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第五章 クローノ (起)

 【10年前】


 その日も風が吹いていた。

 生命ある星の上で、風の役割は重要だ。

 雨を運び、季節を運び、そして緑に満ちた空気を運ぶ。

 それは、神の息吹きにも例えられる。

 だが、時として風は、嫌なものも運んでくる。

 人々の悲鳴。女性の叫び。子供の泣き声。嘆き。そして、血と肉の匂い、だ。

 その日も、大地に悲しい風が吹いていた。


 その街はまさに地獄だった。


 その日まで、街はとても平和だった。街の近くで戦争があったのは偶然だった。

 我が物顔で戦争がやって来るずっと前から、その街はそこにあったのだ。

 人々は抱き合い、早く終わってくれることだけを祈っていた。

 でも街は襲われた。ただ近くにあったというだけで、何の関わりもなかったのに、襲われたのだ。

 襲ったのは敗残の兵だった。

 逃げようとした者を後ろから銃剣が串刺しにした。

 命乞いする者の上に刀が降り下ろされた。

 女はそこかしこで服を剥がれ、その横では踏みつぶされた赤ん坊から小さな骨が飛び出し、水路は血だけが流れていた。

 そして。

 それをやっている兵士たちの顔には笑みが貼り付き、街中にかん高い笑い声が響いていた。

 地獄だった。


 3日の後、全てを壊し終えて兵士たちは去っていった。まだ命のある者もかなりの数いたが、明日にはうめき声一つ無くなっているのは明白だった。

 その街は、終わりを迎えようとしていた。いや、迎えるはずだった。

 その日の夕刻、一人の女性が訪れるまでは。


 女性は、街に着くや否や、一番近くに倒れていた青年に手当を施し、あらましを聞くと街の中に入っていった。

 女性はまだ息のある者を見つけるたびに手に持った小瓶をかざし、服が汚れるのも構わず抱きしめて回った。

 女性に小瓶をかざされた人々は皆一様に血が止まり、抱きしめられた人々は這って動けるまで回復した。

 体力にすぐれ立って歩けるようになった者は、女性の指示通り水を汲み、湯を沸かし、死を免れた同胞のために食事を作り治療を始めた。

 10日後に街は再建され始め、三ヵ月が過ぎる頃には城壁と塔をのぞく全てが甦った。

 ある日、ようやく笑顔を取り戻した人々は、辺りを見回し、あの女性が街から消えていることに初めて気付いた。何日も、何ヵ月も、城壁の再建に携わらない全ての人が必死になって捜したが、女性は見つからなかった。


 人々は、いつか必ず女性かその縁者に恩を返すことを誓い、女性の残した血で赤く染まった礼服とサ-クレットを奉る神殿を建て、その神殿に、女性が名乗った【ルシア】という名を与えた。

 奇跡の復興を遂げたセレンの街は大きく栄え、戦乱の時代を通じて被災者を助け、難民を受け入れ、そして国となった。

 時が過ぎ、大きな戦乱が無くなっても、【セレンのルシア神殿】は人々の支えであり続けた。

 永の年月が経った。

 今もセレンの国の人々は、ルシアに感謝し、先祖が受けた恩を返すことを夢み、彼女の子孫を捜し続けている。

 これは、490年間、親から子へと語りつがれ続けている、この国の伝説である。


       ◆  ◆  ◆


「ねえ。神官長さまぁ」


 白く輝く神殿。その中庭のベンチに、老人とまだ十になるかならないかの少年が腰かけている。サラサラの長い金髪が風に揺れる表情は、子供ながらに整っていて、とても利発そうだ。それでいて、世の中のどこかにはちゃんと綺麗なものがあるのだと信じる瞳はとてもキラキラ輝いていた。


「ん? どうしたのかな、クロ-ノ」


 老人は、視線を空から戻し少年の方に向き直った。

 少年は続ける。


「そのルシアという人は、もうずっと昔のひとなんでしょう? もうこの世にはいないひとなんでしょう? なのになぜ、まだ捜し続けているのですか? それも直接には全然関係無い、血が繋がっているというだけの人まで」


 クロ-ノと呼ばれた少年は口をへの字にし、教えてくれるまで引き下がらないぞ、という決意で見つめている。

 9才になったばかりのこの少年の頑固さは、色々お墨付きだ。だが、


(ひたむきで、美しい瞳だ)


