第四話 『放浪 〜答え〜』
四日目に、初めて部屋の外に出るのを赦された。
もちろんナーガさんと行動をともにしなくちゃいけないんだけど。
「ナーガさん、あれって何ですか?」
街の喧騒の中、久しぶりに外に出た僕は、少しだけ心が躍るのを感じていた。どうやら思っていた以上にストレスが溜まっていたみたいだ。
でも、少しだけだ。心のままにはしゃぎながら、止まない痛みだけがまだ、心の奥を突き続けていた。
「……君は本当にものを知らないね。過去の人間で記憶喪失だったことが影響しているとは思うけど、だとしても……。まあいい、あれはね、みやげ物やさ。名物の不味いお菓子が売っている。買ってあげようか?」
「……遠慮します」
……なんで名物ってそんなのばっかりなんだろう?
「せっかくの名物なのに。あの不味さは体験しておかないと損だよ? 損なレベルだ」
「あはは……、じゃああれは?」
「ああ、あれはね……」
めんどくさそうに、でも律儀にしてくれる説明を聞きながら、街を歩く。
その間中ずっと、僕の目には街の向こう、地平にそそり立つ高い壁が映っていた。長さは十キロ以上あるだろうか。弓のように巨大な半円を描いてそびえる、ただ高いだけの、それだけの壁。
「ナーガさん、あれって何ですか? 半分だけしかないんじゃ、城壁じゃあないですよね?それに城壁にしては遠すぎますし。何のための壁なんですか?」
「ああ……あれはね、未来に押し寄せてくる運命から、人々と街を守るために作られた、壁さ」
「運命?」
「そう、運命さ。広がり続ける砂漠。そこから押し寄せてくる砂を少しでも食い止めるための、精一杯の人の抵抗なのさ、あれは。しかしそれも、自然の猛威の前ではどれほど役に立つものか……」
あの上から向こうを眺めていた時、君を見つけたんだ。そうつぶやくその横で、僕は頷きながら、もう一度視線を壁に向けた。
大陸に並ぶものの無い、半径十キロを超えるファルシオン帝国の首都デュッセン。その中のどの塔よりも高くそびえる地平の壁。
それですら、人々の精一杯の抵抗ですら……自然は苦も無く蹴散らしてしまうというのだろうか。
「人の歴史って、何なんでしょうね……」
ぽつりとつぶやいた僕の台詞に、ナーガさんの返答が続いた。
「そうだね。どれだけ悪を為そうとも、どれだけ正義を唱えようとも、そして、どれだけ、星の海を越えるほどの能力を身に付けようとも。それでも人は、この程度の自然にすら勝てないんだ。人なんて、そんな程度のちっぽけな存在に過ぎないのかも知れないね」
ナーガさんのその言葉に僕は、無限の空しさと、そして寂しさを感じた。
「でもね、たとえそうだとしても」
ナーガさんの言葉は続く。
「ボクはもう、何も動かず、何もしないでただ皮肉を言うだけの生き方は、止めようと思ってるんだ」
「……」
「出来ないと思うのは簡単だ。何もしなければいいだけの事なんだから。でも、できそうに無いはずだと、絶対できないだろうと思うことでも、やらないで負ける事だけは止めようと思った。出来そうに無いことと、やらないことは違う。その両者には恐ろしいほどの隔たりがある。でも、それでも人はそれを超えられる、その隔たりの壁を。難しいけど、そう、すべてを捨ててかかりさえすれば」
横顔で苦笑して、ナーガさんはこちらを向いた。
「受け売りだよ。ある人のね。でも、このボクですら変われたんだ。そう思えるようになった。君達に出会ってからね。だからね、不可能は当然あるだろうけど。でも、それを決めるのはやってみてからにしようと思っているんだよ。今の、このボクはね」
以前とは少しだけどこか変わった、ナーガさんの前向きな言葉。それほどこの人を知っているわけじゃない。でもきっと、それは小さな変化ではないのだろう。
きっと、悩んだはずだ。変われるまでに眠れぬ夜も過ごしただろう。
(でも、変われたんだ……)
