第三章 カルロス (起) ⚫️
以前頂いたイラストを追加しました。
丘の上からは、海と波と、停泊する船の群れがよく見える。
シェスカの街。
海に面したこの街は、世界で一番の港町だ。そのため街にはそこら中に商館が立ち並び、埋立地には倉庫がところ狭しと連なっている。
新世暦497年。この時代、最盛期世界の7割を擁した海洋も、過去におきた地殻変動の影響で干上がり、せいぜい2割強というところまで縮小していた。
だが、それでも海の男達は健在だ。酒場は繁盛するし、色々な珍しい品物や噂話が飛びかう。そして、喧嘩も。
いたる所で荒くれ者の起こす諍いが目につく。そしてそれは、少年たちの間でも同じことが言えていた。
「よお、カルロスじゃね-か」
「あらぁ、久しぶりねえ」
「元気そうで何よりだなあ、この一ヵ月半どぉこ行ってたんだぁ?」
夜の倉庫街。通りから奥まった裏路地に、様々な年齢の若者たちがたむろしている。その通りを、そこに居るだれよりも若い少年が一人、歩いていた。
漆黒の髪、いや、微妙に青が入っているか。陽の光の下ならもう少し青く見えるのかもしれない。鋲のついた蒼い上着と折り目のついた動きやすそうな柔らかい青地のズボン。そして、土木屋が履くような鉄板入りの靴を身に付けている。
目の輝きは悪くない。だが自然に吊り上がったまなじりは、愛想というものが全く無い。形は違うのに、なぜか猫の目を連想したくなる瞳。背はそんなに高い方ではないようだが、姿勢がよいので低くは見えない。髪は全体に長くはないが前髪だけ伸ばしているらしく、深い海色のバンダナできれいに根元を立たせている。けれど、垂れた部分だけでもかなりの長さがあり、片目の視界を覆ってしまいそうになっていた。
「ちょっと、な」
少年は軽く手を上げて顔見知りたちの声に答えると、そのまま通りすぎる。そこへ、
「ギリアムが捜してたぜえ? こないだの件だろうがよ。あいつかなり執念深いからな、あんま関わり合いにならねえほうがいいと思うぜぇ?」
親しい遊び仲間の忠告に、振り返らずにもう一度手を上げて答えてから、カルロスは呟いた。
(有難いが、ほんの少しだけ遅かったぜ。ミシェル)
◇ ◇ ◇
薄暗い裏路地の底にも、星明かりだけは届く。
その片隅で、雨ざらしにされ朽ちた木箱に寝そべりながら、ミシェルは、先ほど見送った年下の友人のことを考えていた。
(馬っ鹿だねえ、あいつも。ギリアムなんて、たった10人のアタマなんかで満足してるようなお山の大将じゃねえか。そんなアホウの挑発なんて無視してりゃいいのにさ……)
ごろん、と寝返りを打ち上を見上げる。狭い路地から覗く空が、そこだけが妙に高い。
星が眩しくてまた横を向く。
綺麗なものは嫌いだった。自分が惨めになった気がするから。
靴底で踏みにじりたくなる。けれど……。
(ちっ、しゃあねえなあ。ったく。何も一人で行くこたねえだろうによ-)
拗ねた声でひとりごちる。
「ひとの忠告聞かね-んだもんなあ。まだまだ若いねえ、あいつも」
両足を上げ、反動をつけてひょい。と、道に飛び降りる。
(しょうがねえ、俺がひとりで行ってもどうしようもね-し、あの人でも呼んでくるか。あいつは、嫌がるだろうけど、な)
小さく笑う。
そう、ミシェルという青年は、綺麗なものは嫌いだった。
けれど、他人がそれを踏みつけるのは、もっとずっと嫌いなのだった。
◇ ◇ ◇
「よく一人で来れたなあ、カルロスぅ。いつものでっかいのはちゃんと撒いてきたらしいなぁ? ヒャハッハハハハッ」
無人の倉庫街。目付きの悪いかなりヤバそうな一団が、カルロスの周りを囲んでいた。皆立ったり腰かけたりしているが、ほとんどの者が武器――鉄の棒や砂の詰まった皮袋を手に持っている。対するカルロスは素手だ。
「リ-ブスのことか? 別にいつも連れている訳じゃない (それに今、おれは……)」
「へっ! 護衛を連れなきゃ街も歩けねえような奴がよく言うぜっ」
ピクッ。カルロスの肩が軽く揺れた。外れていた視線が静かに相手の目に戻る。
「……取り消せ。おれはひとりでも十分に強い」
「ウルセェ! ムカツクんだよ、テメ-の何もかもがな! 倉庫街(この場所)はテメ-の様なお坊っちゃんの来るトコじゃねぇッんだよ!! 帰ってママのオッパイでも吸ってな! おっとぉ、そういやママはもう死んでらっしゃるんだったなぁ?すまねぇすまねぇ。じゃあ……妹のおっぱいか? イヒヒャハハ!」
ピクリッ!
