第十二話 『崩壊前夜 〜蒼〜』
「どこへ逃げようというのかね?!」
「そこまでだ、観念しやがれ。もう逃げられねえぞアベル!!」
真後ろから追いかけられながら、アベルは低く哂いうそぶいて囁いた。
「お二人さん、なんだか呼吸が乱れてるんやおまへんか? こん程度でヘタばっとったらアカンでえ、修行ちゃんとやっとったん?」
返った返事は投擲ナイフの雨あられ。コースを見切りギリギリでヒラリとかわし口撃をし続ける。
「危ないやんけ、せやけどそんなんでこの俺は止められへんでェ」
わざと怒らせようとしているのだろう。二人ともそれは読めていた。だが、あまりにムカつく言い方が上手すぎて怒りを抑えることができなかった。
「ぬかしやがれスットコドッコイ! これ以上は何もやらせねえつったらやらせねえんだよボケ野郎!!」
「おうおう言うねえ、どっちがチンピラなんやか分からへんやん?」
広い廊下で二人のコンビネーションが残り一人の足を削る。じりじりと距離が詰まる。
捕った!
アリアムが不用意に近づいたその刹那、コールヌイは小さな呪文の流れを聞いた。アベルが懐で何かをしている。不穏な音の羅列が伸びる。
「陛下! 不用意に近づいてはなりませぬ!!」
「何!?」
ほんの僅か遅かった。
アリアムが武器を振るったのと同時だった、アベルが振り向きざま小さな何かを投擲する。アリアムは慣性を無視し全筋力を総動員してピタリと止まり、飛んできた何かを短鉄棒でガチャリと弾いた。
澄んだ鈴のようなガラスの割れる小さな音が辺りに響く、そして、
「コード№.09展開、緊急プログラムオートRUNや!」
アベルの言霊が完成した。
きゅぅぅぅぅっぃぃぃぃぃぃぃぃ!! キン!
「陛下―――――――ッ!!!」
割れた手鏡の破片がアリアムごと周囲を包み込み、光を放ち縮んで消えた。
アリアムの姿はどこにも無い。
雄叫び。床を蹴って後方に避けたアベルの眼前を手甲ナイフが通り過ぎ、研ぎ澄まされた剣戟で二人の体が体当たりのように重なった。力比べの形に入る。受けきったアベルの刃先から鉄の嘆きが響き渡った。
「何を、何をしたのだアベル!!?」
コールヌイは後悔のノイズに苛まれながらも刃を合わせたまま睨みつける。顔の近くまで剣を力任せに押し込まれ、アベルの腕が少し下がった。
「おお、アンタでもそんな焦った顔をするんやね。せやけどなんも心配せえへんでええわ、短距離転送したまでやし」
クスクスクス。笑いながら返事する、とてもとてもにこやかに。
「緊急転送いうてな、設定しとくと割れた途端離脱機能が発動すんねん。こないな事になってもぅて残念やけど、それでも大事な仲間やで、殺したりなんてするもんかい寝覚め悪い。心配あらへん、ちょっとは信用してぇなって」
軽快なウインク。
「アベル、君………」
つばぜり合いののち苦虫を噛み潰した苦悶の顔でコールヌイは飛び退り、再度攻撃の構えを取った。目の前に、見慣れた青年の見慣れた笑顔。
「それを信じろとでも言うのかね、今更、君が!」
「だあいじょうぶやって、みぃんな大事に決まっとるやん? 大事な部品として最後まで有効に使ぅたるって、あったり前やんけ。勿体無いは犯罪やねんで、なあ、コールヌイはぁん?」
舌が見え、目の奥がくらんでスパークする。コールヌイは流したことの無い種類の涙が流れそうになった。
「あれえ、まだやろう言うんかい。律儀やね。ああ、そうやった、そうやったね。アンタは昔から律儀で融通きかんお人やったやね、そのうえこの国にはエライ借りがあったんやっけ、そらぁ引けんし頑固にもなるってもんや」
「な、に!?」
いきなり言われたコールヌイは、彼には珍しく戸惑い混乱した。感情が乱される。先ほどの怒りの反動で意識が一瞬斜めになる。
なんだと、彼は今、何と言った……?
「知っとんやでぇ? アンタ、建国王の仲間やったんやってね。百年前の建国時、黒球の封印磁場に巻き込まれ、結晶型空間に強制凍結コールドスリープされたんやって? 災難やったね、ホンマかなん思うわそれ、強制退場なんて俺やったらしばらく凹みまくるで」
な、……何を言っている? 何を言っているのだ彼は!?
