第二十話 『世界が崩れるとき(前)』 [NC.500、火月5日]
夜が更けようとしていた。
どこまでも砂の続く景色。遮るものは何もない。砂でできたその見せかけの線は、暗闇の中でも微かに明るく、それでいて穏やかに霞んで見える。夕方までの戦いのすぐ後とは、そしてもうすぐ始まる、世界を巻き込む戦いの前とは思えない、朧 にぼやけた大地の境界。
青年はその視線を逸らさずに見つめる。
───美しい。わずかな星明かりの中で見てもなお、その微かな曲線を描く真っ直ぐな筋は美しかった。
だが、足下は暗い。目印として壁の上で等間隔で燃やされているたいまつの明かりですら、遮られ、黒く薄いビロ-ドの向こうには届かない。
闇────。
すぐ真下の舞う砂を、景色を見ることができない、奇妙な感覚。だが、それでも不思議と不快とは思わなかった。
束ねられた薄手の闇が幾重にも重なり、辺り一帯に静寂な空間を形作っている。もうすぐ、この星の未来を占う戦いの火ぶたが開くということなど、とても信じられない。
(我々生き物たちの起こす争いなど、【世界】という枠組から見れば、もしかしたら、ほんのちっぽけなものなのかもしれませんね……。しかし、それでも)
一部が崩れた城壁の上で佇みながら、少年を脱しつつある青年は、地平の向こうで世界を憂いている親友を思う。
自分の目的は果たした。この先は、彼とともに世界の行く末を考えてゆくことになるだろう。自分たちに後を託し、すべてを見ることなく逝ってしまった、育ての父親の願いでもある。
「……何を見ているの? クロ-ノ」
隣に歩み寄る女性を、顔を向けずに眺める。
「先程の、アベルの言葉を思い返していたのですよ……」
ついさっき、数日振りに地下基地にいる彼と連絡を取った。
そして驚いた。通信鏡から飛び出すようにして、連絡を取らなかったクロ-ノを怒鳴りながら彼が語ったところによると、すでに【ガイア】はある程度のエナジ-を蓄え、その力の一部を開放し出しているらしい。
『そっちからしか今は連絡が取れん云うたやろがっ! すでにもうここにはヘイムダルはおらへんのやぞまったく……。まあええ、それよりな……』
苦笑いとともに親友の怒鳴り声を思い返した後、クロ-ノは表情を引き締める。
「思ってもみませんでしたよ。まさか、この地表全体にあの機械の骸骨が埋まっていたなんてね……」
「ええ……。事態の進行は思っていたよりも早まりそうね……」
【ガイア】の完全復活についてはまだ予測不可能だ。が、機械体の復活は、すでに時間の問題ということらしい。
ならば今はそれに備える時だ。今のうちに、充分でないとしても備えだけはしておかなくてはならない。
クロ-ノは砂漠から街の中へと向き直る。
人々の歓声が、夜半を過ぎ日付の変わろうとする今でもなお、わずかだが耳に届いて離れない。まあ大部分の人は既に夢の中、なのだろうけど。
苦笑する。半壊した街の中でなおこれだ。人間を云うものは本当に、逞しいなと思う。
「まずはあのダガンに取りついた小瓶を、何とか外さなければなりませんね」
戦いの収拾がついた事により、これ以上の【ガイア】へのエナジ-供給は収まった筈だ。だが、後顧の憂いの為にも、壊せるものなら壊しておいた方がいいに決まっている。
「それに、もう一つの小瓶というのも探さないとね」
「ええ……その通りです……」
もう一つ、彼らの知らない小瓶がこの街のどこかにあるという話だった。それも探し出して壊さなければならない。クロ-ノは気を引き締めて頷く。
いまだ何の動きもないそちらの方が、感じる不気味さとしてはより上に位置している。
「誰が持っているのかは判りませんが、何とか早めに見つけなければなりませんね……」
胸の不安が拭えない。そうしないと、大変な事態に陥る気がしてならないのだ。
「そうね。ねえ、クロ-ノ。どうせなら、理由を話して皆に手伝ってもらったら? いえ、すべての人にじゃないわ。そんなことしたらパニックになるって解ってる。だから、一部の、そうね……ファング君たちとか」
確かに、そうした方が効率はいいだろう。だが、クロ-ノは躊躇する。
彼らには頼りにできるだけの力がある。信用もしている。カルナを助けてもらった恩もある。とはいえ彼ら、特にラ-サの方は、まだ幼い。こちらの都合で巻き込んでしまうには重すぎる内容ではないだろうか?
