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第二章 ツァンシン (承) 1

追加分です。

(……なんで、私はこんな所にいるのだろう……?)


 頭部を覆うように着古したターバンを巻きつけて、目以外のほとんどを隠した旅人が一人。砂除けの口元の布がこれまた分厚い。

 祭り初日特有の、熱気をこねたルツボの様な喧騒と人混みの中、大通りの中央で俯いて呆然と立ち尽くしたままひとりごちて呟いている。

 蒼星だった。


「おーい! こっちだこっち! なに道のど真ん中で立ち止まってんだよ全く!! 邪魔だろそれ、というかはぐれたらどうすんだはぐれたら!」


 半区画先の交差点、文字通りの人波の中で、昨夜から宿屋で同室となっている軽薄そうな男、アリアムが、精一杯に手を伸ばして呼んでいる。アリアムの背丈は別に低くはない。平均よりは少し上でそれなりに高い方だ。だが、ここは祭りの本番初日の大通り。そのど真ん中を行き交う荷ラクダや背負子しょいこの群れの渦中においては、人を呼ぶのにも両手を思い切り上に伸ばさなければすぐに見失ってしまう程小さく見える。

 それ程、人も多いし荷の背も高い。が、その見辛さを補って余りある大声で怒鳴られるのは恥ずかしかった。見失う事だけはなさそうだけれど、恥ずかしくて立ったまま赤面する。それでも、自分が通行の邪魔をしている事に気づいた蒼星は、こめかみを揉んで怒りの塊を解しながらため息をつき。仕方なくその伸ばされた手の方へと歩いていった。


      ◇  ◇  ◇


「せっかくなんだし、祭りを一緒に回らねぇか?」


 蒼星が予想外のその言葉に耳を疑い振り向いたのは、あの、友好的とは言い難かった邂逅から一晩明けた朝のことだった。


 昼も近い朝餉の時間。蒼星が一人、質素な朝食を静かに口に入れていたテーブルへ、例のうるさい男アリアムが「ここ、良いか?」と言って返事も聞かずに向かいに座った。そしていきなり世間話をし始めたのだ。


(なんて礼儀知らずな男なんだ⁉)


 とたんに口全体がへの字に変わる。昨夜の件については、さすがに落ち着いた後からは悪いと思い、謝罪するきっかけを探していたことは確かだった。だが、礼儀を欠いた対応をされた直後に謝る気には到底なれない。少なくとも今は絶対に無視してやると食事に集中。

「色々あったが、せっかく同室になったのも何かの縁だし」と男が色々話しかけてくるが、ことさらに背中を向けて堂々と無視をする蒼星だ。

 それでも、何とかしてアリアムからも情報を得ようと思っているのか、聴いていない振りをしながらも、要所要所で無意識に目線や耳がピクピクと反応してしまっている。その様は傍から見るととてつもなく面白かった。

 アリアムも気づいているらしく、平気な顔で話を続けながらも笑顔で動きを見続けて最後まで食べ続けた。そして、一方的に一人だけが喋りたおしたブランチを二人ともが食べ終えた頃、アリアムが口にしたのが、先の一言なのだった。

 さすがに無視が出来なくなり、ジト目で蒼星も向き直る。


「……正気なのかあなたは……⁉ あれはそちらが多大に悪かった。……とはいえ、だ、だがこちらも多少は悪いと思える対応だった……はずで、それを含めて誤解だったとはいえ、あ、あなたは刃物を向けられ殺されかけたのだぞ?! それをどうしてそんな簡単に……!」

(あれ、お前からあなたに昇格した?)