 老人は思う。願わくば、この深く気高い美しさをずっと持ち続けてほしい、と。


「クロ-ノ。君は誰かに恩を受けたと思うことはあるかね」


 クロ-ノはしばし考え、老人を見る。


「神官長さまより、大きな恩を、今も受け続けています」


 老人は微笑む。


「ありがとう。そう思ってくれているだけで嬉しいよ。ところでクロ-ノ、恩というものは返さなくてはならない。君は私にどうやって返してくれるつもりかな?」


「大きくなったら、神殿の仕事を手伝います!」


 当然のように即答する。


「そうか。しかし、私は、君が大きくなる頃にはもうこの世にいないかもしれないよ」


 少年は目を見開いて怒った様に涙目になる。


「そんな! いやです!」


「しかし、それが自然のさだめなのだよ。誰にも。そう、聖ルシアにさえ曲げることはできない」


「でも……でも、それでは僕は神官長さまに恩が返せません!」


「そうだね。私本人には返してもらえないかもしれないね。でも、私のあとにも神官長はいるし、なによりこの神殿はなくならない。この国も、聖ルシアの教えもね」


 老人、現在の神官長であるプル-ノ・エスタ・ラビは、二人のいる学舎の中庭から、横にそびえ立つ白亜の神殿を仰ぎ見た。


「あっ……」


「わかったかね。人は死ぬ。だが、人の想いはなくならない。心の中にも残るし、この神殿のように形を成すこともある。肝心なのは、その想いをどう受け取るか、そして、どう伝えてゆくか、ということなのだよ」


「……はい」


 少年はゆっくりと頷いた。すべて理解できたわけではないだろう。それでも、目をつむり、真剣に自分の言葉をくり返している少年は、とても輝いてみえた。


(未来を信じ、たくさんの可能性を持つ者の瞳だ)


 プル-ノは目を細める。


「いい子だ、クロ-ノ。君が大きくなったとき、君の心に温かい気高さがあらんことを。……では行こうか。ずいぶん時間が経ってしまった。早くしないと午後の授業に遅れてしまうよ」


「はい! え? あ、しまった! 今日は問題を当てられるんだった!」


「はっはっはっ。では、急がなくてはな」



 教室のある建物。その廊下の奥に二人の姿が消えてゆく。しかしまだ少年の質問は続いているようだ。


「でも、ルシアは、一体どうやって人々を救ったんでしょう?」


「そうだね。伝説を信じるなら、彼女には医学や薬学の知識だけではなく、人の体の中に作用するなんらかの【力】があったと見るべきだろうね」


「そんな力を、ひとが……持てるものなのでしょうか」


「わからないな。だが太古、人は想像したことや思うことを、すべて実現してしまう道具を持っていたと聞くからね。ルシアは古代人の末裔だったのかもしれないね」

 

 次第に声が遠ざかる。

 静寂の戻った中庭に、静かに優しい風が吹く。人影の消えたベンチの上に、小鳥が一羽眠っていた。



         『 G r a n d   R o a d 』 

              ~グ・ラ・ン・ロ・-・ド~




第五章 クローノ (起)




 【5年前】


「クロ-ノ! クロ-ノ・アス・フォ-ス!」


「え? わあっ」


 後ろから呼ばれたクロ-ノは、振り返る前にヘッドロックをかけられてわめく。


「へへ-どうだった今日のテスト! まあお前ならラクショ-で満点だろうけどな!」


「ア、アベル、お-も-い-……」


 首を押し返しながらうめく。

 そして何とか技から脱出し、クロ-ノは親友に向き直った。


「酷いよアベル。首がおかしくなったらどうするのさ!」


 首を回しながら、わざとらしく咳も付け加える。


「済まない済まない!」


 襲撃者はクロ-ノの肩を抱いて笑いだした。

 アベル・マク・ナン。捨て子だったクロ-ノにとって、彼は学校で唯一の親友だった。 セレンと呼ばれるこの国の人間は、皆、髪も目も黒か灰色なのが特徴だ。しかし、クロ-ノの瞳はシアン・ブル-、髪はサラサラのゴ-ルドだった。

 その上、現在彼は、宗教国であるセレンではトップ3に入る実力者である、プル-ノ神官長の養子として暮らしている。よそ者を極端に嫌うこの国で、である。

 それを快く思わない大人も多かった。同い年なら尚更、というところであろう。人に言えない様なことも何度かされた。

 しかし、アベルだけは違った。最初から最後まで、彼を普通の友だちとして扱ってくれた。だからまあ、多少の乱暴は目をつむる範囲だと、クロ-ノは思っている。

 だからといって言い返さないわけではないが。


「済まないじゃあないよ、ったく。せめて石段の上でやるのはやめてくれ」


 恐る恐る下を見る。口のへの字が深くなる。


「だから悪かったって。でもお前なら大丈夫だと思ったから技をかけるんだぜ? それだけ信頼してるって訳だ、うん」


「へええ…………」


「あ、なんだその目は。信用してくれないのねっ酷いわ!」


 180センチを優に超す少年がシナを作る。さすがに見れたものではない。本気でもないのにかなり堂に入っているのがタチが悪い。


「……やめれそれ」


「ははっ。しかし実際、同じ師匠の所で武道を習ってたんだ。同期で最後まで残ってたのは俺とお前だけだったってだけでも、特大の信頼に値するって。な?」


「ま-ね。確かにキツかったからなあ、あのシゴキ。ぼくは棍でアベルは剣と格闘だったけどさ」


 そして、学舎の正門へと続く大理石の石段を肩を並べて降りていた二人は、共に足を止めて振り返る。二人同時だ。互いの着ている、神学校の制服だった腰を絞った白いロ-ブが、長い階段の下から吹き上がる風にはためいて、静かに広がる。

