第一章 デュラン (転) 「願いの行く先」
見上げる空がどこまでも高い。
澄んではいない。薄く漂う細かい砂に覆われて、その青も深くない。
しかし霞んではいても、砂漠の上空には染み一つ無い。
高低差の高い砂丘に登ると、遥か遠くの地平線にわずかな黒雲がかかって、光っているのが見える。サバンナの方角だ。
だが、あの雲が砂漠まで来ることはないだろう。
砂漠の空気は今日も乾燥していた。
すべてを、吸い取ってしまうほどに。
(暑い、な。まったく)
砂漠の中を、2mを超える大男が一人歩いている。歳は30にわずか届かない位か。わずかに見える口元は、金色の髭に覆われていた。
男は、オアシスを出る時もらった、全身を覆うタイプのマントをきつく巻きつけ直す。 このマントが無ければ、脱水症状で倒れていても不思議は無かったくらいだ。
横を歩いているラクダすらも、五日前出発した時ほどの元気はない。嵐の時の海原のように、高波の状態で固まったような。行けども行けども小さな丘の列の様だ。上まで登らなければ先も見えない。この辺りの砂は、どうして流れるくらい細かいのに、ああも城のような高さで固まって空にそびえていられるのだろう……?
波打つ丘の頂上で、綺麗な石のような碧色の瞳が布の中から覗いて、見渡した。
(どこかの影で休まなければ……。崩れる心配のなさそうな低めの砂丘の窪みでもあれば……お? あそこなんか良さそうだ)
進んでいる方角の少し先に、砂嵐で削り取られたらしい窪みがあった。高さはラクダの背の倍くらいで済みそうだ。ちょうど良い影の広さ。たどり着くには幾つも砂の丘を越えなければならないが。
デュランはその場所を記憶に刻むと、その方向へ向かって砂の丘を滑り降りた。
たどり着いたデュランは、アリ地獄ではないことを確かめた後、お椀の中に滑り降りる。思ったより深くて涼しい。だが。
「先客、か……?」
奥の方、壁沿いにうずくまっている小さな影が見えた。
近づいて行く。
始めはゆっくりだったが、すぐに走り出す。フ-ドが外れてウェ-ブのかかった鈍色の金髪が広がり、肩をこすった。
(間に合うか!?)
うずくまっていたのは、7、8歳くらいの小さな女の子だった。
走って行く僅かなうちにそのまま横に倒れるのが見えた。フードがめくれて顔が見える。後ろで束ねた黝い髪の毛に砂が張りつき、瑞々しい肌は熱を持って赤く火照っている。それなのに汗が出ていない。
熱射病だ!
(これは……急がないと!)
傍まで走り覗き込むと、小さな顔に大きな隈が浮いている。かなり長い間苦しんでいたようだ。
(無茶なことを……)
このうねる砂漠をラクダも無く少女の足で渡ろうなど、無茶が過ぎるというものだった。
デュランは急いで荷物をあてがい少女の頭を足より高くすると、ヤギの胃袋で作った水筒を取り出し冷たい水で布を湿らせ、少女の額に乗せた。湿らせた布で顔や唇、腕などを拭きながら、衣服を緩め風通しを良くする。
顔の青くなる日射病の時は逆に足を高くして暖かくするのだが、熱射病の場合、確かこれでいいはずだ。
(もう少しだけ我慢するんだぞ)
見る見る布が乾いてゆく。デュランはその度に水筒を傾け、布を何度も湿らせ続けた。
太陽が沈んでゆく。
暑い時間がようやく終わった。急激に気温が下がり涼しくなる。
(もう大丈夫だろう)
日没とともに、少女の熱は下がり始めた。呼吸も楽になっている。
(思ったより軽かったようだ……。良かった……)
残っていた水にひとつまみ塩を入れてを口に含ませる。すぐにこくりと飲み干した。空になるまで何度もゆっくりと傾ける。
たくさん水を持ってきて良かった。水筒はまだ五つある。
気がついたらまた飲ませてやれるだろう。
(だが今度は……このままでは風邪を引いてしまうかもな……)
砂漠の夜は寒い。しかし風にでも飛ばされたのか、少女のマントはどこにも無い。
(本当なら、今が先に進むのに一番いい時間帯なんだが……)
置いていくわけにもいくまい。
仕方なく、デュランは自分ごと少女をマントに包んで横になった。
(こうしてると思い出すな………ミリカ……)
今はもういない娘の寝顔を思い浮かべながら、デュランは眠りについた。
「きゃああああああああ!」
(なんだ……?)