 グダグダだった。謝りたいのと羞恥と怒りで言葉に一貫性を欠いたままの蒼星の台詞に、アリアムが苦笑をこぼす。


「……それはそれとして、多大と多少の言葉の位置を間違えていないかどうかはまあさておいてやるとして、だ。ほー、なるほど、多少は悪かったとは思っているのか。なるほどなー」

「……ぐ、む、む」


 アリアムのニヤニヤ笑いの返しの言葉に一瞬ごとに顔色を変えながら、無理やり無視して蒼星の言葉は続く。


「な、なのに! その人間をたった一晩しか経ってないのに祭りの同行に誘うだと!? 言っては難だがあなたは怪訝おかしい‼」

「っか~、何というか相っ変わらず昨晩感じた通り、口が悪くて融通利かねえボーヤだなァ? いーじゃねぇかお互い怪我も無かったんだし。終わったことだ。そんな事より、久しぶりに予定外に街に繰り出してきたから、一緒に廻る知り合いがいねえんだよ。けど、祭りだしさ。一人より、誰かと二人の方がきっと絶対楽しいぜ! なあ、いいじゃねぇか。行こーぜ? 食い歩き代くらいなら出してやるからさ」


 ニコニコと、満面の笑みでのたまう男に、蒼星の意識が止まる。愕然として目を見開く。聞こえた言葉に耳を疑い、下を一度見てから二度見した。これまで一度として聞いた事も無ければ、想像した事さえ無い言葉に打ちのめされる。

 細かい震えが止まらない。


(いま、この男は一体なんと言ったのか。あれを、終わったこと? そんな事だと……⁉)


 蒼星には、目の前の男の器が大きいのか馬鹿なのか全く計れなかった。硬直はしばらく抜けず、結局根負けしたのは蒼星の方となった。

 最終日夜までの計二日半、予定もないし、金を出してくれるなら、情報収集も兼ねればそう悪い話では無いと思ったのだ。だが、それは結局失敗だった。


「来るんじゃ、なかった……」


 祭りなのだ。少し考えれば、当たり前の話であったのに。それすら思いつけない程、ショックを受けていたのだろうか。その事そのものにもショックを受ける。

 蒼星ツァンシンは、疲れた瞳を周りに向けた。

 そこかしこに溢れる、笑顔を向け合う人、人、人。恋人や家族連れや和気あいあいの友人たちの連れ合う姿を細目で眺める。消えない傷みに苛まれながら上目遣いに見つめ続けた。

 溢れる笑顔、笑顔、笑顔の洪水。

 次第に高まる気持ちの悪さと共に、蒼星の機嫌はどんどん悪くなってゆく。

 食べ物は確かに美味い。が、もはや蒼星は、祭りを純粋に楽しむ気持ちにはなれないでいた。


(私……一人だけが、こんな風に楽しんで良い訳なんてない。私にはもはや、そんな資格なんて欠片もありはしないのだから……)


 今この瞬間も、この街のどこかに、苦しい思いをしているだろう彼女がいる。彼女だけではない。どこにいるかも既に定かでないかつての同僚たちの、色褪せた笑顔が脳裏によぎる。わずかに思い出しただけで鋭い痛みが心臓に走り、おのれの無力感に苛まれ激しい眩暈に襲われた。服の上から胸を押さえる。俯いた口の端が息を吐き、鋭い痛みに戦慄わなないて、細かい震えがしばらく続いた。


 そんな蒼星の様子に、アリアムは気づいていた。が、それ以上に踏み込む事を躊躇する。出来るだけこちらに知られない様に我慢している。そんな相手をいたずらに追及することが正しいなどとは思えはしない。だが、それもまた建前だった。こんな時代だ。誰も彼もが、多かれ少なかれ悩みも苦しみも抱えている。自分にだって言えない痛みが存在する。そんな深みに、出会ったばかりの人間が訳知り顔で踏み込んだとて、何一つ良い事などは無いだろう。それに、そこまでしてやる義理も無い。一人は寂しいから同行者が欲しかった。それだけの話だ。語った言葉に嘘はない。だが、だからこそ、それ以上の何かなどもそこにはありはしないのだ。

 アリアムも、自分がそこまでお人好しでは無いと知っている。他人の為に何かをしてやれる様な余裕や器のある人間ではないと解っている。そんなおのれの器に気づいているから。だから今は、少なくとも今は、彼は気づかぬフリをした。自嘲の笑みが薄く貼りつく。

 それに彼もまた、ただ遊んでいただけな訳でも無いのだから。アテもなく左右を見渡し、あてどなく視線を回す。誰かを捜しているのだろうか。熱心ではない。惰性で続けていると云えるそんな風に見える動きで。それでも彼も、自分のことで手一杯で、忙しかった。