 半ばまで降りてしまった階段からは、もう、見慣れた豪奢で絢爛な門を目に映すことはできなかった。


「……とうとう終わっちまったなあ、学校生活」


「うん、そうだね。なんか……寂しいね」


 そう。今日は神官を養成するこの神殿学舎の、卒業試験の日だったのだ。まあ二人とも結構優秀な方だったので(クロ-ノなどは毎回一番以外取ったことがなかった)、落ちることはまずないだろう。そしてそれは、つまり、二度とこうして見上げる事は無いという事でもあった。


「ん-、でもまあ、俺たちが変わっちまう訳じゃないからな。一人前に認めてもらえるようになったと思えば、そう悪いことじゃね-よ」


「そうだね……」


 そう言いながらも、しばらくの間二人は、7年間過ごした場所から視線を動かさなかった。それぞれ、微妙に違う視線と表情で。


「アベルは、神官戦士希望だったよね」


「ああ。お前は神官だったな、エリ-トコ-スじゃん。そのうち出世して司祭とか司教とか大神官とかになったら、お前に命令されるようになるんだろうな-」


 大げさにため息をつく親友に、クロ-ノは苦笑する。


(神官がどうやって司祭や司教になれるのさ)


 神官と司祭司教とは序列がまったく異なるのだ。どんなに出世したとしても、交わることは絶対に無い。理論や概論は得意でも、歴史や社会形態、政治倫理にからきしだった友人に、それでもクローノは指摘せずに微笑んだ。


(もっとずっと良い所がいっぱいあるんだから、いちいち指摘することじゃないよな)


 もう学校は卒業したも同然なのだ。


「何十年先のことだよそれ。それにどんなに出世したって、友だちは友だちだろ?」


 がしっ。その瞬間、クロ-ノはまたも技を食らっていた。


「あったりまえだろ-! 偉そうにしてやがったらまた技を喰らわしてやるよ! 覚悟しとけィ」


「痛い痛い、痛いってば!」



 セレン。正式の名をセレンシア神聖国という。現在の首都はルシアトと呼ばれ、その中心にある小高い丘に、巨大な神殿と様々な施設を擁している。丘から見て、同心円上にケーキの様に施設や役所の層が連なる事で、巨大なカルデラの盆地を市街地で埋めている。その盆地を擁するカルデラ自体が二千m級の山の上に存在する天然の要害となっており、外敵から首都を護ってそびえていた。

 過去に襲われた人々が逃げ延びた先で興したそれが、このセレンという名の大輪の国なのだ。

 神殿は基本的に白亜であるが、そこここに赤・黄・墨などの塗料で模様が描かれている。それら様々な図柄は、セレンの宗教美術として、軽い鎖国を続けているこの国の外でも手に入れるのに金に糸目をつけないコレクタ-もかなりいて、結構図柄も知られている。

 マンダァラと呼ばれるその円形の模様には、特殊な配置で精霊が描かれている。勿論、中心は「聖ルシア」である。

 国土の周辺に万年雪を持つ4000m級の山々を擁し、国全体が平均2000mの高地にあるこの国の気候は、熱帯地方にありながら一年を通して温暖で、砂漠が近いので乾燥はしているが、年の半分にはかなりまとまった雨も降る。

