第十四話 『告白 〜心声〜』
少年の姿をした者が歩いていた。
身の丈の数倍もある岩礫が立ち並ぶ荒野の、岩山のふもと。鋭い切り口を見せつける、悠久と無限の幻想によってボロボロに崩された、奇奇怪怪な輪郭の群れ。風に砕かれた砂がときおり宙に舞い、雲を越えどことも知れぬ場所へと運ばれてゆく。
そこはヒトが好奇心や情、開拓精神と言う名の【熱】を失ったこの時代において、もはや誰一人として訪れることのない、西大陸最奥に抱かれた砂の生まれる始まりの地。
誰もが興味を持たないそれ故に、ヌウェラ砂漠と同様に、その場所は皮肉にも最高のセキュリティーを誇り続けていた。
その夢幻の終わりの窄まりに、隠された小さな基地が眠っていた。
とても小さな建物だった。猫の額のような岩の割れ目の奥底に、小屋のようなものがポツンと一軒あるだけの、それだけの施設だった。だがその建物は、こじんまりとしたスケールにまるでそぐわぬ大きさのアンテナらしきものを、敷地内の見渡す限りに棘として備えていた。前後の岩山をくりぬいて、林立する剣山のように針が無数に穿たれていた。
その施設を目指し、乗り捨てた船から降りた少年の姿をした者は、ゆっくりと歩を進めていく。
ときおり止まる足運びはまるで、何かをじっと確かめるかのように。一歩一歩、覚悟を決めていくかのように少しずつ力強く。
じっくりと時間をかけ、その姿が建物に到達し、消える。後にはわずかに残った夕日の残滓に照らされた空間と、風に舞う砂に埋もれる足跡だけが残されていた。
その小さな足跡の群れは、背後の地平、岩山と荒れ野の境目に僅かだけ取り残された平地。そこに轟然と佇む巨大な翼の足元へと、長く長く続いていた。
しばらくして、施設が敷地ごと微かに震えた。無数の針が空に向かって伸びていき、永の眠りから覚まされたことを憤るかのように、針山となった岩全体が、大地ごとおこりのようにその身を震わせ始めていた。
◆ ◆ ◆
どこにも繋がらない閉鎖された空間で、際限の無い熱の力場が荒れ狂っていた。
二人の男たちの放つ量子励起が、灼熱となり両者の中間で激突する。
もはや元の形すら定かでない岩たちが溶け出して、四人の人影を挟んだ中間に焦げた河が流れ始めた。溢れたマグマが滴となって飛び回る。空間の床のすべてが熱の色に覆われる。切れかけた電灯のようにまたたき続ける蒼き女性の放つ力場が、ナーガたちを必死の思いで守っていた。
だが、その全てを退ける球状の安全圏も、徐々にその体積を減らしてゆく。
暗黒の切れ目を背後に背負い無言の形相で力を放ち続ける男を睨みながら、ナーガは全力で世界の拒絶と抗っていた。放てる力の出力差ではナニールには未だ敵わないだろう。
それでも、先ほどまでの不安定さは、もう彼の中に残ってはいなかった。
ずっと、満たされることなく言い訳のような説明で自らを納得させ続けてきた。一時は利用されたその心の空隙が、今ようやく熱い何かで満たされていた。生まれて初めての感覚だった。しなければならない事があり、自分にはできる事がある。それは自分にしかできないことで。そして、自分には信じてくれる仲間がいた。
今まで聞いた様々な言葉が浮かんでは消えてゆく。
《生きる意味って、なんなんでしょうか……》
ファング君……
《世界ってのはなあ、テメーの手の届く範囲のことなんだぜ。星の危機だ? 阿呆か手前、知らねえよ偽善者が、それ以外なんぞどうなろうと知ったことかッ!》
あの時のアサシン……
あのとき、ボクには上手く答えることができなかった。
今なら、答えられるような気がするよ。
世界とはなんだ。
そう、その通りだアサシンよ。世界というのは確かに、自分がそこにいるということだ。
