第二十二話 『カルロス1 〜人の間〜』
ここから、第七章中盤です。
よろしくお願いします。
呼び掛ける声が聞こえていた。
耳にずっと届いていた。
子供達の心配してくれる気持ちが胸に響いていた。大人たちの悲鳴も頼みも聞こえていた。ナハトたちが苦戦しながらもおれを責めずに戦ってくれている事も分かっていた。ラーサやリーブスの気持ちもちゃんと伝わっていた。
胸が熱くて動けるものなら叫びたかった。いくら感謝しても足りないと思った。御礼を口で言いたかった。戦いの中手術してくれた、名も知らぬ老医者たちや子供たちへは言えないままになりそうな体の状態が、憎くて辛くてたまらなかった。
嬉しかった。全部、本当に嬉しかった。
そして、それ以上に悔しくてたまらなかった。
手足が動かせず、頭が痛くて瞼も動かなかったけど、それでも声は届いていたっていうのに。なのにおれは……。
だから、それらは全て、おれが受け取って良いものじゃない。
ちゃんと戦って、勝ちとった仲間達が受け取るべき代物だ。
おれは……そう、おれはまた、何の役にも立てなかった
何も出来ないまま、何も動けないままで、今回もおれはずっとその場で倒れ続けていただけだった─────。
◆ ◆ ◆
『ありがとう、分かりやすく報告してもらえて助かるよ。けど、もう少し詳しいデータが欲しい。すまないがもう一度状況の整理を頼んでもいいかい?』
厳しい戦いも衝撃の告白の放送も終り、しばし放心した人々は、ようやくその重い腰を上げ瓦礫を片付け始めていた。
勝利の高揚も雄叫びも何も無い。
そんなものどこにも在りはしない。
ただ、全てが壊され、運良く生き残った。それだけだ。
気持ちの糸が麻痺しているから動けるだけで、どうしようもなく重くて億劫。
いつ元に戻るのか、元に戻すことができるのかすらも分からない。
そんな状況にため息をつき力なく座り込む者が続出する中、それでも動いている者たちはそこにいた。
『ええ。だから、現状が分からないと細かい対策が打てないと言ってるんです。厳しい言い方になるけどね。そう怒らないで。頼りにしてしまっているから要求のレベルが上がるんですよ。君たちだからこそお願いするんですから。頼みますよ。そこをなんとか』
黒髪ウェーブの青年が、年に似合わない満面の笑顔で両手を合わせた。
報告をしていた急ごしらえの市民団の班長たちが、しぶしぶながらもう一度聞き取りに戻る。人遣いのお手本のようなやり口だった。
『あ、そこはそうじゃない、ありがとう、でもそっちは後回しで良いんですよ。まずは広場を空けて、あるだけテントを張るところからいってみましょうか。最低限でも雨風を凌げる生活の確保が最優先だからね。そちらはA・B班にお任せします。トイレの穴の設置も一緒に頼みますね。C班D班E班の人たちは飲み水と食料の探索を。できるだけ沢山の確保をお願いします。残りFから全ての班員は、生き残った人がいないかどうか、もう一度捜索をお願いしたい。
撤去が進むまでは広場が見渡せる範囲だけでも構いません。あなた方が頼りです。よろしくお願いします。二次災害にはできるだけ気をつけて』
ナーガだった。街から逃げ出せなかった者の内、何とか生き残った市民を集め、班分けし、調整し、笑顔を絶やさず絶え間なく的確な指示を発し続けている。
「……少しは休め。大丈夫か?」
声に振り向くと、デュランが自分の背丈と同等の瓦礫を肩に乗せながら、心配そうに眺めていた。いつの間にかかなりの時間が過ぎていたようだ。
『……』
ナーガは声の主と笑顔を見合わせながら、内心呆れ顔で息を吐いた。この大男は心配性に過ぎる。気遣いはとても有難いし嬉しいが、過保護も程ほどにしないといつまで経っても一人立ちしなくなるよ、誰とはいわないけど。と言いそうになって何度もやめる。馬も蹴らない。
それにしても、広場の片付け班で最も重い瓦礫を運び続け一番活躍している大男に言われると、そっちこそ休めと言いたくなるからさらに困る。
ちょっと担いでいる荷物がでかすぎないかい? どこまで働き者の力持ちだこの男は。
『ありがとう、ボクは大丈夫だよ。精霊体は疲れ方が生身とは違うからね。それより、もっと相方をねぎらってあげてきた方が、良いんじゃないかな?』
