第43話 月虹の約束
「――――っ! ルードウィヒっ」
それまで意識を失って倒れていたルードウィヒが起き上がったことに最初に気づいたのはティアナだった。
だが、名を呼ぶと同時に駆け付けようとしたティアナの腕をジークベルトが慌ててつかむ。
振り返ったティアナは、険しい表情のジークベルトが睨むようにルードウィヒを見ていることに気づく。
先ほどまで、魔王に体を操られていたのだから警戒するのは仕方がないが、それがなんだか悲しくて、ティアナの翠の瞳が切なく揺れる。
「簡単に近づくな。まだ魔王が意識をのっとっているかもしれない」
「そんなことは……」
ないと言いたかったが、自分でも確信を持てなくて言葉を飲み込み、視線だけをルードウィヒに向ける。
片手で頭を押さえながら立ち上がったルードウィヒは、足で地面をこすり付けたり、手を開いたり握ったりしている。その行動はまるで感覚を確認しているようで、ティアナの胸を締め付ける不安が取り除かれる。
「ルード……ウィヒ……?」
かすれた声で呼びかけたティアナの声に、ふっと顔を上げたルードウィヒの翠がかった黒い瞳と視線が合う。
その瞬間、ルードウィヒが緩慢な動きで首をかしげると、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「私の耳飾りは役に立ったようですね?」
そう言って片方の口の端を上げてにやりとする様子は、どこまでも自信に溢れ尊大な雰囲気で、初めてあったルードウィヒの姿に重なりティアナは思わず苦笑してしまう。
「ええ。あなたの思惑通り、世界の鍵の五つは私の手元にあります」
思惑どおりなのが悔しくて皮肉で返してみるが、ルードウィヒはより一層不敵な笑みを濃くするだけだった。
それから、瞳を閉じてなにかを呟くと、胸の前に出した手の中から赤々とした炎がほとばしり、火鳥の姿になりながらルードウィヒの周りを一度旋回すると、ルードウィヒの胸めがけて吸い込まれるように消えていった。
その幻想的な光景に見とれていたティアナは、強い視線を感じてルードウィヒの方を見る。瞬間、ルードウィヒが何かをティアナに向かって放ってよこす。
綺麗な放物線を描いて、吸い込まれるようにティアナの手元に落ちてきたのは、紅玉の耳飾りだった。慌ててルードウィヒを振り仰ぐティアナ。
「ティルラに分け与えた私の力はいま返してもらった。だが、それ自体に至宝としての価値はある。火朱石の主はティアナ――そなただ」
「はい――」
ティアナはギュッと火の鍵を握りしめる。
初めて呼ばれた名前に少し胸の奥がくすぐったかったが、それを顔には出さずに頷いた。
ルードウィヒが自我を取り戻したと分かっても、ジークベルトとレオンハルトは相変わらず警戒を緩めず、ルードウィヒの存在を知らないダリオは事の成り行きを見守っていた。
ジーナとエーリカの姉妹魔女はルードウィヒとは初対面、そして魔王の血をひく混血の魔法使いであるルードウィヒの存在に初めは戸惑いを見せるが、おそらく、ルードウィヒよりも長く生きている二人は、ジークベルトに対するようにルードウィヒにも小言を漏らし始めた。それに対して、ルードウィヒは饒舌戦を繰り広げる。
なんだか、つい先ほどまでの緊迫した空気が嘘のような状況に和みかけるが、ふわぁ~とティアナの胸元からほの白い光が飛び出し、ルードウィヒに近づいていく。
光の球から透ける人型に姿を変た光の王は、顔いっぱいに涙を流して訴え始めた。
その姿はあまりに儚く、顔を濡らす涙さえ光り輝き美しい。
「息子よ、どれほど心配したことか……よく無事でした」
その姿は子供を心配する父親の姿だったが、でもちょっと情けなくも見えてしまい、ティアナは苦笑する。
「だいたい、お前は昔から無理をしすぎなのです。もっと――」
ジーナに負けず、お説教が始まってしまった光の王に対して、それまで尊大な態度だったルードウィヒもさすがに、頭が上がらないようだった。その表情は慈愛に満ち、尊敬する父に怒られる子供のようだった。
「とにかく、本当に無事でよかったです……」
「あなたこそ、勝手に消えるとかやめてくださいよね」
「消えたわけではない、ただ力の回復を図るために休んでいただけです」
苦々しい言い訳をした光の王に、ルードウィヒは嘆息する。
「まあ、そういうことにしておいてもいいですけど」
「そんなことよりも、お前は単独行動を慎みなさい。どれだけ皆さんに迷惑をかけたか……。今後、今回みたいな大失態を引き起こさないように――」
「はいはい、分かってますよ。私だってなんでも一人でできるなんてそんなおごりはありません。だからちゃんと予防線を張っておいたでしょう」
そう言って不敵な笑みをティアナに向けるルードウィヒ。不意に意味深な瞳を投げかけられて、ドギマギしてしまう。
「えっ……」
光の王の視線もティアナに向けられ、ティアナは身じろぐ。
二人の会話は聞こえていたが、突然自分を見られて戸惑わずにはいられない。
わずかに目を眇めたルードウィヒは、それまでいた場所からまっすぐにティアナの方へ歩いてくる。
そんなに離れたいたわけではないが、改めて目の前に立たれると、思わず萎縮しそうになる。そんな心を叱咤し、警戒色を強めるジークベルトをなだめるように視線を向ける。
「…………っ」
ジークベルトはなにか言いたそうにしたが、ルードウィヒに向ける敵意をほんの少し緩め、背を向ける。
側は離れないが、話をするくらいなら許す――
そんな風に背中が語っていて、ティアナは思わず笑みを漏らす。それからルードウィヒに向かい合い、しっかりと、今は翠色の揺れる黒瞳を覗き込む。
すっと動いたルードウィヒの腕がティアナに向かって伸ばされ、ティアナはビクリと肩を震わせる。
「あっ……」
伸ばされた腕は触れる直前に止まり、ティアナの胸元に掌がかざされる。
キラキラと眩しい輝きを放ち、拳ほどの大きさの刻印が浮かび上がり円を描く。だが、その刻印は今までの銀色ではなく、赤い文字が刻まれている。
「契約は交わされた。君がもう私の力を加護を必要しないと思った時、契約は完了だ」
「完了……」
ティアナはただその言葉を反芻する。
不思議そうに眉を寄せるティアナに、ルードウィヒは少し意地悪な笑みを浮かべる。
「ああ、その時こそ、私の長年の願いが叶う時だ」
ルードウィヒの願い――?
ティアナは首をかしげる。
刻印の内容の誤読について説明された時、ニクラウスはルードウィヒが恋人の血をひくティアナを守るために刻印を刻んだのだろうと言ったが、その理由はあまりしっくりこなかった。
七十七年前のたった一日の青年だったルードウィヒとロ国で交わした数回の会話からルードウィヒがそういう人物ではないような気がした。
愛したティルラの血縁の自分を守りたいわけじゃない――
もしかしたら、失われた二人の時間を取り戻したかったんじゃないだろうか――
それがどういう形で得られるものなのか分からないが、ティアナはそのほうがルードウィヒらしいと思った。
ただ、強く、ティルラを愛おしく想うルードウィヒの気持ちが報われるものだといいと願う。
しばらくの沈黙を挟んで、ティアナが口を開けかけた時、ぐらりと辺りの空間が歪み、言い知れぬ悪寒が全身にまとわりついた。
『フフフ、フハハハハ……』