「な!! なぜだ……なぜそれを君が知っている!?」
コールヌイが初めて怒りと喜び、悲しみ以外の感情を他人に見せた。
彼の言う過去の記録。彼の認識は、記録のもの。本当の真実とは微妙に異なってはいる。だが、それは失われた記録、記憶だ。なぜ、知っている。
いったいどこから知ったというのだ!?
「80年間くらいやったっけ? 前王に救出されて気がついてみたら、いきなりそれだけ年月経ってたら、そらもうビックリするわなあ。分かる、分かるで。しかもそんな胡散臭い男を王は登用してくれた上に、王子の世話係を命じてくれたんやて? そら恩を感じて尽くしてもしゃあないわな」
「クッ……」
あのコールヌイが、震える腕を押さえつけるのに必死な姿を見せていた。
「でもなあ、その過程でアンタはこの国の現状を知ってまいよった。建国の理想を完全に覆す奴隷商売という現状をな。ま、それも全部あのナニールの仕込みの仕業だったようやけど。それでも理想は失敗に終わったいうわけや。よくあるハナシ、哀しい挫折。けどそれを知って、それでも王子を育てたのは、なんでや? 建国の時の誓いを守れんかった償いか? 先に不本意にも離脱してまった事への仲間への贖いか? せやけどそれもこれもみんな、あの王子さんの育ち方見る限りで言やあ、子育てすら失敗やったんやないんかねえ? つまるところ良いトコまるで無しってヤツ?」
「黙れ……ッッ!!」
あのコールヌイが怒髪天を突いていた。誰も見たことの無い彼の姿。
「怒んなや、意固地はいまどき流行らんで?」
コールヌイは乱れた呼吸をなんとかわずかに整えた。
「……そうか、そうだったな。君は、設備の生き残っていた大戦時の情報中継基地に五年間居たのだったな。だが、人のプライバシーをこれ以上掘り起こすのはその辺でやめてもらいたい、悪趣味極まりないと思わんかね」
「くすくす、悪い悪い、でもええやんかちょっとしたお茶目くらい。そんなアンタに聞いたるで? この国はもはや取り戻しなんて効かんちゅーこと、認めたったらどないやねん。いったん壊すべきとちゃうんかい。アンタならそっちに賛成してくれる思うたんやけどねえ」
「……」
無言で武器を構え直す。
「……へ、しょーもな。忠誠ってかい。せやからいまどき流行らんってのに。あの若様のどこにそこまで魅力がある言うねん、とーてい理解でけへんわ」
「理解してもらおうなどとは思わぬよ。それでも、わたしはあの方を最後まで見届けると決めたのだ。あの方が壊すと仰るならそれも一興。だが、君に壊させる訳にはいかない。この国に関わりすらも無い君にはね。あの方の帰る場所を守るためにも、それまではここは通さぬ。それだけだ」
「……ハ、アンタがそこまで長くお喋りするの、初めて聞いた気がするで。羨ましいこったねえ」
「全てを壊すしか望みの無い君などに言われたくないものだよ、それではナニールと何が違うというのだね?」
会話は終わり、両者はまた対峙する。
風が巻き、戦闘が始まった。
◇ ◇ ◇
気がつくと、煌めく破片とともに薄暗い地下室に移動していた。破片が効力を失い床に落ちて粉々になる。
「ここは……」
見覚えのある地下道だった。城からの脱出口。しかし、前の騒ぎで城への道は埋まってしまい使えないままになっていた。
「俺は……ッ!!」
出し抜かれ、アベルの手にまんまと引っかかって跳ばされたのだ。それに気付いて激昂する。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」
叫びながら床に拳を何度も何度も叩きつけた。地団太で板を踏み抜き、机を蹴り上げ、漆喰の壁を殴り壊し。そして、
「……ここからなら、エマさんの新しい酒場が出口から近いな」
唇を噛んで血を流しながらも、新たな行動を開始する。
(今から城に戻っても間に合わねえ。ならば今出来る事をするべきだ。切り替えろ。コールヌイは信頼してるが、それでも最悪のケースを考えて行動しろ。今出来うる最善の一手を考えるんだ。二手三手先まで想像し最大限の効率を。悔やんでいる暇があったら行動しろ!嘆いている暇があったら考えろ! 王はお前だ、アリアム・フィオラネイウス。乗り越えろ。脇に置け。存在する全てから非難されても、今必要と思うことをさっさと急いでやりやがれ!!!)