 そんな折だった。二人の意識が同時に相手から逸れた一瞬の空白を狙い、一つの影が人混みから飛び出して二人に近づく。

 小柄な影だった。気配を消して素早く動くそれは、まるでドブネズミのように薄汚れてはいるが、人間の子供の姿をとっていた。

 ヨタヨタとフラつく子供が蒼星の背中に当たり寄りかかる。蒼星が気づいた次の瞬間にはもう、別の方向に全力で、弾かれた様に走り出していた。

 アリアムが気づいた。


「蒼星! ふところを確認しろ! 今すぐだ‼」

「え……? ……ッ?ッッ⁉」


 いきなりの声に弾かれたまま確認し、腰が砕けた様によろめいて真っ青になる。

 スリだ。財布がない。全財産を丸ごと持っていかれていた。二年間の屈辱の結晶。数日後に、大切な人を取り戻す為に必ず必要となるはずの希望だった。その金の全てを一瞬で失った。おのれの単なる油断から。


「……! …………………ッッ!!」

(来るんじゃ、なかった……ッッ!)

やはり、祭りになど来るのではなかったのだと何度目かの、心の底からの後悔をする。息がうまく吐けず、吸い込む音だけが不規則に早くなる。おのれの馬鹿さ加減に涙が湧いた。体が震える。声が出せず掻き毟りながら嗚咽するように呟いて、心が壊れる寸前でアリアムの平手が頬に炸裂した。


ほうけてるんじゃねえ! 追うぞ‼」


 ついて来い!、そう告げて走り出した男の後を、蒼白になりながらも足を出し、懸命についてゆく。


「助けて……‼ 誰か、捕まえて……お願いします……お願いします! 誰か……誰か……‼」


 かすれた声で叫んで走る。息も絶え絶えに追い掛ける蒼星を見かねたのか、通りを歩く人達の中で、手の空いている人間が何人か共に来てくれた。何度も頭を下げて礼を言う。しかしお礼を口にする余裕は無いままに、息を切らせて一緒に影を追い掛ける。

 小柄な影は、未だ大通りを逃げていた。まだ見える。見失ってはいない。


(まだ、間に合う!)


 そう思った瞬間に影が路地へと道を逸れた。全速で相手の消えた路地へと入る。巨大な壁の下まで続く路地裏迷路へと続く道。薄暗いその中をアリアムたちと共に追い続ける。人通りがいきなり減った。建物の隙間を縫った小さな道をその背を追って駆け抜ける。横道に逸れて見失う。全速で急いで追うと、折れ曲がったその向こう、二つに別れた道の上、同じ背丈に同じ服、同じ格好をした存在が二つ。汚れたフードで頭を隠し、見分けのつかない二つの影が、こちらに気づくと互いに弾かれ、それぞれ逆方向へと走り出した。

 これではどちらが金を持って逃げているか、見た目では全く分からない。泣きそうな顔をして左右で迷う蒼星。その肩へ、アリアムの拳が入る。軽く当てられ怒鳴られる。


「だから簡単に呆けるな! 俺は右を追い掛ける。お前は左だ! まだ取り戻せる。諦めるな‼」


 頷いて走り出す。もはや何も考えられない。一緒に来てくれた通行人たちも、それぞれ左右に別れて来てくれた。最初に別れた後も、別れ道があるたびに二手に別れて減ってゆく。そして蒼星は一人になった。この道が正解だと信じるしかない。全ての神に祈りながら、次第にすえた匂いの充満し出す細道を行く。走るフードの背中が見えた。追いついた。


(追いつける!)