 緑も豊富で、雨季には色とりどりの花や虫がそこらじゅうに見られ、壮観といえる。そして神殿の中庭には、すべての季節の花々が天蓋に覆われた温室の中に咲き誇っていた。



「それは、本当のことなのか…………!?」


 巨大な会議室に、思わず立ち上がった男の声が響く。その部屋の中央は、巨大な19人用の円卓によって占めてられていた。


「接触はまだされておりません。しかし、特徴などから、間違いないと思われます」


 男の、二人おいた右側から返事がある。どちらも、いや、この場所にいる全員が皆、それぞれ違う色のついたロ-ブを着、特徴のある飾りを首から下げている。


「おおっ! 聖ルシアが!」


「聖ルシア万歳!」


「ふ、そうか……。今度は我々の代に目覚められたということか」


「浮かれるな、今回はこれまでの目覚めと違うぞ」


「そうだな。今回こそ予言にあった、15度目の目覚め。つまり彼女だけでなく、今度は災いも目覚めるということだ」


「おお、なんということだ……。いまだそのための準備はできておらんのだぞ!」


「どうしたらよいのだ……」


「聖ルシアを何としてもお見つけするのだ! さすれば活路が開ける!」


「煩いぞ、根拠を言ってみろ根拠を!」


「あなたは聖ルシアを信じられないというのですか?」


「信じてはいる。が、それとこれとは別の問題ではないか!」


 ざわざわざわ。この場所にいる17人の男たちが、めいめいに喋り始める。


「お喋りはその辺にしておきなさい」


 ピタリ。一番上座に座っていた初老の男のその一言で、すべてのざわめきが一瞬で収まった。

 その横で、先ほどから一度も口を開いていない青年は、口もとに小さな笑みを張りつけている。


「さあ、続けなさい」


「はい。それでは続けさせていただきます。今年初め、ファルシオン帝国領内で不審な光の柱が確認されました。その光の出所は、あの第一衛星と思われます」


 ざわざわざわ。「やはり……」という声が聞こえる。


「この際に柱の傍にいた人間は皆一様に命を落としており、詳細は現在調査中です。問題は、この現象に、一人の老婆が関わっているということです。こちらは、命を落とした者たちにくだんの老婆が接触した時の目撃者の証言が得られ、判明しました」


「その老婆が、聖ルシア本人なのか?」


「今のところ、不明です。しかし可能性は高いと思われます」


「しかし、聖ルシアの眠りの場所はいまだに判っていないからな……。500年前の肖像画のみでは……。写真の一枚残っているわけでもなし、推測だけで完全な特定は困難であろうよ。長命族の生き残りとはいえ、老いと無縁な訳ではあられない様だしな」


 いくつかの視線が上座の奥の壁に掛けられた肖像画を見る。

 そこには、しわの一つ無い、若々しく美しい女性が描かれていた。どことなく野性的であるようにも見えるが、それが魅力だと思う者もいるだろう。伝説によれば、実際にはもう少し年をとっていたようなのだが、彼女を神聖視する者にそれを言えば殴られるのがおちだろう。


「しかし、そうなると、彼女とのコンタクトが急務、ということになるな」


「災いは、目覚める前に再封印しなければならない」


「急がねばなるまい。残された時間は、多分、多くない」


 初老の男の言葉で、この議題は一応の締めくくりとなった。

 会議の進行はそのあと、新しく見つかった古代機械の収集率に移る。

 セレンシア神聖国、ルシア神殿の19人議会は、このあと何日も続く。

 その中で、先ほどの青年の笑みだけが、場違いに浮き上がっているようであった。


       ◇  ◇  ◇


「ただいま」


 アベルと別れたクロ-ノは、神殿内の家へと帰ってきていた。

 クロ-ノの小さな声に答える者はいない。養父のプル-ノは、しばらく議会で帰れないのだ。

 荷物を置いてうつ伏せにベッドに転がる。力なく、沈むように。


(ふふ……僕みたいな外国人が、大神官になれる訳ないだろ、アベル……)


 脳裏にいくつかの声がこだまする。唯一の親友以外の声は皆、一様に悪意と妬みに染まっていた。

 寝転んだまま手の中の卒業証明を眺めて、自嘲気味に小さくクロ-ノは呟いていた。


       ◆  ◆  ◆


「クロ-ノ。仕事の第一日目はどうだったかな」


 今日が仕事の初日だったクロ-ノは、家に入るなり、声をかけられ振り向いた。


「はい、少し大変ですけど、新米は雑用が大事な仕事でもありますし。心配して下さって有り難うございます、神官長様」


 そういうと、プル-ノは少しだけ寂しそうな顔をした。

 きっと、クロ-ノに、いまだに父さんと呼んでもらえないことが寂しいのだろう。


(でも、ごめんなさい。僕は……僕に父さんと呼ばれると、神官長様にご迷惑がかかります、から……)


 今日の一日だけでも、直接は何もなかったが、後ろで話し声がして振り向くと、こっちを見て立ち止まっていた神官たちがサッと他所を見て歩き出したことが何度かあった。


(学生でもないのに、暇な大人たちだよな……)


 しかし、もう傍らにアベルは居ない。もう、助けてくれる友達は居ない。


(やっぱり、僕は出世なんてできないよ、アベル)


「クロ-ノ、どうしたんだね」


 ハッと顔を上げる。心配させてはいけない。この程度の悩みを吐露して甘えてはいけない。クローノは内心必死に言い訳を考える。これ以上、この優しい人に心労を煩わせる訳にはいかないのだ。