「これ以上誰一人、犠牲者なんぞ出してたまるもんかよ!!!!!」
不甲斐無さで噛み切った唇から盛大に血を流し悔しさで震えながら、現役の王を名乗る男は、革命組織の溜まり場だった酒場に向かい脱兎のごとく駆け出した。
◇ ◇ ◇
『やらせはしませんよ』
透き通った女性から穏やかに決意の怒りがほとばしる。その蒼い炎風にナニールは内心舌を巻く。サブシステムが停止した状態で、一体どこからここまで力を引き出しているというのか。だが、それでも。
『その程度では我には届かぬ』
言霊で杖のイメージを現出し、リズムに乗せて振りかぶる。
黒い雷が噴出し電子の雷雲が天井を覆う。
『僥倖だ、今ここで積年の怒りを晴らさせてもらうとしよう、そんな程度の男のために不用意に出てきた事を、消滅する間に悔いるが良い!』
空間がスパークした。天然の地下洞窟が存在してから初めて雷のプラズマにさらされて、炎熱する。焦げた岩肌が飴のように溶け、次々に流れ出し固まってゆく。
『なぜだ、なぜサブシステムの援護の無い状態でそこまでの出力が出せるのだ……』
それでもゲフィオーンは存在していた。蒼の風に守られて、溶岩に囲まれたナーガも無事だ。
『簡単なことです。いまここで必要だと全員の意見が一致したので、これまで貯めた仲間の全てのエナジーを受け取ってきただけのこと』
『なるほどな。ならば現時点で、この先動ける精霊体はお前たち二体だけというわけだ。くく、失策だったなゲフォオーン、ならば今ここで全ての因縁を断ち切り、お前たちバグとの馴れ合いを永劫に終わらせてくれるわ』
『失策ではありませんよ。言ったはずです、ここで私が消えたとしても、彼を消させる訳にはいかないと。ああ、それと』
と、いたずらを告白する少女のように、にこやかな笑顔で付け加えた。
『人質も返していただきました』
『な!?』
ゲフィオーンの後ろ、倒れたナーガのそばに、囚われていたファーレンフィストが青の風に運ばれて横たわる。
『貴様、いつの間に』
『注意が逸れていましたよナニール。もう必要ない人質ならば、後輩のためにも返していただきます。彼の精神を保つためにも、これ以上友人を巻き込ませるわけにはいきません』
『フム、確かにな。まあいいだろう。ここからはお互い制限無しというわけだ』
『ええ。ではお待ちかね、あなたをここから消滅させてさしあげます』
青の風ゲフィオーンは言い放つ。青の圧力が高まり荒れる。
『言いよるわ、小賢しい。これまでことごとく我にあしらわれ続けたこと、忘れたわけではあるまいに』
『そうですね。でも、彼はこの先必ずわたしたちを超える調整者となる。必要な人材を守るためならば、我々はここで相打ちしても惜しくはないのですよナニール。リミッターは解除しました。いつもと同じだなどと、ゆめゆめ油断されないことです。わたしたちが500年間待ち望んだ者たちは全て揃いました。あとは彼らに託すまで。それに、』
ゲフィオーンは視線を強くし言葉をつないだ。
『永く存在しすぎた我々が、新たな風の為の礎となることは当然のことなのです。それは貴方にも言えることなのですよ、ナニール。キャプテン・ナニール・オルスリート』
電子の火花が跳ね上がり洞窟を彩った。
『今更その名を呼ぶことは許さぬと、以前言わなかったか先駆者よ。良い、消える者相手にこれ以上の議論など愚かなことだ。望みどおり、今ここで電子の海の藻屑となって散るがよい』
言葉には表れない憤りと決意と怒りのない交ぜになった感情、その膨張が地底の大気をおし包み押し込めてゆく。高まりゆく圧力が充満するプラズマの温度をどこまでも際限なく上げていった。
◇ ◇ ◇
地図に目を落とすと、点滅する目印の位置が近づいてきていた。この荒野に転送されてからこちら、音声で縮尺を任意に変えながら地形を映し出す地図は、恐ろしいほど役に立っている。
一家に一台これがあれば流通革命が起こりかねないなと、クローノは静かに嘆息した。
そして、あと僅かで点滅する二つの点が自分に重なる位置に来た。
「思ったよりも、ずっと近かったようですね」