笑顔の質を変えて言う。彼の相棒、ナハトも細身の体で頑張っていた。汗だくだ。色々大変だった上に、最後に特大のショックを食らっている。ちゃんと動けているだけでも流石だった。獅子殺しとは聞いていたが。
だが、それでもまだ少年の年齢、中身は大丈夫ではないはずだ。体を動かし痛めつけることで、今はただ、時が経ち気持ちが癒えるのを待っている。そんな風に見える。
「……そう思うんだがな。心配すると怒るんだ、あいつは……」
そんな拗ねるな。
また口に出しそうになった。自分まで心配性のお節介になりかけていることに気づき、ナーガは軽いショックを受ける。
『……まあ、いいか』
嫌な気分じゃないことは確かだ。
「何か言ったか」
『いや何も。デュラン、ちょっと、しばらくここを任せても良いかな。ちょっとね……確認しなければならない大事な用があるんだ』
どうやら、指示も一段落したようだし、ね。
「いいぞ、任せろ。……城に行くのか? 気をつけろよ」
気配りができて察しもいいときている。居心地の悪くない心配性。ナーガはきびすを返しながら、手を上げて苦笑しそれに答えた。
鋼鉄の防御壁は、あちこちに凹みや傷が穿たれて、どこもかしこも闘いの爪あとを残していた。勝利の証だ。だが、名誉の負傷だなどと思えるほど、誰にとっても軽い闘いではありえなかった。
その中の階段を登る。
途中の壁に指をかけ壁と同化したコックを捻り、隠し通路を開ける。貴族専用の非常用通路だった。ナーガは素早く中に入ると、内側から同様の操作をし、閉じる。迷路のように薄暗い、複雑に上下する壁の中の小道をしばし歩く。足音の残響する先に現れたドアを開けるとそこは、貴族の屋敷街中心部にそびえる城の大広間。その目の前の中庭に面する大廊下に置かれた、古ぼけた像の台座の裏側だった。
辺りを見回し外に出るとすばやく閉める。誰も居ないことを確認し、広間に足を踏み入れコソリと横切り。
広間を抜けた先の小さな扉を、設定された回数・リズムで叩き、開ける。
中に入ると、そこは小さな部屋だった。子供部屋だろうか。だが、誰もいない。
『……ただいまナーガが戻りました。お待たせして申し訳ありません。皇よ、おられますか』
胸に手を置いて声をかけ、しばらく待つ。と、ベッドの下から小さな人影が現れてナーガに向かって駆け寄った。背丈から見て10歳をあまり上回ってはいない、そんな風に見える少年だった。無言で胸を撫で下ろす。何かあったとき、誰にも告げずに隠れているようお願いしておいた事を、ちゃんと覚えていてくれたようだ。
目の前に来た小さな影は、腕を広げ抱きつきそうになるのを必死で我慢して青年の目の前でピタリと止まる。震えながら目を閉じて耐え、深呼吸しながら腕を元に戻す。幼き皇は、懸命に涙をこらえ拗ねた表情で臣下の礼をとる青年に言葉をかけた。
「遅い……なにかあればすぐに、駆けつけると言うたではないか!」
『申し訳ございません、皇。ご無事でなによりでございます』
それを聞きなんとか二コリ、と少年皇は笑顔になる。
「おぬしもな、ナーガ。無事でいてくれて嬉しいぞ。本当は心配していた……力になれず、すまなかった」
二度にわたって投獄された件だろう。少年は泣きそうな顔で真剣に謝っている。
ナーガはそれを見ながら、どうしてこの様な国の中心で、こんな優しい心が生まれ育つことができたのだろう、と不思議に思う。
そして、その奇跡に付いて、心の底から感謝した。
『皇よ。いま国でなにが起きているか、ご存知ですか』
真剣な顔になり質問する。
「詳しくは分からぬ。教えてたもれ」
自らの無知を晒してでも出来ることをしたいという、幼い気持ちが現れていた。それは幼く、だが、誇りの形そのものだった。ナーガは再度跪き、できる限り簡潔に、詳しく現状を報告する。
「……あい分かった。おぬしが先月国に戻ってきた時、話してくれていた奴らであるな。そしてその星の敵に唆され、手引きした輩どもがおるのだな?」
『御意にございます』
「愚か者どもが……星の敵なのだぞ。そのような輩と組んで国がどうなるか、想像することすらできなかったのか……謀略を練るしか頭に無い無能どもが。ならば処置は任す。やはりこの国は変わらねばならぬ。今こそ数百年たまった膿を出しつくす良い機会と心得よ」
