に、輝く光が戻っていた。
コールヌイは知らなかった。当然だ。この数日間、彼は少年を目にしてはいなかったのだから。だからその価値の本当の意味には気付けない。
だが、今彼が目にしているものは、それほどに価値のあるものだった。その価値の分からないコールヌイの顔にすらも、笑みを浮かべさせるだけの力があった。
それはこの少年が、久方ぶりに見せた曇りの無い満面の笑顔だった。
第二十五話 『カルロス4 〜人のかたち〜』 了.
第二十六話 『カルロス5 〜空と人と〜』に続く……




