第 二話 『行く先の、夢のまた先 〜憤り 2〜』
『……そうですか、マスターが……』
未来にアルヘナ湖と呼ばれる深き水をたたえた湖岸、今はまだ黒々とした地底に続く穴が開いているだけのクレーターの、縁に近いその断崖。そこに建てられた急造の街の救急テントのベッドの上で、上半身を起した蒼き女性が呟いている。
エナジー切れ寸前のせいで、細かい点滅が激しくなり、透ける体をさらに薄く見せている。それでも。
『ええ。それでも、ですよ』
そんな余生の人とは思えない程、彼女の顔はやる気と稚気に満ちていた。悪戯を思いついた時の子供の様な、楽しそうな蒼き笑顔は満開で、陰りも憂いも欠片もない。
『そうですね……十分と云えないとはいえ、準備を整えたマスターですら敵わなかった敵ですから。我々では何の役にも立てないのかもしれません。しかし』
窓越しに女性が見上げ、いつもの位置を失い昼の領域へと、“自ら”動いて移動し始めた満ちた月をその目に写す。その中に今もいてその身の熱で抗っている者たちを脳裏に浮かべ、
『あれほど見事に【生】を全うする様を、精霊体ですらない方々に見せつけられてしまったら、その上で、はいそうですかと余生を隠居のまま終わらせる訳にも、いきませんから』
淡き女性が苦笑した。すぐにその言葉への返信が脳裏に届く。
『ええ、そうですよ。我々にも我々なりの自負があります。これまでずっと、マスターの代わりを努めてきたという誇りと自負が。ならば最後の最期まで、最前線に居て、見ていたいというものじゃありませんか。世界と人の行く末を。我らの信じたものたちが、真に信ずるに足るものだったかというその結果を。我らの成し得たお仕事が、遂げた祈りがどのような結末を辿るのか。続いてゆくのか、途絶えるのかを。見届けたいじゃありませんか』
キッと、視線を上げて引き締める。
『ならば、こんな所で、ベッドの上などで最期を迎える訳にはまいりませんよ。貴方だってそうなのでしょう? ねえ、バルドル』
最後に魅力的な笑顔を浮かべ、月にいる精霊体の仲間に告げる。向こうの相手も苦笑して、その言葉の正しさを認めたようだ。やはり生身で無くとも女性は強い。こちらの心配など欠片も聞いてはもらえぬらしい。そんなボヤキが聞こえた気がした。
蒼き淡さに包まれて、それでも女性は笑っていた。いつもの全開のそれではなく、この女性が初めて見せた、なのにとても似合っている、少女のような恥ずかしそうな笑顔だった。
そして彼女はその全て、自身を構成する残りのエナジー全てを込めて、転移のプログラムを唱え始めた。
全てを込めたプログラムが完成しても、残ったエナジーで届くかすらも判らない。ただ、仕事の成果を見届けたい。最期に結果を見届けたい。願わくばあと1欠片でも、彼らの成功のほんの一助になれたなら。そんな願いを一身に、全てを込めて解き放つ。
紡がれた音節が模様を描いて波と化す。プログラムが空間に三次元の紋様を描き出しそして。
薄蒼き女性の姿が蒼き風と化したのち、その場所から存在が静かに消えた。
しばらくして訪れた看護の女性が目にしたのは、たった二つ。《ありがとう。行ってきます》と書かれたメモと。そして清々しくも儚げな、かすかに薫る蒼き風の残り香だった。
◇ ◇ ◇
残りの寿命が決まっている事を初めて耳にしたのは、何歳の頃だったろう。
たぶん、十にも届いていない頃だったはずだ。
実はあまり覚えていない。あまりに視界が翳った為に、主治医の言葉どころか、その前後の記憶自体が曖昧になってしまっているのだ。多分絶望したのだろう。不用意に本人に聞かれた主治医のうろたえた顔だけを薄っすらと覚えている。
主治医や父母を、隠れて驚かそうなどとするのではなかったと、きっと自分は嘆いたはずだ。
だが、ハッキリとは、何一つ思い出せない。その瞬間の父母の顔、父母は本当に……うろたえて、いたのだろうか。二人共表情が黒く翳って隠れている。
考えたくはないがもしかすると、ホッとしていたのではないだろうか? 聞かれた事で安堵していたのではないだろうか?
記憶の底のその顔は、怒りと嘆きと呆然とそれ以外、いったいどの顔をしていたのだろう?