羨ましかった。少しだけ気に障った。一人だけ先に幸せになるのが赦せなかった。
その気持ちが、僕の口に言う気の無かった言葉を言わせていた。
「……生きるということに、意味なんてあるんでしょうか……?」
「人生に、意味なんてないさ。生まれてくる事にも、死ぬ事にもね。けれど価値はあるよ。意味と価値は多分、まったく違うものだと思うから。きっとね」
その言葉は難しすぎて、よく意味が分からなかった。でも、なぜか、記憶に残る言葉だった。
「ファング君。もう一つ伝えておこう。この世界は絶えず流動していて、定まった形すら無い。しかしたった一つだけ、何があろうと変わらぬものがある。それは、【生きている者は成長する事ができる】ということさ。すべてが移りゆくこの世界の中で、この概念だけは変わらない。それは身体にも心にも、そして個人だけでなく、国や人という種の概念そのものにも云えることなのさ」
「生きている、者……」
僕は生きているといえるのか……
僕のその小さなつぶやきに、ナーガさんはこちらを見た。
「ファング君。【生きている者】とは、心を持つ者のことだよ。心が生きている者のことだ。肉体の事ではない。ただの概念でもない。この場所にある【もの】の事なのさ。あるだろう? 君にも」
手を伸ばし甲で僕の胸を叩くナーガさんの目は、僕の中心を見ていた。肉体のどこかじゃない。物質でもない。奥の奥のどこかにきっと存在する、魂のようなもの。
それを見られているような気がした。
……僕にあればの話だけど。そんなものが。
「……ナーガさん。機械にも、魂はあると思いますか?」
危険な質問だった。けど、しないではいられなかった。僕の声はきっと、怒っているように聞こえただろう。
「さあね。すべての機械にあるとは思わないよ。でなければ今の世界の現実が説明できないからね。けれど、少なくともボクはもはや人間ではない。知らなかったかい? ボクの身体だったものは、アベル君のいる地下基地の奥で眠っているんだ。永遠の眠りについている。今のこのボクは、機械の擬似精神と電気・霊気的に融合した精霊体、かつてナーガだった【もの】にすぎない。ボクがその【かつて居た場所】に戻る事はもはや、ないだろうね。……でも、それでもボクには魂がある。きっとあると信じている」
唐突に投げられた質問に、ナーガさんはよどむ事なく答えた。見据える目。
衝撃的な内容だった。それでも言葉はよどむ事なく、そしてその目も逸らされない。
――――ああ……、もしかしたらこの人は、気づいているのかもしれない。
「それで、答えにはならないかな?」
「そうですね……。【あなたの答え】として、受け取っておきます」
そして僕らはそびえる壁に背を向け、来た道を歩いて戻り始めた。
◆ ◆ ◆
「クソッタレ、ド畜生!」
ドカッ
蹴り倒した椅子が結構広い部屋の隅まで転がっていく。
おれたちは今、会議を終えて、あてがわれた部屋で休んでいた。
「お行儀が悪いですよ、坊っちゃん。減点イチです」
「ア? なんだよ、その減点ってのは!?」
「わたくしの中の坊っちゃんのしつけ点数です」
「……オイコラ。テメー今なんつった?」
「わたくし、もはや容認の限界にきたのです。なんですか先程の会議での坊っちゃんの態度は。……お気持ちはお察ししますが。しかしここは心を鬼に致します。亡き先代のためにも、坊っちゃんの教育はわたくしの役目と固く誓っておりますので! よって、これより一定の点数が下がるたびに坊っちゃんの嫌がる事をしますので、気をつけて下さいね(ニッコリ)」
ゾクリときた。無限の笑顔の奥が久々に垣間見れた瞬間だった。
「な、なんだそりゃ!? おいこら、まて、言うだけ言って出て行くな! 馬鹿にするな! 子ども扱いするな! 語尾にハートをつけるな! 待てっつってんだろーがアホリーブス!!」
リーブスはフンと鼻を鳴らすと部屋を出て行った。
ム、ムカツク……。あれが執事のする主への態度か!?
