第五十二話 『流れの先に繋がるもの 〜姫の決意〜』
決戦前、最後の補給と小休止で大勢が忙しく動き回る一団から、少し離れた片隅で、一組みの男女が真剣な表情で面と向かって向き合っていた。
「姫……ご無事で、何よりだ。お心がお強くなられたとお聞きした。嬉しいことだ。民を集めて導かれておられたとのこと。心から敬意を表させていただきたい」
アリアムが視線を合わせて想いを伝える。
(本当に逞しくなられた。体もそうだが、心根が……)
自害でもしかねないほど憔悴していた3年前、そして自身の力の無さに絶望していた数ヶ月前と比べると、見違えるように視線が強い。アリアムの中に、熱い想いが溢れ出る。’彼女’の名前を呟きながら、共に姫の存命を願った事が、間違っていなかったのだと誇りに思った。
「ありがとうございます陛下。全ては己の力ではなく、共に居てくれる者たちのお陰ですわ。自身のことすらも満足に出来ないまま、数年もの間国を離れていたこんな自分に、信じて付いてきてくれる者たちが未だいるということ。その事実に、驚愕とともに、熱い気持ちが溢れています。感謝してくれる民たちに、本当は感謝したいのはこちらだといつも思っておりますわ」
「そうか……」
アリアムが満足気にうなずいた。そこへ、
「へ、陛下」
「? どうなされた、姫?」
皆の前だからと敬語を使うアリアムに軽く口を尖らせて拗ねていた蓮姫が、いきなり深呼吸し、甲高く裏返った声で彼を呼んだ。ひどく口ごもり、決意と共に言いにくいことを口にしようとする雰囲気で身じろぎを始めている。
「どうなされたのです、貴女らしくもない。昔のように、言いたいことは胸に秘めず言っておくのが笑顔の秘訣でありますよ?」
アリアムが助け舟を出した途端、姫の顔が膨れていた。塔にいた頃でも、幼い頃でも、そこまで言いたいことだけ言っていた訳ではないと、その顔に文句と共に書いてある。しばしの間、膨れっ面をし続けた蓮姫は、顔を整えて静かに息を吐き出した。
「……もう、どうしてこう、デリカシーの無い殿方などに」
「はい?」
「なんでもありません! ……アリアム陛下。貴方に、伝えておかなくてはならない事がございます。これは、私事です。言わなくても良いことです。しかし、私は言っておきたい。先程の貴方のお言葉ではありませんが、言って、断られて、それでようやく自分は前に進む事ができる。そんな気がするのです。お願いします。けじめをつけさせて頂いて、構いませんか?」
アリアムは今一度、決意に瞳を燃やしている姫の顔をじっと見つめた。
そして、真剣な表情で、重々しく頷いた。
蓮姫はホッとした顔をして、凜と姿勢を正し佇んだ。そして静かな笑顔を浮かべたまま、静かな言葉を紡ぎ出す。
「アリアム陛下……貴方が、好きでした。ずっと好きでした。その判りにくくて、でもとてもとても深い優しさも、笑顔の裏にいつも隠した寂しさも、水を流さないままに心で涙を流す様も、恩を与えながら恩に着せない懐の深さも、誰かの為に怒りながら、でも自分の為には怒れないその歪さも。全てが愛しく、暖かでした。その甘美な痛みに胸が締め付けられながら、いつか私が慰めて、包んであげられたらと思っていました。蒼星のことでアーシアとともに私をたばかられておられたと分かった後でも、その想いは感謝と共に変わりませんでした。今でもお慕いしておりますわ。心から……。
でも、申し訳ありません。私は選ばなくてはならないのです。私には、貴方よりももっと、大切なものができてしまいました……」
アリアムは、凜としたまま強き瞳を逸らさずに話す女性を、静かにじっと見つめていた。
ナニールレプリカを撃退してから、二時間が過ぎていた。なぜか不気味なほど何の妨害も無いまま無事に合流を果たした仲間たちは、ルシアの杖と【カムイ】の鳥の導く先へ行く前に、さっそくまた顔を合わせた事を老婆にからかわれ真っ赤にうつむく少年を肴に眺めながら、体力回復の補給を兼ねた最後の小休止を取っていた。敷物も何もなく、鎧のまま床に腰を下ろし、食料と水をかき込むだけだ。だが、最後の最後に火事場の力を出すために、欠く事はできない工程だった。
