第8話 故国の森
影を落とした暗い瞳で廊下を歩いていたルードウィヒの後を一人の青年が追ってきた。
ニクラウス・バディル――十二人の魔導師候補の内、ルードウィヒの推挙で選ばれた騎士の一人だった。
特に大きな魔法を使うには体力を必要とする。そんなわけで、ルードウィヒは王軍騎士に目をつけ、その中から五人を連れてきた。
貴族が多い中、騎士出身者は肩身狭い思いをしているようだがその中で、年がルードウィヒと近い十九歳ということで、なにかと近しい口を聞き、懐いてくるのがニクラウスだった。
「師匠っ!」
そう呼ぶのは騎士のノリなのか、貴族出身者がルードウィヒのことを先生と呼ぶのに対して師匠と呼ぶのだ。
ルードウィヒとしてはどちらの呼び名もむずがゆかったが、呼び名などどうでもいいことでもあった。慣れ合うために来たのではなく、役目を果たす――ただその使命感に動かされているだけだったから、魔導師候補達とは必要以上に話さないし、近づかせないように威圧的な空気をまとっていた。
それなのに、なぜかニクラウスだけはルードウィヒの懐に飛び込み、あどけない笑みを浮かべて話しかけてくるのだった。
年は一つ上だというのに、まるで年下のような無邪気さの残る笑顔が少し苦手だった。
生まれ落ちた時より皇子としての責務を負い教育を受けてきたルードウィヒとは違い、ニクラウスは貧乏貴族バディル伯爵家の三男坊で、年の離れた兄二人と姉二人がいるという正真正銘の末子。年が離れていたこともあり、兄姉から目に入れても痛くないような可愛がり方をされ、穏やかで人懐っこい性格に育ち、二番目の兄が騎士として王宮に仕え、その影響で騎士になったという。
薄茶色の瞳は澄んでいて、整った眉、通った鼻筋、形の良い唇、何といってもいつでも綺麗に編みこまれて一つに束ねて薄茶の髪は艶やかで美しい。騎士だけあって均整のとれた体には程良い筋肉がつき男らしく、口元にはいつも浮かべた笑みが優男という対照的な印象を与えて、それが魅力的だと女性に騒がれるくらいの美男子である。
「何か用ですか……?」
歩みをとめたルードウィヒは感情を乗せない静かな声で問う。ニクラウスは苦手だが、彼が相手だとなぜか苛立ちが飛んでいってしまい、平静になることが出来た。
「“精霊”と言われても、正直、私達には理解し難いところがあります。それで提案なのですが、城の中ではなくて森で指導をするというのはどうでしょうか?」
「森で――?」
思いもよらない提案に、ルードウィヒは片眉をあげてニクラウスの考えを探るように見据える。
「以前、師匠が精霊の力は自然が多い場所ほど強いとおっしゃっていたのを思い出して、浅慮な思いつきかもしれませんが、気分転換も兼ねて森に行くのはどうでしょうか?」
確かに、森の方が精霊の力は強く、力も使いやすい。自分の話をちゃんと覚えていたニクラウスに感心し、少し心を許したルードウィヒだったが。
「分かった、次回は森での講義としよう。まあ、ライナルト王子に承諾を得てからになるが」
「本当ですか!? やったぁー」
ため息と共に言ったルードウィヒの言葉に間髪いれず、にかっと白い歯を見せて屈託なく笑うニクラウス。
「一度、旧ホードランド国の砦の残るバノーファの街に行ってみたかったんですよ」
綺麗に編みこまれた薄茶の髪を背中で揺らして、ニクラウスはニコニコと笑顔で言う。
それが本音か……とルードウィヒは心の中で呟く。
森と言っただけでバノーファの森とは言っていないのだが、完全にバノーファに行けると思いこんで喜んでいるニクラウスの無邪気さにつられて、ルードウィヒは薄い笑みを浮かべた。
喜びを露わにしていたニクラウスは、ふっと上げた視線の先にいつも無表情のルードウィヒの笑顔を見つけて、嬉しそうにさらに頬を緩めた。
ニクラウスは、初めて会った時からルードウィヒのことを気に入っていた。
年が近いせいもあるかもしれないが、纏う暗い影とは別に、瞳の奥にちらつく激しい炎に、聡いニクラウスは気づいていた。
その炎は、何かを強く求める炎――
何がそこまでルードウィヒを熱くするのか、興味を惹かれたというのもあるが、単純にルードウィヒのことを好きだと思った。こういう時の勘を外したことのなかったニクラウスは、無条件でルードウィヒに懐いていた。
だからこの時、初めて見るルードウィヒの笑顔が、少しは自分に心を開いてくれたようで嬉しくてたまらなかった。
※
数日後。ライナルトに了承を得て、ルードウィヒは魔導師候補生を連れてバノーファにやってきた。
バノーファは旧ホードランド国の砦があった場所で、その名はホードランド国が滅んだ後、ドルデスハンテ国の領土となりつけられた名だった。馴染みのない名だが、旧ホードランド国の民が住む場所に、ルードウィヒはなんともいえない気持ちで足を踏み入れた。
「ここがバノーファですかぁ~」
ルードウィヒの隣に立つのはニクラウス。辺りをぐるりと見回して、感嘆のため息をもらす。
かつて、自分が守っていた砦があった場所――
以前の姿とは変わり、森が開かれ、そこに街が作られている。旧ホードランドの民が土を耕し、土地をならし、生活の基盤を整えて。
中央に作られた噴水と花壇から放射線状に家屋が立ち並んだ花に囲まれた美しい街だった。どの家屋には花の植えられた鉢が飾られ、生き生きと咲く花を見て、生き残った民達が幸せに暮らしていることが分かる。
それだけで、自分が王城に行った意味を見つけた気がした。
ルードウィヒは街を突っ切り、街の西に広がる森を見て息を飲む。森の木々は赤や黄に色づき秋の準備を始めていた。ルードウィヒは吸い寄せられるように歩みを進め、森を歩く。
すべて燃え尽きてしまったと思っていた森が、ホードランドの森が残っていたことに、胸から熱いものが込み上げてくる。
ここで過ごした日々が、昨日のことのように思い出されて、懐かしくて温かくて、切なくて、恋しくて――
「ティ……ラ……っ」
もうこの地にはいない愛しい人の名を口づさんで、つぅーっと頬を冷たいものが伝う。
「師匠っ」
背後から明るい声に呼ばれて、ルードウィヒははっと肩を震わせて、慌てて目元を拭う。
振り返れば澄んだ薄茶の瞳が自分を覗きこんでいて、なぜだか胸が切なく締め付けられた。
決して戻ることのない故国――
何もかも希望を失って、見えない明日を背負って、ただ使命感だけに突き動かされて、帰る場所もなければ、愛しい人に会うことも出来ない。自分には何も残っていない――そう思っていた。
だがこの場所に来て、姿が代われど、生まれ育った故国が何も変わっていなかったことに熱い感情が込み上げてくる。
ルードウィヒを包み込む優しい風、温かな大地、爽やかな花の香り、すべてを洗い流す水、何度も生まれ変わる炎――
砦の森に足を踏み入れた瞬間、精霊の声が以前よりもはっきりと聞こえる。
ティルラが南の小国で息づく音さえ、風にのって聞こえてくる――
この場所に戻ることはできない――どこかで、そう思っていた。そんなルードウィヒをこの土地に連れてきたニクラウスに、ルードウィヒは心から感謝した。
「ありがとう――」