第三章 カルロス (承)
家に戻ってから、三日が過ぎていた。
三日がたってもまだ、忙しくて目が回りそうだ。
あの男(親父)の告別式。相続のための手続き。味方と敵の確認と、それに伴う人事の移動。
その一方で、街で一、二を争う大商人の葬式は簡単に済ませるわけにもいかず、いまだに日付が決まっていない。
相続も、最終的に妹にすべてが渡るように。そして、それでいてその日までは、このおれにすべての責任が回ってくるように手続きをしなければならない。
敵味方の識別・確認もそうだ。これが一番頭が痛い。
おれを真ん中に置いて考えれば、敵だらけだ。それは一ヵ月半前に身に染みた。
けれど、妹、ヒリエッタを中心に置けばどうなのだろう。
今は味方に見えても、今後敵に回る可能性がある奴は、今の内に手を打っておく必要がある。
敵の中からも、今後味方になる可能性を持つ者は、チェックしておかねばならない。
それに伴う、膨大な中と外の人事と対応。そして予測。
(チッ、こんなのおれの領分じゃないぜ。やっぱり)
さすがに、いい加減頭が痛くなってくる。リ-ブスが居なければ、どうしようもなかっただろう。
いつか、返せる日が来るだろうか。分からない、分からないが。
それまであいつだけは、味方でいて欲しいと思う。
そんなことを考えていると、リ-ブスが部屋に入ってきた。
「坊 っ ち ゃ ん 、この書類は如何いたしましょうか?」
「………………………………………………………………………………」
ゴト。 頭が机に落ちた。
(なぜだ!? なぜこいつは、いつまでたってもこの呼び方をやめてくれないんだ!)
頭を抱える。ほんとに痛くなりそうだ……。というか、褒めたそばからコイツは……
「どうかされましたか、坊っちゃん? 坊っちゃんっ! もしかして頭が痛いんですか!あああ坊っちゃん、大変だ誰か居ないか、坊っちゃんがっ!!」
連呼しやがったな、おい。
「るせえ! 何でもないからあっち行け!」
怒鳴る。本気で怒鳴る。すごすごとリ-ブスは出ていく。が、扉の向こうから、
「体調には十分に気をつけてくださいね! 坊 っ ち ゃ ん っ !」
という声が聞こえてきた。
「大声で坊っちゃん言うな頼むから……」
庭で聞いていた庭師と使用人が笑っていた。ほらみろ威厳が保てねえ。
(本当にあいつは味方なのか? おい)
ほんの少しだが自信が結構なくなった。
◆ ◆ ◆
カツカツカツ。 夜の石畳に、カルロスの足音が響く。
(12歳で当主代行というのは、異例の事態なんだってのはまあ認める。けどな……)
役員会議の帰り道。カルロスは、表に見せないようにため息をついていた。
当主代行を承認することを役員会議で認めさせるのに、それだけのことで、何と2時間もかかったのだ。普段と服装をまるで変えないカルロスにも責任があったりするのだが、本人だけがまるで気づいていなかった。
今は、あんまり腹が立ったので、迎えに来た馬車を半ば強引に降りて歩いているところなのだ。
(ったく頭が固すぎるぞ、クソじじい共め! ロ-トルはロ-トルらしく、日向ぼっこでもしてればいいんだっ。……っと、いかんいかん)
思い出していたらムカムカしてきた。
立ち止まって深呼吸する。気持ちのいい夜風が胸に染み込んでくる。
「……ふう」
次の瞬間、カルロスは思い切り石畳を蹴って前方に回転していた。
ガガガガガッッ!
