第一章 ナハト (承)⚫️
「 ディーー! やったぜ! オレの成人の儀式が三日後に決まったんだ。とうとうオレも一人前の戦士の仲間入りだ!」
あれから更に一週間が過ぎていた。
その日も、デュランは悩んでいた。だが、それを誰にも悟らせることは無かった。
畑の中で、子供が数人耕すそばで座り笑顔で語りかけていた大男に、満面の笑顔はない。せいぜい小さく笑うだけだ。だが、誠実だった。大人相手と同じように相談に乗ってくれ、危険からも守ってくれる。遊びにも律儀に付き合ってくれて、たとえ忙しいときでも話を嫌がらずに聞いてくれた。
子供にとっては、理想の大人がそこにいた。人気が出ない訳がなかった。
だが、その当のデュランは、そんな自分が恐ろしく不誠実な事をしているような気がして仕方なかった。
ナハトは笑顔を取り戻してくれた。言葉遣いも最初出会った頃の元気なものに戻っている。そしてそれは自分のお陰だと言ってくれる。だが、そんな資格が自分にあるのか?と真剣におのれに問う。ただの先延ばしでしか今は無く。それ以前に、あまりに罪深い自分があんな純粋な願いを受け取る資格があるとは到底思えはしなかったのだ。
その当の少年が今も笑顔を向けて走ってくる。そばに笑顔で来てくれる。それが、嬉しいと感じながも、とても苦しくとても辛い。
ナハトの声に、笑顔でデュランに話しかけていた数人の子供が、小さくお辞儀をして、いそいそと帰ってゆく。小さな少女の腰にくくりつけられた自分の彫った小さな石彫りの人形が、走るにまかせて硬質の音を微かに放ち揺れていた。
「そうか、良かったな」
ナハトがたどり着くと、オアシスの水辺、小さな畑で鍬を持ち立ち上がった男は、口元で静かに笑い、優しそうに目を細め、まんざらでもなさそうに応える。その笑顔は、自分の背と同じくらいの剣を軽がると振り回し空中にピタリと止めていた人間と、同じ人物とはとても思えない。来た当初とは違って、だいぶ表面は落ち着いてきたようだ。
ただし、内面の方では最後の部分で、いまだ心を開いてはいないと感じられる。
しかし、ナハトはそれでいいと思っていた。いつか、何かきっかけがあれば明日にでも出ていってしまうかも知れないということは分かっていたから。でも、今は。今だけはここにいてくれる。そう約束してくれたのだから。
「儀式には一人だけ付添いが認められてるんだ。手を出しちゃいけなくて見てるだけだけどさ。ディー付いてきてくれよッ。絶対に。これ以上無いって位に成功させてみせるからさ」
「ああ、分かった。一生忘れられないくらい、凄いものを見せてくれ」
「オッケー‼」
嬉しそうに笑って、ナハトは指を立てた。
「処で、水を差して何なんだが、その儀式ってのはどんなことをやるんだ?」
「あれ? 言って無かったっけ? 成人の儀式ってのはね、砂漠の向こうのサバンナまで出かけて行ってたった独りで狩りをする。それだけのことさ。但しこれは食べ物を取ってくるんじゃない。だから肉が不味くて喰えない動物もこのときだけは狩りの対象になるんだ。つまり、より強い動物を狩って来た方が戦士としての格が上になるってことさ」
「………ナハト」
男がかすかに眉を寄せた。
「おっと。心配なんていらない。オレだってそいつが自分より強いかどうか位分かるぜ? ムチャはしないよ」
内心の不安を他所に少年はおどけて見せる。
「……信用してるよ。だがな……」
少年の内心の不安には気づいていた。だが、デュランはつい無意識に執拗に否定を続けてしまった。しまったと気がついた時には、ナハトは表情を消して下を向いていた。こぶしが小さく震えている。
「だが、なに? 何だよ? 信用してくれてんだろ。オレは部族の戦士だぞ! 剣持ってても訓練も全然しない癖に! よそ者のアンタに一体何が……ッ」
蒼褪めて口をつぐんだ。少年も言い過ぎに気付く。デュランの悲しそうな顔を見て、ナハトも顔を歪めた。言い過ぎた。どちらもだ。二人とも気づいていた。だが、男が口を開く前に少年は一歩後ずさり逃げてしまう。互いに謝る事が出来ないままに、場の空気は戻らなかった。
「オレは……ただ一緒に喜んで欲しかったんだっ。アンタに!! あ、謝らないからな! オ、オレは悪くない。……くそったれえっ!!」
背を向けて走り去る。ナハトは、振り返らなかった。
◆ ◆ ◆