そろそろ姿が見えてもいい頃合だ。クローノは警戒を怠らないよう気をつけながら、周囲をくまなく見渡した。
目に留まったのは、地平線上に広がる、燃え残った森らしき木々の群れ。
なぜか、森の近くで大量の砂埃が舞っていた。
「あそこですね」
クローノの足が速まった。盛り上がった丘を駆け下りてゆく。
しばらくして、その後をついて、小さな足音も転がるように降りていった。
「アーシア! ちょっと来てくれる」
「どうか致しましたか、蓮姫」
蓮姫とアーシアだった。二人は、東部大陸戦役で奇跡的に燃え残った鎮守の守で、社の建て直しを手伝っていた。見栄えはないが、それなりに完成に近づいてきているのが誇らしい。
この数週間の間に、燃え残った森を見つけた二人は、この首都だった街の郊外に位置していた社跡を拠点にして各地を回り、小競り合いを解決し、人材を集めて回った。そして、味方となった人間を各地に向かわせ、散り散りになっていた国民たちに自分の無事を知らせていった。
そしてこの10日ほどで、姫が戻ったという話を聞いて、生き残っていた民や戦士たちが続々とこの森に集まってきていた。女子供を含めるならば既に総勢八千を数え、さらに続々と毎日のように膨れ上がってきている。それだけの人が未だ生きていてくれたこと、自分をまだ信じてくれていることに、蓮姫は感激した。だが、いまは住む家を建てるだけでも人手が足りない状況だ。様々な問題を抱え、蓮姫の苦悩も増えてきていた。
「何か問題がありましたか?」
自分を呼ぶ蓮姫の声に、アーシアは運んでいた荷物を他の者に頼むと、駆け寄る。
「いえ、そういう訳ではないのだけど……ちょっとこれを見てもらえるかしら? この通信鏡、何か光っているように見えるのだけど」
見せられた通信鏡は、かすかに緑の光を発していた。
「確かに。これは……たしか通話できる圏内に他の通信鏡が入ったという知らせ、だったと思います。しかし、わたしの通信鏡のものとは反応が少し違いますね」
アーシアの通信鏡は、各地に知らせて回る味方の武将に使い方を書いた紙とともに預けてある。この森と一族を希望を捨てずに守っていた、最後の武将、烈 宝明だった。蓮姫を見て涙を流したこの御仁は最後の陣地を姫に託し、各地に蓮姫帰還の報を知らせる任を自ら望んで引き受け、走り回っている。
しかし、これは彼に預けているもう一つの鏡の反応ではない。
「……誰か、こちらに来ているのかしら。まさか、もう決戦の日が近いとでもいうの……?」
蓮姫の眉が曇る。早すぎる。まだ復国の狼煙を上げるどころか、本格的な復興に手を付けられてもいない。できるだけ急いでいるのだが、それでも国の名を掲げる態を成すにはまだ最低でも一月は要る。
「蓮姫……」
心配そうに見るアーシアに、蓮姫は無理にでも笑顔を返す。
「大丈夫、分かっているわ。まずは星を救わないと、国の復興なんて物語でしかないものね。優先順位とその為に必要な心構え。嫌というほど学んだから」
わずかに流れる悲痛な後悔。しかし、耐えぬく強さを身に付けた姫に、アーシアは頭を垂れた。
「はい、ご立派だと思います、姫」
「それでも、」と蓮姫は言葉を濁す。
「もう少しだけ時間が欲しいわね……。今しばらくは、私たち二人ともが抜ける訳にはいかないというのに。各地から集ってくれているみんなの為にも」
だが、西大陸で今も頑張っている仲間達も心配ではあるのだ。心が引き裂かれるというのはこの事だった。
「姫……」
「ごめんなさいね、アーシア。聞いてくれてありがとう、少しだけ落ち着いたわ。今は迷ったり悩むより、今できる目の前のことをやらなくてはね。あの二人に笑われない為にも」
あの二人、砂漠の王と王弟のことだろう。
アーシアは言葉をかけるべきかどうか逡巡する。しかし、彼女はそれをせず、右手を胸に当てる砂漠式の礼を取ることを選んだ。そのまま蓮姫をまっすぐ見やる。
友人の精一杯の応援を理解して、姫は花のような微笑で応えを返した。
そこへ、伝令が息を切らせて走りこむ。わずかな時間で消えた笑顔を、アーシアは心底残念に思った。
「姫! 機械体の群れがまた現れました!! この森を目指す民たちを襲っています! その数、およそ三百強!!」
