第一章 ナハト (起) 2
「で、どの方向を捜すんだ? 見当はついているのか?」
しばらく歩きハムアオアシスが見えなくなった頃、ようやく発せられたデュランの疑問に、ナハトは頷く。
「ああ、ついてる。と言っても、根拠は無いよ。それほど遠くじゃ無いんだけど。でもそこの近くには生きてる水場も無いし、今は嵐も近づいてるから危険なんだ。だから、自分で行って確かめなきゃダメだ。他の村の皆に無駄足で行かせる訳にはいかなかったんだ」
「どっちだ?」
申し訳なさげに頭を下げそうになる少年を止めたデュランの問いに、ナハトは右手の指を伸ばして答える。
「あっちの方向に歩いて2日行った先に、古い井戸のある村跡があるんだ。何十年も前に捨てられた村だけど、井戸の形だけは残ってて。でも、枯れてるから、ハムアの大人たちは見向きもしない。でも、オレは小さい頃、死んだ兄貴に教わったんだ。誰も信じてくれないけど、嵐の近づく気圧の下がる数日だけ、枯れた井戸が復活する事があるって。それを、キャラバンの団長も聞いていたから。だから、その近くで遭難したのなら、遭難場所がハムアよりそちらの方が近かったのなら、そこへ行ってるかもしれないんだ」
「村人にはそれ、教えなかったのか?」
「誰も聞いてくれないんだよ……気圧だけでそうなるって、信じてくれないんだ……」
初歩的な科学の知識。だが、ギリギリで生きている砂漠の中では、本当に必要な知識以外は見向きもされないのも理解できる。どちらかといえば、その普段使わない知識を学び使えているナハトやその亡くなった兄の方が、異端、なのだろう。
「わかった。では、そこに向かおう」
「……信じてくれるの?」
「充分な根拠だろう。嵐も近い。急ぐぞ」
「うん!」
そうして、二人はできる限り先を急ぎ、完全に暗くなる直前まで進み通し、薄闇の中テントを張った。風が小さく渦巻いているのと時間の節約の為に、火を起こすことは諦め干し肉と水袋だけで食事を済ませた。デュランが担いできたテントを広げ固定する。共に中に入り寝袋で体を軽く固定すると、互いにほとんど言葉を交わす事なく、いざという時の為に武器を枕元に置いて眠った。袋の中で、緊急時に引くと袋がばらける紐を握りながら。
◆ ◆ ◆
二日後。空を流れる砂のもやにときおり隠れるが灼熱は陰らない太陽に炙られながら進み、地上付近でも風に舞う砂が増えてきたと感じる頃。二人はようやく枯れ村に到着した。多少疲れはあれど、元々体力には自信のある二人だ。村に入るやいなや、休む間もなく遭難者がいるかどうか探索を開始した。そして、しばらく。
二人は二番目に向かった村はずれの二つ目の古井戸の前で、複数の足跡を確認していた。視線を合わせ、真剣な顔で頷く二人。井戸の底からは濁ってはいるが水が浸み出し、砂まみれながらも桶で汲める高さまで水位が上がって満たしている。これが例の、巨大な低気圧の過ぎる間だけ水が戻る井戸なのだろう。岩盤に隙間があり、普段は浸透圧よりも気圧が勝り枯れているが、気圧が下がると浸透圧が勝って水が噴き出す仕組みなのだろう。自然の造り出したマジックだ。
「やっぱり、ここに誰か来たのは確実みたいだ」
「ああ。水を汲んだ跡がある。だが、足跡が複数あって乱れていることが気にかかる。もしかしたら、ただの遭難ではないのかもしれないぞ」
それを聞いたナハトが、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、デュランに頭を下げていた。
「ごめん、ディー。オレの考えが甘かったかもしれない。嵐で遭難したのは間違いないと思うけど、それだけじゃないかもしれない。嵐の進行予測に慣れているはずのあの人が、いくら巨大だからって、ただの嵐で遭難するのは、今思えば確かにおかしいよ」
「……というと?」