振り向くと、先ほどまでカルロスがいた場所に幾つもの投げナイフが突き刺さっていた。
硬いはずの石畳に。
「誰だ!!」
通りの屋根の上に人影がある。だが、煙突の影の中にいて顔が見えない。
「どうした! 返事がないな? 顔も声も出さないってことは、おれの知ってる奴か。………もしかしてお前、ギリアムか?」
ギリアムが脱走して行方不明というのは、カルロスも聞いていた。
「あいにくだったな、おれは今忙しいんだ。この間の続きがしたいのなら、1年くらい待ってくれよ。そうしたらお互い死ぬまでやってやっても良いぜ」
「…………………」
影は答えない。
「?」
いい加減カルロスが不審に思い始めた時、リ-ブスが迎えにやってきた。
「あ、坊っちゃん、やっと見つけましたよ! まったくどうして歩いて来たりするんですか!? 夕食の支度ができてます。お嬢さまがお待ちですよ」
そのときなぜか、影に、わずかながら動揺が走るのが見えた。
「今行く」
そう言ってもう一度上を見上げる。ギョッとして急いで見渡す。人影は消えていた。しかも石畳の上のナイフまで形も無い。あるのはただ、幾つかの刺さっていたはずの穴のみだ。
気配も無い。喉が鳴り、汗が落ちる。その場所には誰かがいた痕跡すら、もうどこにも欠片も存在していなかった。
◆ ◆ ◆
(あ~~うるさかった)
屋敷のベッドの中で、カルロスはむくれていた。
あのあと帰り道で、思いっ切り説教されたのだ。事のほどをカルロスから聞かされたリ-ブスは、カンカンになって怒っていた。
─────なんで馬車を降りたりしたんです! 周りが敵だらけなのは坊っちゃん
だってご存じでしょう! 私が間に合ったから良かったものの、今日の坊っちゃんは丸腰だったんですよ! etc,etc………
「んなもん、言われなくても分かってるよ。無事だったんだからいいじゃね-か」
そう言ったら、さらに10倍ほど返ってきたので、そうそうに食事をとって二階の寝室に避難したのだった。
(エティには悪い事したな)
せっかく待っていてくれたのに、殆どしゃべらずに飯をかきこんで部屋に来てしまったのだから。
(絶対に怒っているだろうな。後でなにかフォロ-しとかないと……)
それにしても、とあの相手のことを考える。
恐ろしい使い手なのは確かだった。あそこまで全く気配無しで消えられては、オチオチ寝てさえいられないのではないのか。相手の狙いが自分の命かどうかは、まだ分からないが、寝転んで思い出しているだけで、背中を嫌な汗が伝うのが分かった。
(さすがにこれからは一人歩きはよしておこうかな……)
寝転びながら、つらつらと『反省』していたその直後。
ど ぅ ん っ !!!
どこかで、何かが爆発した音がした。
「どうした!!」
部屋を飛び出す。と、いきなり暗がりから切りつけられた。
「貴様、さっきの奴かっ?!」
ナイフが閃く。
ガチャンッ!
窓を破って庭に飛び出し転がった。人影もついてくる。だが、顔が拝めるかと思ったが、そうそう上手くは行かなかった。そいつは全身を黒い布で覆い、顔には仮面を被っていたのだ。想像とは服装が違っていた。
(さっきとは違う奴なのか……?)