「少し、疲れたみたいです。今夜の食事当番、変わってもらっていいですか?」


 疲れた感じの笑顔を作る。上手く誤魔化せているはずだ。実際疲れているのだから。


「なんだ。よしよし、いいとも! しかし、今日だけだよ。明日からは、我儘は言わないこと。いいね?」


「はい!」


 頼られて笑顔に変わる老人に、クロ-ノは元気のいい返事をする。クロ-ノも、嬉しそうな老人を見るのが嬉しかった。


「そうだ、クロ-ノ。明日、会わせたい人物がいる。昼休み、中庭のベンチに居るから、来ておくれ」


       ◆  ◆  ◆


 ルシア神殿に勤めている者は、二種類の組織に分かれている。

 神官長を長とし、大神官をNO.2とする神官の組織。これは神殿の運営にあたる組織で、神官戦士も、大きく分ければここに所属している。

 もう一つは、大司教をトップとし、司教、司祭、神父と続く、布教を目的とした組織である。

 その二つのすべてを束ねているのが19人議会であり、その議長を務めるラマである。「ラマ」は任期制で、5年ごとに、大司教と神官長のいずれかから選ばれる。



 昼休み。ルシアと様々な精霊が祭られた聖廟、香が炊かれ人々が礼拝する正殿からずっと奥。奥院と呼ばれる建物の廊下を、20歳くらいの青年が歩いていた。

 19人議会に参加していた中で、一番若かった男だ。


「司祭様、ナ-ガ司祭様」


 暗がりから漏れる押し殺した声に、青年が立ち止まる。


「どうだったかな。神殿がつかんでいる以上の事が、何か判ったかい?」


「はい。老婆は小さなビンを使って奇跡を起こしておるようです。材質はガラスの様に見えますが、似て非なるものの様で、それを使う際に、月の力が使われているものと思われますのう」


 影の中の男の声は、まだ中年にも達してはいない。少なくとも見た目は若く見えている。だが、しゃべり方は、既に老年のそれだった。そのしゃべり方は熟しているというよりも、枯れ果てていると言ったほうが良いほどの乾いた雰囲気をかもし出していた。


「その【月の力】とは一体何なのか、判っているのかな?」


「申し訳ありませぬ、そこまではまだ……。しかし大災厄前は、人々は月を港に使い、星々へ出かけたとも言われておりましたのぅ」


「ああ。神殿に伝わる口伝の中にある。この神殿でもある程度の地位にあるものでないと知らないことだけど、ね」


 青年司祭と話している影が、頭を垂れる。


「ただの手駒であるわしのような者にまで、いろいろ教えていただいて感謝しておりますじゃ。その話の続きですがの、その時に使われた港は、実は人の力ではなく、人に似せた機械が管理していたと、この間遺跡より見つかった文書に書かれておりましての」


「なに!? それで、その文書は?」


「ご心配なく。神殿には渡しておりませぬ故。ナ-ガ様のお部屋のいつもの場所に置いてありますじゃ」


 青年の笑みが深くなる。


「そうか、感謝するよ」


「なんの。あなた様に助けられたこの命です。神殿は我らを単なる駒としか思っておりませんしの。何の躊躇ちゅうちょ がありましょうや」


 じっと影を見つめた青年が、言葉を足す。


「誰でも助けるわけではない。お前の腕と技がもったいないと思ったまでのこと」


「そういうことを神殿は言ってはくれませぬ。その言葉を頂だけるだけでも、生き恥を晒している価値があるというものです。ふふ、楽しみですなあ。あなた様が神殿に君臨するその時が。いや、神殿がなくなる日が、と言った方がよろしいですかの?」


 初めて青年の眉が動いた。暗闇を睨みつける。それはこんな廊下で口にして良い内容ではない。


「も、申しわけ御座いません! 出過ぎたことを申しまして」


「よい。それにしても、予定よりルシアの目覚めが早いのが問題だね。事が起こる前までに、少しでも進めておかねばならない。……急いでもらいたいところだね」


「はっ! 賛同してくれた部下を何人か、各地の遺跡を回らせておりますのでの。皆、公式には死人として扱われておりますので、神殿に知られることはまずありえませぬ」


 死にかけたところを救ったり、行方不明を装わせたりして増やした部下たちだ。皆、神殿を敵視しているので、神殿の害になる仕事には嬉々として従ってくれていた。


「ジニアス、お前はこのままルシアを探れ。しかし、今居る場所が判明してもまだ近づいてはいけない。今はまだ、噂を追っているだけでいい」


「承知つかまつりました」


 ふ、と気配が消える。


(ルシアだと? ハ、それがどうした。今更過去の遺物に出てこられても迷惑なだけだ! これからは我ら【新しき民】の時代だ。災いもボクらだけの手で阻止してやるさ)


 若き司祭、ナ-ガ・イスカ・コパは、庭の方を向いたままただ一人光差す廊下に立ちつくしていた。

 軽いウェーブのかかった長い黒髪と切れ長の瞳は、傍目には落ち着いた雰囲気を醸している。立ち姿も司祭として堂にいったもので、横を通る少年神官や神父見習いたちが、羨望の眼差しで会釈して去って行く。


(神殿など手始めだ。【古き民】など、この地上からすべて消し去ってやるさ! このボクの手でね!!)