「嵐に向かうしかない状況があったと考えるのが妥当ってこと。たとえば、野盗の襲撃とか、いや、もしかしたら……」
口元に手を当てて考える少年からは、村に来た最初の頃に感じた幼さのようなものが、消えていた。あれも彼の内面の一端ではあるのだろう。普段はあちらが素なのも間違いないだろう。だが、その中には、それだけではない鋭さも、頭の良さも確かに存在していた。村の者たちがこの少年を将来の長と考えているのが垣間見えるのも、その血筋だけのことではないのだと感じた。砂漠の民。その複雑な深遠さと自然の中で暮らす苛酷さを、旅人である男の腑に落とさせるにそれは充分な変化だった。
「心当たりがあるのか……?」
デュランの問いに、ナハトが頷く。
「ハムアに一方的に敵対している村が一つあるんだ。ここ何十年もずっと、ほとんど言い掛かりに近い争いを仕掛けてきている奴らで……十年前、オレの家族を殺したのも、そいつらなんだ」
ナハトの瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿っていた。
「急がなきゃ……バルゴさんまで!」
「………」
デュランはあえてそれには触れず、焦るナハトへ慎重に言葉を返す。
「なるほど。だがそれなら、ここからは敵中と思って慎重に進むこととしよう」
互いに頷き、砂の上で本来なら響く足音を消す走り方で慎重に、同時に走り出した。乱れる足跡の続く方へと。
その、音もなく走ってゆく二人の光景を、屋根の上から見つめる二つの目があった。砂色に紛れる衣装を身にまとうその人物は、二人が走って行った方向を見極めると、石でできた崩れかけた家々の屋根の上を跳ぶようにして走り出す。その衣服から唯一覗く二つの瞳の色は、白目の部分が燃え盛る焔のように紅く染まって、陽光のようにギラついて光っていた。
◆ ◆ ◆
「この建物……みたいだ」
埋れかけ消えかけた足跡を慎重に辿った先は、砂に削られ朽ちかけた石壁の入り組んだ路地の裏。奥まって日陰となっていたおかげか、まだ辛うじて屋根も壁も完全に残っている数少ない家の一つ。その裏口だった。
扉はもはや存在しない。朽ちて崩れた扉の先は、濃密な闇。暗くて奥が見通せない。
二人は顔を見合わせ頷く。そして互いに武器を構えながら、その闇の穴の様な空間にゆっくりと歩みを進めた。
と、その瞬間闇の奥から痛みを堪える悲痛な叫びがこだました。
「バルゴさん!? 待ってて今ッ」
「待てナハト気をつけろ‼ くそっ!」
聞こえた知り合いのくぐもった悲鳴に、ナハトが焦って先に飛び出す。デュランの制止を振り切ってナハトが入り口に向かって駆け出していた。舌打ちし急いで続くデュランの前で、ナハトに向かい砂色の影が落ちる。
「上だナハト‼」
屋根の上から緋色の瞳の敵が躍り出た。舌打ちしながらデュランも駆ける。上からだけでは無かった。入り口の闇の奥からも二人の敵が同時に飛び出し、デュランの見ているその先で、ナハトの死角から放たれた三つの毒刃が少年の上半身に同時に迫る。
「ナハトォ‼」
「分かってる! ハァッ‼」
焦って飛び出してしまったが、ナハトも待ち伏せには気づいていた。
影に潜んでいるのが知り合いの隊商主にしろ敵にしろ、か細い微かな気配が複数あったからだ。なにより、消そうと思えば消せるはずの入り口に繋がる足跡を消していなかった時点で、怪訝しいのだ。それだけの時間が無かったのか、でなければ待ち伏せる為としか思えない。だが、屋根の上の気配は読み損ねた。完全に消されていた。かなりの手練れだ。