「……何が目的だ?」
そう訊くと、そいつはおもむろに、懐から丸めた洋紙皮を取り出した。
それを少年に投げてよこす。
「委任状?」
開いて中を見ると、役員どもに宛てて、代行の全権を委譲するという内容が書かれていた。あとは、カルロスがサインするだけとなっている。
「なるほど、あの狸どもか。一応賛成したくせしやがって、まったくこのクソ忙しいときに……」
呟きながら襲撃者の向こうを見ると、燃える門から上がった煙がここまで届いて流れていた。
「陽動ってやつか? くそったれ、結構気に入っていたのに、あの門。おい、お前! たしかにセオリ-通りってやつだがな、残念ながらリ-ブスには効果無いぜ? あいつはこっちが嫌になるほど、おれにクソべったりなんでな」
そして今の言葉を裏づけるように、煙の中から声が聞こえた。
その声に仮面男が硬直する。
「その言い方は少し酷いんじゃありませんか? 坊っちゃん」
襲撃者の後ろ数メ-トルに、リ-ブスが悠然と立っていた。
「うるせーな。お前がその呼び方を改めるなら、考えてやるよ」
「残念です。それでは永久に私はひどい仕打ちを我慢しなくてはならないんですね、よよ」
「言ってろアホ」
軽口を叩きながら、カルロスたちは巧みに動き、敷地の壁に襲撃者を追い詰めていた。
仮面男はきょろきょろしている。動揺が目に見えるようだ。良い息の合いようだった。一人では苦戦したかもしれないが、この二人に死角は存在しないようにみえる。
「リ-ブス、エティは避難させたか」
「お疑いですか?」
「い-や。んじゃ、こいつの口を割らせるとしようか」
その言葉とともに、リ-ブスがさらに逃げ道を塞ぎにかかる。
賊がその動きに気を取られたその瞬間、カルロスはそいつに飛びかかっていた。
懐から鞭を取り出す。夕方リ-ブスに怒られたのでいつも持ち歩くことにしたのだが、いきなり役に立ったようだ。普通のムチだが、無いよりはマシというものだろう。
「破ぁああ!」
リ-ブスの位置と逆のほうから鞭を繰り出す。たとえ倒せなくてもリ-ブスに任せようという作戦だ。それが分かったのか、リ-ブスが苦笑する。
だが、予想に反して仮面タイツ男は避けなかった。左腕をくるりと回し、鞭をからめ取り、そのままカルロスの方に走る。ナイフを抜いて鞭を切り裂く。
(何っ! 腕一本犠牲にした!?)
敵がそのまま残った腕を振り回す。少年は迫るナイフを転がり避ける。
(チィッ!)
「……カルロ ……ス ……オレを ……コロ……セ ……」
何か聞こえた。
(あ?! 何だって)
一瞬起き上がるのが遅れてしまう。
「あ、しまっ!」
その隙に、そいつは転がる少年に見向きもせず、そのまま走り去り煙の中に消えていった。
逃げられた……。
「見事ですね」
リ-ブスが感心してつぶやく。
「今のは、少しでも躊躇するか後ろに逃げるかすれば、坊っちゃんか私が取り押さえていたでしょう。逆に坊っちゃんに斬りつけたなら、私が容赦を捨てて倒していました。彼としては確かにああするしかなかったのですが、それにしても見事な判断です」
「うるせーぞ、逃げられて褒めてんじゃね-よっ!」
ムカムカしてそう応える。
「申し訳ございません。そうだ坊っちゃん、あとで、私の部屋へ来ていただけますか。この間取り上げた古代武器をお返しします。いまのは、あの鞭なら切り裂かれたりしなかったでしょうからね」
「ほ-、いいのか? 番頭が亡き主人のコレクションに手をつけて」
「この際しょうが無いでしょう。坊っちゃんが修行してきたのは、鞭のようですし。それと、私は、【執事】です」
(おれには嫌がる呼び方をするくせに)