己れの手の届く範囲のことで、目の届く範囲のことで。それ以上でもそれ以下でもない。本当に何一つ大して特別な事はなく、真実それだけのことでしかないのだろう。
すべてを背負う事はできない。届かず見えないものがどうなろうと、心の底から嘆くことなどやはり人にはできないのだろう。
冷たいとかそういうことですら無く。心が理解することがないだけで。
けれど……
《でも、人は変わっていけるはずだわ!!》
蓮姫……そう、そうですね、人は確かに、変われるようです……。
そう、世界とは、己れが美しいと思うすべてのことだ、愛しいと思うすべてのものだ。それだけは誰もが共に認識している世界の意味の理だ。
その範囲を超える事はなく、全てはその範囲で決められてしまう利己的なものでしかないけれど。簡単に目減りして、増やすことだけが恐ろしいほど難しく。誰とも重なることはなく、自分以外の誰にも理解できないものだけど。哀しくて悲しくて、淋しくて痛くて空しくて。不細工で汚くて、綺麗なんてとても言えないものだけど。それでも。
途切れず、繋がっているのものでもあるのだろうと今は思う。
重ならずとも繋がって、理解できずとも知ろうと思うことはでき、そして努力するだけの余地はある。
おのれの範囲は増やせ無くとも、共に尊ぶことのできるもの、その繋がりを増やすことは出来るはずなのだから。
だからこそ、
捨ててはいけないものなのだ。諦めてはいけないものなのだ。
自分の世界を。共に居る者の世界を。繋がっている、繋がってゆく、そこに含んでいる全てのものの意味と価値を。
誰に理解できずとも、それはボクらが拾い集め、これまで守ってきたものなのだから。
簡単に否定して良いわけがない。冷たく壊して良いわけはない。
そこに繋がるすべてに対して、軽くあしらって良いわけなんて欠片もありはしないんだ。
価値は行動によって造ることができるけど。
すべてに納得できる生きる意味なんて無い。
だけど、もし一つだけ生きる意味があるとするならば。それは。
自分が大切だと思う世界を守るということなのだろう。
単純で薄っぺらくて、誰もが知ってる陳腐な答えでしかないけれど。
《君は生きて見届けなさい》
《あなたは生きてください》
プルーノ神官長、ジニアス……
自分にも大切なものはあった。
範囲は広げられずとも、気付くだけで見えるものがちゃんと存在していた。
見えていなかったし信じてなんていなかったけど、それでも美しいものはちゃんとそこにあったのだ。
世界を広げられずとも、世界を満たすことはでき、見えないものを美しく変えることは、この自分にも、誰にだって出来ることだったのだ。
世界を変える事はでき、世界を彩る事はできる。見失いさえしなければ。手放しさえしなければ。拒絶さえしなければ、諦めさえしなければ、確かにヒトは変わることができるのだと、今は信じることができるかもしれませんよ、蓮姫。
信じていなかったボク自身が、それの完璧な一例になるなんて凄い皮肉だけれどもね……
『……それなりに、悪い気分では、ないみたいだね』
そう、だからこそボクは……、
そいつを減らしたくないんだ! 減らしたくなんてないんだよ……! 僅かだって、ほんの少しだって。減らしてなんてやらないのさ。減らしてなんてたまるものか。ただの僅かだとしても……。
ボクは強欲でワガママだからね。だから、
『できる限りの事をするのさ。大切だと思う全てを守る。欠片たりとも、減らさないようにする為に!!』
もう、精神攻撃などに惑わされることは金輪際二度と無い。
『減らず口を……何も知らぬ青二才が!』