その言葉を聞いた途端、カルロスの体全体が大きく震え出した。握り締められた拳がぎしりと音を出す。
「呼んだな、テメエ……おれを……、おれを坊っちゃんと呼ぶんじゃねえっっ!!」
叫びと共に懐から得物を取り出し、構える。対するギリアムの口元の笑みが深まった。
「それどころかお袋と、妹まで……ギリアム、テメエはもう口を開くな。息が、臭くてたまらねえ。腐った魂まで嗅がすんじゃねえぞこのクソが!!」
手に持っているのは、漆黒に彩られ艶やかに仕上げられたしなやかな皮の鞭!
バシン! 打たれて欠けたコンクリートの破片が跳ねる。
「ハハッ、どこで手に入れたか知らねェが、どうやらやる気になったようだなあ! いいかテメ-ら、手ェ出すんじゃねえぞ! これはサシの決闘ってヤツだからよォ!」
「いくぞ!」
相手の台詞が終わる前に、言葉と同時にカルロスが先に飛びかかった。
カルロスが鞭を振るう。予測していたのだろう。ギリアムは余裕で避けそして、
シュン!
風を切る音がしてカルロスは体をひねる。反転し相手正面を向いた耳に、真後ろの壁に何かが刺さった音がした。だが後ろを見る訳にはいかない。そのままの体勢で鞭を戻して構えを作る。
「さすがに隙を見せてはくれねえか、……本当に12かよお前?」
チャリィ。
ギリアムが軽く手首を返すと、何もなかった指の股すべてに得物が現れた。アイスピック。小型のやつだ。
(手品かよ!?)
カルロスは心の中で舌打ちする。
「年なんか関係ないね。てめえの考えくらいお見通しだ卑怯者!」
「そうかい。何とでも言えよ、生きてたらなっ。おおおおお!」
体をしならせギリアムの上半身が回転する。4本のピックが宙を舞う!
「破ぁああああ!」
鞭を振るい2本を叩き落とす。残り2本。また体をひねって避ける。と、
ドカァ!
「ぐはっ」
カルロスは宙を飛び壁に叩きつけられていた。
「ハッ! やっぱ12だ! 動きが単調だぜ、ピックに気を取られやがったっ」
どうやらピックを投げてすぐギリアムも走り出し、死角から蹴りつけたらしい。たった10人足らずのチンピラのボスとは思えない、高度な攻撃だ。
(ちっ。こんなのでもチ-ムを率いてるだけあるってことか)
叩きつけられた勢いで息が詰まる。その目の端に何かが映る!
カッ、カカッ!
間一髪、カルロスは横っ飛びに転がった。もう一度転がる!さっきまでいた場所、カルロスの体のあった場所に連続してピックが刺さっていた。
カカカカッッ! 鋭い、死をともなった音だけが転がる少年を追いかけてゆく。
目の前に壁、行き止まりがが近づいてくる。
(しまった!)
シュパッ びちゃっ!
勢いをつけ壁に向かい強めに転がり、転がり上がるように反動をつけ起き上がる。振り返る余裕もないままギリギリで上半身をそらして避ける。最後のアイスピッグが腕をかすめ、後ろの壁に血を散らした。
(ち……。だがこれで奴の武器は……な!?)
チャリィ
見ると、すべて投げ終えたと思われたギリアムの手の中に、さらに数を増やした新しい凶器が現れていた。どこに隠していたのやら、指と指の間の数より数が多い。手品師になれと本気で思った。
(クッ、一体いくつ仕込んでるんだコイツは!?)
「終わりだぜェェ!」
振りかぶる動作。わずかな違い。だが、さきほどよりも動きが大きい。十本以上すべて同時に投げるつもりか。だが、隙が大きい。今が好機とこちらも構える。
「こっちの台詞だ、バカが!」
ぶ……、んっ!