こうして、街を巻き込むとんでもない大騒動の初日が、終了した。
、、
そう、初日が。初日だったのだ。これでも。
そして、さらなる災厄を携えて、次の日の朝が明けたのだった。
◆ ◆ ◆
次の日が来た。
今日もまた、朝起きてからいきなり事件が起きていた。それも、ある意味では昨日など比べものにならないくらいの、大事件だった。カルロスたちにとっては、特に。
ロ-エン商会の取引先と、街の知り合いの大半の家に、とあるビラが投函されたのだ。そしてそこには、
『今日を含めた三日目の日暮れをもって、カルロス・ロ-エンに味方する者すべてに罰を与える。回避したければ、その時間までにロ-エンとのすべての繋がりを断て。実行しない者は、自らの残りの時間が無くなる瞬間を知るであろう』
と書かれていた。
◇ ◇ ◇
嫌な感じだった。
街を歩いていると、あちこちからヒソヒソと噂する声がする。幻聴などではなく、数えるのも馬鹿らしい数の人たちが、こちらを見てこそこそと手で隠して噂しているのだ。
ときおり、わざと聞こえるように大声を出す奴もいる。
睨む。と、クモの子を散らすように逃げていく。
「クソッ、あれでも大人か! 10歳も20歳も年下に対して、目の前で堂々と訊いてくる事すらできないのか!」
腹が立つどころではなかった。同じ街に住む人間として、情けなさ過ぎる。
さらに今朝など、屋敷の周り中で何十人とこんな輩を見かけたのだから、そのやじ馬根性には恐れ入る。
エティなど、怖がって部屋から出て来なくなってしまっていた。レディの部屋に入る訳にもいかないので、メイドに任せて出てきたのだが。
(顔は覚えたぞテメ-ら。エティを怖がらせた罪は重いからな……)
「まあ、仕様がありませんよ。あんなビラを撒かれたんですから」
「リ-ブス! お前は悔しくないのか!?」
「悔しそうに見えませんか?」
「見えないから訊いてるんだっ」
「それは心外です、こんなに悔しがっているというのに……。まあ、なにはともあれ、これは好機ですね。うまくこれを利用すれば、完璧な、信用できる人間のリストができあがるというものです」
この言葉にはさすがのカルロスも唖然とした。さすが、転んでもただでは起きない。
「あ、あのなあ。二日後には、そんなの一人も居なくなってるかもしれね-んだぞ」
「そうならないようにすれば良いじゃないですか。例えば犯人を捕まえるとか、例えば黒幕を吐かせるとか」
「だ・か・ら・な……。それが出来りゃあ良いんだけどな……」
「やってしまえば良いんですよ。坊っちゃんと私二人ならできないことはありません」
うっとりと自信たっぷりに言い放つ背の高い塔のような執事に、ジト目を向けてため息をつく。
「どこから来るんだ、その自信は……。ハァ、ま、そうだな。ここでグダグダ言ってたってそれこそ仕様がないしな。まずは、情報を集めるとしようか」
「その意気です、坊っちゃん!」
「犯人が三日間という予告を守る奴だって、知ってる神様全部に祈っとこ-ゼ」
言葉と同時に、カルロスの肘鉄がリ-ブスの腹に見事に決まった。
◇ ◇ ◇
夕方になった。
カルロスたちは、屋敷に帰る道を歩いていた。
「……何の手がかりも見つからなかったな」
訊こうにも、カルロスたちが近づいただけで皆逃げるんだからどうしようもない。
「いえ、そうでもありませんよ」
ピタリ。
少年は立ち止まった。
「……今なんつった」
「ですから、手がかりが結構取れた、と」
「何であんなので手がかりが取れるんだよ!? しかも結構取れた、だあ!?」
無意識に苦々しくあきれ果てた声を上げていた。
(どこまで優秀なんだコイツは。人間か?)