 手を挙げて笑顔で答えながら、心の中で彼は、小さく強く……熟すように、呪いの言葉を吐き続けていた。


       ◇  ◇  ◇


「クロ-ノ、こっちだ。こっちへ来なさい」


 昼休み、クロ-ノは言われた通り、神殿の中庭に来ていた。そこには、古ぼけた小さなベンチがひとつ。そのベンチに、プル-ノが座っていた。


(懐かしいな)


 そう思ったが、口に出したのは違う言葉だった。


「神官長様。何のご用でしょうか」


 プル-ノは笑顔を小さくし、立ち上がった。


(また、寂しそうな顔をさせてしまったな)


 昔のように無邪気に振る舞えば、喜んでくれるのだろうか。それとも、お父さん、と呼べば笑顔になってくれるのだろうか。けれど、


(いまさら、そんなこと……)


 クロ-ノは小さく頭を振って続けた。


「会わせたい人が居るということでしたが」


「そうだよ。ア-シア! こっちへ来なさい」


 プル-ノは木立ちの向こうに声をかける。と、その方向から少女が一人、歩いてきた。 


「紹介しよう、クロ-ノ。彼女はア-シア。ア-シア・フル・ヌ-ベ。スカウト(偵察員)学校をこの春卒業した新人だ」


 少女が小さく頭を下げる。しかしその瞳は笑っておらず、冷たい光で満たされていた。 


「知っての通り、一人前の神官になると様々な用事が増える。場合によっては、スカウトの手が必要なこともある。だから神官一人につき、一人のスカウトが専属される。それは神官戦士も神官もそれぞれ同じだ。が、まあ、あまり堅苦しく考える必要はないよ。言ってみれば、仕事上のパ-トナ-といったところだ。けれど、クロ-ノ。実は、何故かは判らないが、君のパ-トナ-がまだ決まっていなかったのだよ。だから、わたしが決めて連れてきた。それが彼女だ」


 もう一度、クロ-ノはア-シアを見る。肩ほどの黒髪に漆黒の瞳。ほっそりとして背の高い体。すこぶるつきの美少女だ。しかし、どこか影がある。しかも、クロ-ノの所に連れてこられたことを、喜んでいるとは言い難い表情だ。


(当たり前か)


 自分だけ決まっていなかったというのも、誰かの嫌がらせの類だろう。いつもの事だった。けれど、それを養父に言う必要はない。この優しい老人にだけは心配なんてさせたくなかった。


「彼女のことは、昔から知っていたのだよ。彼女の師匠はわたしが神官時代のパ-トナ-でね。だから、彼女のことも彼に任されていたのだよ」


 プル-ノの説明は続く。その間当事者である二人は、微妙な緊張をはらんで向かい合っていた。


「……そういう訳でね。二人には今日からパ-トナ-として仕事をしてもらう。ではクロ-ノ、ア-シア。わたしは用があるのでこれで行くが、昼休みはまだ残っているからね。二人はもう少し話をしていくといい。仲良く頼むよ」


 そう言うと、プル-ノは建物の中に去っていった。

 しばらく二人してそれを見送ったあと、クロ-ノは声をかけた。


「まあ、そういうことらしいから。これからよろしく」


 小さくうなずくのが見えた。言葉は出ない。


(僕と話すのも嫌なのかな)


 小さくため息が出る。心のトゲが、言わなくてもいい台詞を口に乗せた。


「しかし、君も災難だね。貧乏くじを引いたらしいよ」


「災難……なぜ?」


 少しか細いがしっかりしていて、聞き心地のいい声だ。内容以外は。


「神官長様の紹介を取りつけたから、上手くいったと思ったろう。けど連れてこられたら、パ-トナ-は出世の望めない外国人の捨て子だった。同情するよ。かわいそうに」


 クローノの言葉に、彼女は沈黙以外の反応を見せはしなかった。


「…………。仕事は、何をすればいい?」


「雑用しかさせてくれないのに、何があるっていうんだ? 僕の所には大きな仕事が回ってこないようになっているのさ」


「自分から、やらせて下さいと頼みには行かないの?」


「無駄だね。やっても仕様がないって解ってるのに、なんで頭を下げる必要があるんだ?」


「恥ずかしいの?」


「なっ……! ハッ。ああ、恥ずかしいね。無駄な上に恥ずかしいことを、何でしなくちゃいけないんだい!?」


「……。そうね、本当に貧乏くじだったみたいね」


「くっ……(なんでだよっ。なんで自分で言ったことをくり返されただけで、こんなにイヤな気分になるんだよ……)」


 見ると、ア-シアは用が済んだとばかりに、さっさと中庭を出ていこうとしていた。


「どこへ、行くんだ」


「帰るのよ。仕事は、無いんでしょう?」


「……イヤそうだな。だったらパ-トナ-を変えてもらうように申請したらどうだい」


 自分の顔が、声が、変質していく。嫌なものになっていくのが分かった。が、どうしようもなかった。

 美しい顔が振り返って、軽く笑った。


「そういう理由で、通ると思います?」


 極上の笑顔が、痛かった。作り笑いが見えみえで、見えみえの作り笑いだと判るようにしているのが明白で。


「………………」


「では、用がありましたら呼んで下さい。……待ってますから」


 そう言い残し、ア-シアは出ていった。最後だけ、口調が少し違う気がした。それを少年は、気のせいだと思い込む。そう反応するように、長年の苦労で、既に心が形成されてしまっていた。