ふあさ、と、少年皇が右手を振るう。様になっていた。マントさえあればだが。
『しかと、心得ましてございます』
マントが無いことに気付き赤面する皇に微笑みかけ、首肯する。
それを見て、皇は咳を一つだけつき、俯いて言葉を続けた。
「うむ……民には済まぬこととなってしまった。朕の落ち度であった。もっと早く動くべきであったのだ。そうすれば、おぬしが再度捕まり後手を踏むこともなかったであろう。そうしておれば、おぬしの知る対処法で少しは被害も減じたろうに……悔やまれる。だが、それでも我らは進まねばならぬ。でなくば、いま朕が皇である意味が無いのだからな。……おお、そうであった、必要になるかもしれぬ。皇印の予備を持っていくがいい。このロケットに入っている」
首に下がっていた飾りを外し、青年によこした。
『宜しいのですか?』
「次からいちいち質問することを禁じてよいか?」
威厳のある口調で口をへの字に曲げることが、この少年皇の癖らしかった。だが、その割には目が笑っている。信頼の笑み。他の場所では見せたことがなかったもの。
『お預かりいたします。感謝いたします、皇』
苦笑いしながら恭しく賜った。ありがたかった。これで思った以上にやりやすくなるだろう。以前の貴族どもなら、皇印すらもそこまで効力が無かったかもしれない。だが、今の動揺している彼らなら。
確かに好機は今をもって他に無さそうだった。
「……仁義礼智信、そして誇りと慈愛を以って国を治めよ。であったな。おぬしが教育係だった頃が、一番勉学が面白かったぞ」
にこりと、今度は少年らしい笑顔で言う。それはお飾りとはいえ、現帝国皇帝だとは信じられないほど、素直な姿だった。
ナーガは最後の確認をする。
『恐悦至極、勿体無きお言葉にございます。先ほどの件……膿の奥底にはわたくしの立場では手出しの効きにくい御方が居られるかもしれませんが、それでも?』
「二度は言わぬ。これでも朕は怒っている。その意味を考えよ」
『は、お任せください』
直立不動で拝礼した。
「……ナーガ」
少年は虚勢を脱ぎ捨て、もう一度少年の声でナーガを呼んだ。
『ここに、皇』
ナーガも畏まりを取り去り、柔らかい表情で膝をつき頭を垂れる。
「……朕は力無き傀儡じゃ。ずっと操られていることに気付きながら、目をそむけて座っていただけの皇であった。このような事態になったとて、貴族どもをまとめることすらできておらぬ。その朕でも、まだ、やれる事があるだろうか。このような事態、この様になってしまった世界の行く先を、それでも治めていくことができるであろうか……」
少年の真摯で真剣な問い掛けだった。ナーガは向きあい、真剣に答えた。
『そのお気持ちを持つことのできる方だからこそ、できることが沢山あられるのです、皇。以前、同じような問いをしてきた少年がおりました。その少年に伝えた言葉を皇にも差し上げましょう。
【人の生に、意味はありません。誰もが意味なく生まれ、意味の無いまま死ぬのです。ですが、価値だけは。自らの価値だけは自らの行いや生き方で創ることが出来る】
それだけが、世界が平等だという言葉の答えだと、わたしは……いえ、ボクは思っています。できうることならその今のお気持ちを、生涯お忘れなきよう』
少年は頷く。そして、
「……また、行ってしまうのだな。やるべきことが、あるのだろう?おぬしには」
潤んだ瞳を元教育係に向けて、見上げて放った。
『……申し訳ありません』
「待っている。いつか必ず戻るがいい」
ナーガは目を見開いた。口をへの字にした真剣な少年の顔が見つめていた。
【待っている】
その言葉がどれほどの重みを持つかを初めて知った。
仲間たちの幾つかの顔が思い浮かぶ。
彼らが強いわけだった。強くない道理が無かった。
全身全霊を以って片膝をつき、心よりの礼をとる。
『……勿体無きお言葉、ありがとう、ございます。皇のお心のままに。すべてにかけてお約束致します』
心の言葉が伝わった。幼き皇はその日一番の笑みを浮かべた。
その部屋からは、聞くに耐えない雑言と、家具の破壊される音が響いていた。
「なんということだ……なんということだ……!!」