 そう思った瞬間に開けた場所へと躍り出た。

 どうやら、裏路地の一番奥まできてしまっていたらしい。背後に見える巨大な外壁の僅かに歪曲した分厚い壁が、そこが突き当たりだと示している。オドオドとこちらを向いた子供の背後に、そびえる壁の根元があった。逃げる道は先ほど蒼星たちが抜けてきた背後だけ。砕けて腐った板切れと木箱の残骸の幾つかが、台車だった頃のわずかな名残を残し、小さな広場に転がっている。強烈なすえた匂いのする何かの液があちこちに染みを残し、飛び散って吐き気を誘い充満していた。

 いつの間にか蒼星は、子供を追い詰めるのに成功していたようだった。手元を見ると、ちゃんと袋を持っている。当たりの方だ。ホッと小さく息が漏れた。


(こちらで間違ってなかったんだ、良かった……)


 辺りに他に人影はない。蒼星と子供のスリの二人だけだ。蒼星は、見た。

 フードがまくれた先にあるのは、背の低い大人ではなく、やはり年相応の小さな少年の丸顔だった。

 少年は、荒く呼吸をしながらも蒼星に向かい唸りを上げて威嚇を放つ。


(こんな、小さな子供が……)


 なぜ、と思いよく見ると、襟に隠れた首筋にトゲ状の赤い刺青があった。奴隷紋だ。それも、逃亡奴隷、なのだろう。これまでの一連をみる限りは。


(こんな所にまで、こんな歪みが……!)


 蒼星は唇を噛む。自分たちの全てを壊したこの国の奴隷制度。何とか法の内側で解決しようと奔走し、全てを賭けてやってきたのに。挙げ句、その上でまた、この様な形で邪魔されるのか。憤りが全身に走ってゆく。

 蒼星とて、犯罪者を取り締まる為の刑罰としての労役まで、悪いなどとは思っていない。だが、この国の奴隷制は根本からしてそれらとは違う。全く違う。多くの奴隷商人が存在し、暗躍している。場合によっては、その辺の旅人や行商人すら野盗を装い襲撃してきて、捕まえた普通の一般人まで奴隷に堕とし売りつけるのだ。声を出なくする薬、意識を混濁させる薬、記憶を一部消す薬などで誤魔化しながら、堂々と彼らを売りさばく。恐ろしいことに、この国の国外で捕まえた者ならば、最悪襲撃が発覚しても国内に連れてきて奴隷登録さえしてしまえば全て合法。

 馬鹿な、と疑うが本当なのだ。

 国力にまかせて無法を法と定める国など、他では聞いた事もない。初めて知った時など吐き気がした。だが、それよりも問題なのは、この国の在り方だ。そのようなやり方をまかり通して、近隣の国との関係など穏当にいくはずもない。なのに、それを続けている。百年もだ。その間一度として改める素振りすらなかった。そう、百年もの間その悪法も関係性もまかり通ってしまっているのだ。歪なのだ、どう考えても。この国に関わる全てのものが。

何より、目の前の小さな子供が一体なんの罪を犯したというのだろうか。確かに今現在はスリを働いている。だがそれだって、子供の逃亡者が生きてゆく為に、仕方なくだろう。他にどうしろと云うのだろう。それ以外の、ここまでの罰を受ける程の重罪を、彼が犯したとは到底思えない。

 蒼星は、そこまで考えて、頭を振って顔を上げた。引き摺られそうになる心を全力で振り切る。

 どれだけ憐れんだとしても、自分が彼にしてあげられる事など何もないのだ。どれだけ憎んでもこの国では法は法。いま蒼星にできることは、たった一人の大切な人を救うこと。その為に他の全てを捨てることだ。事実、これまで二年間そうして生きてきたではないか。

 それだけを心の支えにしてきたのだ。それだけは命に代えて遂げねばならない。今、同情心から騒ぎを起こして捕まってしまったら、これまでの自分の決意はいったい何だったというのだろう。