『ナニール! 確かにボクは若造で、ボク一人ではお前を倒しきることは出来ないかもしれない。けれどね、もう負けないさ。負ける要素などかけらも無い。ボクは大切な事に気がついた。こんなに長くかかってしまったけれど、普通の人なら簡単に理解できたことなのかもしれないけど。それでもボクは気がつくことができたんだ、ボクのような造られた者にだってだ! ボクは一人じゃない。諦めなければ一人にならない。そして、お前は一人だ。お前は独りじゃなかったのに、お前は独りを選んだんだ。だからこそナニール、お前がボクたちに勝てる理由など欠片だってありはしない!!』
『……!! その言葉……貴様、その言葉を我に、我に……我に向かって言ったのかぁ!』
ナニールの精霊体で形作られた全身が瘧のように震えていた。初めて……、そう、本当に身体を失って初めて、真の憤怒がナニールの全身から溢れ出ていた。それは恨みでも憎しみでもない、真の怒りそのものだった。
『我に言うというのかその言葉を……おのれ、おのれ……ナーガ、貴様ァ!!!』
全ての出力が増大した。それでもナーガは耐え続ける。
『負ける理由は無いと言ったろうナニール、もう折れない。もう絶対に貴様程度に惑わされはしない! 去れ。そして自分のしてきた間違いを思い返しながら、最後の時を過ごすがいい!』
押し返した! いつの間にか拮抗していた、いやむしろ押されていたはずのナーガの熱力場が、次第にナニールを押し返し始めていた。
初めて、ナーガの力がナニールのそれを上回っていた。
『馬鹿な、有り得ぬ、こんな小僧などに! お、の……れえええええええええ!!』
徐々に空間の穴に押し戻されていく。ナニールの身体がどんどん闇に沈み込む。
ナニールが宿っていた貴族だった男の姿が断末魔を上げ消滅し、苦悶する姿が王弟だった少年の形に変わる。
『シェリアーク』
そして苦悶するその姿を見上げながらナーガは、少年の姿をしたナニールではなく、少年の姿そのものに向かって声をかけた。
『ボクの感じてきた哀しみや辛さが君に理解できないように、君の絶望もボクには永久に理解出来ないだろう。ほかの誰にも理解できない。それは君だけのものだからね』
いま、ナーガの瞳は少年を少年としてのみ捉えていた。唸りを上げる精霊体ではなく。それを感じたのだろうか。うなり声が小さく消えた。
『だからね、一つだけ質問するよ』
そして響いたナーガの言葉の一つ一つが、
『君は、死ぬその瞬間も独りでいたいと思ったのかい? 本当に? ……ばかだよ。君には、居たはずなのに。居てくれたはずなのに。君が死ぬ瞬間に、共にそばに居て、泣いてくれる人が。悲しんでくれる人が。君の手を取り、君を……悼んで覚えていてくれるはずの人間が、居たというのに』
少年の姿を奥の奥まで貫いていた。
『……!』
少年の姿をした者が、息を止め。
『君は自らそれを捨てた。馬鹿だよ、シェリアーク……』
『!……!!あ、あああ、………あああああああああああああああ!!!!!!』
ナニールの声でない声で声の限りに叫んでいた。
『シェリアーク!? 莫迦な! シェリアークの精神の力が抜けていく、待て、待つのだ!おのれ、おのれええ!』
『今一度、暗闇に還れナニール。次に出てきた時が、真にすべてが終わる時だ』
力場が荒れ狂い、ナニールを再度飲み込んだ空間が逆再生のように閉じていく。
『……シェリアーク。考えろ。考えるんだ。君ができることを。君にできる事を。君はまだこの世に居る。この世界とつながっている。ならば、ならばまだ、できる事があるはずだよ』
届いたろうか。最後の言葉が、少年に。少年の心に。
最後の叫びの響きが消えて、そして力場の嵐が残る。