ためた力を全力で解放し、重い音が風を切った。
ぐしゃ……
「ぐあああああああああぁぁぁっ!」
まともに鼻に当たりさすがのギリアムも悲鳴を上げた! 両手で顔を覆いフラフラになりもだえまくる。その足元に重いものが落ちる音がした。
転がりながら、カルロスはとっさにこぶし大の石に鞭を巻きつけていた。それを死角からぶつけたのだ。死角外からの攻撃、鞭の十八番だ。
「やった!」
もう一度ぶつけてやる! そう思った矢先、今度はカルロスに隙が生まれた。
激痛が走る。自分の声とは思えない悲鳴が上がり骨を通して耳に入った。投げつけられた砂の塊が顔の中央で爆ぜたのだ。かなりの量が目に入る。
「いい、気に……なるな、お坊っちゃん」
目が開けられない痛みの向こうから怒りを押し殺したギリアムの声がして、そして同時に蹴りがきた。
痛い。痛みだけが増してゆく。目の前が真っ赤になる。
そのせいか、カルロスの中に、わずかだけ嫌な記憶が甦った。一ヵ月半前の光景が。
(バカ息子が……。貴様の様なクズは奥へ引っ込んでいろ! 今日の祝宴にお前の出る場所などないわ!)
(あら、ロ-エン商会のお坊っちゃんよ。パーティーに出してももらえないのかしら?)
(え?誰?あぁ、あれがあの何の取り柄もない?)
(そうそう、出来損ないのお人形さん……クスクス)
(あ? 友達? バ-カ。俺たちはお前が跡取りの坊っちゃんだから、フリをしてたんだよ。知らなかったのか? ハハ。ほとんど勘当同然のお前に、もう用はね-よ!)
(……くしょう、ちくしょう!)
目がまだ痛い。だけど。
「ま……まだだ!」
「いいぜェ、立ち上がるくらいは待ってやるよ、ククッ」
「勝利を確信するには、まだ早いって言ったんだよアホウが!」
目を腫らして瞑ったままのカルロスが、両腕を交差させて空中にサインのような動きを見せた。
「あん? なにやって!? ハッ」
戸惑うギリアムが下を見ると、蛇のようなものが凄まじい速さで地面を進んでくるのが見えた。あれは、鞭!!?
目を剥いて硬直する。
信じられないことに鞭がひとりでに向かってきていた。
「ンだぁこりゃあ!?」
急いで距離を取ろうと地面を蹴る。が、遅い。
両足を取られ這い上がり、次の瞬間にはギリアムは体中鞭に巻きつかれたまま、転がされていた。
「形勢逆転だな、ギリアム」
起き上がったカルロスが近づき、ようやく見えるようになった赤い目で、倒した相手の顔を覗き込む。
「二度と妹に手出ししないと誓え。そうすれば、その無様な格好のことを言い触らさないでいてやるよ」
「き、キサマァ汚ェぞ!! テメエラっいいからやっちまえっっ!」
その言葉に、待ってましたとばかりにチンピラ共が動き出す。
「どっちがだギリアム! 自分から決闘だとか言っておいて、負けそうになるとこれか!」
「ウルセェ!! 勝てばいいんだよ勝てばなァ!」
さすがにヤバイか。カルロスが覚悟を決めたその時。
「多勢に無勢は感心しませんね」
振り向くと、黒いス-ツに赤い蝶ネクタイと皮靴。髪をポマ-ドで後ろに流した、190cmはありそうな銀髪黒眼の青年が立っていた。
「お久しぶりです。一月半ぶりですか、坊っちゃん。大変そうですね、お怪我は?」
嫌味なほどの甘いマスクが微笑む。
「…………リ-ブス、お前か……」
カルロスは心底嫌そうに、その若い執事の名前を呼んだ。
………。あっけなかった。あんまりだった。武器を構えた10人を相手に、素手で、たった30秒……
(むなしい……)
カルロスは膝を抱えたくなるのを辛うじて耐えた。
「何でここが分かったんだ」
出る言葉も無意識につっけんどんに刺がついてしまう。
「坊っちゃんのお友だちが教えてくださったんですよ」
(ミシェルか……。ったく、余計なことを)
本来なら感謝したいところだが、呼んだ人選が悪すぎる。
カルロスはこの執事が大の苦手だった。恐ろしく強いのもそうだが、なにより、この男の自分に対する呼び方がどうしても気にくわないのだ。