 蒼星の瞳にはもはや少年に対する憤りや怒りはない。怒りよりも哀しみが勝っている。だが、


「……君、そのお金を、返してくれないか……?」


 だからといって渡してあげる訳にはいかないのだ。

 少年は金の入った袋を背中に回し体で隠し、否否いやいやしながらこちらを睨んだ。


「それは、大切なお金なんだ。私の友達が、奴隷商人に捕まって、売られてしまったんだよ……」

「……⁉」


 少年の身体に動揺が走った。彼からの睨みが止まる。まん丸な目を大きく開けて蒼星を見つめている。


「それは、二年、かけて集めたお金なんだ。祭の最終日に行われるメインイベントの奴隷のり。そこに友達が売りに出されてしまうんだ」


 少年がこちらをじっと見つめている。


「友達を、取り戻したいんだ。たとえお金で買うことになろうとも、他の誰かに友達を売られる訳にはいかないんだよ……!」


 少年は微動だにしない。視線だけが、忙しなく蒼星と手の中の袋を交互に移動する。


「頼む……頼むよ……! ……それを、返してくれ。大切な友達を取り戻す唯一の機会を、私から奪わないでくれ……! 頼む、お願いだ……‼」


 本気で頭を下げていた。逃亡奴隷の少年は、左右に視線を彷徨わせ、躊躇うようにふらついて、泣きそうな顔で迷っている。

 顔が再度横に振られる直前、その顔が大きく歪んだ。蒼星から流れ、地面を濡らす大粒の涙をじっと静かに見つめている。

 そして、しばらく全身を震わせていた少年が、叫ぶように俯いて小さなこぶしを握りしめ。そして足を前へと動かした。小さく、一歩、また一歩。ため息をつき、諦めた表情で、金の詰まった袋を蒼星の前へと突き出した。


「………いい、の……?」


 泣き顔とかすれた声で小さく尋ねる。

 コクン、と。少年が赤い顔で、への字の口で大きく頷き返していた。


「……友達、助けて、あげて」


 涙の量が増して溢れた。


「あり、……がとう…………!」


 蒼星と少年が互いに笑顔を交わし、袋を受け取った瞬間だった。

 蒼星の真横を抜けて少年に蹴りが入った。同時に複数の乱雑な足音が脇を抜けて前へと駆ける。


「…………え……?」


 呆気にとられ固まる視界に、鼻血を噴いて倒れ、石畳の上をバウンドしながら転がってゆく子供が映る。


「……な………に………これ………?」


 急速に涙の乾く視界の中で、大通りから一緒になって追ってきてくれた男たちが、転がる子供の全身を所構わず蹴っていた。


「こんガキャア! 人様のモンを奪って良いとでも思ってんのかクソ奴隷!」

「しかもコイツ今、一般の人を襲おうとしてやがったぜ! 売り買いされる分際で、人間様に歯向かおうたぁとんでもねえ事してくれたなあ⁉ このまま蹴り殺してやっても良いんだぜこのクソゴミが‼」

「おい、見ろよ。奴隷紋が更新されてねぇ……コイツ、逃亡奴隷みたいだぜ! 憲兵に突き出す前にじっくり躾けて立場ってモンをしこたま解らせてやろうじゃねぇか、なあ皆?」


 好き勝手を言いながら、親切だと信じた人々が歪んだ顔で蹴り続ける。みるみる子供の腕や足が紫になり、その顔が膨れ上がった。


「やめて!! やめて下さい! もうお金は取り戻しましたから‼ だ、だから、もうそれ以上蹴らないで……ッ‼」


 蒼星の悲鳴が上がり、男たちの蹴りが止む。


「……チッ、この辺にしといてやる。あの人に感謝しとけよゴミ」


 ふう、と、満足したかのように息を吐き、蹲る少年を一瞥すると、唾を吐き。男たちは晴れやかな顔で蒼星に近づき、囲んで言った。


「いやあ、取り戻せて良かったですね。不幸中の幸いだ」

「全部ちゃんと有りましたか? 全く、後で憲兵に突き出す前にもう一度蹴っときますから」

「観光の方ですよね? これに懲りず、最後まで祭りを楽しんでいってくださいね」


 優しい笑顔でそれを言う、彼らの靴には血の染みがある。蒼星は目を見開いて震えていた。今この瞬間は他のどんな何よりも、この三人の笑顔の方が怖かった。その理由は、この三人が悪人だということではない。悪などでは無いのだ。


(この、人たちは……善良なんだ……)


 そう、この人たちは善良だった。正しいと信じているただそれだけだった。この優しい笑みもさっきの狂ったみたいな顔も同じ人で。親切に助けてくれた同じ人が奴隷というだけで子供を蹴った。躊躇なく、全力で。罪悪感の欠片もなく。それが何よりも恐ろしかった。