 中庭に、クロ-ノだけが残る。指先が内心の傷みで小さく震えていた。

 クロ-ノは、言いようの無い感情に支配されたまま、昼休みが終わっても細かく体を震わせ続けていた。


       ◇  ◇  ◇


(クロ-ノの奴、今頃何してっかなあ)


 その頃アベルは、パ-トナ-とともに、五回目の仕事でセレンシア領境界線上の山中に来ていた。


「アベル───、この洞窟じゃない───?」


「お、見つけたか───! 今行く!」


 声のした方に走ると、背の高い草の奥に、口を開けた洞窟が見えた。その横にパ-トナ-のシイルが待っている。


「早かったね──。どう? ここじゃない?」


 シイルはアベルの幼なじみだった。だから、最初の仕事から驚くほど息がぴったりだった。そのせいか最初からウマが合い、五回目ともなると、もう長年のパートナーの様に信頼感が生まれていた。仕事における呼吸の方も、既に円熟の域に達しかけている。ベストパートナー、というやつだった。

 それにしても、初めにパ-トナ-として紹介された時は、二人とも驚いたものだった。自分たちの希望など、欠片も通らない世界でのことだったのだから。ただの運だけのこと、とは思えなかった。

 幼い頃は毎日のように遊んだ相手が、隕石が当たるほどの確率で目の前に現れた。二人の中に、懐かしい嬉しさがこみ上げたのも、無理からぬことだった。そしてもしかしたら、それ以外の淡い感情も。だが、そこまではまだ二人とも気づいてはいない。

 いつか気づくかもしれない。まだ、その程度の感情だった。


「そのようだな。よし、入ってみよう」


「え? あの、さ。あたしたち先発隊だしさ。知らせに戻ったほうがよくないかな?」


「いいっていいって。ちょっとだけ入ってみようぜ、な」


「んもう。何か危険があったらどうするのよ───、ねえ───」


「先行くぜ────」


「あ、待って! 置いてかないでよお!」


 洞窟は、入口がかなり狭かった。しかし、10mも這って進めば広い場所に出られるようだったので、アベルは迷わず進んでいった。しかし。


「うわあああああっ!」


「きゃああああああっ!」


 半分まで進んだ時、いきなり足もとの土が消えた。

 二人はなすすべなく、遥か下へと落ちていった。


「……っ、ッッ! ッテェェ……! クソ、そうか落ちたのか俺たち……」


 数瞬だけ気を失っていたらしい。気づくと体中が痛かった。だが、運の良いことに酷い怪我は無いようだった。


「どうやら落とし穴の上に薄く土がかぶせてあったみたいだな。イテテ」


 暗闇の中、少しだけ慣れてきた目で、見回す。出口はすぐには見つからなそうだ。しまったなぁと頭を掻く。隊長の激怒よりも何よりも、シィルが怒っていないかどうかが心配だった。見限られたらどうしようと溜め息を吐く。いいところを見せたかったのになぁと独りごち、次いで真っ赤になって、なんだ今の!そんな事考えてない、と独り百面相で否定する。

 頭を振って、思考をクリアにして目を開けた。いますぐ出来ることは何だ。今出来ることをまず動かなければ。


「変な匂いはしないし、ちゃんと空気もあるか。ガスも無さそうだ。運がいいな。っと、そうだ! シイルは? シイル───! どこだシイル! シイルっ返事しろ!!」


 返事が無い。反響した自分の声だけが何度も響く。闇に慣れてきた視界の中で、数歩だけしか離れていない位置にある、一緒に落ちてきたらしき大岩が目に入る。ゾッとした。通路を完全に塞ぐほどの大岩だった。潰されなかっただけで十分運が良いと痛感した。そして、おのれの馬鹿さ加減も。あの時シイルの忠告を聞いてさえいれば良かったのに。


(まさか、どうかしちまったんじゃないだろうな、おい……)


「こ、ここよ、ぉ────。アベル、どこぉ──? た-すけてよぉ────」


 どこからかシイルの声が聞こえた。無事のようだ。ホッとして息を吐いた。


「どこだ!」


「こ-こ、だってばぁ───」


 声を便りに手探ると、落ちてきた岩の向こうから聞こえるようだ。

 一本道だった場所が、一緒に落ちてきた岩に阻まれて、完全に二つに割れてしまっている。

 もう一度肝が冷える。こんなのが真上に落ちていたら……。反省しながらも、自分達は運がいいとも思った。

 ならば、きっと外にも出られる、二人してきっと。

 そう、アベルは思った。


「お-い、無事かあ!」


「アベルね、無事だったのね! 良かったあ……」


 シイルのホットした声色に和みながら、二人して、岩を間に向き合う。岩が邪魔して姿は見えない。けど、わずかに流れる水があり、滞りなく流れている。隙間はちゃんとあるようだ。声もはっきりと聞こえていた。


