第十六話 『災 厄』 [NC.500、火月2ー4日]
ドアを叩く小さな音が響く。
「誰だ。鍵は開いている……入ってくるがいい」
事務的に口調で答える。その冷静な声が、次の瞬間にいきなり裏返った。
「レン姫! もうだいじょう……」
深夜だった。もうすぐ日にちの変わる時間。宴会を辞していつもの、テラスのある自室でくつろいでいたシェリア-クは、ノックとともに入ってきた人物に驚いた。
それは、ここ二ヵ月近く部屋にこもっていたはずの、蓮姫だった。
話したい事がたくさんあった。彼女に謝りたかった。彼女があれ程嘆き悲しむ一言を放ったのは、紛れもなく自分なのだから。
だが、そこまで口にした青年は、小さく呟いて頭を振った。
(そうであったな……)と。下を向き一瞬だけ哀しみの表情をした。それも、消える。
そしてことさら冷たい言葉をかける。
「フム、【おこもり】の時間は終わりですか? もう少しお部屋に居られても良かったのですがね?姫。それにしても宴に引かれておでましとは、ククク。まるで、火に群がる虫のようですね」
「……。長らくご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでしたわ、殿下。何度も訪問していただいたのに、ごめんなさい……せっかくご心配をしていただいたのに、私……」
暴言だった。だが蓮姫はそれに耐え頭を垂れると、お願いがあるのだと口を開く。
「お願いですか……。ふう、どうやら何か勘違いをされているようだ。貴女にはもはやなんの価値もないのですよ、レン姫。わたしが貴女を王宮に置いて置くことを許したのは、いう事を聞いてくれない兄を御するため。それ以上ではない。お願いなど勘違いも甚だしい事でしょう。それとも、ご自分の置かれた立場や状況もお見えでないと? 呆れ果てましたね」
蓮姫は茫然とした。これが、あのシェリア-クだろうか。自分の前に出るといつも顔を赤らめていたあの……?
なにより、以前と雰囲気がまるで違う。まるで、故郷の大陸に降る吹雪のようだった。蔑みの目が体を貫くのが分かる。だがそれでも、蓮姫は下を向きはしなかった。
「そう……でしたわね。理解しているつもりです。私はもはやここに居てよい人間ではないのでしょう。ですが、それでも話を聞いて頂きたく思います」
「どうせ貴女の考えることだ。わたしに兄上と仲直りでもしろとでも云うおつもりでしょう。動機は……また皆で中庭でお茶がしたい、とでもいったところか。くっくっ、まだあの堅物がご未練ですか。喧嘩したお友だちとは仲直りできたのですか? アハハハ」
さすがに、限界だった。
「貴方は…………。そんなに面白いですか殿下!? そんなに、馬鹿馬鹿しい事ですか!? 貴方にとって違うとしても、私には大切な事です。大切な物事など、ひとによって様々ですわ! そうではありませんか……?」
さすがの蓮姫も声を荒げる。肩が小刻みに震えていた。
「それに私は、殿下にもお茶に参加してもらいたいと、思っているんです……!」
「……光栄ですね、それは」
そこだけ、口調が違った。苦しげな調子。しかし、それもすぐに変わる。
「ですがそれは出来ない相談なのですよ、レン姫。絶対にね」
「どうしてですの!?」
失笑いを収めて一転、少しだけ青年の真剣な顔が垣間見えた……気がした。
「わたしはもはや決めてしまったのです、レン姫。見届けなければならないのですよ。この国の未来に対してわたし達のどちらが正しいのか。正しさと正論は悪と狂気に勝てるのか、絶望を退けられるのか、を。特等席でね」
「なんの……事ですのそれは……?」
「負けるつもりはありませんよ。負ける訳にはいかない。そう、この世から消え去ることに恐怖はない……しかし、存在を忘れられることには我慢がならぬのだ。そしてわたしは知っている。この世界が優しくなど無いことを。だから、正義など、正論など……認めない。認めはしない!」
嘲笑し(わらっ) ている?! 蓮姫は鳥肌がたった。激しい言葉を放ちながら、シェリアークの顔は笑みの形に彩られていた。やはり、彼はもはや正常ではないのだろうか? 先程までの冷徹さは消えていた。ただ、薄かった狂気が次第に増してゆく。
肌寒い。いつの間にか、部屋の温度すら下がっている気がした。
「ご心配には及びませんよ、レン姫。貴女はお守りします、ちゃあんと、このシェリア-クがね。籠の鳥は嫌いではないのですよ。ですがまあ、放り出して欲しかったら勝手に出ていってくれて結構ですよ? その時は食料とラクダ車くらい餞別にお渡ししましょうか、クク」
いったいその笑い声はどこから来ているのだろう。まるで、まるで足元から這い上がってきているかのようだ……。同じような態度。しかし、先程と同じ人物とはもはや思えなかった。
突然、爆音がし、遠くの城壁から煙が上った。正門方向の人々から悲鳴が上がる。
「何事だ……」
シェリア-クがかつかつと靴音を響かせて部屋を出てゆく。振り返りもしない。どこにいたのか。いくつかの影たちがその後ろにつき従う。
部屋を出て蓮姫が見えなくなったところでシェリア-クは立ち止まる。
最近ぶり返した心臓の痛みをこらえる。手を当てはしない。目立たぬ様、立ったまま堪える。
わずかな時、一度だけ肩越しに振り返り、そしてシェリア-クは廊下を進む。
いきなり放っておかれたかたちだった。視線がわずかに泳ぐ。部屋に置かれた大きな壺が目に映る。いったい何に使うものなのだろう?