『今ですナーガ、この時空流残滓を利用して短距離ジャンプを試みます。幽閉されていた以上、あなたはいま手鏡型端末を持ってはいませんね? ならば私の力だけでやってみます、地上くらいならまだ何とか飛べるはずです。ご友人とともに私の裾につかまってください、そこだけならまだギリギリ実体化させておけますから』
ナーガがファーレンフィストを抱え上げ、ゲフィオーンの裾を強くつかんだ。その瞬間、荒れ狂う熱の地下道から三人の姿がかき消えた。
◇ ◇ ◇
「どうしよう……どうすればいいっていうのよぉ!」
ラーサはパニックになる寸前だった。
大切な友人一人救えない自分に絶望感が広がってゆく。
「ラーサ、カルロス……!」
ナハトも焦りでどうにかなりそうだった。せめてラーサのすぐそばにいてやりたい。だが、それはできない相談だった。いまここで闘えるのはナハトとデュランだけなのだ。今のリーブスを戦力に数えるのは酷すぎる。彼はいま、涙目で歯を食いしばったまま、次第に力を失ってゆくカルロスの両手を離すことができないでいた。
「ナハト! 気持ちは分かるが今は、余所見をするな!」
襲いくる巨大機械体を相手に、デュランはナハトと連携をとり確実に屠ってゆく。渡された古代武器の扱いにはだいぶ慣れてきた。もはや一体一なら負けるつもりは無い。だが、ここに敵の主力がいることに気付いたのだろう。すべての機械体が5人のいる広場に向かって集まってきていた。それに二人だけで対処していく。どこまで続くのかすら定かでは無い。無理は承知だ。心は決して折れない。折るつもりも無い。それでも、休み無く闘い続けている疲れの蓄積は、容赦なく身体と精神を蝕み始めていた。
視界の端に、街の内側を守る最後の鉄壁が映る。天辺に、黒山の人影が溢れていた。襲撃の最初の頃はともかく、いまはもう、もはやそこ以外どこにも逃げる場所は無いのだろう。早く逃げろ、危ないから出てくるな。そう言いたくても最早遅い。首都の周囲はすべて、巨大機械体の群れと瓦礫で覆われ始めていた。
遠くの砂防壁がとうとう攻撃に耐えかねて、地響きを立て崩れていった。
そんな中、壁の上まで避難してきた人たちが、ともに逃げてきた街医者から手当てを受けながら、真下の広場で繰り広げられる5人の絶望的な戦いを眺めていた。
「ああ! あの人たち、やられちゃいそうだよ!」
「がんばって! 負けないで!!」
「そこだあああああ! 負けるなああああ!」
「お願いです、だれか、神さま、あの人たちを、守ってあげてください……」
5人に救われた子供たちだった。
この優雅で退廃した虚飾の街で、それでも一部の子供たちは、いまだ輝く目を失ってはいなかった。英雄のように現れながら、一人が倒れ、とうとう追い詰められているナハトたちを見て。街から逃げる事のできなかった者の中には非難する者もいた。格好つけて現れておいて、なんて無様だと。できないなら、自分たちを助ける力も無いなら出てくるな、さっさと自分たちだけ逃げりゃあいいだろうがボケと。だが、子供たちは。
「負けないで、お願いだよ!」
「がんばれええ、がんばれえええ!!」
「ありがとう、来てくれて、お母さんを助けてくれてありがとう……!だから、死なないで!」
涙を流して応援し始めていた。
壁の端で目を見開いて、数百人の、街に取り残された子供たちすべてが集まり応援し始めていた。
高みから声が届く。
「ディー」
「ああ……聞こえてる、ナハト」
目まぐるしく闘い動き回る二人だけでなく、広場の中心で嘆くラーサとリーブスの耳にも届いていた。たぶん、動けないカルロスにも。言葉に出す気力は無い。だが、それでも耳に届いていた。
「どうやら、無駄では無かったようだな」
「そうだね。……無駄じゃない。無駄じゃなかった。ちゃんと届いてた。そして、返ってきた。返してくれた。アベル、無駄なんかじゃないさ、やっぱり無駄なんかじゃなかったんだよ」