響く報告に瞬時に顔を引き締めて、蓮姫はアーシアに命を示した。腕に持った柄のスイッチを押し込んで、現れた光の剣を陽にかざす。
「行くわよアーシア。ここは新たな国の未来の要。町も民も全力で守ってみせますわ!」
「は! 皆、闘える者は姫に続け! 自らの国と家族を全力で守りなさい!」
西大陸に比べると、出現する機械体の規模や強さは格段に落ちていた。出現率も、今回など7日ぶりの襲撃だ。どうやら敵の狙いは向こうに比重が置かれているらしい。だが、それでも一般の者にとっては確実に脅威となる。闘える人材も、未だ少ない。
アーシアは姫に続いて走りながら、生きていた蓮姫の乳母から預かった忍者刀を見る。蒼星の母である彼女が蓮姫と抱き合って喜んだあと、全てを聞き、自分の顔を見て涙ぐみながら譲ってくれたものだった。ぐっと握り締める。
蓮姫とアーシアは、光のレイピアと忍者刀を手に、民に襲いかかっている群れに向かって先陣をきって駆け下りてゆく。皆を安心させなければならなかった。今はまだ、後ろで采配を振るうよりも、先陣で頼れる力があると見せるべき時だった。
蓮姫の澄んだ雄叫びが、不毛の荒野に高らかに響き渡った。
◇ ◇ ◇
「ルシアさん、着きましたよ。あの山が目的地でよかったですか?」
車を停め助手席の老婆を軽く揺する。
ムハマドのあまりに上手すぎる運転で、完全に寝入っていたようだ。
「着いたかい。ん~んん! よく寝ちまったね。それにしても、砂漠で無振動で運転できる超初心者ってどんだけだい。アンタ、器用にも程があるだろ」
目を覚まし指で目頭を擦りながらあきれ返るルシアに、ムハマドは苦笑してコップを指し出す。
「はい、お茶をどうぞ。水出しですが、濃い目のリーフを多めに入れましたから、きっとすぐに目が覚めますよ。水はもちろん蒸留水にミネラル入りの軟水です」
受け取りながら、至れり尽くせりな手際の良さに、このままじゃ駄目になるかもと老婆は真剣に少し悩んだ。
「目的地は間違いないですか?」
青年の質問にお茶をすすりながらルシアは答える。
「ああ、あの山だよ。地形は変わっちまったが間違いないね」
日の暮れかけた砂漠の急速に温度の下がりだした大気の中で、老婆は扉を開けて外に出る。湿り始めた砂を音を出して踏みながら、目の前の巨大な砂山を見渡した。
「まだ、残っていてくれていると良いけどね……」
この場所にアレを隠したのは、あの最後の衛星作戦の直前だった。だから、この場所をナニールは知らないはずだ。だが、あの後500年、一度も訪れる機会が持てなかった。従ってメンテナンスなど欠片もできていない。シェルターだから残っているとは思うが、使えるかどうかは五分五分の賭けだった。
それでも、
「ファングが乗っていったシャトルが戻らない以上、あとはこれに賭けるしかないさね」
負けない為にはどうしても月に行かなくてはならない。その為のアレなのだ。
ぶるりと体を震わせる。一気に大気が冷えてきた。車に戻り、ルシアはムハマドに指示を出す。
「あの麓の右角に入り口がある。壊れて無いなら、あたし固有のエナジーセンサーで自動で開くはずさ。近くまで先ずは行っとくれ」
星全体に不穏な気配が漂っている。星を包み、人の心をも蝕んでゆくかの様にたゆたっている。
その中で、それでももがく者たちがいた。
流されず、諦め悪く、最後まで信じたものを信じ、負けず嫌いを貫き通そうとする者たちがいた。
彼らの行く末は、まだ見えない。混沌だけが増してゆく。
それでも、
まだ人の全てが諦めた訳ではないのなら。
希望は確かにあるのかもしれない。
そう思えた。天秤はまだ中庸で傾いてはいない。
だが、それは最後の時の天秤の話だ。
すぐそこの未来においては、世界はまだまだ絶望に暗い。
最悪の崩壊が近づいていた。それでも人は歩みを止めずにいられるだろうか。
分からない。判らない。解らない。
人の性の天秤はそれすらも、まだどちらにでも傾いてしまえるままに、ゆらゆらと揺れて大きく強く震えていた。
第十二話 『崩壊前夜 〜蒼〜』 了.
第十三話 『崩壊』に続く……