上を見て金属に塗られた青い毒の照り返しを視界の隅に意識したナハトは、槍を回し、走りながら柄の先で砂を巻き上げ目潰しをする。煙幕の代わりの砂の中から旋風のごとく飛び出して、回す向きを横に変え、前方の二つの毒垂れナイフを弾きながら体を傾け前転した。敢えて受け身を取らずに斜めに転がる。頭上から肩口ギリギリをかすめたナイフが通り過ぎ、敵の口からギリリと悔しげな音がかすかに漏れた。地面に降り立った敵のリーダーらしき男がすかさずナイフを、難を逃れたナハトに投げる。前方の二人組も含め、三人で体のあちこちから投げナイフを抜きながら、まだ立ち上がれない少年の胴へと向けて次々投げる。全てが毒の色付きだ。ナハトは回避を諦め槍を回して盾を続けた。三人組の二人がナイフ投げを続ける中で、一人が路地の壁を三角に蹴りナハトの背後に回り込む。それに気づきながらも少年は槍の防御を止められない。
焦るナハトの背中に向かい、振り上げられた僅かに反りの入った片刃刀が振り下ろされる。獲った、と歯を剥く男の笑顔。それが驚愕に見開かれた。当たる直前、金属音を立ててシャムシールが折れて飛ぶ。
「俺を、忘れてもらっては困るな」
「ディー‼」
嬉しそうなナハトの横で2mをゆうに超える大剣を構え、腕を押さえ悔しそうに睨む敵を見据えながら、デュランが悠然と笑みを浮かべて立っていた。
「ナハト、後で話があるぞ」
首を前に向けたまま、デュランがナハトに声をかける。心持ち固い声だ。打ち合わせに無かった独断の飛び出しに対してだろう。
「う……先走ってごめんなさい」
「む。反省してるならそれでいい。では、ここからだ」
「うん。打ち合わせ通りにいこう」
「……やはり後で反省会だ」
「ごめんってばさ!」
言い合いながら、立ち上がり背中合わせで死角を消して対峙する。
左右に別れて対峙する敵の視線の鋭さが増してゆく。そして、第二幕が始まった。
飛び出す敵のタイミングに合わせ、ナハトがまたも砂を飛ばした。予想していたのだろう、怯むことなく飛び込んでくる敵に対して、ナハトとデュランが位置を入れ替え一瞬でスイッチした。砂の膜が晴れた先で入れ替わりを認識しギョッと目を剥く二人に対し、間髪入れず厚みのある大剣で大気と砂を焦がしながらも一呼吸で十字に二撃。デュランのぶれ無い剣筋が、空間にたったの一秒で斜めに×を刻み込み、押しのけた砂風の先で二人の男を吹き飛ばす。見事な連携と、そして豪快な流れるような神業だった。肩口から斬られた男たちに血飛沫は無い。どうやら鎖かたびらを服の下に着込んでいたらしい。が、あまりの威力による衝撃だけは防げなかったようで、凹んだ鎖かたびらの位置では肩の骨と肋骨が、二人合わせて十字の形に綺麗に割れて砕けていた。
一撃で部下を二人とも昏倒させられた男は衝撃で身を固くする。それゆえ、少年の素早い連続突きを躱すのが精一杯で、それ以外の動作ができないでいた。ナハトが一層の気合を込め始め、槍の突く速度がぐんぐん上がる。落ち着いたナハトの攻撃速度は、速さだけならデュランでも対処が難しい領域へと突入していた。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!!」
まだ完全な声変わりを終えていない少年の甲高い雄叫びが響き渡る。そして、次の瞬間。防御を抜かれ敵の体に一撃が入る。怯んだ敵に容赦無く次々に槍を突き刺し数十発もの穴を撃ち込んで、ナハトの雄叫びがようやく止まった。
鎖かたびらのお陰で命だけは無くしていない意識を失った敵たちを、デュランが簀巻きに縛り、武器を取り上げ転がしてゆく。
その間にナハトは一人で家の中に突入した。デュランが止める間も無かった。少年は「バルゴさん、無事ですか!?」と叫びながら奥へと向かって入ってゆく。幸い敵は他にいないようだったので良かったものの、デュランは目を剥き、後で本格的に説教しなければと思うのだった。
「君が……助けて、くれたのか……感謝、する、ナハ……ト」
ナハトが見つけた隊商主は、幸い命に別条は無いようだった。だが、腕を折られ、全身殴られ蹴られたのか、痣だらけであった。酷い有り様に眉をひそめながらも、デュランが尋ねる。