おれは一通り部屋の中のものをケリ倒すと、一応満足してベッドに横になる。
リーブスもむかつくが、今はそれ以上にむかつくのはアベルの野郎だ。
「あんなに物分りの悪ィ奴とは思わなかったぜバカヤロウ……!」
あの後、ナハトからファング捜索のために基地に溜まった力を使わせて欲しいと提案されたアベルは、その必要はないと一蹴しやがったんだ。殆んど考えることすらしやがらねーで!
確かに、それをすると色々支障が出るのかもしれねー。だがそれにしたって!
「あンの薄情ヤローが……」
どうしてくれよう。
その時脳裏に、あの時のクローノの言葉が甦った。
『アベルにどこか変わったところはありませんでしたか?』
そう言っていた。
(何か、あるってのか? あいつに。あいつが、おれたちに隠し事でもしてるって……?)
……ありえない話じゃない。
思いたくないが、確かにアベルには以前からそんなところがあった。そしてそれ以上に最近のアベルは変だ。おれたちの知らないうちに何かコトを進めている様な、そんな感じがする。愛想の良さが不自然なレベルまで高まっている。ナハトの提案を蹴っ飛ばした事との落差がありすぎるんだ。
駆け出しといえど、おれは商人だ。だからこそ分かる、そんな慇懃無礼さ。
以前から確かに危うい感じはあった。なにか、引き止めていないと、どこか遠くへ行ってしまって戻らない糸の切れた凧のような、そんな雰囲気。それを持っていた。
どこか、シェスカにいるあの年上の友人にも似た雰囲気。
完璧だと思っていた今までのアベルの凄さや優しさにも、もしかしたらどこかに演技が混じっていたのだろうか。思いたくない。思いたくなどないが。
(だけど、アイツ、だとしたら何をしようとしてやがるンだ?)
おれは深く考えた。珍しく頭をフル回転しさえした。が、答えはまったく出なかった。
「……材料が少なすぎだ」
おれは抱えていた枕を壁に投げつけた。力なく投げられた枕は、力なく壁に当たって、力なく床に落ちた。
おれはしばらく考えると、服を着替えてドアを開けた。
「ナハト、元気を出せ」
おれがノックをしようと手を挙げたとき、部屋の中から声が聞こえた。
デュランがナハトを慰めているらしい。
「……うん」
「きっといい案が見つかる。一緒に考えよう」
「……ありがと、ディー」
「……」
その妙な雰囲気に一瞬ためらったが、そのままノックをする。
「はい……誰ですか」
「おれです。カルロスだ。入っても?」
「どうぞ」
部屋に入ると、ベッドの上で、ナハトがひざを抱えた格好で壁にもたれていた。
「そんなにヘコんでるのかよ?」
おれの不躾な言い草に、ナハトはむっときたようだ。
「正論で打ち負かされたのがそんなにこたえたのか? 軟弱なんだよ精神が。アンタ、甘やかしすぎだぜ」
最後の部分はデュランに向けた言葉だ。向けられた大男は苦笑する。
「そう言うな。それにその部分では、あまり君も人のことは言えないぞ」
「ウルセエ。おれは少なくともひざを抱えて泣いたりはしねーよ」
「オレだって泣いてない! で……用は何さ?」
「そう睨むなよ。少し、話があるんだが……聞く気はあるかい?」
「話す気があるならね」
涙目で睨まれた。おれはニヤリと笑って睨み返した。
「上等」
「ふうん、変な話だねそれ」
おれの話を聞き終わったナハトは、口元に手をやり考え込んだ。
「だろ? だからな、誘いにきたんだ。なあ、おれたちでちょっと調べてみねーか?」
「アベルさんを?」
「ああ。上手くいけば交渉の材料が見つかるかもしれねーだろ?」
「しかし、今はそんなことをしている時ではないと思うが……」
「だからこそ、変な疑いはさっさと終わらせるのが一番なんじゃねーか」