 気がつくと、蒼星は大きくえづいて戻していた。屋台で食べた全てを吐いてもえづきは続き止まらなかった。

「大丈夫ですか!?」と心配そうに背中をさする掌すらも気持ち悪い。そのまましばしの時が過ぎ、吐く胃液も尽きかけた頃。三人の内の一人が、子供の襟裏を掴んで持ち上げ、荷物の様に引きずりだした。少年の両手両足はいつの間にか縛られている。縛られた両足が宙に浮いた。麻袋と同じ担ぎ方で襟首を逆手で掴み、背中に回し肩に持ち上げ片手で背負う。

 引き攣れた汚れた顔で蹲ったまま顔だけ向けてそれを見つめた。仰向けに固定された少年の腫れて膨れた顔の中で、薄く目蓋が開いていた。少年と目が合った気がした。少年の口角がほんのわずかだけ小さく上がる。彼のその引き攣れた口元は、おのれの選択を後悔した故の嘲笑いか、それともただただ諦めたが故の空虚で白けた虚無の歪みか。

 腹の中に何も無いのにまた吐いた。胃液で喉がえぐれて燃えた。


「待……待って……ッ!」


 未だこみ上げる胃液を気力で抑えながら、蒼星は、目を逸らせないままに今出せる最大の声量で、胃酸で焼けた喉を震わせる。かすれた声で、汚れた指先を必死な思いで届けと伸ばす。

 不思議そうな男たちの視線など気にする余裕は無かった。今自分が手を伸ばさなければ、あの子はいったいどうなってしまうのか。考えるだけで怖かった。この国で奴隷の味方をするということがどういうことか。頭の隅に浮かばなかったと言えば嘘になる。だが、それでも良いと伸ばされた蒼星の指先が、ピクリと止まった。

 子供が見ていた。腫れ上がった瞼の中で薄目で見ていた。そして、今度こそ確かに笑い、首を小さく横にズラした。左右に、一度ずつ。口元は歪んだだけだ。もしかしたら笑ったのではないかもしれない。だが、蒼星は、子供が笑い、おのれの行動を止めたと思った。

 じっと見ているその視線で、代わりに友達をちゃんと助けろと言われた気がした。止まった涙がまた流れ、落ちていった。


      ◇  ◇  ◇


 気がつくと、大通りに戻ってきていた。

 どこをどう辿ってきたのか覚えていない。ただ、どれだけ気持ち悪かろうとも、心配して介抱してくれた人達に、一緒に走って追いかけてくれた人達に、駆けつけた憲兵に、お礼の言葉だけは何とか伝えた事は覚えていた。言いたくなくても言わなければ立場が不利になることだけは分かっていた。

 老人のように腰と肩を落としたまま、フラフラと通りを歩く。良い匂いが溢れていたが、腹は空っぽなのに、今だけは全く食べたいとは思わなかった。


「蒼星!」


 目の前にアリアムがいた。


「無事だったか! ……ちゃんと財布も取り戻せたようだな、良かった」


 安心した顔で心配そうに見つめている。唐突に腹が立った。彼は何も悪くはない。ただの八つ当たりだ。だが、収まってはくれなかった。


「アリアム……か」


 睨みつけ、通り過ぎる。


「……おい、何があった? 大丈夫か……?」


 一瞬だけ、蒼星の行動にムッとした顔が、すぐにまた心配顔に戻るのが見えた。涙の跡に気づいたのか。目に映った蒼星の顔は、彼から見ても相当酷い状態だったのだろう。かけてくる声が軽く裏返ってしまっていた。事実、地獄を見た様な酷い隈が浮かんでいる自信があった。


「……今日は帰る。すまない」


 とだけ一言残し、蒼星は宿へと足を向けた。後ろにアリアムがついてきている。今の状態の蒼星を、一人で帰らせる訳にはいかなかったのだろう。だが、蒼星の心に感謝と同時に浮かんでいたのは、煩わしいという感情だった。