奥の燭台で燃える炎が、ときおり聞こえる爆音の合間に寂しげに揺らいだ。
交渉は決裂したのだと蓮姫は悟った。交渉にもなっていなかったかもしれない。当たり前だ。交渉術など習ったことが無いのだから。それでも、この時点での解決にわずかな望みをかけた。彼の正気に。だが……。
蓮姫はうつむかなかった。いつもなら下を向いて己れの無力さを噛み締めているはずだった。だが、うつむかなかった。力の衰えたこぶしを握りしめる。
(蒼星、私に力を貸してね)
蓮姫は窓の外を見、亡き親友に声をかけた。
◇ ◇ ◇
「何事だ。状況を知らせよ」
爆発は連続した音になっていた。途切れなく届く爆音に、シェリア-クの声が重なる。その間も、壁を攻撃する爆音は止どまることがない。
どうやら弓の先に炸薬を取りつけたものを射ているらしい。爆発の光は、内壁を越えた向こう、市街の中でもたまにだが光っていた。
「殿下!」 広間に現れたシェリアークの前に兵士が跪く。
「攻撃です!」
「貴様は馬鹿か? そんな分かり切った報告をするくらいなら黙っているがいい。それで、どこの軍隊だ?」
破壊槌や攻城兵器、それに高価な火薬を使用している以上、単なる暴動ではあるまい。
「それが、暗闇でまだ何も。いまだ酔いの抜けない者も多く……も、申し訳ありません!」
あまりの使えなさにシェリア-クの目から炎が噴いた。視線だけで兵士がよろりと下がる。
「貴様らも遊んでいるくらいなら城壁の上にさっさと炎をともしに行け……! ありったけの油を集めるのだ。そうすれば、明りにも攻撃にも使えるだろう。登ってくるようなら敵の上から撒き散らせ。怯まぬ場合は火をつけろ」
言われて兵士たちが走ってゆく。
(この程度のことも言われなければ分からないのか……)
これが、長年奴隷を使い続けてきた影響ということか。
その点では、アリアムの云うことは正しいのだろう。分かっていたことだが、ここまで見せつけられるとさすがに忸怩 たる思いが浮かぶのが否めない。
どうせ何とかしようにも、すべては手遅れでしかなかったと思うが。
(……仕上げまであと二ヵ月を切ったのだ、ここまできて諦めてたまるものか)
シェリア-クも戦装束に着替え、玉座の隣に置かせた椅子に座り、次の報告を待った。 誰もいない玉座。だが、空虚さを漂わせた玉座に座る気など、毛頭無かった。
◇ ◇ ◇
「意外な展開になってきたね。オレとしては、静かに忍び込みたかったんだけどな」
そびえ立つ城壁の上で、タ-バンの少年はひとりごちる。
ナハトだ。
彼は、「あの王宮の中心から、何度も空に向かって赤い光がそそり立つのを見た」、という行商人の情報を得て、何日も前から街に潜り込み下調べを続けていた。
その言葉通り、街に忍び込んでから確かに彼も何度か光を見た。
つまり、ラ-サの話に間違いがなければ、あの中に手がかりとなる人物がいるのだ。
あの涙もろく優しい大男のことを軍隊に教え、なおかつあの爆発を起こした人物の手がかりとなる、誰かが。
「自分の手でぶちのめしてやりたいよね、きっと……。でも大丈夫だよディ-……待ってて。すぐにそいつをそっちに送るよ。ディ-の手の届くところに必ず送ってあげるから」
下では見知らぬ人間たちがまた馬鹿な争いをし始めている。戦いの匂いを運ぶ風が壁を上ってくる。だが、……つまらなかった。醜かった。
(醜悪だね。バカはバカ同士、いつまでも殺し合ってればいいのさ。自分達だけでね)
「だれだ貴様!? 敵の仲間か!」
一人の兵士がナハトを見つけて駆け寄ってきた。見張りの一人らしい。
城壁の縁に座り込んだままで、ナハトは布に巻いた槍を一閃させる。兵士が倒れた。
(面倒だな)
殺しておこうか?