(しかし……どこか、彼らも知っているような感じでしたね。何かを……)
だとしても、どの辺りまで知識があるのだろう? そして、どうしてそれを知り得ることができたのか……。そこまで考えて、クロ-ノはため息をつく。
止めよう。考えすぎてもいいことはない。
それにしても、行く先々で同じ秘密を知る(かもしれない)人間たちに出会うというのは、一体どういうことなのだろう? 何か、目に見えない力で引き寄せられているのではないか、と疑いたくもなる。どちらにしろとんでもない確率であるには違いない。
(もしかすると、彼らも何か関わりがあるという事なのでしょうか? この世界の行く末に。だとすれば……)
その時、ふとダガンの縫いつけられている場所に目を向けたクロ-ノは、眉を潜める。 そして凍りついた。
「……クロ-ノ? どうしたの?」
「……………ア-シア、ファング君たちを呼びに行って下さい。今すぐに! どうやら、すでに考え込んでいる時間は無さそうです」
その言葉に弾かれたように同じ場所に目を向けたア-シアも、息を飲んだ。
「……何、あれ……?」
「まったく、しぶとい男ですね。人間を止めてしまっても、その迷惑な性格だけは相変わらず変わらないらしい……」
「あ、あれがあのダガンだって云うの!? だって全然形がちが……」
「議論している暇はありませんよア-シア。私は街の人たちと……蓮姫に知らせます。だから貴女はファング君たちの所へ……急いで!」
顔を見合わせて頷く。そして、城壁の上から二人の姿が掻き消えた。
◆ ◆ ◆
街は異様な雰囲気に包まれていた。
街の半分ではまだ事態を知らない人々が陽気に騒いでいる。その同じ街の中、瓦礫の山に近い裏路地や半壊地区で、道を行く人々が次々と倒れ、転がってゆく。
まだそれが始まってからそれ程時間は経っていない。だが、犠牲者の数は既に数十人にも上っていた。
倒れた人の顔には精気が欠片も見られず、すでに命を失っていることは明らかだ。
「な……なんなのよこれは………ッ!!」
ア-シアから連絡を受けて現場に到着したラ-サたちは、目の前に広がる光景に愕然とした。夕方皆で力を合わせて片付けた路地の上に、死体がごろごろと転がっていた。
その中には、二人の見知った顔もあった。最初に転がっていたのは、蓮姫とともに闘ってくれていた男性の一人だった。そして、この街に到着した日、笑顔とともにおひねりをくれたおじさんも、いた。
「あ、あ……なによ……これ……。なんなのよこれはぁああ……ああぁあぁ……っ!」
見るとラ-サのひざから力が抜け、ガクガクと震えていた。無理もない。昨日の夜からずっと気を張っていた。それがこれで戦いは終わったと、ようやく気を抜いて年相応の少女に戻る事ができた所だったのだ。ようやくナハトを捜す事に専念できると。
知り合いが道に転がっている。それは、まだ前回の心の傷も癒えていない少女にとって、酷すぎる光景だった。住んでいた村と大事な人間を失った、あの時の再現……。
「みんな、ようやく戦いが終わって、これで祭りの準備がまた始められるって、喜んでたばっかりじゃない……笑ってたじゃない! なのに……なんでよ、……どうして……?」
「……ラ-サ」
ファングは膝をついたまま頭を振って涙を流すラ-サに、声をかけることができなかった。皆のマスコットとして、ついさっき眠りにつくまで引っ張りだこで一緒になって騒いでいた。眠気に負けてウトウトする彼女を見ながら、みんな陽気に笑って酒を酌み交わしていたのだ。ナハトの事で気を張っていた少女にとっても、束の間の安らぎだったはずだ。
多分、ようやく騒ぎ疲れて家に帰るところだったのだろう。その時の男たちもまた、同じように転がっていた。砂の降り積もる道の上に。目を、大きく見開いたままで。
「………赦せない……赦さないんだから……!!」
キッ、と道の先の闇の中に目を向ける。
つと同じ方向に目を向けたファングの胸がどきりと跳ねる。その中に彼は、形の無い闇を見た。ゆらゆらと蠢く赤く光る眼を見た。すべてを見透かすかの様な真っ赤な瞳。
そいつは、まるでこっちを誘うかように、ゆらりと揺れてカ-ブの先に消えてゆく。唾を飲む込む。追いかけるべきか……?
(確か、ア-シアさんたちが見たのは……ぐにょぐにょに崩れた肉の塊、だったよね?)
固まったファングのすぐ横で歯ぎしりが聞こえた。
(しまった……!)
同じものをラ-サも見つけたのだろう。ハッとして手を伸ばしたが、遅かった。止める間もなかった。涙を拭くのも忘れて闇の中に飛び出してゆく。
「あ、待って! 待ってラ-サ! 駄目だ、一人で行っちゃ駄目だ!!」
ファングの叫びを無視してラ-サは走る。
一瞬の硬直の後、ファングもその後を全速で追いかける。だが、二つ目のカ-ブを曲がった直後に全身の血が凍りついた。ラ-サの姿がどこにも無い。どこにも見えない!
(そんな……そんな、事って……何でッ!)
まだ見失うほど離されてなんかいなかったはずなのに!
どさどさどさッ。いきなりファングの頭上に何かが降ってきた。体をひねって避ける。
視線の先、地面に闇が蠢いていた。鎌首をもたげていた。小さな闇。音。吹きつける生肉の腐した臭い。
「クッ!」
くないを投げる。刺さった! と思った瞬間、それが爆ぜた。中から飛び出たもの。
「………蟲……!?」
見覚えのある虫だった。あの時、あの金属の船の中で、彼は確かにそれを見ていた。
「う、うわあああああああ!!」
連続してくないを投げる。すべて刺さる。それでも投げる! ……手持ちのくないの全てを使い切り、ようやく彼は、もう一度、痙攣し動きを止めたそれを見た。
やはり、あの時の……。
パリッ……! どこかで火花の音がする。最悪の映像が頭蓋を駆け抜け、ファングの全身にぶれるように震えが走った。嫌だ、いや……だ、そんな……馬鹿な!!
「ラ-サ、戻るんだラ-サ! 今の君は武器一つ持ってないんだぞ!! くそ、なんで……、返事をして……返事をしてよねえ、……ラ-サぁぁぁあああ!!」
血を吐くような叫びは届くことの無いまま。ただ、夜の闇に消されていった。
◇ ◇ ◇
「皆さん! 起きて! すぐに王宮の中に避難して下さい! あなたたちも、早く!」
蓮姫は走っていた。走りながら時々立ち止まっては、声をかける。
申し訳なかった。居たたまれなかった。もう大丈夫だと云ったのは自分だというのに。あれからまだ半日も経っていないというのに!