酒は無い。水もわずかで食料はパサついた携帯食のみ。しかし皆、これが最後の会話になるかも知れぬと理解しているためか、全力で陽気な声で騒いでいる。情報の共有も兼ねていた。後から合流した者とできる限りの情報を共有するため兵たちの話が弾む。あちこちで会話に花が咲いていた。
最終決戦の前だ。なのに皆は笑顔で笑う。どうせ見つかっていることだけは確実なのだ。敵に襲撃されるリスクを考えないわけではなかったが、そんな事で煩うよりも、全ての力を出し切るためにリラックスする事の方が大切だった。
そんな中、蓮姫がアリアムに声をかけて呼び止めていた。
兵士の一団から少しだけ離れ、二人は久方振りの会話を始めた。
久方振りの邂逅だった。つもる話もたくさんあった。しかし、蓮姫が選んだ言葉は、ただ一つ。振られるための告白だった。全ての想いを言葉に込めて、蓮姫はアリアムに向かい、真正面から語りかける。
「待っていてくれた民がいました。あれだけの戦の後、巨大な国が滅んでも、それでも全ての民が消えた訳ではありませんでした。数は少ないですが、こんな私などを、それでも信じ、待っていてくれた人々がいたのです。国がなくなったとしても、それでも全てが無になった訳では、ありませんでした。それを、教わりました。仲間から、彼らから、そして、貴方からも。
故郷に戻り、生まれた大地を踏みしめ育った空気を吸いながらそれを知った時、自らの内に、全て捨てたと思っていた国の誇りが、自身の誇りがまだ残っていたことに気が付きました。気付いた時は、泣いていました。どこにこれほど隠れていたかと思うほど、涙が溢れて止まりませんでした。そして、決めたのです。
……これからは、その人々の為に生きてゆこうと思います。だから、アリアム様……いえ、アリアム陛下。貴方にちゃんと振られることにしたのです。これまで、ありがとうございました。本当にありがとうございました。受けたご恩をお返ししきれないまま去ることを、お許しください。何も、貴方に返せなかったことだけが、心苦しくてなりません。それでも、恩知らずと罵られようとも、やるべき事を見出してしまったからには、目を逸らすことはもう、今の私にはできないのです。それが、ずっと探していた、私の見つけた出来ることなのです」
「……そうか」
アリアムは、小さくそれだけを口にした。様々な思いがあった。それでも、口に出せるものではないし、何より彼も、姫の決断に胸一杯に満足していた。
「いつか、胸を張って国を再興できた暁には。必ず交渉の席に就くに相応しい元首となって、正式にご訪問させて頂くつもりです。その程度で恩返しになるなどとは思いませんが……せめてそれくらいは、お約束させてくださいませ。山ほどの御恩を受け、様々な多大なるご迷惑をおかけしてしまったこと、本当に、心からのお礼とお詫びを申し上げます」
ぶれの無い、良い眼差しだった。
「成長、なされた……」
感慨深げにアリアムが言う。
蓮姫は、小さく笑って首を振った。
「私一人の力ではありませんわ。そして、私一人の力では無いという事が、様々な方々に助けて頂き、お力添えをして頂けた事そのものが、誇らしい。そう思えるようになった自分も含めて誇らしい。昔の私なら、自虐と小さなプライドが邪魔をして、言えなかったでしょうね……。でも、今なら胸を張って云うことができますわ。助けて頂いた事それ自体を含めた全ての事柄が、これまで生きてきた、いまこの時点での私自身の、【成果】なのだと。感謝を込めて、自負致しますわ」
一瞬たりとも揺らぐ事なく、真っ直ぐに視線を前に向けたまま、語りきった。
「………」
震えが、きた。
冗談でも何でもなく、震えがきた。
胸が、文字通りいっぱいになる。
自身を弟子や、子が超えた瞬間の誇らしさというものがこの世にあるとしたならば、今この瞬間の事だろうと、アリアムは心底思った。
素直に感謝し、全てに感謝し、その感謝ごと自らを誇りに思うこと。それがどれだけ難しく困難で、どれだけ巨きな事なのか。そこにたどり着いた者には分かるまい。その場所がどれほど尊いかということを。
それは決して、尊大なのではない。そこに山がある如く、本物の重みを身につけた者にしか纏えぬ貴気。
己がとうとう身につける事のできなかったものを身につけた者が、目の前にいた。
決して悔しさが無い訳ではない。だが、それでも彼は誇らしかった。
人は、確かに成長できる。これほどまでにかくも見事に。できるのだ。