「うーん、そうだね……」
「どうする?」
再度おれに訊かれたナハトはデュランを見る。個人的に……その視線は【お願い光線】と名付けたいなおれは。
「仕方ないな。だったらコールヌイあたりなら力を貸してくれるんじゃないか?」
ためらいも無しかデュラン。さっきの躊躇はどうした。
おれは心底うらやましいと思った。リーブスだったらこうはいかねー。
「あ、そうだね。適任かも」
「おー、なるほどね。あの人なら気づかれずに調べて来られるかもしれねーな。だったら早えや。今すぐ頼みに行こうゼ?」
「うん、行こう」
そしておれたちは部屋を出た。静かに。
なぜだろう? さっきまで気にもしなかったドアの音が、大きく響くような音を立てた気がした。
◇ ◇ ◇
(何をしておるのだろうな、わたしは……)
少年たちとデュランに頼まれ、アベル君のいる部屋の真上まで来て、もう一度わたしは自問していた。
針で天井に穴を開け、黒色の特殊溶液を塗った板に部屋の中を映す準備をする。ピンホールカメラと同じ原理だ。これでピントの合う位置に特殊な液を塗った板を置けば、部屋の中の様子が逆さに板に映るのだ。言葉は音の収束機能を取り付けた特殊聴診器で、直接天井から聞き取ればいい。
義足だということは、この程度の芸当にとってさして問題ではない。音など立てる心配などは無論無い。逆にいいリハビリにもなるくらいだ。
だが、だからと言って人のプライバシーを探ってよいわけではない。
(ましてや、恩人のプライバシーなどは)
そう、この義足を作ってくれたのは、他ならぬアベル君なのだ。
しかし、少年たちの熱意にほだされて引き受けてしまった後では、仕方がない。
少なくともその熱意には頭が下がる思いだったのだから。
(さっさと終わらせて戻るとしよう)
そう思っていた。何も心配ないと判れば少年たちの気も収まるだろうと。
つい先ほどまでは。
(そんな、馬鹿な……)
ただの、ありがちな考えすぎだと思っていた。心配のしすぎだと。だが。
(若者の素直にものを視る瞳の鋭さには、かなわぬということか……)
甘かった。彼は壊れている! 早く他の者にも知らせねば。
急いできびすを返そうとした時、後ろから声をかけられた。
「どこに行くんや、コールヌイさん?」
愕然として振り向く。
アベルだった。部屋の中を映す板に目をやると、さっきまで見えていた姿が一瞬のうちに消えていた。
「馬鹿な……近づく気配など……」
天井裏の配管スペース。暗闇の中を音も無く背後から忍び寄っておいて、それでいてアベルの顔に浮かんでいるのは、笑顔だ。だからこそ今は余計怖い。
「短距離転移っていうんや。オモロイやろ? スマンなあホンマ。みんなに教えてない水晶球の使い方な、実は、まだまだ色々あるんやで」
一足跳びで後方に跳び、距離を空ける。アベルは立ち尽くしたままだ。
「ちなみになんで気づいたかというとな、コールヌイさん。その義足にな、細工をしといたんや。いや悪いとは思っとったんやけどな、発信機と簡易盗聴機とサーモセンサー感度増幅塗料を少々……、いや、まあ、言うても分からんか」
向けられる満面の笑み。
「教えて欲しいのですがね」
埒のあかない会話をこちらから打ち切る。途端、アベルはつまらなそうな顔をした。
「相変わらずノリ悪いんやな。なんやねん? 俺で答えられることなんかな?」
「先ほど部屋の中で言っていた事について、詳しく聞かせて頂きたいのですがね……」
「なんや聞いてたんかい、こっ恥ずかしなあ。盗み聞きはイカンで? ホンマ」
照れたように赤くなる目の前の青年。
白々しい。これがあのアベル君と同じ人物なのか、本当に?