それでも蓮姫は走り回って声をかけ続けた。それが一番良い方法だったから。そうするしか、自分にはできないのだから。
「皆さんお願い! 急いで下さい……お願い、急いで!」
◆ ◆ ◆
「蓮姫。どうですか、住人の避難は進んでいますか……?」
寝ていた市民をほぼ起こし終え休んでいた蓮姫に、声を掛ける人物がいた。
クロ-ノだった。蓮姫は彼の明るい金髪を見つめる。一度敵を撃退した後、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた彼も、また戻ってきて手を貸してくれていた。
多分、ア-シアもどこかにいるのだろう。まだ声をかけ合えてはいない。けれど近くにいる。いてくれる。今は、それだけでいい。それだけでも嬉しく思った。
「……ええ、もうだいぶ済んだはずですわ……。でも……」
クロ-ノには、蓮姫の云いたい事が解った。
また、大勢の犠牲が出てしまった。精一杯やったということは、言い訳にはならない。だが、それでも、彼女はやれることをちゃんとやっている。責めることはできない。誰にも責めることなどできはしない。
心苦しかった。それなのに彼も、慰めの言葉ではなく、悪い知らせを告げなければならないのだ。
「……蓮姫、しっかりと心を保って聞いて下さい。………ラ-サが消えました。行方が、判りません……」
「っ!!! ラ-サが!? そんな……そんな……っ」
蓮姫の悲痛な声が耳に刺さる。ア-シアも、どこかで聞いているのだろうか。聞きながら胸を押さえているのだろうか。
「落ち着いて下さい! いま貴女が取り乱しては、他の皆全員が浮き足立ちます!」
「でも!」
見開かれた視線が刺さる。
「大丈夫、ファング君たちが今も全力で探しています。だから、大丈夫です。きっと」
気休めだった。大丈夫などとよく云えたものだ。それでも、信じるしかない。
だが、ラ-サが消えてからもう2時間は経つ。見つけてから蓮姫に知らせようと皆で捜していたことで、彼女への報告が遅くなったことを、クロ-ノは悔やんでいた。
しかし捜索する側も、激しい恐怖に包まれながらの作業だったのだ。同じ裏路地を通るたびに、転がっていたはずの遺体が少しづつ消えてゆくのだ。誰も動かしてなどいないのに、消える。せめて埋葬してやりたかった知り合いの遺体がだ。生前友人だった者たちの感じた悔しさは筆舌に尽くしがたい有り様だった。普通なら他の何かにかまってなどいられないだろう。
それでも、皆捜し続けてくれているのだ。急かすことなどできない。
だが、逆に云えばそれは、ファングの報告に含まれた恐ろしい意味も裏づけていた。彼の思い出した過去の記憶の中の光景、仲間の末路。まさか、彼女も……すでにもう……。
(考えるな!)
クロ-ノは頭を振って最悪の考えを振り払う。
まだ、……まだだ。まだ探していない場所があるはずだ。
しかし、後はどこを捜せばいいのだろう? 既に街のほとんどは捜し尽くしている。ラ-サが姿を消した後、死体が消えるのを除けば、不思議なことに例の化け物は姿を現してはいない。それがまた、余計な不気味さだけを増やしてゆく。
目撃したファングの話だと、敵は化け物でもスライムでもなく、蟲ということだった。砂漠、それも遥か西の絶望の砂漠にいたという、人の肉を喰らうワ-ム(口と歯のあるみみずの様なもの)。
なぜここにいるかは判らない。が、ファングが以前聞いていたコ-ルヌイの話を信じるならば、その親玉は家ほどもある巨大なサイズだということだった。
(そんなものが街中に姿を現したら、とんでもないことになる……)
せめて、その親玉がいないことを祈るばかりだ。
自分ももう一度捜してきます、と蓮姫に告げ、クロ-ノはその場を離れる。
「……捜してきます、か。しかし……どこを捜せばいいと云うのでしょうね……」
「ならば、……王の間の玉座の後ろは捜されましたかな?」
蓮姫の前を離れ、つい愚痴を口走った背中に声がかかる。聞いたことのある声だった。途端に怒りがわいてくる。どこにもぶつけ様の無い怒り。我知らず彼はその怒りを声の人物にぶつけていた。
「……今まで一体どこに行っていたのです! もっと早く貴方が来てくれていればせめてもう少しはっ……え!?」
怒りに任せて振り向いたクロ-ノの眼に、コ-ルヌイの姿が飛び込んでくる。だがその姿は、たった数日の間に凄まじく様変わりしていた。絶句して次の言葉が浮かばない。
「どうか、されましたかな?」
コ-ルヌイは杖をついていた。さらに、左ひざから下が、無かった。まるで、刀で切り落としでもしたかの様に。その上服もボロボロで、顔の半分を含む全身を包帯で覆っていた。
「その姿はどうしたというのですか……? 貴方ほどの方をそんな目に遭わせる事など、容易なこととは思えませんが……」
国交の無いセレンシア神聖国に居た時でさえ、この男の戦闘能力の高さは伝わってきた程なのだ。
その質問に、コ-ルヌイは一瞬だけ寂しそうに苦笑した。
「まあ、少しばかりヘマをしましてな、自分で切り落としたのですよ。大したことはありません。もう意識もはっきりしておりますから。……ここにいる人たちには世話になりました。ですから、蓮姫に内緒にしてもらうのが少々心苦しかったのですがね」
意識……!? 一時的に意識がなかったとでも!?