心臓に槍の穂先を向ける。ふと見ると、気絶した兵士の胸元から落ちたペンダントに、女性の上半身が描かれていた。女性の隣にいる男は、倒れている兵士によく似ていた。
ナハトは無言で槍を引っ込めると、もう一度布を巻く。巻きながら小さく舌を打つ。
邪魔な感情がまだ残っているらしい。
要らない。こんな感情は今は要らないのに。
立ち上がる。そのままいったん城壁を走り、離れた所の見張り用の階段を降りる。この辺りはまだ兵士も上ってきていないようだ。誰にも会わない内に急いで降りる。
下を見ると、人が溢れていた。愚かなことだ。こんな深夜に、そして戦いが始まっているというのに、まだ酒を飲んでいる者までいる。ナハトの口に冷笑が浮かぶ。
地面に降りたナハトは、ようやく何が起きているか悟り、パニックを起こし始めた群衆の波に乗り、街の中心に向かって進み始めた。
街の中心、王宮に向かって。
◇ ◇ ◇
爆音は止んだようだ。だが、今度は街と外を隔てる城門が攻撃されていた。衝撃波とともに鉄の門がしなる。破壊槌、鉄で出来た巨大な突き棒で門が叩かれているのだ。
「ご報告します。敵は、セレンシア神聖国の神殿兵部隊のようです! 敵の兵士の肩に紋章がありました! その数は一千ほど」
「なに? あの国は、対外と建て前を重んずるご立派な宗教国家だった筈だぞ……!」
部下達の狼狽ぶりを眺めながら、シェリア-クは一人の男の顔を思い浮かべる。一週間前、牢番が席を外していた間に自力で牢を逃げ出したという、金髪の優男。
「あの男、か? 確か奴は追われていると言っていたな。ふ、ふははははは。なるほど厄介なものを招いてしまったものだな、くくく」
また振動が襲った。王宮でこれならば、城壁に近い場所での音の大きさは、あまり考えたくないものだ。シェリア-クのこめかみに薄く青筋が浮かぶ。
「調子に乗っているようだな、生臭坊主どもが……一人たりとも生きては帰さぬぞ」
「し、しかし殿下、どうなさるおつもりですか!? この国には現在戦える者が殆ど居りません! 帰還中の主力の到着まであと5日……、持ちこたえられませんぞ……」
「5日もいらぬわ。二日待て。二日だけ持ちこたえろ。いいか、二日だそ! フフフ、丁度いい実験だ。このシェリア-クが、あの者どもすべてに真の恐怖とはどういうものかということを教えてやろう。くくくくくく、はははははははははは」
その笑い声に、その場にいた者たちの全身に鳥肌が立った。誰も知らない。知る由もない。だが、その笑い方は、この世のすべてを憎むある男のものに良く似ていた。
とても良く、似ていた。
◇ ◇ ◇
「何の騒ぎだろう、これ。お祭りにしちゃあ、何だか変じゃない,ラ-サ?」
「う~ん……花火じゃないのぉ? うるさいなあこんな時間に。眠れないじゃない! 不眠は乙女の美容の大敵なのにぃ~」
ファングとラ-サだった。久し振りに屋根の下なのもあり、二人ともこの二日間の人捜しに疲れて眠り込んでいたのだ。
「ねえラ-サ。これちょっとほどいてくれないかな。屋根の上で確認したいんだけど」
ファングは縄でぐるぐる巻きにされて床に転がっていた。ついでに目隠しもだ。混んでいて二人で一部屋しかとれなかったせいで、寝る前にラ-サに巻かれてしまったのだ。
「イ・ヤ」
「そう云わないで。ね? ラ-サ。僕が何かするような男に見えるの?」
「少なくとも男の子には見えるわね-。じゃ、そゆことで」
「あ、あのさ! 大通りをすごい数の人が走ってるみたいだよ? 足音がしてる。偵察してくるから、それから何もなければまた寝ればいいんじゃないかな?」
ラ-サは仕方ないな-という顔で「分かったわよ」と呟いた。ファングの縄を解く。