だがその辺りの記憶自体は曖昧なのに、残りの命とやらが他人よりも短いどころか、二十歳を迎える事すらもできないと聞かされた時のその気持ち。その自らの絶え間ない内側の【憤り】だけは今もハッキリと覚えている。なぜならそれから八年近く、一度も黒炎が消えていないからだ。水面に垂らした薄墨が、消えることなく濃いままに、次第にどす黒く幾重にも重なってゆく様を心に宿して来たからだ。永く、長く、重みを増して。
聞いた瞬間の絶望の時間自体は短かった。悲しかったがそれはそれと受け入れた。
【死】が近づいてくる足音として聞こえ始めたここ数年も、恐怖を顔に出すことだけはなんとか抑え込めたのだ。
だが、どうしても、どうにも我慢できない事柄が一つあった。
王である父と王妃である母の。その二人の私への態度が、その事実が知らされてなお、前後で全く変わらなかった事だった。
それまでも父母はとても優しかった。兄に済まないと思うほど、兄と自分への父母の態度は違っていた。そして告知のそれからも、ずっと優しいままだった。自分達が病で倒れて亡くなるその間際まで、彼らの態度は全くといって良いほど変わらなかった。
生まれた時から兄を差し置き第1王位継承者の地位にありながら、虚弱体質だった自分。そして、結局王位を継げずに世を去ることになる自分。
体が弱く運動も体術も剣術もラクダ術も何一つ、まともに習う事もなく、教えてももらえず父母に見つからぬよう自己流で研鑽するしかなかった自分。それでもまともに出来ない自分。
あれほど家庭教師に叩きこまれた学問を、何一つ実際に使うことなく消えていく事に決まった自分。
友もおらず、信頼する者も誰もおらず、温もりをくれる者も一人も居ない。
優しかった父母ですら、壊してはならぬとでも思ったのか、猫可愛がりながらも決して触れてはくれない自分。
コールヌイが居ることは居たが、小さな子供にとっては、呼ばぬと出て来ぬ影などに、信頼も温もりも感じる事は難しかった。
何一つ為せず。何一つ成せず。誰とも深く関わりを持つことなく。実際に世界を見て識る事もなく。ただ本のみを胸に時が来ただけで消える運命。そんな人生だとしても、それでもそこまでは受け入れることができた。できたのだ。諦める事はできていた。
だが、それでも!
父母がいつも浮かべていた、嘆くことなく諦めの顔で優しいままに遠巻きに。腫れ物でも撫でるかの如く接していたあの変わらぬ能面の笑顔だけは。
恐怖とともに疑問が湧く。父母は本当に自分を愛してくれていたのだろうか。
同情であればまだいい。だが、もしあれがただの諦めで、早々に自分が命を散らすことを望んで義務で、【父母という仕事として】優しくしていただけなのだとしたら。産むのでなかったと優しさの毒の裏で悔やんでいたのだとしたら。あれは能面。笑顔の能面。嘆きも怒りも憤りも、全てを見せずにただ隠すだけの顔だった。それは即ち、何一つ。ずっとずっと前からずっと、何も成せず死ぬ事がハッキリするその前からずっと。
何一つ、この私に欠片も期待してくれてはいなかったという事ではないのか。
それは、ペットといったい何が違う? 愛玩動物といったい何が違うのだ?
私にはまだ時間があった。あったのに! 確かに人より短い命だろう。だが!例えそれでもだとしても。私は未だ生きていた! 聞いてしまったあの瞬間からでも10年はまだ時間があった。何かを為せると信じていた。
なのに。父母からも主治医からも、何もするなと厳命された。頼んでも手を貸してさえくれなかった。何かが出来ると一度も信じてくれなかったということだ。
告知から【死】までの10年以上もの間、誰にも何も期待されず、何一つ全力で為すことすらも許されず、ただ籠の鳥で愛でられるだけの花の如く、死ぬより辛い【生】を生きろと強制された。小さな枠に填められて見やすい形に矯正されて、愛玩動物でいるのだと強要された。お前には何も期待してないと。だから心配だけはさせるなと。目の届く所に居るだけで造花の様に生きていろと、言葉も無いまま無言の笑顔で脅されたのだ。
それは【生】より大事な事か? それは【死ぬ】ことと何が違う?
【いま死なぬ事】は【生を感じる事】よりも大切だとでも云うのだろうか?
もとよりこの世の全てに対して期待して無い。生まれつき体が弱かった。期待する方が馬鹿をみるのを知っていた。
二十歳を超えて生きる事も告知を聞いて早々に諦めた。歳をとってゆく事も、子孫を造り育てる事も、世界にあまねく名を売る事も、時間はかけたがちゃんと諦める事はできたのだ。好きな相手がいる事を、認めることすら諦めた。おのれにそんな資格は無い。だが……だが! それでもたった一つだけ。諦められない事がある。諦めきれない事がある!
この世の誰の一人にも、期待されないまま消える事だけそれだけは! 何一つ信じてもらえず死ぬ事だけは、我慢ならない!! どうして諦められるだろう?
私は未だここに居るのに! まだたとえ僅かでも、生きて世界に存在するのに! なぜ、諦めなくてはいけないのか。二十歳になれば死ぬ定めだというならば、死ぬまで【生きて】は駄目ということなのか!?
それすら駄目だと罵られ、籠に入れられ餌を食むのか!?
そんなのできる訳がない! そんな事が許されてなどなるものか!
たった一人で良い。一人で良いのだ。期待せよ。私に誰か期待せよ!
私にたった一言を、存在していて良かったと、【言葉】を私に与えぬか!
口ではっきりこの耳に、しっかり鼓膜が響くまで。脳が間違えないくらい、ちゃんと心に届くまで!
同情などはいまさら要らぬ。上っ面の言葉だけの必要性など聞く耳持たぬ。
そんなものに興味は無い。ただ、一言で、良いのだ。だから、
誰か……誰か、私に…………一度で良い、
一度で良いのだ。一度で良いから!
例え【悪を為す】ことだとしても、それでも良いから。
誰か、誰か……私に誰か、【期待せよ】!!!
体を奪られ、内側の奥底で丸く心を沈めながら。
少年は眉根を寄せて叫び出す寸前の口を開けたままで。
硬く堅く、固く繭のように閉じこもり、ただ時が過ぎ去る様だけを静かに闇に刻んでいた。
第 二話 『行く先の、夢のまた先 〜憤り 2〜』 了.
第 三話 『“こどく”の船 〜活性〜』 に続きます。