「申し訳ないが……詳しい話を聞いても良いか? 治療しながらで良い」
「わ……分かりまし、た……」
途切れながらの話を聞いてゆく間に、みるみるナハトの顔色が変わってゆく。話の中の砂色頭巾たちに憤慨するナハトに手当てされながら、バルゴが語るには、砂色頭巾たちはやはり、元々ハムアを狙っている村の者たちとのこと。前村長の最後の息子であるナハトを狙って、バルゴを餌にしようとしたというのだ。ナハトのみがこの嵐で水が溢れる枯れ井戸の場所を知っている事を知り、待ち伏せに利用し張っていたとのこと。ナハトがここを思い出さなかった時の為に、矢文による脅迫状も用意していたと言っていた。
自分たちの諍いに巻き込んだ形となってしまったバルゴに対し、ナハトは震えて謝った。地面に膝すらつこうとしたナハトだったが、それを止めたのはバルゴだった。自分も昔、若い頃にハムアに命を救われた一人だと。ハムアの為にできることがあるのなら何でもするし、それを負担にも思わないと。もしナハトが自分のせいで怪我をしたり、ハムアに迷惑をかけることになっていたとしたら、それを一番許せなかったのは、自分なのだと。
だから、頭を下げるのは自分の方だ。申し訳なかった。そして、助けてくれて、ありがとう、と。そう言い終わると、バルゴは怪我の痛みで昏倒した。治療は応急だがなんとかできたので、命には別条無くなったことで、安心したのだろう。
ナハトは俯いて涙を堪えていたが。良かったな、とのデュランの言葉を受け、鼻をすすると笑顔を浮かべた。そして、
まんまと罠に飛び込んだ形となったナハトだが、おのれの様々な行動による反省よりも助けることができた事を喜んでおり、デュランの無言の拳骨をもらうのだった。
◆ ◆ ◆
「奴らをそのまま放置して、大丈夫だったのか?」
帰り道、縛り上げたままそれだけで枯れ村に転がしてきた襲撃者たちについて、デュランが疑問の声をあげた。
多少無理をすれば自分なら運べたはずだし、一台しか残っておらずラクダもいなかったとはいえ、回収できたラクダ車に乗せるという手もあった。まあ、その場合は、せっかく一部だけでも回収できた積荷や壊れた車の残骸を、かなりの部分置いてこなければならなかっただろうとも思うが。
「……仕方無いと思う。バルゴさんの方が優先だし、何より運ぶものが無かったし。そうすると、オレとディーが背負うか一台しか無かったラクダ車に乗せてディーが引くかしか無い訳だけど……。デュラン……ディーの後ろで目を覚ましたあいつらが、もしディーを傷つけたとしたら。そんなのオレは嫌だよ」
「だが仮にあの近くに奴らの仲間がいて、情報が伝わってしまったとしたら、今度は、村が……」
デュランの懸念に、ナハトも唇を噛み身を固くする。本当に全ての懸念を晴らそうとするならば、奴らを殺して見つからないように埋めるべきだったのだ。ナハトにもそれくらい分かっている。今回狙われたのはナハト一人。だが、それが失敗したと分かれば、どうなるか。だがそれでも、どうしても、自分たちのハムアの誇りを穢すことだけはできなかったのだ。村を襲われれば守るために殺しもする。だが、自分一人の為にそれをすることは、未だナハトには決断できない事だった。
「分かってる……いや、分かっていないのかもしれないけど……でも……」
「……悪かった。奴らの口から直接伝わらなくても、手練れが戻って来ないとなったら、多分結果は同じだろう。今は出来るだけ早く村に戻り、村人に事の次第を伝える事を考えればいい」
「……うん、ありがと」
デュランの下手な慰めに、ナハトが苦笑し弱いながらも笑顔が戻る。
「警戒はするさ、もちろん」
「……お前がそう言うなら、これ以上は何も言わん」
デュランはそう言って締めくくった。後に彼は、やはり戻って止めを刺していればと酷く悔やむことになる。だが、未来の判らぬ人という存在である以上、それもまた選択というものになるのだろう。