「いかんなあ。やっぱり独り言いう癖、治さなかんらしい。でもなコールヌイさん、聞かれたからにはそのまま帰す訳にはいかんのや、スマンなあ。選ばせたるよ。アンタ、お仕置きと記憶消去、どっちがいい?」
その笑顔は動かない。そう。この会話の間、アベル君の目の周りの筋肉は一ミリたりとも動いていない。口元だけの満面の笑み。ならばそれは、無表情と同じだ。
わたしたちが覚えている彼の表情は、すべて、笑顔などではなかったのだ。
「残念だアベル君……本当に」
わたしは足に気を込め、確保していた退路に向けて跳躍した。
◆ ◆ ◆
アルヘナの首都イェナで会議があったはずの日から、二日がたった。
僕は、今日もナーガさんと街に出ていた。また、僕の我が儘だ。頼む時いつも屋敷でナーガさんの後ろにいる人が睨んでいたけど、僕はどうしても、あの壁の上に立ってみたかったんだ。
ナーガさんはただ苦笑しただけで、付き合ってくれると約束してくれた。
そして今、僕らは昨日と同じ道を歩いていた。
「……ファング君、気付いているかい?」
小一時間が経ち、歩き始めてからの長い沈黙をナーガさんが破った。大通りの石畳もしばらく前に抜け、今は郊外の林道を歩いている。巨大な影が落ちている影響で、林の中は薄く暗い。目的地の防砂壁はもうすぐそこだ。
「はい……三人、というところですね」
ナーガさんは小さくため息をつくと、首をすくめた。
「どうやら巻きこんでしまった様だ。すまない」
「いえ」
「君はそのまま行きたまえ」
ナーガさんは足を止めると、手の甲で追い払うしぐさをした。
「ナーガさんが相手をされるんですか?」
「ご指名だからね。たまには本人が相手をしないと、ストーカーのストレスが溜まる。そうなると何をしてくるか分からないからね」
「……余計ズに乗られるような気がするんですけど」
「いいじゃないか。どちらにしても同じなら、予想がし易い方がいい。それに、こう見えても、しつこい相手のあしらい方は心得ているつもりだよ? ボクは」
「それはまあ見るからにそう見えますけど……」
「……言うね、君も」
ナーガさんはジト汗で苦笑した。
「大丈夫ですか……?」
「誰に向かって言っているんだい? 確かにボクは闘いは得意な方じゃないけれど、ご存知の通りボクの体は物質体ではないからね。物質化を解除しておけば、物理的な手段で傷つく事は皆無だよ」
「あ、そうじゃなくて。相手の方が心配なんです」
だって立場上、人殺しをする訳にはいかないじゃないですか。取り調べとか時間が勿体無いし。動きが取りにくくなるし。
「ホントに言うね……。まあ、しばらく散歩でもしていてくれないか。そのまま一人で上に登っていてくれても構わないよ」
そう言ってナーガさんは、次の分かれ道を僕とは違う方向へと歩いていった。
半時間後、僕は急いで来た道を戻っていた。
あの後、僕の方にも一人刺客が追ってきたんだ。目撃者も消すつもりだったんだろう。僕は腹を立てて応戦した。
初めはすぐに片がつくと考えていた。けど、甘かった。
思っていた以上の強敵だった。傷を負わされる事はなかったけど、もう少しで危ないところだったのは確かだった。
相手を気絶させ樹に縛りつけた時、普通のおじさんみたいな顔の相手の腕に、赤い杖の刺青が見えた。
あれは確か、十年前まで帝国内で最強を誇っていたという暗殺組織の、しるし。
つまり……雑魚じゃない。そしてナーガさんは元々闘いは専門じゃないはずだ。
僕は全力で、いまだ闘いの音の聞こえ続ける場所へと走り出した。
(少々……甘かったかな?)
すぐに片付けられると高をくくっていたんだけど、そうでもなかったみたいだね。
ボクは前後から一瞬たりとも休むことなく続く攻撃をかわしながら、木と木の間を走っていた。
攻撃される瞬間、相手の腕に赤い杖の刺青が見える。
(……フン、十年も昔の亡霊どもが)
子飼いだったリーブス君にのどを噛み切られ滅んだ、帝国最強の暗殺集団。その成れの果てか。
(どうやら痺れを切らして最強の戦力を投入してきた、ってところかな)
「!! っつ……」
攻撃のリズムが上がってきた。一瞬だけ、精霊体への切り替えが遅れる。
(ハハ……闘いの修行をした事がないというのはやっぱり、差が出てくるものだね)
肉体的な疲れはないとはいえ、やはり、精神的な疲れは溜まってゆく。
(物資的な疲れがないのなら、痛みもなくしてくれればよかったのに)
ボクの中のヘイムダルを少しだけ恨む。
「少しだけ、ね」
本当に痛みを感じない身体になったとしたら、きっと、他の誰かの痛みも感じられなくなるんだろう。それは、やっぱり困るな。っつ!