「いいですか、坊っちゃん。まずは、街なかにいた人たちの様子です。この街のすべての家にビラが投函されたわけではないんですよ? ロ-エンに関わる家だけです。なのに彼らは知っていた。何故でしょう?」
「そ、それは……多分、新聞かなにかで……」
「今朝の事なのにですか? さらに、脅迫状を読むと、これが結構恐ろしいことが書いてある。読みようによっては殺人予告ともとれます。ですからまあ、今日訊いて回った人たちの様に、逃げるのは分かります。でもあそこにいる人たちの様に、【なにも、わざわざついて来てこちらから見えるところで噂する必要は】無いでしょう?」
リ-ブスの指が指し示す向こうで、何人かが逃げていく足音がした。
「……あ。じ、じゃあなにか!? あいつらすべてサクラ(雇われてる人間)だと……?」
「少なくとも、見える範囲でウロウロしていた輩はそうでしょうね。知った顔が居なかったですし、同じ顔が何度も見えました。他の街の人間か、スラムの人間だと思います。もしくは、そういう事を専門とする方たちか……。黒幕は、我々に精神的ダメ-ジを与えることが目的なんでしょう。ついでに街の人たちに噂を広げることも。焦ったら負けですよ」
「だけど、なんで……。ん? 待てよ。ってことは、少なくともそれをやったのは、スラムの人間に顔が利く人間って事か。でなければ、スラムの長老に話を通せるほどの人物だ。なにせいきなり金だけで雇うには、数が多すぎるからな」
「さすが坊っちゃん、冴えてます」
執事の目が心底本気で褒め称えている。
「なんか馬鹿にされてる気がするが……まあいいだろ。でまあ、っつ-訳で、明日やることは決まったな。朝イチでスラム街だ」
「はい、頑張りましょう!」
リ-ブスも力強くうなずいた。
ところが、その予定はすぐに崩れることとなる。敵は、三日も待ってくれる程お人好しではなかったのだ。
一日留守にしていた間に屋敷が襲われ、さらに火まで放たれたていた。
さいわい火はすぐ消し止められたが、警備員二人とメイドが一人、重症だった。
そしてカルロスは、自分の認識の甘さを心の底から呪うこととなる。
「やってくれたな……どこのどいつか知らねェが、見つけたら殺すっ。すぐ殺す!絶対殺す!! いいやそれだけじゃ生温い、この上エティに指一本でも触れてみろ……、この世の地獄をフルコ-スで味わわせてやる!! 殺してくれと泣いて頼むまでずっと、ずっとだっ!!!」
そう、ヒリエッタは、屋敷の中から消えていた。
彼女の部屋で見つかったのは、重症のメイドと、切り裂かれたガウンだけだった。
ヒリエッタ誘拐のニュ-スは、瞬く間に街中に広がった。
敵対しているところにも、数少ない味方にも。そしてそのどちらに加わるか、いまだ様子を伺っている者のところにも。
ロ-エン家にとって、致命的な天秤が動き始めた。
そして、脅迫一日目の日が暮れた。
◆ ◆ ◆
脅迫二日目が来た。
夜が明けても、ヒリエッタの行方は分からなかった。
ド カ ッ 、バ キ ィ ッ !!
カルロスはまたも壁に拳を打ちつけていた。何度目かは、もはや本人も忘れていた。
そこへ誰かが入ってくる。
「寝室の壁に、新しい入口でも作っているんですか?」
少年は何も言わず、リ-ブスを睨んだ。
「すごい隈ですね、その目……もしかして一睡もされなかったのですか?」
「寝てなど、いられるもんか………」
ソファ-に近づき、そのまま沈み込む。
「手がかりはあったか……?」
「……申しわけありません」
「そうか……。ということは、犯人からの連絡もないってことだな」
「はい。やはりこの誘拐の目的は、噂をバラ撒いたことと同じ、我々を追い詰める為のもの、だという事なんでしょうね」
ため息が漏れる。
「効果てきめん、だな」
「心配要りませんよ、坊っちゃん。嫌な言い方ですが、黒幕の目的がロ-エン商会を手に入れることなら、お嬢さまは大切な飾りです。逆に下手な手出しはできません」
「だと、いいが……、な」
そしてしばし、部屋に沈黙が落ちる。
数分の後、リ-ブスが、固まった空間をかき分けるように口を開いた。
「坊っちゃん、私はこれから、スラム街へ行ってきます。こうしていても埒があきませんし、調べていけば、少しでも手がかりが掴めるかもしれません」
「そうか……済まないが、頼む。おれは、残るよ。もしかしたら犯人から連絡があるかもしれないしな」
「分かりました。では行ってきます。夕方には戻りますから。坊っちゃん、くれぐれも軽率な行動は取らないで下さいよ」
「気をつける。けど、お前もな。さすがのお前だって、スラムの人間すべてを一度に相手するなんて、できないだろうしな」
「はい。気をつけますね」
リ-ブスは出かけていった。
だが、彼の不安は当たっていた。