現宰相のゴルディウス=グングニール=ファーレンフィスト。ゴルディウス=ジニアス=ファーレンフィストの父親その人だった。
体格の良い体に似合わぬ腹を必死で隠し、皇座より巨大な玉座に座りながら、グングニールは報告を途中で遮り小物箱を投げつけ苛立っていた。
『お見苦しい限りですね、宰相閣下』
「!?」
掛けられた声に弾かれたように振り向いた。飾りのついた長剣を携えたナーガだった。その姿を見、報告の兵が気まずそうに下がる。ナーガを捕まえた兵だった。先ほどのナーガの活躍も目にしていた。全てが小物の兵士だった。だが目の前の青年と現宰相、今この時、この国と世界でどちらが力を持っているのか、一番理解している者達だった。そしてその心の動きは、兵たちの動きに一番如実に現れていた。
視界に映る元補佐役を、グングニールが目の玉が飛び出るほど歪んだ貌で睨み付ける。
「ナァァァガァァア……ッ!!」
『ひとの名前のイントネーションを間違えないでいただけますか? 人間とはそのような周波数の音も出せるんですね。お恥ずかしながら存じませんでした。お教えいただき恐悦至極』
揶揄を込めると、宰相の顔がさらにドス黒く変化して赤化した。
「き、きさま……どの面を下げて戻ってきおった! こ、このワシにそのような口の聞きようなどをして、どうなるか分かっておるのだろうな、ええ!? 目をかけてやった恩を忘れた貴様になど……衛兵! こやつを捕まえて今一度地下牢に放り込め!!」
飛んできた汚いつばをスルリと避ける。しかし、入り口の兵たちは顔を背け下を向き黙り込んだままだ。勝負の前に、既に勝敗は決していた。
『大深度地下牢は既に溶岩の海となっておりますよ。これで長年のこの国のタブーが一つ、永遠に浄化されたと言うわけです。清々しますね』
眉根にしわを寄せ歯を食いしばり台詞を繋ぐ。
『……呆れたものですね。このような方に、一時とはいえ敬意を抱いていたとは……情けなくて涙も出ませんよ。もはやその様な脅しなど、なんの効力もないということがお分かりになりませんか。いま外がどのようになっているか、ご存知ですか。詳しくご存じないのでしょう? ではなぜ怯える以外の対処を何もなさらないのです? 民があれほど困っているというのに。その昔このボクに【誇りを持て】と教えてくださったあなたは、いったいどこへ行ってしまわれたというのですか! 国が気になられるのでしょう? 自らの国が。だったらご自分の足で歩いて覗いてこられたらどうですか? ご自分の足で歩ける大人、なのでしたらね』
不摂生すぎる老人には、酷な話かもしれませんが。
そういって、ナーガはため息とともに近くに寄って見下ろした。15年前、留学した時に仰ぎ見た、宰相になる前、大将軍だった頃の隆々とした体格が、椅子の上で見る影もなく消えていることに内心涙する。
「き……! きさ……ッ!」
もはや言葉にもならない。
泡を吹いて意味のない言葉を喚く元上司の目の前で、懐から無言で取り出した一枚の書面を提示する。
『皇からの御口宣(くぜん:皇帝からの勅旨を文書にしたもの)です。あらためて頂けますか』
奪うように受け取ったのち、老人は目を剥いてまた喚きだした。
「な……な……なんだ、これは……!??」
馬鹿な、馬鹿な、と壊れた口癖のように繰り返す。
そこには皇印とともに、
【これまでの働きご苦労であった。その礼として宰相ゴルディウス=グングニール=ファーレンフィストにおいては、速やかなる引退および郊外の別荘における永年の蟄居(ちっきょ:自室に閉じこもること)を命ずる。尚、以上の内容はこれに本人が目を通した瞬間に効力を発すものとする】
とだけ書かれていた。紛れも無い、少年皇の筆跡であった。
「こんな……こんな馬鹿なことがあるはずがない!!! なにかの間違いだ、陰謀だ、あの子供にこのような反逆などできるはずがない! 貴様の様な輩がこの印を使えるはずがない! 貴様のような青二才にこの儂が良いようにされるなど、あってはならん、ならんのだ! こ、このような書面に効力など……」
溢れた口泡を飛ばし、震える手のひらで紙を破ろうとかけた指に力を込める。
が、