三日が過ぎて儀式の当日になってもナハトは、デュランに会いに行かなかった。
村人からの話で、彼が自分を探していることも知っていた。だが、避け続けた。
(オレは、意地になってる)
解っていた。デュランが心から心配してくれたことも。最後は自分が悪かったということも。
(だけどやっぱり、ディーは部族の人間じゃないんだ……)
この村にはこの村のやり方があるということを考えてくれていないのだ。分かっていない。けれど……
(当たり前か)
デュランはいつかは出ていってしまう人なのだから。
(……来てくれる訳ないか)
見送りの村人に手を挙げて応え、軽く見渡した後。ナハトは槍を持ちラクダに水筒と干し肉を乗せて出発した。
見送りの村人の後ろ、椰子の樹の影からそれを見つめる人影が居た。デュランだ。
微動だにしない。
その瞳は出発するナハトを見ているのか。それとも……。
ジャリッ
砂を踏む音に振り向くと、呪い師のガスハがいた。
「あの子を、責めないでやってくれんか」
珍しく、向こうから話しかけてきた。これまで彼だけは、必要以上に近づいては来なかったのにだ。だが、いつも遠巻きに見られていることには気づいていた。
「別に……責めてはいない」
遠ざかってゆく少年の背を眺めながら、言葉を返す。あの日から、村人のデュランに対する態度は、一気に軟化していた。人気者の客扱いでなく、まるで家族に接する様に接してくれる人も増えた。ロッカやジーナとの稽古もさらに充実していた。だが、それに比例して、デュラン当人の憂鬱具合は増していた。言葉少なに返事に詰まることも増えていた。それを皆が心配してくれていたことも気づいていた。だが、その本当の理由を語る訳にはいかなかった。慕ってくれる相手が増えてゆくたび、余計に。
「……済まぬ。あの子は、わし等の期待に応えようとしているだけなんじゃ。あの子が五歳の頃、この村はいくさに巻き込まれ多くの者が死んだ。あの子の両親も。同じ年頃の子供たちも。……生き残ったのは、わし等老人と女、一部の怪我人と、そしてあの子だけじゃった。なのに今また、このオアシスを寄越せと言う部族がいる。自分達の泉が枯れかかっているから、とな。まったく。共に使い、共に守れば良いことなのにな」
ゴホゴホと咳き込む。咳の音が湿っていた。デュランは身体ごと振り返り、視線を老人に真っ直ぐ向ける。老人の強靭い瞳が彼を迎えた。
「じゃが……今のあの子は気負い過ぎている。自分が村を守る、とな。嬉しいことじゃ。嬉しいことじゃ。が、その所為で不覚を取るやもしれん。お願いじゃ! ついていって、あの子を影ながら守ってやってくれんか!? あの子は怒るかもしれん。傷つくかもしれん。じゃが、この村は、わしは、今あの子を失う訳にはいかんのじゃ!」
「………………」
「頼む……」
デュランは頭を下げる老人を正面から見据えた。この老人は、両親の亡くなったナハトにとって、親代わりだったと聞いていた。細い体の中に、誠意とナハトに対する愛しさが詰まっていた。
「……どうせ、もう嫌われているしな。これで、助けてもらった借りを全て返したことにするさ」
今なら、出て行ってもそこまで悲しませる事もないかもしれない。そう思い、口にした男に老人は驚く。
「……行ってしまわれるのか?」
それには答えず、遠ざかって行く白いターバンとマントの背中をもう一度眺める。
「どうやら、長居をし過ぎた様だしな」
老人も、若者の横で同じ方角に顔を向ける。陽炎に揺れる姿は、既に定かではない。
「済まぬ……」
一体どちらに向けた言葉なのか。そして老人は、男と少年に謝るように背を向ける。
「じゃあな」
老人は、背中ごしに男の最後の声を聞いていた。
◆ ◆ ◆
二日後。ナハトはサバンナの入口に立っていた。
(やっぱり、できれば獅子の皮が欲しいよな。飾って置くだけで勇者の証明として、難癖付けてくる他の部族へのいい牽制になる)
そう考えながら、あの日のデュランとのやり取りを思い出す。
「……悪いな、ディー。オレは、実力以上に強くなくちゃいけないんだ」
わざと大きく言葉に出し、ライオンの群れのいるだろう方へと足を向ける。そして、運が良いのか悪いのか。その日の夕方には二十頭あまりの群れにぶち当たった。
まずは群れの風下へと移動する。
(さ~て、こっからが根比べだ)