考え事をしていたらまた切り替えが遅れた。
さっきよりもさらにリズムが増している。
……本当に人間なのかな? この二人。
もはや後の面倒を気にしている場合じゃない。
ボクは考える事を止め、ふところに手を伸ばした。固い感触が物質化をはじめる。
(死んでしまったとしても、文句は言わないでもらおうか)
ボクは前後からくる攻撃をかわしながら、林の奥へと疾走した。
「ナーガさん!」
気配がどんどん奥へと移動してゆく。
速い!
僕の全力疾走と変わらない速さだ。簡単に追いつけない。
(大丈夫だろう。きっと。大丈夫なはずだ)
でも、いまだに闘いが終わってないのも確かなんだ。
僕は全力疾走し続ける。
「くそっ」
強すぎるぞこの二人! 一人一人は分からないが、二人同時ならデュランと同レベルなんじゃないのかもしかして!?
先ほどから銃で応戦しているのだが、敵の位置がつかめない。
全力疾走をしながら前後左右にランダムに身体を移動させての射撃。薄闇の林の中で。
(くそ! 訓練でもしておくんだったな)
なのに同じ条件下で半分以上の攻撃を当ててくる敵。人間業じゃない事だけは確かだ。
少なくともボクの腕じゃ【物理停止】をかける暇すらない。
人は……自らの力だけでここまで高める事ができるのか……。
なんて考えている場合じゃない!
ドンッドンッ!
また外れた! ……それなら。
走りながらもう一度ふところに手を入れてイメージ。手の中の銃を消し光を打ち出す形を思い浮かべる。
「終わりだ!」
ふところに入れたまま光線銃の銃身を逆さにして脇から背後に向けて打つ!
背後の相手が無言で倒れた! 良し!
その瞬間隙ができた。
「しまっ……ッ」
もう一人の相手が目の前にいた。物質化している間はボクの時間も加速はできない。
物理障壁も物質化解除も間に合わなかった。
脇腹に痛み。血は出ない。だが、その衝撃は並大抵ではなかった。
地面にひざをつく。ボクの身体は精霊体……情報体だ。肉体的な衝撃で死ぬ事はない。だが、いくら言い聞かせても心理的には別だった。まだ肉体を持っていた時の記憶が残っている。恐怖から逃れる事はできない。
動くことのできないボクを、後方頭上から必殺の一撃が見舞う!
「ナーガさん!!」
僕を救ったのは、ファング君だった。彼は敵の攻撃を打ち落とし、怒涛の連続攻撃でひるませた後、ただの一撃で葬り去った。崩れ落ちる敵。
やはり本格的に師匠に手ほどきを受けた人はちがうね……。
「ナーガさん!」
うっく……、情報が流出していく。この感覚も『寒い』と言うのだろうか?