「意識ってそんな、世間話のように……。寝ていなくても大丈夫なのですか?」
そう言葉をかけると、コ-ルヌイはクロ-ノを壁際に誘導し、顔を引き締めて言葉を続けた。
「そんな悠長になどしていられないのだ、クロ-ノ殿。ラ-サ嬢を見つけ出したいのならば、今すぐにでも玉座の裏の隠し部屋の中を捜したほうがいい。他に捜す所がないのなら、尚更にだ」
「! ……どういう事なのですか、それは……!?」
しっと、口に指を当てられる。
「声が大きい! これは多分……若の、シェリア-ク殿下の仕業なのだよ……もしくは、若に手を貸す者の……。若は、どうやら本気で城の地下に眠る悪魔を呼び覚ますおつもりらしい……。なぜ解るかと云うとな、クロ-ノ君。その為には、最後の仕上げに生け贄が必要だからだよ。できるだけ、生命力に溢れた生け贄がな」
「!!?」
「生け贄と聞くと、胡散臭いと思われるでしょうな。しかし“あれ”は、そこから生ける者のエナジ-を吸い取り、自らのエンジンをかけ起動する代物なのです。数百年の過去の失われた狂気の技術、【精霊科学】の生き残り。……壊れて暴走していますがね」
「まさか……」
クロ-ノはルシアの話を思い出していた。今の説明は、彼がルシアから聞かされた内容と酷似していた。その意味するものは……。
コ-ルヌイは小さくうなずく。
「そう、【ガイア】と呼ばれる存在と同じ。その一番小さな同類ということになるのでしょうな」
「!! な、なぜその名前を貴方が……!」
コ-ルヌイは彼を無視して説明を続ける。
「若があれを呼び覚まそうとしている事。それを聞いてもわたしは、できないと思っていた。若には無理だと……。大丈夫だと。だから治療に専念していたのだ。始めは、焦ったがね。だが生け贄の話だけは、若は知らない。知るはずがないのだ。これだけは、生け贄の話だけは、前王からわたしだけに伝えられた内容なのだからな……。それを知らなければ、そのまま儀式をしたとしても失敗に終わるはずだったのだ。なのになぜ……」
「………」
「前王は、この最後の秘密をお子たちに伝えるおつもりはなかった。だが、それが王宮の地下に存在することだけは変えられぬ事実だ。だから、わたしに伝えたのだ。何かあった場合に、その対処をする為に。だが、ラ-サ嬢が死んだのでなく消えたという事は、多分、殿下がどうやってか、その最後の秘密を知られたという事だろう。だから……」
クローノの心身が冷えてゆく。理解が及ぶにつれ、怒りのあまり体の内側を吹雪が舞い始めていた。
「……なぜ、その話を私に? 隠し部屋の事も、そして地下の悪魔の話も、この国の最重要機密。トップシ-クレットなのではないのですか?」
クロ-ノは大神官をしていた頃の、鋭い眼差しで男を見据えた。
「別に、君にすべて託そうなどと虫のいいことは考えておらんよ。だがまあ、わたしもこの通り、戦闘能力が落ちている。大事な所はすべてわたしがやるつもりだ。だから、手伝ってほしいのだ。見返りにその場にその少女がいた場合、力を貸そう。どうかね? ……君が怒っている理由は解っている。ラ-サ嬢の事を引き合いに出しては卑怯だと思うかね? だが勘弁してほしい。いったいどうやって君にこの話を切り出そうか、迷っていたところだったのでね」
クロ-ノはきつくにらみ返しながら、答えた。
「…………いいでしょう。ですが条件があります。私一人ではなく、もう二人、連れていくことを許可して頂きたいのですが」
「それはいいが、……蓮姫には伝えないで欲しいのだがね。心配させたくない」
「……当たり前です、そんなことは!」
クローノは小さく吐き捨てるように呟いた。
「それでは、30分後に王の間で待つ。来てくれると信じておるよ」
コツコツと杖を響かせ遠ざかってゆく男の背中に、クロ-ノは声をかけた。
「最後にひとつ訊かせて下さい。……貴方は、殿下を殺すおつもりなのですか?」
コツ……。杖を止め、コ-ルヌイは振り返らずに答えた。
「……絶対に、それはない。たとえその逆はあったとしてもな」
コツ、コツ、コツ。杖の音が遠ざかる。
(いいでしょう。お引受けしますよ、コ-ルヌイ。それが貴方の望みなのなら、ね)
クロ-ノはきびすを返して足を速めた。
◆ ◆ ◆
「そんな………師匠、なんで……ですか……?」
ちょうど30分が過ぎていた。目を閉じて立っていたコールヌイが、瞼を上げて息をついた。
「やはり来てくれたのですな。助かります、ありがとう。ファング、お前も」
コ-ルヌイが振り返ると、王の間に三人の若者が現れたところだった。
「当たり前です! ……あんな話を聞かされて、来ない訳ないじゃないですか……! それより師匠、その足……どうして……」
懐かしい顔がそこにあった。だが、久方振りに会った二人の顔に、笑みはなかった。涙を浮かべ自分に怒りを向ける弟子の顔を、コ-ルヌイは見つめる。どちらも、先に視線を逸らしはしなかった。数瞬の後、同時に視線を外す。
「その通りね。右に同じよ」
もう一人、アーシアも決意の表情を固めていた。
「……ということです。そちらの準備はできているのでしょうね?」
「良いでしょう。すぐに扉を開けます。ついてきて欲しいですな」
「云われなくても行きますよ! 早くして下さい師匠っ!」
「せっかちは若さの特権だ。だがな、ファング。これから先、大声は出すな。お二方にもお頼み申したい。……どうせもう知られているだろうが、それでもだ」
コ-ルヌイが何かの操作をする。すると間を置かず、玉座の後ろの壁が開いた。
止まる事なくその中に入ってゆく彼の後ろを、三人は列になってくぐっていった。
◇ ◇ ◇
永久に陽の光の届くことの無い地下深く。呪文を唱え続けていたシェリア-クの声が止まる。ナハトは終わったのかと思ったが、そうではないようだ。
「……誰か、来たようだな」
「え? なんだって……!?」
槍を構えて立ち上がる。こんな所に来る人物など、わずかしか思いつかない。
(……来るのか……?)