明け方、デュランは大きな悲鳴で目を覚ました。
耳元から聞こえてくる。
目を向けると、目の前に拳があった。
鼻といい目元といいぼかぼか殴りつけられる。
(痛て痛て痛て痛て痛て痛て痛て痛てっ)
マントが巻きついたままなので逃げるに逃げられない。手を入れて寝たのが失敗だったようだ。
一つ一つは痛くないのだが、連続でこられるとさすがにちょっと訳が違った。
「ち……ちょ……ちょっと……待っ、た……」
「なによなによアンタ何者!? なんであたしといっしょにねてんのよ! ああっなんて不幸なあたしっ! ヒゲヅラキンニクのカタマリにこのまま大切なものをうばわれてしまうのねっ!!」
何かシャレにならない事をわめいている。
デュランは何とか巻きついたマントを解こうと、マントの中で手を動かす。
「ぎゃああああああ!!」
さらにカン高い(?)悲鳴が拡大した。
「どこさわってんのよ--っ! このヘンタイ! デカブツ! キンニク! ロリコン! うわあああんばかあああああ!!」
「ちょ……待てこら……痛いだろうが……!」
何とかほうほうの態でマントから抜け出した。そのまま逃げるように体を離す。 振り向くと、少女はまだ腕を振り回して叫び続けていた。
それがだんだん弱くなってくる。脱水症状だろう。まだまだ水分が足りていないのだ。だが、止まらない。弱々しいままずっとわめいて腕を振り続けている。
「おい、少し落ち着け。また倒れるぞ」
話しかけると、ギッと音がしそうな物凄い形相で睨まれた。脱水症状寸前とはとても思えないくらい元気がいい。
「アンタ……カクゴはできてるんでしょうね………?」
怯みそうになるがデュランは話を続ける。
「覚悟って……。あのな、何か恐ろしい誤解があるみたいなんだがな……」
「ゴ・カ・イ、ですってぇぇぇ!!」
その目を見た途端、デュランは、自分が何かとんでもない事態に巻き込まれたことを悟っていた。
「なんてヤツかしらっ、ヘンタイな上に男らしくもないなんて! わあんこうなったらアンタを殺してあたしも死ぬ----っ!」
「だから何でそうなるんだおい!!? 俺は何もしては……」
「あたしのはじめてはもう決めてあったのに! あのひとに星の見える砂丘の上でやさしくささやいてもらうはずだったのに! うわぁぁぁん!」
末恐ろしい子供だ。
いろんな意味の汗をかきながら、デュランは叫ぶ少女に割り込んだ。
「だから何もして無い! そう言ってるだろうが! 話を聞けよ!」
少女のわめきが小さくなる。
「グスッ………なにも………? ほんとうに?」
「ウソなんかつくか」
真剣な表情のデュランに、少しおとなしくなった少女が涙目で訊いてきた。
「じゃあ、さっきのはいったい何なのよお……」
(ようやくそこに話がたどり着いたか……)
デュランはぐったりと疲れながら、昨日少女を見つけてからの事の顛末を話し出した。
「ふうん。じゃあ、あたしはアンタにカリがあるんだ……」
塩を入れた水筒の水を飲みながら、少女が呟く。
何やら不本意そうだが気のせいだろう。
「別にお礼はいらない。そんなつもりじゃないしな。だがまあ、良かった。これで誤解だって事は判っただろう?」
「え、そう。ホントに? カリとか考えなくてもいいのね?」
少女の口元が緩み、瞳が妖しく輝く。
「ああ」
それに気付かず、その時、(ようやく出発できる)、そう思ったデュランの耳に、とんでもない言葉が入ってきた。
「なら、さっきあたしをさわったのは、アンタへの貸し、と考えていいワケね」
目を剥く。
「はぁ!!? なんでそうなる!?」
「だってそうでしょ? あたしはアンタにカリは無い。でもあたしはカラダをさわられた事、わすれるとは言ってないわ」
「触ったっていったって、あのな、あの場合は……」
「さわりにげする気ね!!」
「おいこら」
「じゃあ、どうしようかな。あたしはやることがあるのよね。それを手伝ってもらおうかしらぁ?」
こちらを無視して、あさっての方を向いてうっとりと呟き始める。
(何なんだこの子供は!?)
じわりじわりと汗が出る。
(何を言われても、これは、逃げた方が正解な気がしてきた……)
ゆっくりと荷物を持って後じさる。だが。
「まっててね-ナハトさま! ラ-サはすぐにかけつけますわ!」
(な…………にっ!?)