     ◇  ◇  ◇


 宿に着く。一人になりたい、という蒼星を押し退け、アリアムも強引に部屋に入った。


「アリアム……!」


 睨まれたアリアムは、何も言わず、宿屋の主人から借りてきた椅子を置き、そこに座った。


「なんでいる……。一人にしてくれと、言った……ッ」


 椅子に逆座りして背もたれに両腕でもたれながら、何も言わないアリアムに、先に痺れを切らしたのは、蒼星の方だった。


「今のアンタに、口で何を言っても聞いてもらえるとは思えなかったんでね」

「だったら……!」

「一人にしろってか? それをしたくないから、困ってんだよな、俺も」

「……ッ」


 アリアムの台詞に蒼星が唸りを上げる。


「ああもぅ! こんなことまでするつもりなんて無かったのによ……!」


 自己嫌悪に呆れた声でアリアムは数秒間だけ顔を隠し、その手を退けて蒼星を見た。


「どうせ、一人になったら、ああすれば良かったとか、こうしておけば良かったとか、全部自分が悪かったんだって、安直な結論に一直線になるだろアンタ。そんな顔してやがる、わかりやすいな本当」

「!……ッッ!」

「俺にも覚えがある間違えだったんでな」


 蒼星が抗議の叫びを上げる寸前、タイミング良く間を取ったアリアムの言葉が続く。タイミングを外された蒼星は、言葉を口の外に出せないまま口をつぐむ。天性のものだとしたら、それは相当にレベルの高い会話術と云えるだろう。


「俺の時は、黙ってそばにいてくれた人がいた。独りだったらヤバかったと今なら分かる。俺に同じ事が出来るなんて自惚れてねえが……だからこそ、俺も、嫌がられても出ていかねえ」

「……お節介だッ」


 吐き捨てる蒼星の言葉に、


「承知してるよ」


 と男が応える。


「何にも知らないくせに……!」

「そうだな。何があったのかは何も知らねえ」

「聞いたってどうせ何もできないくせに……!」

「ああ、そうだろうな」

「言ったって、この国の人間にはどうせ理解なんて出来ないくせに……ッ‼」

「……そうかも、しれねえな」


 アリアムの顔に微かな哀しみが一瞬浮かぶ。罵りながらも、蒼星の視線が次第に下がる。下がり切ったその瞳を、両の掌で押して覆った。


「……何も、できなかったんだ……!」

「……そうか」

「何もできなかった……! 何もしてあげられなかった……ッ。また、私は、何一つ……またッ!」

「……」

「全部、全部私が………ッ!」

「そいつは違う」

「……⁉」


 静かに聞いていたアリアムが、大きくはないが強い口調で遮っていた。


「何も知らなくても分かるさ。アンタはちゃんと嘆いている。ちゃんと悔いている。投げ出して考えるのを止めたって何にも悪く無いっていうのにそれを選ばず、どうすれば良かったかって考えている。なら、アンタは何もしていない訳じゃない」

「でも、結局……!」

「そうだな。今は、何もできちゃいないかもしれないな」

「……」

「何があったのかは知らねえ。言いたく無いんなら聞かねえよ。今日のことも、以前の事も。けどな」

「……」


 アリアムは静かに言葉を続けた。


「言わなくて良い。だけどせめて、なんでもかんでも一人で背負い込もうとするな。そんなのは、ただの傲慢だ。自分を無理やり卑下することだけは止めるべきだ。何をしたってその時点ではどうにもできない事はある。次か、その次までに何とか出来るようになってりゃァそれで良いんだ。大事な目的があるんだろう? なのにそれ以外まで背負い込んでどうするよ」


 弾かれたように蒼星の視線が上がる。


「アリアム……私の目的を……?!」

「知らねえよ。そう言ったろ? そんなの知らなくたって、祭りの期間に街に来て、なのに楽しむ訳でもなくそれだけ切羽詰まってりゃあ、誰にだって分かるさ。大事な目的があるんだろうってな。なら、そいつを優先しろよ。それとは関係ない、今どうにも出来ないことまで全部安易に自分のせいにしちまったら、そいつは安易さに味をしめちまう。全部自分のせいにすりゃあ楽なもんだ。誰にも関わらずに済むからな。そして、ただ落ち込むだけで何かをした気になっちまう。ただそれだけのデクノボーになっちまうんだ」