自分の待っている相手だろうか? 我知らず闘気が体中に溢れる。
「そう逸るな。と云っても、聞けぬだろうがな。くくく」
シェリア-クの体が笑いで揺れる。
「待っておれ。どうせ目当てはここであろう。ここで待っていればやってくる」
「……」
「それより、ナハト。契約を忘れるなよ? 約束通り、呪文を唱え終わるまでは我を守ってもらうぞ。例え、誰が来たとしても、な」
「ああ、判ってるよ。……なんでそう何度も訊くのさ?」
「くく、いや、確かめておきたかっただけだ。気にするな。くくく」
「……?」
また、違う人間と話しているような感じがした。ナハトは疑問を振り払い、襲いに来る誰かを扉の内側で待ち受けた。
◇ ◇ ◇
「皆さん、負傷者の方ははこちらに来て下さい! あ、そうです。お願いします。いえ、お子さんにはちゃんとそちらに臨時の託児所を作ってありますわ!」
蓮姫は走り回っていた。
今はクロ-ノたちはここにいない。だから彼女が頑張るしかないのだ。
───しばらく時間を下さい。すぐに戻ってきます。
そう云って出ていった。今までの自分だったら信じることはできなかっただろう。だが、蓮姫はそれを信じた。だから帰ってくるまで、ひとりで頑張ろうと決めたのだ。けれどそれでも。
じっとしていると考えなくてもいい事まで考えてしまう。考えたくない事も。
(ラ-サ……)
自分を励ましてくれた小さな愛らしい少女。
(無事でいて……お願い、神様……!)
そして、守りたい。自分を頼って集まってくれたこの人たちを。この人たちだけでも、せめて無事に……。
「ぎゃあぁあああああっ!!」
願いは、虚しかった。わずかな祈りの最中にそれは現れた。一昨日からずっと自分と一緒に闘ってくれていた男の一人が宙を舞い、壁にぶつかり動かなくなった。
蟲だ。ファングの報告よりもずっと大きくなっている。ダガンの体から湧き出した自然には有りえない蟲たちが、王宮の中庭の地面から次々と顔を出していた!
そいつらはまるで、今この場に、闘える人間が殆どいないということを知っているかのようだった。
◆ ◆ ◆
「な……! なんで、ここにいるのさ……どうして……」
槍を構え敵を待ち受けていたナハトは、扉をくぐって現れた人物のあまりの意外さに驚愕した。驚きのあまり、無意識に構える槍の穂先が下がる。闘気が萎んでゆく。それは向こうも同じのようだった。
四人のうち二人は知らない。だが、残りの二人は彼のよく知っている人物だった。
「ナハトっ!!?」 「!? ナハト、殿……」
目を見開いて向き合う。
「ファング……、コ-ルヌイさん……。なぜ二人が、ここに……」
そこへ、シェリア-クの氷の様に冷えた笑い声が割り込んだ。
「ナハト。契約、だったな? 誰が来ても……だ。ククク」
「!! だ、だけど! でも、それは……」
「守ってもらおうか」
「でも……」
「お前には目的があるのだろう? 敵を、取りたいのだろう? すべてに背を向け、振り捨ててもなお、やるべき事があるのだろう?」
「……でも」
心臓に食い込んで来るような声。その声で、シェリアークはナハトをどこまでも追い詰める。
「そいつらはお前の過去だ。過去のものだ。振り捨てろ……捨ててしまえ……。そうだ。お前の、大切なる目的の為に……」
揺れる。なぜだろう、先ほどからナハトは体が傾いてゆくのを感じていた。物理的でない心のどこかが、風もないのに揺れていた。
「だからって!!」
「そんなことでは、永遠にお前の大切だったそいつの魂は救われないだろうな、ククク」
ナハトは電撃を受けたかのように立ちすくんだ。上を仰ぎ、下を向き。そして……
「ナハト……どうして……?」
ナハトは槍を構えて立ち塞がった。下を向いたままで。そして小さく謝る声が四人の耳に微かに届いた。
「………来い。邪魔をするならオレが相手だ」
その存在は内側で冷笑していた。爆笑に変わりそうだった。
───なんと脆いことよ。人間の心というものは哀れなほど脆い。ほんの少し強く押してやるだけでこちらの好きなように動かせてしまう。
視線の先では知り合い同士が闘っていた。
武器をもち、親友と呼んだ者たちが殺し合いを演じていた。
───哀れな存在。贄どもよ。踊れ。もっと踊るがいい……。
四対一だ。すぐに決着がつくかと思われた。しかし躊躇の無いナハトと違い、他の者の攻撃には、必殺の気合いが籠ってはいなかった。……長引きそうだ。
一瞥した後、その存在は天井に視線を上げる。……どこを見ているのか?