デュランはこのまま逃げる訳にはいかなくなった。
数刻後、デュランは少女、ラ-サの後を付いて砂漠を歩いていた。
(ナハトに少女を襲ったなどと誤解されたらたまらんぞ……)
しかも、ちゃっかりと荷物持ちまでさせられている。
(しかし……どうして俺がこんな事を……。これも神を捨てた罰だとでも言うのか?そんな馬鹿な……)
「なあ、ラ-サ、だったか。さっき言ってたナハトってのは……」
ナハトの名前を聞いた途端、少女、ラーサの瞳に星が走った。幾つも星が跳ねていく。
「ナハトさま? すばらしい方よ。ついでにいい男なの! カンペキな人ね!!」
デュランは自分の知っている姿を思い浮かべる。
(……そうだったか?)
少しばかりイメ-ジにギャップがある気がする。
「小さいころ、あたしのいたジプシ-のキャラバンがヤトウにおそわれたときにね、さっそうとあらわれて助けてくれたの! あの方もまだ10さいくらいだったのに、大人のヤトウをコテンパン! もう王子様よ! その時に決めたの。大きくなったら、きっとおやくに立とうって。それからシュギョウをかさねたわ。とってもつらいシュギョウだったけど、いまこの時のためにそれはあったの。今、ナハトさまのオアシスは大変なことになっているって聞いたわ。そう、とうとうあたしがお役にたつときがきたのよ! ちょうどいいことに、ナハトさまのオアシスにはおじいさまがいるから、わからない所はおしえてもらえるし」
「おじいさま?」
「ガスハおじいさまよ。全員が呪い師のあたしの一族の中でも、一番の呪い師なの」
「………そうか」
まだ詳しいことは知らないのだろう。得意そうな少女を前にして、デュランは、そう呟くしかなかった。
ラ-サの目的地は地平線に見えている岩山らしい。彼女はこの年でもう仕事をしているという。職業は呪い師見習い。
今日は真の呪い師に昇格するための試験で、あの岩山にある神殿の跡からある物を取ってくる事。それが試験の内容のようだ。
「試験なら一人でやらなきゃいけないんじゃないのか?」
「どうぶつを一頭ならつれてきてもいいのよ」
「俺は動物か!?」
「だってつれてきたラクダ、にげちゃったんだもの。あたしはうんが良かったわ」
「ほう、運が。良かったのか。ほ-」
体が震える。ラ-サはそれに気付いてるのかいないのか。
「ほらっかこをわすれてほしかったらきりきりはたらく!」
(な、……なぜだああああああっ)
運命の理不尽さにデュランは心で悲鳴を上げた。
二日が経った。その頃には、デュランは心身ともに疲れ切っていた。
ほとんどはストレスから来る疲れだ。何せこちらが言い返さないのを良いことに、この二日、何でも無いちょっとした事までデュランはやらされ続けたのだ。
(つ、着いた……ようやく……)
デュランは先ほど、岩山を登り切っていた。目の前に見たこともない神殿が見える。それは、思っていたより小さくこじんまりしたものだった。
(これで、解放される……)
デュランの体には、ロ-プが巻きついて伸びている。
「はやくひっぱりなさいよお!」
岩山の下まで垂れたロ-プのもう一方の先から声が聞こえてきた。
「まったく……俺に会わなかったらどうやって登るつもりだったんだ?」
ロ-プを手繰り寄せる。
最後の部分を手を掴んで引き上げると、デュランは座り込んだ。が。
「なにすわってんの? こっち来てよ」
「後は自分一人でやれ。お前の試験だろうが」
「いいじゃない。観客がいるのといないのではやる気がちがうんだから。来てよう」
「あのなあ……」
ため息をつきながら、デュランは体を起こす。
結局は付き合いの良い自分を、デュランは不思議に思う。どこか、ナハトを思い出させる話し方のせいだろうか。しかし。
(少し前までの俺だったら、ここで怒鳴っていただろうな。いや、最初に面倒な事になった時に逃げていただろう。そんな余裕は無い、とな。あいつに会う前までの俺ならば……)