「それじゃあちょっと見てくるよ」
「うん、早くしてね」
ファングは窓枠に手を掛け、屋根に登った。
が、1分もしないうちに降りてくる。
「大変だよラ-サ! この街、どこかの軍隊に襲われてるみたいだ!! 正門が破られて街が壊されだしてる!」
ラ-サはまさかという顔で唖然とした。
「え-なんで!? どうしてそう何回も軍隊に襲われなくちゃいけないのよ! ……ね-。あたしとファングと、どっちが疫病神なんだと思う?」
「そんなこと云ってる場合じゃないよ! 早く逃げないとすぐにここにもやってくるかも!」
その途端ラ-サの叱咤の声が部屋に響き渡った。
「あんたバカ!? 逃げてどうすんのよ」
「え……? でも、じゃあ何を……」
「決まってるじゃないっ。街の人たちはどうなってた?」
「え……、たいていは中心にある王宮に向かって逃げていたみたいだけど……。軍隊の近くはどうなってるか分からないよ。でも、そうだね。街を壊すことに今は専念してるみたいだから、逃げ遅れててもまだ無事な人も結構いるかも……」
「だったらやることは一つね。その人たちを助けるわよファング。あたしの水晶玉を使えばどこに人がいるか、どの道が安全かが分かるんだから。そこまでみんなを誘導するわ」
ファングは目からウロコが落ちた気がした。そうだ、彼女はあのハムアオアシスの、崇高な精神に支えられたナハトの村の民なのだった。
「……うん! 分かったよラ-サ、助けようみんなを!!」
「まずはこの宿屋通りに残っている人がいないかどうか調べるわよ。返事がない場合は扉を蹴倒しちゃったって構わないわ! 非常時の常識よね-。ほら急いで!」
ファングが全速力で廊下を走り去るのを見た後、ラ-サは必要なものだけ集めて荷造りをする。背中の担ぎ袋に救急用具と水晶玉を詰め込んだ。
そのまま窓から身を乗り出して燃え始めた遠くの通りを眺め、怒りを込めて呟く。
「ハムアオアシスの人間の目の前で人の命をもてあそぶなんて、いい度胸よね……。小さくたって、たった3年間だって、あたしだってハムアに生きた女なんだ! 人殺したちの好きになんかさせない。ナハトさま見てて。絶対に大勢助け出して見せるんだから!」
ラ-サはファングの後を追って駆け出した。
◇ ◇ ◇
(ここがこの国の王宮か。……おかしいよね、いくらなんでもこんな簡単に奥まで忍び込めるなんて……。非常時だからこそよけい警備が厳しくなるはずなのにさ)
確かに、この混乱で王宮の人間はみな慌ただしい。隠れながら進めば見つかることもないだろう。だがそれは普通の人間に対しての話で、これほどの王宮となれば必ず、普通ではない人間たちがそこかしこで警備をしているはずなのだ。
一般の人間にまったく気づかれる事もなく。
それが、いない。
(罠? ……違うよね。オレが忍び込む事なんて判るはずはないし、それならそうで一気に全員でかかればいいことだし、その機会ならたくさんあった。なら、どうしたっていうんだろういったい?)
ナハトは一瞬躊躇 する。
思えばあのコ-ルヌイも、ここに帰ってきているはずなのだ。だが、(ま、捕まったらその時さ)と開き直って、それでも一応隠れながらさらに奥へと進んだ。
と、突き当たりに豪華な扉が見えた。
ナハトは近くの窓から外に出ると、壁の出っぱりを伝って外から部屋の先に回り込む。
その部屋の先は突き出たテラスになっていた。そこに降りて、慎重に中を覗き込む。
(誰かいる……)
部屋の中央に巨大な壺のようなものが置かれ、その周りの床をおかしな模様が取り囲んでいた。そして、その正面には、豪奢な軍服のような衣装を着た青年が立ち、ひとり一心に何かを祈っていた。
(何をしているんだ……?)