───存分に暴れるがいい、お前たちも。その場にいる者全てを喰らい尽くすのだ。ク、ククク、ククククククククク。ハハはハハハハハハ。
◇ ◇ ◇
「みんな、逃げてえ! 王宮の奥へ! 中庭から離れるのよ!!」
蟲どもは次々と土を破り現れた。そして、何一つ恐れるものなどないとでも云いたげに近くの人間に襲いかかってゆく。警戒心も無く、傍若無人に。
それは本当に、今この場に、闘える人間が殆どいないということを知っているかのような迷いのない行動だった。
蓮姫は、涙を流さなかった。
涙などいつでも流せるものだから。一秒を争う時に涙など、邪魔でしかないから。
今はただ、この無礼者どもを追い払い、こいつらからみんなを守りたい。
あとから涙などいくらでも流すから……だから今は、一人でも多く助けたい。
助けてみせる!
「はぁぁっ!」
光の剣を蟲の口につき刺し、そいつが飲み込もうとしていた子どもを背にかばったまま目の前の地面に縫いつける。
「今のうちに、逃げて! 早くッ」
子どもが逃げ出したのを確認し、蓮姫は剣を縫いつけたまま地面ごと蟲の巨体を寸断する。プラズマの作用で内側から燃え出した蟲を見ることもなく、次の獲物を求めて走り出した。
悲鳴が上がる。左右どちらからもだ。蓮姫は躊躇なく左を選んだ。利き手で対処しやすい方を。一秒でも早く敵を倒せる方を。
背中で誰かの悲鳴が途切れた。
蓮姫は唇を噛む。だが、涙はまだ流さなかった。
◇ ◇ ◇
「ナハト、止めてよ! ねえ! お願いだからさあッ!」
涙を流して槍を受け続けるファングに、ナハトは無言だ。視線を合わせないまま、連続して技を繰り出してくる。狭い場所だから他の人間はサポ-トにしか手が出せない。
「……埒があきません。ファング君替わって下さい。こうなったら仕方ありません。本気でいかせてもらいますよ」
「駄目です! お願いですクロ-ノさん、お願いです、もう少し、もう少しだけ時間をください! 僕がナハトの目を覚まさせてやります、だから! ぐうっ!!」
「ファング!」 「ファングくん!?」
「ぐ……、大丈夫、です。……ナハト、君は解っているのか? 自分のやっていることを! 君があの爆発を起こした奴を追いかけていることは知ってる。君の決意の深さも解る。だって僕はあの時、そしてその後も君といたんだから!」
槍を受けながら必死でしゃべる。
「でもだからってなんでこんな所にいるんだよ馬鹿!! みんな心配していたんだぞ! 君の村の人たちも怒ってた。目が血走るくらいに怒ってた。だって君はみんなの期待を裏切ったんだもの。みんなの信頼を君だけが信じていなかったってことだもの! 相談してくれると思っていた。誰もがそう言っていたんだよ? それを一人だけで決めて逃げるように……見損なったよ僕も! でもね、それでも僕が君を探しに行くと言ったとき、皆が頭を下げてたよ。頼むって、君をお願いってさ……。だから僕は、君を必ず連れて帰る。何が何でもつれて帰るよ。君はみんながどれだけ君を大事に思っているか知らなくちゃいけない。君は知らなくちゃいけないんだ、皆が君を、どれだけ本当に大好きなのかっていうことを!! なのに、そんなやつと、なんで……ッ」
ファングはナハトの後ろを指差した。
「知ってるのか君は!? そいつはラ-サを攫ったやつかもしれないんだぞ! ラ-サをだよ!!」
「!!?」
ナハトの槍先が鈍った。しかし止まらない。
「聞けよ聞けったら! ラ-サは今行方不明なんだ! 生きてるかも……判らない。唯一の手がかりがその人なんだ! だから、ナハト!!」
ナハトの攻撃の手が止まる。ゆっくりと、視線が問いたげに後ろを向いた。
◇ ◇ ◇
「ぐうっ、あ! まだ、よ……」
蓮姫は、満身創痍だった。無理もない。相手は蟲だ。傷をつけたくらいでは動きを止めるどころか動きを鈍らすこともできない。
止める為には完全に息の根を止めるしかないのだ。自分の体よりも大きい蟲を相手に。
あれから4体を倒した。他にも5体に傷を負わせている。
しかし、その闘いのせいで松明などの灯りはすべて消えてしまっていた。濃密な闇が辺りを覆う。その闇の中、いまだ彼女の目の前には、10体を越える巨大なワ-ム蟲が鎌首をもたげていた。
「まだよ……!」
後ろに人々をかばい、もう一度剣を構える。ここを突破されたら……後はもう簡単に想像がつく。何も妨げるものがないのだから。
きっかけは何だったろう。蟲どもが一斉に前進しだした。スピ-ドが上がってゆく。あと少しだ。蓮姫は絶望に陥る気持ちを震わせて剣を上段に構える。あげた雄叫びも蟲どもの鳴き声にかき消されそして。
未明の星空の下、すべての巨体が体当たりをする為に彼女に向けて突撃して行きそして。
肉のつぶれる音がした。
◇ ◇ ◇
「我は知らぬ」
シェリアークの名を持つ少年は、呪文を止めて答えた。
「……………」
全ての視線が集中する。
その間も、クローノとアーシアはシェリアークを拘束する機会を狙っていた。が、音も立てていないのに体重を移動するだけで話し手の視線が彼らを向いた。荒事は素人のはずなのに、驚くほど隙がない。それでなくとも黒球のそばに張り付いていて、うまく攻撃の角度を消しているのだ。
(そんな馬鹿な……)