壊されず残っていた唯一のラクダ車に応急処置し気絶したバルゴと、積荷と残骸の一部を乗せて、それをデュランが引きながら二人して砂漠を歩く。引くラクダが居ないから仕方が無いが、さすがのデュランでも進み具合が遅れているのは否めない。文句は言えない。だが。
「……ディー」
「……ああ、急いだ方が良いな、これは」
そう言ってナハトが少しでも荷物を背負い、デュランがバルゴや残りを乗せた車の引き棒を持ち直し、歩みを早める。
顔に当たる風に含まれる砂の量が増え始めていた。風自体も不安定さを増してきていて、いきなり風向きが幾度も変わる。風そのものが渦を巻き、おかしな動きをし始めていた。
それだけではない。夕方になり、薄闇の中で気づくのが遅れたが、辺りの暗さが尋常では無くなっている。暗くなるにはまだ早すぎていた。巨大な砂嵐の本体が、急速に二人の方へと近づいてきていた。
「……ハムアオアシスまでは間に合いそうにないな」
「……ゴメン、ディー…………」
ナハトの謝罪にデュランが笑う。
「今はまだ謝るなナハト。まだ突破口はあるはずだ」
唸りを上げる大気の中で、二人は何とか小さな砂丘の麓までたどり着く。その頃には、体に当たる砂の威力は強力になり、ヤスリのごとく皮膚を削りだしていた。砂丘の陰で腰を下ろす。少なくとも、荷物はここで諦めざるをえないだろう。見上げれば砂山の先の空一面が闇色だった。飛び砂の壁となり地上を這い寄る地平まで続く竜の巣が、稲光を何重にもまといながら火花を散らして回っていた。地表に近い部分は逆に、巨大な爆弾の噴煙のように爆発的な速度で領土を拡げて広がっている。
「どうする? ナハト」
気絶したままのバルゴを荷台から降ろし、背中に抱えたデュランが尋ねる。思考放棄にも思えるが、生まれた時からこの地に住まうナハトの方が良い知恵を出せるだろうとの判断だ。
「……穴を掘ろう」
「穴?」
デュランが確認の為に復唱する。
「うん。砂は大地の表面を削り取り、押し流しながら空へと運ぶ。そして風の減った部分からは流砂のように落ちながら天のシャベルで埋めてゆくんだ。でも、掘り攫う深さはだいたい一定だから。それ以上の深さに掘れば飛ばされずにやり過ごせる可能性が高い。でも……」
ナハトの瞳はそれでも暗い。
「……這い出せなくなる程埋まる可能性も高い訳か」
デュランの懸念に、ナハトは無言で答えていた。
「……分かった。それしかないならば、やるしかないな」
「ごめん……」
「謝るなと言ったぞ俺は」
男は少年の頭に手を置き笑顔で応えた。少年は涙を堪えて顔を上げると、表情を引き締めて率先して穴を掘り始めた。荷台から壊れた車の板切れを取り出して即席のシャベル替わりにし、二人して砂丘の腹に横穴を掘っていく。竪穴よりは生き残る可能性が高いという判断だ。バルゴは背中に紐で縛っておいた。恥ずかしいのと痛いのと揺れるのは精々我慢してもらおう。
死に物狂いで腕を動かし、三人がどうにか入れる高さと幅で3m程の深さを掘りあげる。砂のヤスリで血しぶきが舞い出した。既に目は布で覆ってなお瞼を開けられない状態だ。掴んだテントで互いの身体を繋ぐように三重に巻きつけると、デュランはナハトを抱え穴があるはずの方向へ間髪入れずに飛び込んだ。
次の瞬間、砂嵐の本体が辺り一帯を覆い尽くした。
ギリギリで間に合った。すぐに風と擦れる砂の音で鼓膜が破れそうになる。気圧の変化も酷いようだ。砂が口に入るのを我慢してでも口を開けておくしかない。あの井戸からは噴水が溢れているに違いない。砂の大地が削れ始めた。爆音でそばに居ても声も聞こえぬ闇の中、時間の感覚が麻痺してゆく。
(何時間も経っている気がするが、数分なのかもしれない。いや、流石にそれはないか。だが……)