二十頭ものライオンが相手では勝ち目がない。何日か張り付いて、一頭だけが群れから離れた瞬間にすかさず一騎打ちに持ち込む。それでも五分五分だが。
(やるしかないんだ)
ナハトは心を消して石になった。
◆ ◆ ◆
ナハトに遅れること一日。デュランはサバンナに立っていた。村人たちの盛大すぎる送別は、胸が暖かいを通り越して熱くなった。小さな少女が泣きそうになってくれた。剣を教えた若夫婦、ロッカとジーナも、子供たちと共に頭を下げて礼を紡いだ。胸が痛かった。まともに見る事ができなかった。自分は決して、そんな見送りしてもらえるような人間では、無い。絶対に無いのだから。
(無茶をしてなければいいが)
想いを振り切り、気配を殺して辺りを見回す。
すると、近くにライオンの群れの移動した後があった。ついさっきだ。近づくと食い散らかした骨と皮と、一度だけナハトに見せてもらい、教えられたライオンの糞。それが幾つも散らばっていた。
(……まさかな)
疑念が湧く。そうでなければいい。だが胸騒ぎが止まらなかった。確認のため、群れの移動したらしき先を追いかけて移動する。小一時間で追いついたデュランは、近くの岩の上に登り、見下ろした。すると。
(いた……まさかとは思ったが、やはりライオンを狙っているのか……。しかし気配の殺し方は見事だ)
群れの後ろ、小さな岩の影にナハトはいた。瞬時に動けるように手をつき足を組み、地面に尻を下ろし岩にもたれている。気を付けないとデュランですら見失ってしまいかねない程、気配が薄い。
(まさかここまでとは! あれなら1対1なら倒せるだろう。あの老人の取り越し苦労だったな)
そう思った時、群れに動きがあった。狩りに出かけるようだ。子供を連れているメス以外のメスライオンすべてが腰を上げる。どうやら狩りはメスの役割のようだ。
遠くにシマウマの群れが見える。
そして先程と同じくらい薄い気配のまま、ナハトも移動を開始する。
ライオン達が整然と分散する。リーダーが群れを、風上からの追い立て役と風下からの待ち伏せ役に分けたのだ。こちらも唸るほど見事だ。
シマウマのリーダーが気付いた。追い立て役を視線に捉えて群れに指示を出し始める。が、すでに囲まれている事までは気付けない。
追い立て役が動いた。シマウマのリーダーが叫ぶ。子供を真ん中にして一斉に逃げ出す。群れが同時に駆け抜ける地響きが響き渡る。シマウマ側が一瞬だけ早かった。ライオンは追い付けない。
このまま逃げられる。シマウマ達が油断した正にその瞬間、待ち伏せ役が群れの先頭に襲いかかった。その中には、気まぐれなオスも僅かにいた。
凄まじい悲鳴。悲鳴。列が乱れる。群れが醜くバラバラになる。
そして。砂煙が収まった時、大人二頭、子供三頭分の、もの言わぬ肉が残った。
(凄い……これが、世に聞くライオンの狩りか。そうだ、ナハトは! ……居ない!?)
ほんの数秒目を離した隙にナハトが消えていた。
(どこだ!?)
見回すと、仲間が獲物をくわえて引き上げる中、ちゃっかり自分だけその場で肉をパクついている、たてがみが見事な巨大なオスライオンが一頭。そして、その後ろにはナハトがいた。
ライオンが気づいた。ナハトの気配が戻っている。それどころか、見ているデュランまでチリチリするまでに鋭い殺気。雄ライオンの見事なたてがみが逆立った。怒っている。
デュランは息を飲む。まさに今、種族を越えた決闘が始まろうとしていた。
(決闘だ)
デュランは感じた。騎士同士のそれに勝るとも劣らない緊張が走る。命懸けの決闘が始まる。
ナハトは他のライオンが彼方に離れた頃合を見て、そいつに向けて雄叫びを上げる。
一騎打ちが始まった。一歩すら動かぬまま、両者の全身の筋肉が一回りでかくなったかの様に盛り上がる。呼吸が静かに、だが火を吹くほどに熱くなる。両者の間の緊張が物理的なまでに膨れ上がった。
まさに互角。気迫という時点では互角だった。
(しかし、……巨大い!)
そう、いくらなんでも大きすぎだ。先ほどの群れの中でも、ボスを除き一番大きな個体だろう。尻尾を含めなくても5mは下らないその巨体と比べると、対するナハトはあまりに小さい。四つん這いの高さだけでもデュランの背丈を超えているのだ。大丈夫なのかと心配で身体を震わす。
(ナハト……無理は、するなよ……!)