防御の合間に目を覚まさないカルロスを横目で見る。
「カルロス、死ぬな。まだ死んじゃダメだ。君も見るんだ、あの子供たちを。死なずにその目でちゃんと見なくちゃ、ぜったい駄目だ」
力は減る一方で、負けるつもりは無いが勝機は見えないままだ。それでも、疲れは飛んだ気がした。気持ちが軽くなっていた。苦り気味だった表情にいつもの笑みが戻っていた。
「負けないさ。もう意地だけでも気持ちだけでもないんだ。あそこで応援してくれている。だからさ、ディー」
こちらも戦力が落ちたとはいえ、確実に敵の数も減ってきていた。それに気付く。気付けなかった状況に、子供たちの声が気付かせてくれた。
「おお、まだここからだ。倒しきるぞ、ナハト!」
ラーサの耳にも届いていた。
ぐっと、唇を噛む。泣き叫んだままでいるわけにはいかなかった。まだカルロスは生きている。なら、諦めない。諦めてやらない。
涙を袖でぬぐい、ラーサは水晶球を抱えて立ち上がり、カルロスを見る。
リーブスの耳にも届いていた。
握る手がまだ暖かかった。まだ終わっていないのなら。
ずっと10年間守ってきた、小さな主人を見る。
「坊っちゃん……聞こえますか。あれが、あの叫びが坊っちゃんのなされたことですよ。坊っちゃんの為された事にはちゃんと意味があり、価値が生まれているのです」
いつもとは全く違う声色で、執事は真の執事らしく、「だから、ここで終わりじゃないですよね、坊っちゃん」と、恭しげに主人に告げた。
一緒にいるとどうしても巫座戯た態度になってしまうが、リーブスの忠誠は変わらずいつも本物だった。ずっと、あの10年前出会った頃のまま変わらずに。
ラーサが泣きやんで、腫れた目のまま横に立った。水晶球をかざす。
「ラーサ嬢、後を、お願いしてもよろしいでしょうか……」
主人から視線を外さないまま、頼む。
「うん……まかせて」
声を聞き、頷いて、銀髪の執事は立ち上がる。最後に、小さな主人の前髪を軽く撫で。
「坊っちゃん、星なんてさっさと救って胸を張って生きて帰ってやりましょうよ。まだ、私は貴方の幸せな姿を見足りていないのです。10年前に貴方の笑顔に救われた恩も、返しきれていません。なにより、私は貴方とともに老衰で動けなくなるまで、共に年を重ねたい。貴方の孫の代、ひ孫の代まで支えたいのです。だから」
武器を手に、ナハトたちの方をみやる。ここで諦める訳には参りません、そうつぶやいて、歩き出す。
「ラーサ嬢、今の言葉、坊っちゃんには内緒にしておいていただけますか」
「どうしようかなあ? じゃあ、死なないで戻ってきたら言わないでおいてあげる」
だから、後は任せて暴れてきなさい。
その言葉に答えた執事は、気合とともに数十の誘導ナイフを周囲に浮かべ、闘う仲間の元へと瞬動した。
「……」
壁の上で、子供たちの必死の声援を聞きながら、一人の男が真下の広場を見下ろしていた。そして階段へと歩き出す。数人の男たちが後に続いた。
十数分後、三人に増えた闘う者が敵を退け暴れている頃。
ラーサは必死でカルロスの命を繋ぎとめていた。外科手術の技術の無い今の彼女にできるのは、水晶球の力で痛みを和らげ、流れ出る血を抑え、そして血潮を止めないでいることだけ。それでも絶望することなく、途切れない声援の下、彼女は気合を放ち続けていた。
そこへ、
「わたしに、診せてもらえないだろうか」
初老の男が一人近づいて声をかけた。
「?!」
視線を上げたラーサは目を疑う。街の住人だった。口の回りに見事な髭を蓄え、大きな鞄を下げた男が、壁と自分たちの間に立っていた。その後、数人の男たちがラーサとカルロスの回りを囲み、まるで守るかのように背中を向けた。