『たとえ現宰相といえど、皇印の刻まれた文書を破棄されるには、それなりの手続きを必要とすることに変わりはありませんよ。言われなくてもご存知でしょう? これまで散々ご自分で利用されてこられたことですからね、宰相閣下。ご面倒な手続きのやり方にされたものですね。違法の破棄はその場で斬り捨ててよい、でしたか。即断即決で潔い良い法律です、作った方の顔が見てみたいですね。おやどうなされたのです、その表情、あなたが追い落としてこられた政敵たちと瓜二つですよ』
キン、とつばを鳴らし剣を光らせる青年の凛とした口上に、全ての動きを止められた。
「お……のれえぇナーガ貴様ッ!」
鋭い視線で射抜かれて、手に持つ紙を破くこともままならず、全身を震わせる老人にナーガは侮蔑を隠さず畳み掛ける。
『既に他の元老院のお歴々は皆、赫い小瓶の欲望吸収を受け亡くなられているか廃人となられているのが確認されています。そして、貴方がくだんの小瓶を受け取られてなどいないということもね。残念ですよ閣下。これで貴方が【想念の小瓶】の影響下にあったなら、まだしもこの国も救われたものを……』
(そして、ボクもね……)
まるで蛇蝎を見るように、眉をひそめ瞳を開き、耐え続けた全てを噴き出しながらナーガは吼えた。
『失せるがいい!! 二度と顔を見せるな強欲な老人よ……、もう一度顔を見せた時、その時は命の保障は無いと思え!!!』
「……! ………ッ!!」
ナーガの苛烈を極めた視線の先で、顔を真っ赤に染めた元上司は、次第に体の力をなくし膝から床に崩れていった。
『貴方にはもう、何の権限もありません。このままご自分の屋敷に戻られるのであれば、手出しをしないよう衛兵に伝えておきますよ。それをもって、貴方を一度は尊敬したことに対する、対価とします。さようなら宰相閣下。もう二度とお会いすることもないでしょう』
ナーガはきびすを返すと、部屋を出る。この世にはもう二度と見たくないものが存在する。
一度も振り返ることなく、打ちひしがれる老人の姿を瞼の裏から消すかのように、彼は後ろ手で扉を閉めて歩き出した。
薄暗い大廊下の中程まで進んだ頃。柱の影が伸び侵食を始めた闇の中で、ナーガは足を止め、前を見た。
大柱にもたれて荒い息を吐きながら、片手を上げた男をみやる。
『もう……寝ていなくても良いのかい?』
「……そんな場合ではなかろうと思ってな。国も世界も、お前もな」
ジニアス=ファーレンフィストだった。全身の包帯が痛々しいが、目だけは強く光っていた。
『……ボクを恨んでくれて構わないよ』
実の父親を追い落としたのだ。人生二人目の親友の視線を見るのが恐かった。
「……そうだな。普通なら、そうしても誰も文句は言わぬだろうな」
『……』
15年前、ナーガはまだ大将軍だったグングニールの家に留学していた。暗い野望を秘めた留学だった。
そこはそんな暗く澱んだ少年を、それでも見捨てなかった温もりだった。同い年の少年だったジニアスも含めて、故郷で打ちひしがれた彼を家族のように扱ってくれた家だった。誰も信用せず利用することを決めていたナーガにして、完全に拒絶することのできない温もりを与えてくれた場所だった。
10年後、任務に失敗し生涯初の親友を失った彼の前で、再会した親友と同じ名の男は、常に彼に気を使い、笑顔を見せると酒に誘った。五年前のことだ。
「恨みはあるさ。お前にも、父にもな。だがな、それでもお前は……親友だ」
顔を上げると、目の前の友が優しい視線で眺めていた。
『ジニアス……』
「前にも言ったろ? 悩みがあるなら打ち明けろ。一人で悩むな。ケンカしたって良いんだ、友達なんだから。だから、な。戻ってきたら、また酒を呑もう」
15年前、まだ瞳に生気のあった頃のグングニールが言ってくれた言葉を思い出す。
己れに誇りを持てと。
国に誇りを持てと。
この世界に誇りを持てと。
誇りを捨てることは実に簡単だ。だが捨ててそれからどうする? 男が誇りを捨ててよい場所は人生でただひとつ、誰かを守る時だけだ。お前は何のために生まれた?分からぬのならせめて、生まれたことに対して誇りを持て。お前が今ここにいる。それ以上の喜びが他にあるか? 儂は嬉しいぞ。お前に会えて。生まれてきてくれて礼を言うぞ、ナーガ・イスカ・コパ。……と。