それは不思議な光景だった。呟くような呪文が部屋の中を満たしてゆく。そして、そのたびごとに、なにやら赤い霧が部屋の中に立ちこめてゆくのだ。
と、青年がふところから赤い小瓶を取り出した。デュランの持っていたものに少し似ている。
(! あれはもしかして、ラ-サの云っていた……)
それを床の上に置き、青年がまた立ち上がる。
刹那、青年が苦しげに呻いて膝を折った。掻くように胸をつかむ。
『どうした?』
どこからか青年のものではない声が聞こえた。
「やめろ……出てくるな! この体はわたしのものだ……。貴様などに屈するものか」
『やめておけ。力が欲しくないのか? 我慢することはない。我慢することはないのだ』
「くくく、馬鹿なことを……。貴様、わたしを誰だと思っている……? シェリア-クだ。その名を捨てぬ限り、わたしは誰にも屈したりはしない。わたしが屈することがあるとすれば、それはこの世でただ一人。その人物は、今ここにはおらぬ……」
『望みが叶うぞ? お前の望みは3つ。走ることのできる心臓と……あの女の体と心……そして、お前の兄を跪かせること……。みな叶うのだぞ』
「違う! ハアハア、わたしを侮るな悪霊よ、私の真の望みは、彼女の幸せと、兄上にわたしを認めてもらうこと、そして、ただ一度でいい、全力で走ることだ。そのための策も考えてある。貴様など必要ない。すべてが貴様と同じように考えると思うな……!」
ナハトは目を見張って眺め続けた。どうやら、その青年は自分自身と口論しているらしい。それなのに、ナハトの耳にはまったくの他人同士が言い合っているように聞こえるのだ。
『愚かな、今さらいい人を気取るというのか。お前は己が悪魔になると誓ったではないか? ふははは』
「貴様こそ、間違えるな……。わたしはおのれの目的のために、自ら悪魔になると云ったのだ。自分でだ! 他の誰かの力を借りてなるなどと云った覚えなどないわ……!ぐあっ」
『本当にそうかな? ふふふはははは 痛かろう、それがお前の運命だぞ』
「黙れ! だとしてもそれがわたしの誇り、けじめなのだ! くぅっ、黙れえ!」
ぐらりっ、青年の体が揺れて倒れる。ナハトはガラスを蹴破って中に入り、青年を抱きすくめた。急いで砂漠に伝わる悪霊封じの手印を切り呪文を唱える。半分暗示のようなものだが、気休めにはなるだろう。
印を切ったその手を青年の胸に当てる。しばらくして青年の顔に赤みが戻った。
「……貴様は、何者だ? なぜわたしを助ける」
気がついた青年に訊かれても、ナハトには答えようが無い。飛び出したのは、自分でも無意識だったからだ。だからナハトは、自分は、その赫いガラスの小瓶を使って人を操っている人物を捜している。とだけ伝えた。
「ビンが操る……なるほど、やはりそうであったか。ククッあの男、わたしを操ろうとは忌ま忌ましい下郎よな。だが、今は手放す訳にもいかぬ。力が要るのだ……おい、ならば貴様わたしを手伝わぬか? いつもわたしについていて、わたしが操られそうになったら止めろ。わたしを操れぬとなれば、焦ってあの男が出てくるかもしれんぞ。どうだ?」
ナハトは引き受けた。それは彼にとっても、願っても無い話だった。
◇ ◇ ◇
「なんてひどい傷! ねえ、あんた大丈夫!? 返事してよねえ!!」
「ラ-サ! ちょっとどいてて。今治療してみる。応急手当しかできないけど……」
ラ-サとファングだった。彼らは通りごとに残っている人たちを集めて、王宮の方に誘導していた。その幾つ目かの通りに入ったとき、ファングが倒れている人物を見つけたのだ。酷い怪我をしていた。ファングと同じくらいの少年だった。背中に重症を負っている。
皆を先に行かせファングが手当をしていると、燃え始めた家の火の粉が舞った。この通りにも火が回り始めたのだ。それに、襲ってきた兵士が何かを破壊する音がかなり近づいてきていた。
「時間がない! 本格的な手当は後回しにして、ひとまず下がろう!」
気絶していても棍を手放そうとしない少年をファングは苦労して担ぎあげた。その直後、後ろから声がかけられる。
「その棍はまさか……! カルナ、あなたはカルナなのですか!?」
振り返る。炎の前に、金髪の青年と黒髪の少女が立っていた。自分たちと同じように、逃げ遅れた人々がいないか確認に来ている人たちのようだった。
「……あなたのお知り合いですか?」
「え、ええ多分。いえ、間違いなく! しかしどうしてここに……。ああカルナ、こんな酷い……誰にやられたのです! いったい何があったというのですか!?」
その背の傷を診ようと手を伸ばす青年を、ファングは止める。
「今は触らないほうがいいです。それより、近くに安全に休める所はありますか?」
「それならば、こっちよ。いいところがあるわ」
黒髪の少女が誘導する。ファングたちも顔を見合わせた後、それについて歩き出した。
朝になると、黒い煙が街の3分の1近くを覆い隠していた。
巨大な街を襲った災厄は、まだ終わりを見せてすらいなかった。
また、本格的な侵攻が始まる。そしてそれはまた、これから始まる破滅と混沌への序曲でもあるのだった。
第十六話 『災厄』了.
第十七話 『破滅への序曲』へ続く……。