「な……何をしてるのあんたたち? なんで逃げてないの、逃げてよ! あたしたちのした事を無駄にしないで! あの敵の強さを分かってるの!? あんたたちが逃げてくれないと、気になってあたしたち……!」
「承知している」
男は遮り、言葉を続ける。
「君たちの強さも、あの敵の強さも見た。我々では邪魔にしかならないだろう」
「なら! 逃げてよ!」
「君らを置いてかね」
初老の男は年月を刻んだ顔に、苦りきった苦笑をためた。
「え?」
「それでも、できる事があると思ったからもう一度降りてきたのだ」
言いながら近づき鞄を開け、膝をつき道具を取り出す。
「わたしは医者だ。力を貸せるかもしれない。いや……返せるかもしれない」
「なに言って……」
「君たちに孫を救われた。見たところ君は、彼を維持するだけで精一杯のようだ。手術をさせてほしい。今ならまだ間に合うかもしれない。恩返しをさせてくれ、頼む」
言いながら身体を消毒し、手術着を着てテキパキと回りに指示を出し、ルーペをかける。
「衛生状態は最悪だが、何もしないよりはマシなはずだ。君なら、傷口を汚さずに維持できるのではないかな。ならばそれをお願いしたい」
「……どうして?」
「始めるぞ」
曖昧なその質問には答えずに、少年の傷口をルーペで見つめ、慎重に岩の破片を取り除き始めながら、医者と名乗る男は続けた。
「君たちから見れば……この国の人間、我々は確かに、ロクな人間ではないのかもしれん。どうしようもないヤツも多い。そして、我々は確かに、何も知らない。あいつらが何者なのかすら知らん。この星や、国の外で何が起きているのかも、外で国の上層部が何をしているのかも分からない。国は何も教えてくれんからな。情報を遮断され、搾取され、そして我々は、……その中で享楽的に過ごしている」
「……」
ラーサは、水晶玉の光を当て傷口の清潔を維持しながら、無言で聞いた。
「それが良い事だとは言わん。確かに、なんの見返りも無さそうなのに助けに来てくれた君たちから見れば、馬鹿の集団にしか見えないだろうし、事実……その通りなのだろう」
「……そうね」
「正直だな」
髭を震わせ、男は苦笑して続ける。
「だが、我々は我々で懸命に生きている。懸命に生きていて、自分たちが大切だと信じるものを信じている。わたしにとってそれは、孫であり、医者の腕だ。他のやつらも似たようなものだろう。信じるものは違うとしてもな。それは、あの子たちにも言えることだ」
ラーサは首だけを上げ囲んでくれている者たちを見た。震えていて、それでも彼らはそこにいた。壁の上も見る。子供たちが最前列で祈っていた。声が枯れても届けていた。
「あそこにいるのは、逃げ損ねた、ただの野次馬が大半だ。だが、あの子たちは、君たちを心底応援していた。この彼が傷ついて倒れているのを見て、悲鳴を上げて祈っていた。それがどうしたと言われればそれまでだがね。ただ、あの中には、君らを非難する者や野次馬以外もいるということだ。もちろん、子供たち以外にもな」
「……」
「こんなことで君らへの礼になるとは思わないが……」
「ううん、……ありがとう。あの子達の声は、力をくれたよ。おじさんの言葉も」
「そうか」
「あの子達に伝えて。ちゃんと力になったって。ちゃんと届いたって。おじさんの気持ちも、ちゃんと伝わったよ。ありがとう……」
「……そうか」
「だから、先生。カルロスを、助けてください。……お願いします」
少女が下げた頭を、医者は見た。そして、頷いて手術を続けた。
回りでは、飛んでくる瓦礫や塵風から、何の力もないだろう男たちが、拾った板切れや鉄棒で、必死に全力で守っていた。
第十四話 『告白 〜心声〜』 了.
第十五話 『告白 〜望痛〜』に続く……