無意識にそう思ってしまうほど、彼らほどの達人がまるで隙をつけないでいた。
「良く考えてみるがいい。我はここから一歩も動いてなどいない。どうやってそのラ-サとやらを攫うのだ? 笑わせる。そんなものはそいつの口から出まかせに過ぎぬ」
「違う! でまかせなんかじゃない! そっちこそ嘘をつくな!」
「外野は黙っているがいい。ナハトよ、そやつらの云うことを信じるのか? 頭から全てを? お前の決意は、覚悟はその程度のものなのか? 全てを捨てて敵を取るのではなかったのか? お前の大事だった人間の敵を」
「………」
ギリ……。部屋のどこかで歯軋りの音が響いた。
「お前は云っていただろう? その人間が寂しく思わないよう、そしてその人間が未練を断ち切れるように、敵の魂をそちらに送る、と。そいつの手の届くところに敵を送ってやると。……心配するな。この封印が解けたら、ちゃんとそのラ-サとやらも捜してやろう。そのくらいのことは制御した水晶球ならば容易いことだ。だから、邪魔をさせるな。もう少しなのだから」
呪文が静かに再開する。
「うそだ! ナハト、騙されちゃだめだ! それを動かすためにラ-サが必要なんだ、生贄として! だから動かさせちゃだめだ!」
静かに王子がまた告げた。
「ナハト、先ほどの言葉は取り消そう。倒さずとも良い。足止めだけしてくれ。それならば良いだろう?」
撫でる様に優しげにナハトの体を言葉が縛る。
「ナハト!」
ナハトは動かない。しかし、のろのろとだが、またもう一度構えを取る。ファング達に向けて。
「ナハト………っ」
───それでいい。ククク。
「頼んだぞ、ナハト」
呪文がまた流れ始める。その部屋にいる人間は、誰も、一歩も動けないままだった。
◇ ◇ ◇
視界が、せまり来る巨体の群れに覆われていた。
蓮姫は最後の力を振り絞り剣を振ろうとした。が、
「間に合わないっ!!」
蟲どもの速度が直前で上がり、狙いのタイミングが無慈悲にずれる。
蓮姫は思わず目を閉じた。そのまま反射でしゃがみ込む。頭を抱える無様だけは最後の矜恃で耐えきった。どれだけ惨めで無様でも、剣先はそれでも敵を指していた。
そして、ドカドカドカドカドカドドッドドッドドド!!
超重量が押しつぶされる音が聞こえた。
「……………?」
音が、聞こえた? 自分はまだ生きている?
薄目を開ける。
目の前につぶれた蟲の肉の山が。
「うっ」
……思わず口を押さえ、息を整えもう一度眺める。
蓮姫は、目の前に薄い、何かの力の膜が張り巡らされているのを見た。いや、目の前だけではない。蟲からみんなを最大限遠ざけるように、“それ”は半球上に広がって、庭に面するテラスに沿って広間の半分を覆っていた。
(………みんな、無事……なの……?)
「蓮姫! 無事か!?」
自失の丁で茫然とへたりこむ姫の背中に、あり得ぬ声が降り注ぐ。
懐かしい声。自分のせいで追い込まれ、街から去っていった人の声。まだ時間的に聞こえるはずの無い声が。
理性は不思議を訴えるが、そんなものはどうでも良かった。聞こえた声の圧倒的な安心感に、姫の涙腺が崩壊する。
我慢していた涙が溢れた。我慢していた声が溢れた。
走ってくるアリアムに顔を向けて、蓮姫は声を上げて泣いていた。
「……頑張ってくれたみたいだな、ありがとう。後は、俺に任せろ」
蓮姫の手前で立ち止まり、自然に顔をそむけてハンカチを渡す。そのまま黙って蓮姫が落ち着くのを待った。
その間にもう一度、蟲の山と王宮から見える街に視線を送る。
「あ、アリ……陛下……アリアム様……!」
「……色々あったみたいだな、本当に。着いてみて驚いたぜ。何があったか、聞かせてもらえるか?蓮姫」
蓮姫はすべてを話した。
シェリア-クの事、その不審な行動の事、セレンシア神聖国らしき軍隊の事、街の人たちの行動の事、自分の事、クロ-ノの事、ア-シアの事、コ-ルヌイの事、ラ-サとファングの事。泣きじゃくりながら全部話した。
……最初の伝書鳩は嘘だった事も、アリアムが怪我をしたあの暴動は自分の責任だった事も、すべて話した。
「……そうか」
アリアムはそれだけを口にし、黙り込んだ。
すべてを話した。自分はきっと罰を受けるだろう。でも、……無事でよかった。
街も、人々も、アリアムも無事でよかった。
それでいい。それならいい。それだけでいい。
アリアムの片手が上がる。蓮姫に向かって、伸びる。
覚悟をしても体は固まるのだと云う事を、蓮姫は知った。
ビクリ。腕の気配を感じて目をつむったままうつむく。
その腕が、蓮姫の体を抱え込んだ。
「よく頑張ったな。姫のお陰で街や人が無くならずに済んだぜ。……お疲れさん。本当に、ありがとうな」
優しく背中を、頭をなでられて、蓮姫はまたも我慢ができなくなった。
自分の中にこんなにも涙が詰まっていたなんてこれまでちっとも知らなかった。
「声も出しな。もう、我慢するこたないさ。ここにいるから。ちゃんとな」
初めて自分のすべてを認めてもらえた気がした。
ずっと溜まっていた嫌なものすべてが、静かに、音もなく消えていった。
「ところで、いつまでそのままでいる気なのかな? そしてボクはいつまで突っ立ってればいいんだい、陛下?」