彼女は確かに示してくれた。
アリアムは目を細め、いま一度目の前に立つ女性を見た。
その姿はもはや、全てに怯え、己の無力に絶望し、自らを追い詰め貶め嘆いていた、か弱き姫ではなかった。
自らの進みべき道、守るべき大切なもの。それらをきちんと見極め、手に入れた、ただ一人の、王族の姿だった。
アリアムは思う。自らがついに纏う事のできなかった【王気】というもの。それはもしかしたら、こういうものだったのではないのか、と。
それを纏った王の器を眺めた時。
わずかに迷っていたアリアムの心は、決まったのかもしれなかった。
「何を言われるのだか。あなたほどの方にそう言ってもらえるだけで光栄だ。しかし、振られる為と言われていたが、なんだかこちらが振られているかのような気分だ」
「もちろん、そのような話し方をしているのですから、当然ですわ」
「───なんだって?」
「敬語が崩れておりますわよ陛下。私が何も知らないとでも思われますの? 貴方、蒼星の事、好きでしたでしょう」
「!? なななんのことだ」
この男が初めて見せた狼狽えた顔。初めて見たのが自分だと思うだけで、蓮姫の頬は緩まった。
「陛下の狼狽えた姿を見られるなんて、光栄ですわ。やはりそうでしたわね。同じ相手に恋した同士、分からないことなどありませんわ」
そう言って花のような笑顔を見せる。アリアムは、額に手をやり上を向き嘆息した。
「………まいった。完敗だ。……誰にも言わない方向でお頼みしたい。一国の王が、いつまでも手も出してなかった女の事が忘れられないなどということが、広まると何かと困る」
「委細、承知いたしましたですわ」
……しばし。お互いに、見つめ合った後、小さく吹き出す。
「本当に、どちらが振られたんだか分からねえな」
アリアムが敬語を止めていた。
「当たり前ですわ。こちらだけダメージを負うなどと、女だてらにこれから王を名乗ろうという者が、赦されるわけがありませんから」
それに、どうせ私のことなど、貴方は何とも思われてはいないでしょうし。蓮姫が小さく呟いた言葉を聞きとがめ、アリアムはニヤリと笑い言葉を紡ぐ。
「姫。貴女の見違えるほどの成長を、喜ばぬ俺だとでも思ったのか? そんな小せえ男だと思われていたなら悲しいな。嬉しいさ。嬉しくてたまらねえ。蒼星も、きっとそう言ってくれるだろうぜ」
「……あ」
海のような優しい笑顔で照れ無くぶつけられたその言葉を受け、そしてその名を耳にして。一粒だけ、蓮姫は静かに笑って涙を流した。
良い、笑顔だった。
「ありがとう……ございます」
そして、その後は共に無言で寄り添い歩き、合流してから離れて待ってくれていた仲間たちの元へと戻る為に、途中から直角に別たれる。最後に一度だけ顔を見合わせ、背中合せに道を分かれた。背中を向ける瞬間に、姫の背中のその向こうに、アーシアの微笑が小さく見えた。こちらも静かに微笑んで、静かに背中を向けていた。
「もう良いのか、アリアム」
「相変わらずの心配性だなお前は、デュラン」
最前線に戻る途中の将に、上から言葉が降り注ぐ。心配そうに横で眺める目の前の筋肉の塊をこぶしで叩き、
「なあに言ってやがる。良いも悪いも何もねえよ。これが、正しく正常ってやつだろうが。祝福してやって何が悪い。ていうかお前も祝福しろ」
そう笑って言葉をかけていた。
「なら、そういうことにしておこう」
「しておけよ、ウインクすんな、このおせっかい」
笑って手を上げるデュランとも別れ、集団の先頭に復帰する。レプリカ共を駆逐して、合流した彼らの報告の為に止まっていた時間がまた、動き始めた。
自らが先頭に立ち、アリアムはその歩を進める。仲間たちは数人ずつ、それぞれ離れた別の集団の頭に付いていた。そして通路はいきなり開け、兵団は広大な空間に躍り出た。
そこには空が見えていた。日差しが溢れて雲が流れる。静かな風がそよいでいた。どこから種が飛んだのだろう、小さな草があちこちに生え、信じられないことに虫が蜜を吸っていた。
「え……? ど、こなのさ……ここ……?」
全ての者が絶句して、今自分たちがどこにいるのか分からなくなりかけていた。
第五十二話 『流れの先に繋がるもの 〜姫の決意〜』 了.
第五十三話 『流れの先に繋がるもの 〜鉄と血の血筋〜』に続く……