「発掘品の、イメ-ジトレ-ス型の自動鞭ですか、坊っちゃん。旦那様のコレクションを持っていなくなられたと思ったら、まったく。一体どこで特訓されていたんです?」
気絶したギリアムを片手で鞭ごと持ち上げて、それをやった男がこちらを向く。
「こいつは治安局に届けましょう。それと、坊っちゃんの勘当は無効になりましたので、家に戻って頂きます。理由は道すがらお話ししますが、……悪いニュ-スがあるんです。坊っちゃん」
「リ――ブス」
苦々しく相手から顔を背け、カルロスは精一杯に叫んだ。
「おれを坊っちゃんと呼ぶんじゃねえ!」
◇ ◇ ◇
「坊っちゃん、ちゃんと聞いて下さっていますか? ロ-エン商会全ての一大事なんですよ?」
治安局の帰り。何度言っても直らない呼び方にうんざりしながらカルロスも口を開く。
「聞いたよ。だが、信じられねえな。あのクソじじいが死んだなんてよ。あの妖怪なら殺したって死にゃあしねえだろうに、なあ?」
つい、以前のように軽く流す。それはそうだ。確かに驚いたが、突然で、何とも実感が湧かないのだ。
(あの、おれを追い出した爺いが、こんないきなり? まさか)
「坊っちゃん、頼みますよ。ほんとに一大事なんです!」
リ-ブスが強い声を上げる。滅多に声を張り上げることのない執事の叫びに、さすがのカルロスも真実を感じた。
「……悪かった」
「………………」
それから屋敷まで、二人は無言で歩いた。
◇ ◇ ◇
30分後。屋敷の門をくぐった二人は、玄関にうずくまる少女を見つけた。
「ヒリエッタ……」
二人に気づいて少女は顔を上げる。少女は、泣いていた。
「お兄様……リ-ブス……。お父様が……お父様……が……」
少女が立ち上がり、カルロスに駆け寄り、抱きついた。
「戻ってきてくれたのねお兄様! 私、私……、一人でどうしたらいいか、わた、し……」
泣きながらすがりつく最愛の妹を、カルロスも抱きしめ返す。心では、
(あんなクソ野郎のことなんか知ったことか!)
そう思う。だが、腕の中で震えている一つ下の妹と、胸の上に染みてゆく涙は……
そのままにしておくことはできなかった。カルロスは兄として、妹を励ますために愛称で呼びかけた。
「エティ、今は……泣いていい。だけど明日になったら、お願いだ。笑ってくれ。これでこの家の人間は、もうおれとエティ、そしてこのリ-ブスだけになっちまった。だけど、まだ店がある。おや……親父(チッ!)の残してくれた店が。使用人もいるし、おれたちの所為で潰す訳にはいかない。判るな?」
コク……リと。わずかに、だが確かに妹が頷いたのを見て、ホッとする。
「じゃあ、部屋へいってきな。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。明日会った時、まだ笑顔を見せてくれなかったら、拗ねるぞおれは」
綺麗という言葉とともに、台無しだ、という一言が効いたのだろう。すぐに顔を押さえて駆けていった妹を見て、リ-ブスが小さく手を叩く。
「相変わらずお見事です。それにしても、意外でしたね。もしかして旦那様をお赦しになられたので?」
静かに見返す。
「本気で言ってる訳じゃねえよな……リ-ブス……」
「坊っちゃん……」
振り返ると、端正な執事の顔の曇り度合いが、少しだけ増していた。猛烈に胸がチクリとしたが、少年は構わず続ける。
「な訳あるかよ。アイツはな、本当にがめつい野郎だった。その上、何でもかんでもテメ-の思い通りになると信じてたような男だぜ? お袋が死んだときも外国にいて帰って来なかったしよ。挙句に、自分の息子を皆の前でクズ呼ばわりしやがった奴を、一体どうしたら赦せるのか、こっちが教えて欲しいぜっ!」
「………………」
軽く吐き捨てたつもりが、思った以上に強くなってしまった。落ち着いて息を整える。
「けどまあ。エティにはああ言っとかねえと、な。あいつにとっては、結構いい父親だったようだからな」