「いや、だからシイルは?って聞いてるんだけど」


 怒るよりも心配してくれていた。内心の嬉しさを隠すようにアベルは口を尖らせる。


「あ、あたしねえ、ちょっと両足くじいちゃったみたい-あはは」


 そしてその返答に絶句し、動揺した。


「ちょっとってお前……。……ゴメン!! 俺のせいだ!!」


 暗闇で、岩もあって、相手に自分は見えていない。けれどアベルは頭を下げた。土下座したい気分だった。


「ん? いーよー。これはあたしがドジだったからだよ。気にしな-い気にしない」


 暗闇に笑顔が見えた気がした。極上の笑顔だった。なぜだろう、顔が赤くなる。見えなくてよかったとアベルは思った。おのれとは違う優しい器のデカさを感じた。いつまでも共にいたい、守ってあげたいとアベルは強く感じていた。


「お前……。なあ、なんかして欲しいことないか? 何でも言ってみろ!」


「え-? じゃあ今度お茶おごって」


 そんなことで良いのかと思った。


「よっしゃ!」


「服と映画も!」


「よっしゃ!」


「指輪も?」


「よっしゃ! って、え……?」


「あはは-、約束ね-」


「え? え?」


 本当に、見えなくて助かった。アベルは自分が湯気を出していることにようやくになって気づいていた。



「腹、へったな──」


 どのくらい時が立ったろう。数時間か、半日か。一日はまだ過ぎていないと思うのだが。もうそろそろ捜索隊が捜しに来てくれてもいい頃合いだ。


(でもまず、洞窟の入口を見つけてくれなけりゃな──。入る前に目印だけでも付けておくべきだったなあ)


 岩の向こうに何十度目かの声をかける。


「シイル、気分悪くないか? もうすぐ助けが来るからな。もうちょっとだから我慢しろよ。がんばれ! って、お-い?」


「………………………」


 聞こえない声に思い切り焦る。鼓動が痛くなった。


「おいこらシイル! 返事しろ! シイル!!」


「ほえ? な-に? おはよ-アベルまだ暗いじゃん」


 寝ぼけてるし。


「いや、なんでも無い。……お前の声が聞きたかっただけだ」


「え? え? もう一回言ってぇ」


「うるせえ、寝ちまえ」


 その時。

 ガ タ ン  ビシャッ

 音がした。

 異様な音だった。湿ったような、重い音。何かを引きずるような音。重い何かを振り上げる音。水溜りの水を弾く音。静かに、何かの足音がした。

 岩の向こうで。


「ヒッ」


「おい、シイル?」


「え、何? やだ、何よう!? アンタ何、来ないで!」


「おい、どうした! シイル、シイル!!」


 アベルが叫ぶ。声が震えて枯れそうだった。

 何が起こっている!? なぜ自分は今向こうにいない?!


「や、やめて……! 何も見てない! あたし何も見てないからあ! 来ないでよお!」


「シイル! 誰かそこに居るのか!? 居るんだな!? てめえ何してやがる!! さっさとシイルから離れろ! 殺すぞ!!」


 岩を殴る。こぶしから血が出る。が、岩はびくともしない。


「いやあっいやあ! アベル! 助けてアベル、アベル────!!!」


 目の前の岩が赤く染まるのが音でわかった。自分の拳が砕けそうだった。自分の跳ねた血で自分の顔が染まっていた。それでもアベルは岩を殴り続けた。


「シイル! 畜生この岩が、ちくしょう!! シイル、シイル─────!!!!」


「アベルアベ…………………………………………………………………」


 ごとり。何か塊が落ちたような小さな音が聞こえた。そして彼女の声が聞こえなくなる。


「シイル!??? おいシイル何か言えよ!! てめえシイルに何しやがった!! シイル返事しろシイル────────ッッ!!!!!」


 何も聞こえない。なにも、何の音も、しない。ひざが落ちる。息が苦しい。眼球がせり出して、音がするほどにまぶたが開いて引きつっていた。息が苦しい。呼吸音が頭を覆う。呼吸がおかしくて死ぬかと思った。手足が痺れて痛くて痒い。それでもシイルの声が聞こえないかと耳だけ澄ます。

 その時、岩の向こうから隙間を通って水が流れてきた。大量の水だった。横を流れる細い水よりも、ずっと量が多かった。

 水は、アベルの足下に溜り出した。薄く、広く。地についていた手と膝を通して、ズボンにじっとりと染みてゆく。

 アベルは半狂乱になってわめいていた。ヌメリとした手を掲げて叫ぶ。何度も何度も名前を呼んだ。その水には粘り気と匂いがあった。

 ちょろちょろとした流れは、いつまでも止まらなかった。


 2日後。新任神官戦士アベル・マク・ナンと、そのパ-トナ-、シイル・カノ・ンの二人の行方不明届けが神殿に提出された。

 それをクロ-ノが見るのは、さらにその10日後のこととなる。



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