思考が千々に乱れる中、穴の中ですら風で体が揺さぶられ、舞落ちる流砂が体を覆う。どうにか頭だけは覆えているテントを腕を広げて膨らませ、思考を止めて呼吸ができる空間の確保だけに専念した。
終わらない永遠かと思う時が過ぎ、気がつくと、音が聞こえなかった。耳がおかしくなった訳ではないのなら、嵐がようやく去ったようだ。だが、膨らませたテントは、砂の重みでそれ以上ピクリとも持ち上がらなかった。
穴自体も入り口含め砂で埋れてしまったようだ。完全に埋まるのが怖くて下手に腕も閉じられない。
「こうなってしまっては、助けが来るまでこのまま待つしか無いんだろうな……」
「うぅ…………怒られる、だろうなぁ…………」
腕が動いたなら頭を抱えていただろう声で、ナハトは怯えた顔をする。今さらそこか、と、デュランは小さく苦笑した。
「笑わないでよ……」
「すまん。だが、そこは心配させた報いとして、おとなしく反省して怒られるしかないんじゃないか?」
「……ディー、他人事じゃないと思うんだけど?」
「違いない」
頬を膨らす少年に、デュランは村に来て初めて本気の楽し気な笑顔を見せた。ナハトが驚いた顔で凝視する。
「だが、俺は元からその覚悟はしてきたぞ」
「格好良いんだか卑怯なんだか判らないよディー……」
盛大にため息をついた少年は、軽口の応酬の後、落ち着いた声でもう一度口を開いた。こうなっては、デュランの言う通り、助けを待つしかない。ならその間、今まであまり話す機会の無かったお互いの話でもしてみよう、と。
そして、二人は出会って初めて自分達の事を話した。無論、話せる事のみではあるが。お互いのこれまでの事など、ゆっくり交互に話してゆく。
途中、口の重くなるデュランに代わり、次第にナハトの語りが増えてゆく。十年前の悲劇。今回と同じように違う相手に過去にも何度も狙われたこと。戦いで身代わりに亡くなった両親と兄の事。生まれるはずだったもう一人の兄と、母の胎内に宿ったまま生まれなかった弟のこと。四人いたはずの後継者が、一番大した事のないだろう才無しの三男だったはずの自分だけになってしまったこと。長男扱いに納得がいっていないこと。長男ではない自分が長男扱いなせいで、未だに年上の兄弟に憧れていること。
十年前のその時、亡くなった子供も大勢いて。友達もその時に全て死んだこと。同年代の存在が周りに一人もいない寂しさ。大人たちからの期待という名のプレッシャー。誰にも相談できない孤独感と恐怖のこと。
そんな中、行き倒れていたデュランを拾ったこと。どう接すれば良いか解らないままずっと悩んでいたこと。
デュランは無言で聞いていた。そして、テントを支える腕を広げたまま滑らすようにナハトの頭に手を置いて、ゆっくりと静かに撫でる。無意識だった。撫でながらいつかの時に撫でた小さな頭を思い出す。
驚いて固まり、俯くナハト。寂しさと恥ずかしさと、黙って聞いてもらえた嬉しさと安堵、そして不意の温もりの懐かしさに。
ナハトはしばらく顔を上げる事ができなかった。
「頼みが、あるんだ……」
ナハトの口が小さく開く。
「もう少しだけでいい。もう少しだけで良いから、村にいてくれないかな? ディー……デュラン」
目的があるから、こんな時代に旅をしているんだって分かっている。けれど、ほんの少しだけでいいからと。
「……もう少し、だけならな」
デュランが答えた。
「……あり、がとう」
顔を上げないままで、ナハトが小さく礼を伝えた。
「ナハト。お前はちゃんと頑張っている。皆も、俺も知っているし、認めている。それを、忘れるな」
「……うん」
ナハトが顔を上げ、笑顔で応えた。その瞬間、入り口の砂が崩れた。激しく厳しい陽射しが射し込む。
そして崩れる砂の向こうで、光の奥から二人を呼ぶ声。ロッカとジーナの声だった。
二人は顔を見合わせて、不敵な笑みを取り戻し、気絶したままの男を背負い、怒られる為に共に穴を這い出した。