それを見計らったように、犯人からの手紙が投げ込まれたのだ。
『今日の夕方5時に、7番倉庫にて待つ。一人で来られたし』
そこにはそれだけが書かれていた。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ。太陽が、わずかに傾き始める時刻。
スラム街から帰る途中の路地裏で、リ-ブスは振り返った。
「そろそろ姿を見せたらいかがですか? スラム街からずっと尾行されていたでしょう」
一分、二分。リ-ブスが動かずにいると、ようやく追跡者は、隠れるのをやめて顔を出した。
驚いたことに出てきたのは、どこにでもいそうなおじさんだった。特徴がまるで無いことが不思議といえば不思議だったが。
だが、それを見た途端リ-ブスの顔から余裕が消えた。全身から血の気が失せてゆく。
「そんな……! あなたは、まさか………!」
「久しぶりだねえ。昨日見かけたときは、目の錯覚かと思って動揺してしまった。会えて嬉しいよ、グレイハウンド。……いや、今の名前はリ-ブス、だったかな?」
唇を噛む。
「ついに、見つかってしまったんですね……しかもよりにもよって、あなたに……」
「あれから七年か。永かったよ、実にね。知っているかな? あの後、組織はスポンサ-から見放され、崩壊したよ。あっけなくね。どうだい、思惑どうりかな? それとも、裏切り者でも、少しは哀愁を感じるのかな? 教えてくれないか、グレイ」
おじさんはにっこり笑う。だが、その笑顔の奥の不気味さは何事だろうか。
「……暗殺組織【深紅の杖】大君がひとり、シグルノ・カ-ヒュ-ン……」
笑顔を貼り付けたまま、男は静かに近づいてくる。
「あの時つけられなかった決着をつけようじゃないか。仕事の上だということが、少しばかり残念だがねえ」
「……仕事? まさかっ!」
その瞬間、優しそうだったおじさんの顔から笑みが消えた。さらに特徴がなくなり能面の様な表情になる。
「お前をここから帰す訳にはいかないってことさ。色々、探ってくれたようだからな、依頼人がお怒りなんだよ。まあ、仕事に関係なく、生きて帰すつもりは無いがね。さあ、みんなが待っているところへ送ってやろう。腕はなまってないだろうな? 少しは、楽しませてくれよ? 元、組織のNO.1さんよ」
「まさか、あなたが関わっているとは思いませんでしたよ。どうりで……。しかし、そうと分かった以上は……なんとしてもそこを退いて頂きます」
ス-ツの上着を脱いで落とす。リ-ブスは、この街に来て七年目にして初めて両手で構えていた。
「本気でいきます。邪魔をするなら、…………殺ス!」
「吠えるな裏切り者。死ぬのは、お前だよ」
大気に殺気が満ちてゆく。物理的なまでに高められたそれは、常人なら触れただけで気を失うほどに醜く鋭く歪んでいた。
(坊っちゃん、お願いですから、私が行くまで早まらないで下さいよ……)
午後3時25分。
殺しの達人どうしの本気の殺し合いが、始まった。
◆ ◆ ◆
午後5時。港の7番倉庫。
カルロスは、手紙の通り、ひとりでここまで来ていた。手紙を握りしめて叫ぶ。
「どこにいる! ちゃんと一人で来たぞ! さっさとエティを開放しろ!!」
声が闇に反響する。その奥の暗がりから、昨日の仮面男が現れた。左腕を吊っている。
「よく来た、と言いたいが。いきなりそれは無いだろう? 開放するなんて、どこにも書いてなかったはずなんだけどねェ」
今日はちゃんとしゃべっている。だが、意識して声色を変えているようだ。
(なんでだ? ギリアムなら、このごに及んで声や顔を隠す必要は無いはずなのに……)
「書いてなかろうが何だろうが、ちゃんと手紙の通り一人で来たんだ! 会わせてくれたっていいだろうっ!」
「威勢がいいな。駄目だ、と言いたいところだが、……いいだろう。おい、あの娘を連れてこい」
しばらくして、縛られて猿ぐつわをされたエティが連れてこられた。
(ちくしょうなんてことを……! 絶対、助けるからなっ。もう少しだけ我慢してくれよ、エティ)
「おい、レディに何て事してやがるんだっ! せめて猿ぐつわくらい取ってやれよ!」
「おいおい、心外だな。俺たちだって最初はもう少し丁寧に扱っていたんだぜ? これはこのお嬢さんが大声を出して暴れたからさ。仕方ね-だろ、これくらい」
血管が切れそうに血が上る。
「仕方ないだとこの野郎っ、お前それでも男か! ってゆ-か絶対殺す!!」
「うるせェぞシスコン」
「なっっっ! テメ……エ……」
なおも言い返そうとしたカルロスは、いきなり黙る。
いつの間に合図したのか、後ろの男がエティに向けてナイフを逆手に突きつけていた。
だが、それだけではなかった。エティが、身振りで兄に何かを伝えようとしているのに気づいたのだ。
(なんだ? いったい何を伝えたいんだ?!)