デュランは、一呼吸ごとに口の中が乾いて行くのを感じていた。
そいつは煩そうにナハトに真っ直ぐ向き直る。食事の邪魔をされてかなり腹を立てている様子だ。力を貯めた筋肉が縮んでゆく。バネのような背骨がキリキリと絞られる。
無言で、どちらもが武器を構えた。
ナハトが槍を。獅子が爪と牙を。
一瞬の睨み合いの後、動いた。
同時だ。
ナハトの槍が先に出る。刃先がブレるほどの速さで連続で突く。それをライオンは後ろに跳躍して軽々と避け続ける。
(馬鹿なっ! あの巨体で、一飛びで真後ろに10mだと!?)
デュランは自分の目で見たものが信じられなかった。しかも四肢が伸びきったままの状態でだ。なんというポテンシャルか。人間があれにかなうとは思えなかった。あそこにいるのが自分でも、生きて戻れるのは五分五分なのではないのか。
だが、ナハトは怯まなかった。そのまま突っ込みライオンの着地地点に全力で突進し眉間に槍を突き出した。ライオンは読んでいたのか着地と同時に四肢を曲げ体を低くしダッキングで華麗に避ける。ナハトの上半身がライオンの牙の真上を泳いだ。同時に、そのままナハト目掛けて跳び上がる獅子の顎がパクリと開く。真下からナハトのすべてを飲み込みそうな大口を開けて牙が迫る。危ない、と思う間もなく槍の柄尻を地面に叩き付けてナハトの体が宙を舞い、刹那、一瞬前にナハトがいた空間で牙がかすめるように大気を切った。
美しいとすら言える槍柄の先での倒立が、自然の中に芸術的な直線を焼き付けながら静止した。大地に刺さる垂直の影。が、一瞬だ。ナハトの動きはそこで止まりはしなかった。気合が地上にほとばしり、柄をしならせて槍ごと空中に跳び上がる。
どれだけ上手くしならせればそこまで真上に高く上がれるのか。見上げた獅子の視界に陽射しが疾走り眩しさで唸りが怒りの声となる。そこへ、墜ちる。人の限界を超えたと思える高さから、少年が落ち様に位置エネルギーの全てを込めた一撃を穂先に乗せて突き出した。普通なら終わる一撃。
(馬鹿な!? 横に転がって避けただと!)
もはやケモノの動きではない。視界を潰されながらそれでも、気配だけであの突きを避けたのだ。地上の王者の呼び名もうなずける動きだった。吼えた王者はそのまま起き上がり地につき刺さった槍柄に向かい、強靭な前脚を斜め上から叩きつけた。
バキッ! 嫌な音を立てて折れた穂先がライオンの向こうに飛んでいく。
(槍が! そんな、あれではナハトは!)
地上に降り立ち唇を噛むナハトを見て、そいつはまるで笑うかの様に口を開け、もう一度獲物に向かい全体重で飛びかかる。一瞬でたわわに縮んだ背骨を伸ばし、弾けたバネで跳び込んだ。四肢の力以上の速度で顎が迫る。
「ナハト‼」
思わず上げた声に空中でそいつが気を取られた刹那。ナハトは獅子の下に転がり込み、折れた柄を柔らかい腹に突き上げて突き刺した。
「GUGIYAAAAAOOOOO!!!!!」
巨獣がのたうち回り大地が低い地響きを立てる。その隙にナハトは落ちていた穂先を握りしめ、「オォオオオッツ!!」気合とともに跳び上がり全体重を乗せた一撃を獅子の眉間に降り下ろした。
もう一度凄まじい叫び声を上げ、ドウッッと巨体が大地に沈んだ。……動かない。
戦いは、終わった。勝利だ。
「ナハト……」
驚きと余韻で体が固まり声しか出ない。それでも称える笑顔を向ける。
しかし。
ナハトも動かなかった。体から殺気が消えない。
「……なぜだ……」
「……ナハト?」
「何故あの時声をかけた‼」
涙の浮かんだ瞳と、怒りで握る穂先をこちらに向ける。
「ディー! いやっデュラン・ハミル‼ お前は神聖な戦いに泥を塗って汚したっ。汚したんだっっ‼」
血が頭に上る。
(その神聖な戦いでお前が命を落としたら、お前の部族はどうなるっ!)
もう少しで口に出すところだった。
が、言えなかった。口止めされていた訳ではない。
だが、言ってはいけない言葉だった。
ナハトは涙を流していた。
「……すまなかった」
デュランにはそれしか言えなかった。
しばらくお互い顔を見ず向き合ったままで。
そしてフイッ、と顔を背けてナハトは、敗者の皮を剥ぎにかかる。
どれくらい経ったろう。ナイフの音のみの無音の時が過ぎ、ライオンの皮を持ったナハトが直ぐ横を通りすぎた。
下を向いたままの俺に一言、「二度と顔を見せるな」、と呟いて。
そして誰もいなくなったサバンナの中で、デュランはガラスの小瓶を握りしめ、沈むまで夕日を見つめていた。