感情を忘れた自分に、まともに、思いきり思いをぶつけてきた少年を思い浮かべる。数日前、別れた時の、デュランのためだけに流してくれた涙を……。
(俺は、変わったのか)
きっと、今なら素直に謝ることができる。
妻に、娘に、家族に、村人に、……そして、殺してしまった幼い王子に。
魂の底から。
(ナハト……)
謝った先の事は考えていない。何をするかも決めていない。しかし、その先があることすら考えていなかった頃とは、今の自分は違う。きっと違う。
「はやくぅ!」
(少しは可愛い所もあるじゃないか)
奥まった神殿の入り口から急かせれて、デュランは考えを止め、苦笑しながら小さな古代の神殿へ入っていった。
神殿の中は、壁がなかった。ついでに像なども何も祭られていない。
石に似た違う材質のたくさんの柱で、屋根が支えられているだけだ。中の広さは……大きな町の食堂の半分くらいか。
その代わり、中央に祭壇のような物が備えつけられていて、その周りを金属の管が何十にも巡って走っていた。
(これは……神殿と言うより、神域……儀式を行う場所、という感じだな)
見回して思う。そのデュランの感想を肯定するように、ラーサが言葉を発した。
「あ、そこからは入ってこないでね。今からカンタンな[ぎしき]をするから」
「持って帰るだけじゃなかったのか?」
「もって帰るモノをもらうための[ぎしき]なの! ジャマしないでよね」
(くそっ、やっぱり可愛く無い)
だが、幼い少女が一転真剣な顔つきをしたのを見て、デュランも真剣に押し黙る。腕を組んで、一番外側の良く見える位置まで下がり、柱に寄りかかった。
しばらく見ていると、ラ-サは赤と紺の塗料で顔と両手に文様を描いた後、飾りの付いた小さな短剣を荷物から取り出し、手に持って祭壇の周りを踊り始めた。始めは静かに、そして次第に時折激しく揺れる。
不規則なリズムが変化してリズムを創り、歯と舌が打つ小さな音、刃が空気を切る音、布の絹が揺れる音、足が床を蹴りつける音などが渾然一体となってオーケストラを形作り、韻を踏み、いつの間にか辺りに漂う言葉のような音楽が出来上がり満ち始めていた。
お世辞抜きに見事な舞いだ。つい二日前に倒れたとはとても思えない。それだけではない、才能……と、そう言って多分過言ではない何かが確かにそこにはあった。
思わず感嘆の息が漏れた。
体に描かれた様々な模様が波打ち、より複雑な文様を形作っていく。空間に文様が浮かび上がり、ゆったりした激しい手の動きが、神殿全体に心地好いほどに広がっていった。
30分ほど経ったろうか。ラ-サが静かに踊りを止めた。
……何も、起こらない?
「あとは、夜になって月がまうえに来たらつづきをおどるのよ」
なるほど。
「ああ、失敗した訳じゃなかったのか」
「……さされたいもしかして?」
デュランは大げさに首を振ると、干し肉を二つ取り出し、片方をラ-サに渡して腰を下ろした。
夜。地面から遠い岩山の上はかなり冷えてきた。
大丈夫かと心配したが、軽く震えていたラ-サの体は、月が登り始めるとピタリと震えを止める。
(さすがだな。曲がりなりにもプロ、ということか)
後半を踊り始める。
満月が踊りとともに静かに移動してゆく。真上へ。
そして、今度こそすべての踊りが終了する。
う゛ぅう゛ぅう゛ぅう゛う゛ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ
祭壇の台座が細かく振動を放ち始めた。
すうっ
台座が淡い光を放ち始め、同時に丸い月が真上で止まる。
(何っ!? 月の動きが……!)
まさか……?! 錯覚だと言い聞かせなければ頭がおかしくなりそうな空間がそこにはあった。
ウ゛ウ゛ンッ
「!」
祭壇の上に人影が現れた。ほろ蒼く透ける長い艶髪。
(いや、これは……幻影、か……?)