さすがに覚悟を決めたその時、傷の回りが暖かくなった。次第に寒さが消えてゆく。
そして、『痛み』も。
自分の身体が光を発している。視線を動かすと、傷だった所に彼の手のひらが置かれて淡い光を放っていた。
一度目を閉じ、静かに起き上がりファング君を見る。彼は疲れた顔で、手の中の光を消しているところだった。
「ファング君。君は、やはり……」
「あは……ばれちゃいましたね……」
ファング君は静かに苦笑して、そう言った。
とうとうばれちゃったな……。
薄々知ってはいたんだろうけど。でも、これは決定的だ。
……どうしよう。ナーガさんはどう出るだろうか。
「……」
ナーガさんは何も言わない。そして立ち上がると、倒れた敵の前へと歩いていった。
「まだ息はあるはずだね。なら、依頼主を教えてもらおうか」
瀕死の敵はわずかに身体を揺らすと、視線だけを上げてナーガさんを見た。
「…………言うとでも、思うのか?」
「そうだね。言ってはくれないだろうね。ただ、訊いてみただけさ。だいたい黒幕は判っているしね」
少しだけ寂しそうな顔だった。それを聞いて、男の身体が小さく揺れる。苦笑した様だった。
「クク……聞いていた通りの性格だな……」
「死に逝く者に対してのパターンは守らなければね」
刺客は笑みを消して彼を見た。
「……お前は、なぜ、変えようとするのだ……? 世界を。この国はこの国でうまくやっている。余所者が、勝手に、いじくるな……」
「うまくいっていないから、だから変えようとしているんだよ。一つの国の中だけでうまくいっていても仕様がないじゃないか。世界とは、国の事ではなくもっと大きな物のことをいうのだからね」
途端、死にゆく者が全身で笑った。
「クク……違うな。……世界、とは、……自らの視界に映る範囲、の事なのだ……。国の外? 他人? 知るかよそんな、もの……」
「それでは人間は永遠にたどり着く事ができない。先へ」
「なんで、たどり、着かなきゃならねえんだ? アホウが。ヒヒヒヒヒ、ハ。馬鹿だ、お前は! 正しい事、が通るとは、限らねえんだぜ? 世の中はよう、ヒハハハ……」
「……」
「この国は変わらない! 変わるはずが無い……クク。お前一人の力で変えられなどしないのだ……なにひとつな! ヒヒハハハハハハハハハ……ぐ、ぶッ……………………」
その男は最期に大笑いすると、血を吐いて動かなくなった。
「ナーガさん……」
「……行こうか」
事切れた刺客を見下ろしたまま、小さくナーガさんが呟いた。
ふたたび歩き出した僕らは、しばらく無言だった。
「……ナーガさん。それでも、あなたは」
止める事はないんですか?
「止めないよ。死ぬまでね。……過程が大事なんて奇麗事は言わないよ。結果がすべてだ。でもね、急いで結果だけを求めすぎても上手くはいかない。結果だけを求めすぎれば薄っぺらくなるだけだ。ヒョロヒョロと長く伸びたって、太さがなければすぐに折れて千切れるんだよ。
理想と現実は違う。ボクはこの間の闘いのさなかにそれを知った。教えられた。けれどね、それでもボクは理想を歩く。苦しいだろうさ。けれどね、苦しさや困難さを無理だからという言い訳で覆いつくして自分すら偽って歩く生き方なんて、御免だよ」
結果は後からついてくるさ。そう云って、ナーガさんはまた無言に戻った。
壁の上からの景色は、最高だった。生活を、命を脅かす景色のはずなのに、それは雄大で壮大だった。不謹慎だと思いながら、僕は偽りの涙を流した。一滴だけ。
「誇りを持てといわれたよ」
「……え?」
静かに眺めていると、ナーガさんから声がかかった。
「今ボクにはこの国に、一人だけ友人がいるんだ。すべてに絶望して惨めにこの国に来た時にね、彼の父上に言われた台詞だよ」
「……」
それは五年前、生まれた国を滅ぼそうとしたという、その時の事だろうか?
「『誇りを持て。己に誇りを持て。国に誇りを持て。この世界に誇りを持て。
誇りを捨てる事は簡単だ。実にな。ただ、諦めればいい。だが捨てて、それからどうする? 男が誇りを捨てて良い時は人生の中でただ一度、誰かを守るときだけだ。
お前は何の為に生まれた? 解らないのならせめて、生まれたことに対して誇りを持て。お前が今ここにいる。それ以上の喜びが他にあるか? わしは嬉しいぞ、お前に会えて。生まれてきてくれて礼を言うぞ、ナーガ・イスカ・コパ。心からな』」
「…………」
「ボクも言おう。世界に存在してくれて礼を言うよ、ファング君。心からね。
何から何まで受け売りですまない。でもね、僕の他にもきっといるよ? 同じ事を言ってくれる相手がね。心当たりがあるだろう?」
「……でも」
「何か忘れていないかい? 君がいなくても世界はちゃんと動いている。でもね、君という存在がなければ流れない【時間】というものがあるはずだ。
忘れるな。いま君は世界の一部で、歯車に過ぎない。だが、世界も確実に君の影響を受けている」
「!!」
「前に言ったね、君は。生きることに何の意味があるのかと。ボクは答えた。人の存在に意味なんてない。だが、価値はあるはずだと。どうしてだと思う?
