第参航海 ~江田島の風~
海軍兵学校・・・
全国から優秀な青年が競って志願した超難関校であり、募集人員が少なかった明治から昭和の初期までの海軍兵学校は、日本最高のエリート校であった。
多い時の最大倍率は20倍。
太平洋戦争後の卒業生の多くは戦後の復興に尽力した。
あの日に入学してから
俺は海軍兵学校では水雷・砲術などを集中的に学んだ。
卒業席次は174名中148位
これは・・・ちょっと出世に響くな
宗ちゃん・・・いや宗己は9位
絶望的な差だな。
他の同期は首席の近藤 信竹
高須四郎とかか
そんな俺たちは今艦上にいる。
海軍兵学校を卒業すると少尉候補生になって
練習艦隊に配属され遠洋航海をして見聞を広め海軍少尉となる
だが今回の遠洋航海には宗己は参加していない・・・
いや、参加出来なかった
将来を展望されるほど優秀な成績を残していたが
途中で体調が崩れ洋上での激務に耐えることが出来なくなり
奴が選んだ道は兵学校自主退学。
残念なことだ。あいつほど優秀な奴はそういない。
『広国!何ボケッとしてる。』
俺は艦内旅行中だったが、ボーっとしていたようだ
そんな俺に呼びかけてきたのは大山高少尉候補生だ
こいつの親父は陸軍元帥で元老の大山巌公爵。
だがこいつは「陸軍では親の七光りと言われる」と言って
海軍に入ってきた奴だ。
親の功績を鼻にかけず気骨あるいい奴だ
「すまん、ちょっと考え事をな。」
『別にそこまで気にしなくていいが・・・
いざという時に艦内地理が分からずだと目も当てられんぞ?』
グッ、確かにこいつの言うとおりだな
余計な考え事はやめて集中しよう。
それから、俺は艦内の設備の位置を記憶するため、集中することにした。
俺が今乗っている艦は松島型防護巡洋艦一番艦[松島]。
1892年4月5日、竣工し、当時清国が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として
建造され、日清戦争時は連合艦隊旗艦を勤めた。
が、今は練習艦隊に編入されている。
しかし、明治41年(1908年)4月30日は俺にとって一生忘れられないことを経験する日となった。
珍しく船酔いした俺は自室から外に出て潮風にでも当たろうと歩き、ラッタルをよじ登って
艦の後甲板へ行き、伸びをしようとしたその時だった。
艦が大きく揺れ大爆発を起こしたのだ。
俺は頭を激しく打ち付けた後、爆発によって海面に放り出されたようだ。
そこから先の記憶はない。
俺が目を覚ましたのはベッドの上だった。
恐らく病院だろう。
怪我をしているのか気になって確認してみたが、
足に異常はなさそうだし、痛いが腕も動くし指もちゃんとくっついている。
ちょうど部屋に入ってきた軍医にあの時のことを聞いてみた
俺は頭を打ち付けた衝撃で意識を失い気絶した状態で海面を漂っていたところを救助されたらしい。
すべての話を聞いて俺はふと一つの疑問が浮かび上がった
「軍医殿、死者は如何ほど・・・?」
途端に軍医は苦い顔をした。
『三十三名の者が殉職することになってしまってな』
やはり・・・そうか。
甲板にいた俺でさえこの様だ。
ましてや艦内にいた奴らは怪我だけじゃ済むはずがない。
『・・・言おうかどうか迷ったがやはり言っておこう
君の友人の大山高少尉候補生だが・・・三十三名の内の一人だ
殉職した。・・・・・』
俺が唖然としている間に軍医は俺に気をつかってか『失礼する』と言い病室を出て行った。
あいつが・・・あいつが・・・戦死?
前に偉そうにに俺に向っていったじゃないか
『広国、軍人はいつ死ぬか分からない職だ
だがな、俺は早々死ねねぇよ』
ポタ ポタ
勝手なこと言っておいて、勝手な所で死んじまいがって・・・
病室に聞こえるのは風の音と俺が声を押し殺してなく音だけだ。
俺の四年間の学校生活の終わりにあったのは
学友三十三名が死亡するという悲運な出来事だった
明治41年4月30日未明、卒業後の遠洋航海に際して台湾高雄港内で巡洋艦松島が爆沈し
候補生33名が殉職する事故が発生する
通称、松島爆沈事件と呼ばれた。
用語&艦船・武器解説 PART2
卒業席次
卒業試験の順位のことでこれが良ければ出世しやすく
悪ければ出世が遅くなってしまうが例外もある。
首席
学年トップ、いわゆるエリート
艦内旅行
文字通り艦内の施設を把握するために見てまわること
松島爆沈事件
本当にあった事件で犠牲者も史実と同じである