女性の姿をした蒼く薄い影が揺れている。顔はよく見えない。
そして影は静かに話し出した。
『わたしを呼んだのは貴女たちですね』
軽くエコ-がかかって聞こえる声だ。
「そうですあたしです。うしろのアレは気にしないでいいです」
(気にしてくれよ……)
アレ呼ばわりされたデュランは、横の柱にもたれてブ然と呟いた。
『どの様なご用でしょうか』
「呪い師のしけんなのです。いつものブツください」
デュランは噴き出しそうになる。
(いいのかそれで!? その話し方で! ……誰だか知らんが)
『いつもの……ああ、水晶玉のことですね』
「そう、それです。くださいな」
『判りました。ただ今審査中です。お待ちを』
「はやくしてね」
「………………」
すでにつっこむ気にもなれない。しかし、なんてアバウトな試験だ……。
「あとはまつだけね。アンタ、干し肉もう一つくれない?」
「名前で呼べ」
「へんたい」
「…………………………………………………………………………………」
「ダメ? じゃあロリコン。キンニク。……でかウド?」
さすがに頬が痙攣してきた。
「ねえ、いま思いついたんだけど、[でかウド]っていいと思わない? すばらしい組み合わせ? あたしって天才?」
「……もう、いいから……、勝手に持ってけ……」
疲れた顔で、デュランは荷物を袋さら渡した。片手で顔を覆う。
(誰か何とかしてくれ、このお子様……)
その小さな呟きは、自分以外の誰にも聞いてはもらえなかった。
(ずいぶん時間がかかるんだな)
すでに20分以上経っている。横ではラ-サが三本目の干し肉に手を伸ばしていた。
「太るぞ」
びくっ。ラ-サの伸ばした手が止まる。
恨めしそうに見上げてくるが、デュランはソッポを向いておいた。
(これくらいは、な)
「う゛-ふとる、でもたべたい……う゛、ぅ--ん………!」
横ではラ-サが思い切り涙目で頭を振って悩んでいる。
デュランは口元で笑いを堪えた。と、
ブ、……ン……
消えていた幻影が再度また現れた。
『お待たせして済みません、実はもう少しだけ掛かります』
「ふぇえ~~~ッ!?」
口に肉を含んだラ-サの、抗議のうなり声が響く。誘惑に負けたようだ。
『ですから、今のうちに、もう一つのご用も済ませておきたいと思うのですが』
「もう一つのご用?」
何だろうと思っていたら、幻影がデュランに向き直った。
『貴方、[思念の小瓶]を持っていますね』
「思念の、小瓶?」
『そうです。持っているのですね。そうですか……ルシアがまた、目覚めたのですね……。それではとうとう、その時が……近いのですね……』
(?)
何の事か解らないが、デュランは腰の袋から、ガラスに似た材質の小ビンを取り出す。
「これの事か? 名前があったのか、これ。しかし何故知ってい……?! そんな、なぜだ……!? 中に水が溜まっている!!」
前に見た時は何も入っていなかったのに、今、ビンの中には溢れそうなくらいの液体が溜まっていた。
「どういう事だ!? いつの間にこんなっ!」
(解らない……しかし、もしかしてこれが[真実の涙]なのか? これで上手くいくという事なのか!?)
握りしめる手に力が入る。
「なあにそれ?」
ラ-サが覗き込んできたが、無視する。というより、気がつかなかった。
ほおを膨らませた少女にすねを蹴られるが、構わず問いかける。
「これで、呪文を唱えても大丈夫なのか……? 叶うのか? なあ、答えてくれ……頼む」
知らずに重心が前になる。
『大丈夫です。使い方は解りますか? 願ってはいけない事柄もあることは……?』
「ああ……聞いている……聞いているさ…………」
「ちょっと、ねえ!? でかウドったら! ねえどうしたの………デュラン……?」
デュランは、強張った顔を見せないように、顔を向けずにラ-サに頼んだ。
「ラ-サ……頼みがある。……今からのこと、これからここで起こることを。……見届けてくれないか?」
「え-なによそれ! アンタ人にモノをたのめるたちばだと……」
「頼む」
出会ってから初めてなくらいに真剣なデュランの声に、ラーサはパクパクと口を開け閉めした後、ため息をついて頷いた。
「……………んもう、しかたないわね。いいわ。じゃ、とっととはじめたら? 何をするか知らないけどさ」
「ありがとう……」
絞り出すような優しい声に見上げると、深くて優しい光をたたえた両目が、ラ-サを静かに見下ろしていた。まるで雨の後の若草のような碧の色の深い瞳。
ピンと天までそそり立つようなまっすぐな体が、まるで神の宿る山のように見えた。
(ふ、ふん! 何よカッコいいじゃない。すっごくしゃくだけどっ)
「は、早くおわらせなさいよね。何か知らないけど、ま、がんばれば?」
口調こそ乱暴だが、その赤い顔から、ラ-サが本気で言ってくれていることを見て取ったデュランは、顔全体で微笑んだ。
「ああ!」
呪文が立ち上って行く。砂漠の中の岩山の上から、空へと。
淡く、黄色がかった銀色の光が、空の真ん中から降りてきてデュランの大きな体全体を包み込んでいった。