「そうですね……」
ほんの少しだけ、気まずい無言の時が流れた。
「ふう……。で? 親父はどういう訳で死んだんだ? まだ聞いてないぞ。ま、どうせロクな死に方じゃなかったろうが」
「坊っちゃん! 言い過ぎです!」
「図星か。最期まで“お約束”な野郎だな」
「坊っちゃん!」
「おれを坊っちゃんと呼ぶな」
ハァ。リ-ブスのため息が聞こえた。
「でも、だからといって、あのような亡くなり方をしなければならない程とは、私には思えませんよ」
「……そんなに、酷いのか?」
リ-ブスは頷く。
「お嬢様には見せられません」
「そうか……。それで、詳しい話、おれなら聞いてもいいのか?」
「そうですね。多分、貴方は聞かなければなりません。貴方はこのロ-エン商会の、後継者なのですから」
カルロスは、目を輝かせるリ-ブスを冷めた目で眺めると、肩をすくめて口を挟む。
「おれにそのつもりは無いけどな。だが、聞いておくさ。おれの役割は、エティの、……ヒリエッタの負担を肩代わりすることなんだからな」
固く、決意を新たにするカルロスを見て、リ-ブスは優しく微笑む。
「(そういう所は、私から見れば後継者の資質、十分にあると思いますけどね)隊商の同行者の話を継ぎ足してみたんですが、どうやらある老婆が旦那様の死の原因の、鍵を握っているらしいと………」
リ-ブスは未来の主に向かい、真剣に恭しく話し出した。
◆ ◆ ◆
「ハアハア、チクショウ……、ちくしょうっ!」
ピ――――! カン高い笛の音が迫ってくる。
「こっちだ! あそこにいるぞ!」
その声を最後まで聞く前にまた、ギリアムは走り出す。
連行する治安官の一瞬の隙を衝いて逃げ出してから、すでに一時間が過ぎていた。
「ハアハア……ハアハア」
路地に飛び込み、角のパイプをよじ登り、二階の無人のベランダに這いつくばる
たたたたた……
複数の追っ手の足音が遠ざかってゆく。それが聞こえなくなってから、ギリアムは体を起こし、壁にもたれて座り込んだ。
「許さねェ……、あのクソガキ……ゼッテェ許さねえぞっ!」
ユルサネェ ……ゆるさねェ ……
ブツブツと同じ言葉をくり返していたギリアムは、ふと、ベランダの奥に人の気配を感じた。
「だ、誰だっ!」
『悪魔さ』
そう名乗る声が、暗闇から聞こえた。
その人影は、どす黒いマントに身を包み、フ-ドで顔を隠していた。マントの裏地だけが血のように赤黒かった。
(何だ、コイツは!?)
見ているだけで、物凄いプレッシャ-に潰されそうだ。ギリアムは瞬きもできず、闇に浮かぶ二つの目を見続ける。目が、そらせない。
『お前ににいい物をやろう。それをどう使うか……それはお前次第だ』
ごくり……大きな音を立てて喉が鳴った。
「く、くれるって……な、何を……」
『いい物、だ』
そう呟いた影が伸ばした手の先に、小さな瓶が一つ、乗っていた。
恐る恐る近づき、受け取る。あまりの非現実感に、興味が恐怖を一部上回っていた。
そのガラスの瓶は、手のひらの大きなギリアムが握ると見えなくなる程小さいが、それ以外には何の変哲も無い小瓶にしか見えない。
けれど、ギリアムはゾッとした。どこも寒くなどないはずなのに。
『受け取ったな? クク。なら……、使い方を教えよう』
よく見ると、小瓶の中で、薄赤い水が揺れているのが見えた。
説明を聞きながら、ギリアムは考えていた。
(寒いのは、このしわがれた声を聞いちまったからに違い、ねえよ、な)
と、霞がかった意識の中で、自分を納得させるように、無理やりに。
……どこか遠くの意識の中で。
そして、ギリアムの手の中で、【赤い色をしたガラスの小瓶】は、星の光を跳ね返すかのように小さく明滅を始めていた。
その姿はまるで、何かの生き物の臓器のようにも見えていた。
◆ ◆ ◆
二日後の夜中。
港の倉庫街から天に向かって光が疾走るのが、まだ起きていた何人かに目撃された。それは真っ赤な光でできた、巨大な柱の様であった。