それはね、意味は何もしなくても元からあるものに過ぎないが、価値とは自らの力で作り出すことが出来るものの事だからだ」
全身が殴られたみたいな気がした。考えた事もなかった、そんな風には。
初めて本当に涙を流したいと思った。この、今流れている水が本物の涙なら良かったのに。
それから、僕らは無言で日没までたたずみ続け、壁を後にした。
死体は、もう誰かに片付けられた後だった。
夜のうちに僕は、デュッセンの街を離れた。
ナーガさんは見送ってくれなかった。当たり前だ。今日おいとまするなんて言わなかったんだから。
でも、なぜか枕元に中身の入った弁当箱がひとつ、水筒とともに置いてあった。しかも腐らないものだけで作ってあった。外国でも使える部類の硬貨も少し。
どうして気づいたんだろう……? 僕が今日いなくなるつもりだったってことに。
挨拶くらいしてくればよかったな……。
その弁当は、袋に包んで大事に荷物に入れてある。ナーガさんが弁当を作っている所を想像して、僕は笑いをこらえてしまった。
彼は、僕が機械だと気付いても【弁当】を作ってくれたんだ。
(ありがとう……)
気のせいでもいい。機械ではない、奥の奥の部分が熱くなっているのを感じた。
ナーガさんに言われたことは、まだ奇麗事にしか聞こえない。けど、それでも僕は、強くならなくちゃいけない。
強くなりたかった。強くなろうと思った。
歩いてゆく先には、大戦時よりも前に廃棄された古代の通信基地がある。三日もあれば着くはずだ。アベルの基地とは比べ物にならないくらい規模は小さいが。それでも。
僕は歩いていた。また、砂漠の中を。
でも、今度は前とは違う。違っているんだ。絶対。
そう、僕は。今度の歩みは逃げた時とは違う、きっと違う。
だっていま僕は、自分の足で歩いている。それを分かって歩いているんだから。
ちゃんとね。
◆ ◆ ◆
コールヌイさんはその日、帰ってこなかった。
そして、次の日。
おれたちの疑惑の視線の中、アベルから突きつけられた現実は、最悪だった。
みんなの顔色が変わった。それぞれの表情に。哀しい事に、まったく逆の表情をしている仲間もいた。
何を考えてんだアベル? せっかくまとまっていた仲間に亀裂を入れてどうするってんだよ!? ド畜生!!
世界は、混沌だ。そして、裏切り続けてきやがる。
『ファングは機械だった』
それが答えか世界さんよ。
それが答えだっていうのかよッ!
「ショックを受けた奴も多いやろう。せやけど今は集中してくれ。今より、これから俺たちがやるべき事と、その為の計画を説明する。今度こそやつらと完全に決着をつけようや。ファングのことはその後や。それまで我慢してくれ。が、そのままにしたる気はない。スパイは後でじっくり料理したろぅやないか。なあ、みんな!」
いくつかの雄たけびがあがる。呆然とするラーサ。おれたち――――おれとナハトとデュランはそれらの言葉を聴き続ける。何も言えなかった。何を言っていいのかも分からなかった。
ただ何もできず、馬鹿みたいに聞いていた。
頭を素通りするその言葉たちは、いつまでも、部屋の中を飛び回り続けていた。
ナニールが力を取り戻し、再び侵攻してくる、それは三日前の出来事だった。
第四話 『放浪 〜答え〜』 了.
第五話 『策謀 』に続く……