「……」


 蒼星の眉間にシワが寄った。口元が歪む。


「怒ったか? なら、顔を上げろよ。こっちを見ろ。その大事な目的とやらは、落ち込んでるだけで叶うのか? 今やるべきはそれなのか? 違うだろ? 怒りが沸くならそれでいい。まだ大丈夫だ。殴りたけりゃあ殴りに来い。だがな、下だけは向くな。アンタは何も悪くない。悪くなんてないんだから」

「………ッッ!」


 心の底から優しげに放たれた男の言葉に、蒼星は震えながら、弾かれたように顔を上げた。信じられないという表情かおをしていた。なぜそこまで優しくしてくれるのか分からないと疑問を浮かべる。アリアムはそれには応えず席を立ち、ドアに向かった。扉に手をかけ、少しだけ部屋の中へ振り向いて口を開く。


「道楽さ、俺のな。そこまで警戒する必要なんて無ぇよ。……俺にも、目的があるのさ。話せば誰に言ったって馬鹿にされ、無理だと言われる類の目的がな。小さなことさ。個人的な情けない話だ。けどな、そんなものでも、俺にとっては大事なことだ。アンタの目的は知らない。でも、大事なものなら他の事は後に回せ。自分は一人しかいねえんだ。順番にやってけばいい」


 アリアムの顔がもう少しだけ蒼星に向いた。


「今日何を見たかは聞かねえよ。きっとショックなもんを見ちまったんだろうと思う。忘れろとは言わねえ。それでも、な。すぐには無理かもしれねえが、落ち着いたらもう一度、祭りを楽しんできてくれや。ほんのちょっとだけでいい」

「……」


 黙ったままの蒼星を見つめ、アリアムは続ける。少しだけ寂しげな顔で。


「目的だけの人生ってのは、キツくて、けど楽なもんだ。全部それのせいにできるからな。それだけに寄っ掛かり、叶った後のことを考えず、楽しむべき時に楽しめない奴の目的なんてもんはな、叶う訳がねえんだよ。今は分からねえかもしれねえけどな。その先を見てない奴にゴールのテープは切れねえのさ。なぜなら、テープを切る為には、ゴールより先までいかないといけねえからだ」


 静かになってしまった蒼星に、アリアムが苦笑する。


「すまねえな。説教臭くなっちまった。何も知らねえ俺が、言って良い事じゃなかったな。ただな」


 蒼星の真っ直ぐな視線を見つめ、


「せっかく偶然にも同室になったんだ。目的があるなら遂げて欲しいと思っただけさ。本当に目的を遂げたいなら、無理矢理にでも笑っとけ。目的を遂げた後を想像して笑顔になれ。取らぬトカゲの皮算用上等じゃねえか。それでこそ叶え甲斐があるってもんだ」


 ニカリと歯を見せ男が笑う。


「怒る気力があるなら笑え。呆れる力があるなら笑え。絶望に落ち込む前に笑ってやれ。作り笑顔すらできねえ奴の目的なんぞ、結局ロクな結果にゃならねえもんさ。辛い時ほど笑って『開け』。閉じてちゃ何も救えねえ」

「!……あなたは、やっぱり私の目的を!」

「いいや知らねえ。何にも知らねえドサンピンだよ俺ァ。けど、せっかくの奇遇な縁だ。どうせなら、成功してもらいてえじゃねえかよ。手伝うことはできねえかもしれねえが、せめてほぐす手伝いくらいはさせてくれ。なぜかって? いったろ、俺の道楽だって思やあいいさ」


 そう言って、遠くを見つめる表情で、寂しそうに男は笑った。口の中だけでつぶやかれた「間違えの先輩からの、お節介な忠告さ」という自嘲の言葉は、蒼星の耳には届かなかった。 蒼星は気づいていなかったが。それは、彼が昼間大通りで、辺りを見回しながら時折視線を止め、年配の女奴隷をじっと眺めていた時のものと、全く同じ表情だった。



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