それが何かを考えながら、妹の動きをやつらに気づかれないように、カルロスは話を引き延ばすことにした。
「分かってないようだな? 俺たちはテメ-と言い合いするために呼んだんじゃね-んだよ。せっかくあの馬鹿強い兄サンが来られないよう演出してやったんだ。建設的にいこうぜ、建設的に」
「……どういうことだ?」
「なぁに、仕事仲間に偶然あの執事の昔の知り合いってのがいたんでな。その人にちょっと足止めを頼んだのさ」
「ハッ、リ-ブスが簡単に足止めされるかよ。あいつの本気を知らね-な?」
その言葉に、何故か仮面男は笑い出した。
「くく、知らないのはお前の方だ。あの執事が昔何をやってたか、知らねえだろ、知ったら驚くぜェ? どうせ何にも教えてもらって無いんだろ? 教えてやろうか? けど知ったらもう二度と、前と同じ様に話せないかもなあ。ま、お前等の言う信頼なんてなぁ、所詮そんなモンだぜ、ヒハハ」
仮面男が笑うのを、カルロスは黙って静かに聞いていた。そして口を開く。
「それで? ハッ、アホかお前。あいつにとんでもない過去があるなんてなァ言われなくても分かってら。知らないのは訊かねーからさ。言いたくなったら話してくれるだろうよ。ったく、んなことくらいでおれたちの間がギクシャクする訳ね-だろ」
呆れた顔と声で少年は続けた。
「お前、可哀相だな。信じて欲しかった時に信じてもらえなかった事でもあるのか?」
カルロスがそう言うと、仮面男は黙ってしまった。痛いところでも突かれたのだろうか。
カルロスは目線だけでエティを見る。話しながらずっと何を伝えようとしているか考えていたのだが、まだ分からない。兄が解ってくれないことに、エティは苛立っているようだ。
「なんだ!? 何してるお前ら!」
(しまった気づかれた! どうする!)
業を煮やしたエティが縛られたままいきなり走り出して仮面男に体当たりしたのは、次の瞬間だった。男の吊っている方の腕に当たる。そして、
からん………。
男の苦痛のうなり声とともに仮面が落ちる。顔が見えた。カルロスのよく知っている顔だった。
まったく考えていなかった顔がそこにあった。視界が、斜めになった気がした。
「そんな……どうして、なぜ……何故なんだ、なんでアンタがっ!」
あまりの衝撃に、エティが転んだのにもカルロスは気付けなかった。
男は黙っている。
「何とか言えよ、答えろよ、なあ……。答えろミシェルっ! 答えろぉぉ───ッ!!」
夕暮れの海から、風が吹いた。潮の香りのキツい、冷たい風が。
その風の中で、この場に一番相応しくない男の顔が、静かにカルロスを睨んでいた。