たった、15年前のことだ。
人は変わる。
蓮姫……
ナーガは心の内で、自らに力も無いくせに、何度も間違いを犯し裏切られても人を信じた女性に問いかける。
(人は、変わる。その通りです。人は変わる。良い方に変わる人もいれば、悪い方に変わる人もいる。それは何故と問いかけても無意味なことです。誰にもその人の心の内などわかりはしない。でも)
沈みゆく夕日と、欠けて流れる月を見る。
それでも、良い方に自らを変えてゆける人が少しでもいるのなら。
『……この世界はまだ守る価値がきっとある。そうですよね』
「当然だ」
親友が目の前に立った。包帯まみれてフラフラで、それでも目だけは強いまま言う。
「お前が居ない間は、任せておけ。父の贖罪は俺がする。皇も民も国も街も、守ってみせる。だから、お前はお前のやるべきことをやってこい。そして、全てを終えたら戻ってこい。必ずだ。待っている」
……また【待っている】だ。
ナーガの奥に何かが満ちた。先ほどまでの憂鬱を追いやるほどの熱だった。
『勿論ですよ。この国はまだまだ直す所がたくさんあるんだ。ボクがやらなくてだれがやれると言うんだい?』
目を見返して強く返した。
「その意気だ」
わずかの時、笑顔で立ち止まったままの親友の肩に手を置き、無言で歩を進めていく。
「助けてくれてありがとう、ナーガ」
その声に、振り返らずに手だけを上げて先を急いだ。
それだけが精一杯で足を速めた。
「……もう、良いのか?」
夜の帳の下りた広場に戻ると、大男が心配そうに声を掛けてきた。
あれから何時間もずっと作業していてくれたようだ。遅い彼の代わりに指示もしてくれていたらしい。
その上で、遅いでも文句でもなく、その言葉か。
閉じた瞼の奥底で、杖をついた神官長と最初の親友の顔が笑っていた。
(どいつも、こいつも……)
ナーガは酷く陽気な気分になって大口を開けて笑い出した。
青年のそんな姿は初めてで、誰もが呆気に取られて目を丸くする。
『……ええ、もう大丈夫。すべて終わりましたよ。あとは、星を守ってくるだけ。簡単な仕事じゃないですか。さあ、さっさと終わらせて戻ってくるとしましょうか』
頷いた大男と目を合わせた瞬間だった。
『なあにチンタラ片してるんだいアンタ達。このアタシが船を直して最初にこっちに急いでかけつけてやったのに、誰一人気付かないとは何事だい。さあ、準備ができたよ。あとはアンタ達の準備だけさね。分かったら、さっさと船を降ろす場所を空けて迎えの準備を始めないかい』
ルシアの声が空から聞こえた。巨大な声に耳を塞いだ。
同時に頭上の奥から響く、瓦礫を片付ける音にまぎれて聞こえなかった、ゴムを引っ張った時のような甲高い音に気付く。次第に高まり地面を揺らす。
見上げると、星の出始めた空に船が浮いていた。サーチライトが流れ星のように空に流れた。
エイ型の流線型の影法師に、いくつもの噴射口を吹かせた船が広場をめがけて降りてくる。もう一度老婆の声に怒鳴られて、呆気に取られて眺めていた者たちが急いで広場を片付け始める。
『なにやってるんだいムハマド! しっかりおし!』
『すみませんすみません、だから今はお願いですから黙っててもらえませんか!? 暗いと微調整が大変なんです!』
ナーガとデュラン、ナハトたちが眺める先で、小さな窓から必死で操縦しながら手を振るムハマドの姿と、彼を怒鳴る老婆が見える。
小刻みに震えながら降りてくる船を見ながら、ナーガは目の端で月を見上げた。
『待っていろナニール。反撃は、ここからだ』
小さく白い月がさざめくように、大気の揺らぎで揺れて震えた。
そして6人を乗せ見送られて飛び立った船は、セレンシア神聖国を経由して体の癒えたクローノの後輩を乗せると、クローノや蓮姫たちと連絡が取れないことを案じながらも、後から必ず探しに行くと決めて砂漠の国を目指して飛び続ける。
彼らがイェナの都があった場所に大穴を見つけるのは、もうわずか後、砂漠の夜が白く明ける頃。
そんな時刻、世界の昼と夜が交わる境の真ん中で、シートに横たえられた負傷者の少年が、呻くように目を覚ました。
第二十二話 『カルロス1 〜人の間〜』 了.
第二十三話 『カルロス2 〜人の痛み〜』に続く……