横から知らない声がかかり、蓮姫は急いで顔を上げた。貰ったハンカチで顔を拭く。
「おう、すまねえなナ-ガ。でも、もう少しこのままにしといてくれても嬉しかったんだけどなあ?無粋なやつだぜまったく」
「何を悠長なことを云ってくれているのかなこの女好きの王様は。ボクの力にも限界があるんだと言わなかったかい? 最後の最後の一瞬に力が抜けても知らないけど、それでもいいかな?」
アリアムはそれを無視して蓮姫に向き直った。
「はっはっは、蓮姫、紹介するぜ。こいつはナ-ガだ。自称魔法使い。本気で凄えやつでな、俺をここまで運んでくれた。一瞬だぜ一瞬! 連発はきかないみてえだが……。ナ-ガ、こっちは蓮姫だ。見た通り東大陸の出身で、今は亡命中。うちの国の賓客扱いになっている。剣を使うことは知っていたが、ここまで強いとは知らなかったな俺も。あ~、あのな、今度手合わせ願いたいんだが、いいかい? 蓮姫」
「は、はい! 喜んで」
真っ赤になって顔を拭きながら姫が応える。
「ナ-ガ・イスカ・コパです。よろしくお身知りおきを」
「あ、蓮ですわ。こちらこそ宜しくお願い致します。あの、名字は捨てましたので、お訊きにならないで下さいまし……」
その返答に、黒髪ウェーブの青年は、紳士な笑みを浮かべながら人指し指を立てておどけて見せた。おのれの唇に当てる。
「ええ、分かりました。ではその代わり、こちらの素姓も詮索は無しということで」
「分かりましたわ」
お互いにニコリと笑顔を交わす。アリアムは恐ろしいものを見たような気になった。笑顔が凶器とはこのことか。
「蓮姫、それよりさっきの話に出てきた人物の大半が見当たらないみたいなんだが……?」
「ええ、それが……、ああ、そうよ! ラ-サが今行方不明なんです……っ。皆さんで今も捜してくれているんですわ。あの、……アリアム様、お願いがあります! ラ-サを、ラ-サを一緒に捜して下さいませんか!? お願い致します!」
一瞬でも忘れた事を悔やむ様に、蓮姫が息せききって願いを迫る。
「判った。ちょうどそいつらにも話を聞きたかった所だ。しかし一度合流した方が早いんだがな、……どうやって連絡つけたらいいんだ?」
「あのう……、その人たちなら王の間にいらっしゃるんじゃないでしょうかのう?」
一人の老人が会話に割って入ってきた。老人を見つめ、アリアムは話の続きを促す。
「は、はい、お話の途中申し訳ありませぬ陛下! 自分は医者の手伝いをしている者ですじゃ。コ-ルヌイさん達なら皆してそこへ向かって行かれたみたいで、……わしゃ耳だけはいいんで良う聞こえたんですがの、殿下がどうの、地下の悪魔がどうのと云っておられたようですわい」
老人の話が進むにつれて、次第に、アリアムと蓮姫の顔が引きつっていった。
「地下の悪魔……か。お伽話だとばかり思っていたぜ……」
老人にお礼を言い舌打ちして歩き出そうとした刹那、地面が揺れた。悲鳴が避難してきた民のあちこちで上がる。
バリアの向こうで、転がっていた蟲たちが起き上がってくるところだった。どうやら潰れたのは最初の数頭だけらしい。さらに、中庭全体から最初とほぼ同じだけの数の蟲が地面を割って現れた。続々と増えてゆく。
音より先に振動が空気を震わし体に届く。次いで耳が音を理解した。そちらを見ると、起き上がった内の一匹がすでにバリアに体当たりを始めていた。
「……どうやらボクは動くに動けないみたいだね。云っておくけど後二時間が限界だよ?」
人々が悲鳴を上げて奥に逃げる。一度気を抜いたせいか、パニックに陥るのが早いらしい。
「みなさん、大丈夫です! あの蟲はもう、その光る壁よりこちらには来れませんから! ……私もここにいた方が良いようですわ。……一緒に行きたい、ラ-サを助けたい! でも……っ。……お願いしてもよろしいですかアリアム様……ラ-サのこと……」
「分かった。俺だけで行ってこよう。二人ともここは頼んだぜ。……すぐ戻る」
アリアムは玉座の間に向かって走り出した。
◆ ◆ ◆
「ナハト! もう止めてよ、ねえ、お願いだからさあ!」
ナハトは止まらない。シェリア-クの呪文の声も。
先ほどからまたも膠着状態が続いていた。あからさまな時間稼ぎ。あれからさらに数十分が過ぎていた。もう本当に時間が無い。
すべては遅いというのだろうか。もう取り返しがつかないというのだろうか!?
クロ-ノがア-シアを見る。もう拘束している時間はない。ア-シアは頷き、黒光りする液体を塗った短剣を取り出し構えた。気づいたコ-ルヌイが止めようとするが間に合わない! 小さく振りかぶる。そして腕が前方に向かいしなりゆき、
その時人影が一人、ドアを蹴り破り飛び込んできた。
「そこまでだ馬鹿野郎ども! 揃いも揃って何アホウな事やってやがる! そんなもんより先にすることがあるだろうがボンクラどもッ! 上じゃあでけえ蟲で大騒ぎなんだぜ! さぁてお前もだ。この状況、ちゃあんと説明してもらおうじゃねえか。説明してもらえるんだろうなぁシェリア-クよお……」
怒りを多量に含んだアリアムの声。その声が重みと共に地下深く、地上から隔絶された地下室に響き渡った。
第二十話『世界が崩れるとき(前)』了.
第二十一話 『世界が崩れるとき(中)』へ続く。




