第36話 魔界へのいざない
「間に合わなかったのか――っ!?」
まだ陽が空に登っている時間だというのに、目の前には山々に囲まれた風の谷の美しい光景はなく、空は漆黒に染まり、湿った風が体にまとわりついて気持ちが悪い。空だけではなく世界全体がまがまがしい気で覆われ、そこにいるだけで悪寒が全身を這い上がってくる。
世界を覆う漆黒がまるで闇の王を思わせて、ティアナは胸に冷たい塊を投げ込まれたように全身が震えて止まらなかった。
ジークベルトの低く掠れた声からだいぶ遅れて、体中の血が引き全身の震えて止まらないティアナの怯えたような小さな声がする。
「一体……なにが起きたの……?」
外に出てきているのはティアナ達だけではなかった。
風の鍵を守る魔法使いと魔女が身を寄せ合い、囁き合う。その恐怖に彩られた瞳を見て、ティアナは悪い予感ばかりが頭をよぎる。
すぐ側にいるジーナもエーリカも、ユリアンもダミアンもその表情は凍りついている。
「ユリアン殿……これは……?」
戸惑いに彩られたジークベルトの声はユリアンに向けられるが、ユリアンも状況を把握できないのか僅かに眉根を寄せて首を振る。
沈黙を破ったのは、ダミアンの静かな声音だった。
「アヤツの気配が完全に消えおった……」
脈絡のない言葉に誰もがなんのことを言っているのか首をかしげる中、ティアナだけはその言葉の意味を正確に察する。
『アヤツの気配がここしばらく前から薄れておるのは、気がかりじゃ……』
ぼそっともらされたダミアンの言葉を聞いていたティアナは、それがルードウィヒのことだと瞬時に理解する。
「消えたとはどういうことですか……!?」
ルードウィヒが消えた……?
それはつまり――最悪の想像をしたティアナの顔は青ざめるが、ティアナの問いにダミアンが答える前に、外に出てきていた魔法使いや魔女のざわめきが一際大きくなる。
それは悲痛な泣き声だったり、狂ったような叫び声だったり。その場にくずおれる者もいた。
異様な様子にぱっとジークベルトを振り仰いだティアナは、ジークベルトが水色の瞳を激しい嵐のように荒れさせて硬い表情で空の一点を見つめているのを見て、息を詰める。
触れたら火傷をするような荒々しく、そして悲しみに濡れた瞳に、なんと言葉をかけたらいいのかわからなくなる。
そっとジークベルトに近づき、爪が掌に食い込むほど強く握りしめられた拳をそっと上から包み込む。
手が触れた瞬間、ジークベルトの肩が大きく跳ね、次いでティアナに向けられた瞳は悲痛な色に濡れていた。
「ジーク……」
一瞬、ジークベルトが泣いているように見えたティアナは労わるような声でそっと名前を呼ぶ。
「光の王の気配が消えてしまった……」
泣きそうに瞳をくしゃくしゃに歪めて言ったジークベルトを、ティアナはまっすぐ見つめる。
気配が消える――先ほど、ダミアンも同じことを言っていた。それがどういう意味なのか分からなかったが、ジークベルトの悲しみに濡れた瞳を見ればその意味は自ずと知れてくる。
光の王の気配が消えた――それは、光の王の力が途絶えたこと。命の灯が燃え尽きてしまったということ。
周りの魔法使いや魔女に視線を向ければ、なくなってしまったものを惜しむように悲しみに暮れる姿。ダミアンは祈るように闇に覆われた空を見つめ、ユリアンは消えてしまった光の王を悔やむように顔を歪め、目頭を押さえてうつむいている。
みな、光の王の気配が消えてしまったこと――闇の王に倒されたことを感じとって、悲しみ、未来を案じ、迫る闇に恐怖を感じている。
魔法使い達がどんなに光の王を愛し、信仰していたのか。その絶大な力に守られていたのか。それを肌で痛いほど感じて、直接は光の王と関わりがないはずのティアナの喉の奥に熱いものがこみあげてくる。
それと同時に、ダミアンの言った言葉の真意を知りたくなる。ダミアンが光の王のことをアヤツというはずがないとわかっていても、はっきりと確かめたいと思ってしまう。
不安と僅かな希望、だけど胸に渦巻くのは怖い想像ばかりで怖い。それでも、ここで立ち止まるわけにはいかないと心の中でなにかが激しく駆り立てる。
それを後押しするように、包んでいたはずの手がいつのまにかジークベルトに強く握り返される。
うつむいて顔を上げたそこには、決意に満ちた翠の瞳。先ほどまでここにあった、優しい風に揺れる緑を映す瞳をダミアンに向け、確かな足取りでダミアンに近づく。
「ダミアン様、教えてください。……ルードウィヒの気配が消えたとはどういうことですか?」
声をかけてきたティアナをダミアンはちらりと見、それから白髪交じりの顎鬚を数回撫でて、小さな吐息とともに言う。
「消えおったんじゃ――人間界からな」
返答を息をのんで待っていたティアナはその言葉に首をかしげる。
そうにも、魔法使いたちは話を濁して話すのが好みのようでティアナにはその言葉だけですべてを理解することはできない。だが、わからないことは聞けばいい。そう亡き国守の魔女に教えれたティアナは臆すことなく質問をぶつける。
「それはつまり人間界にはいないけど」
「魔界にいるってことですか?」
ティアナの質問をジークベルトがせかすように掠め取る。
「ああ、僅かだが気配はある。普通の人間なら魔界に長くはいられないが、アヤツは混血の魔法使い、そう簡単にはくたばるまい」
後半は、ちゃかすように言ったダミアンの言葉に、ティアナは複雑な表情で見つめ返す。
絶大な魔力を持つ光の王でさえ命が尽きてしまったと知った後に、ダミアンの言葉をうのみにすることはできないが、ティアナを気遣って言ってくれたダミアンの優しさを感じて、その言葉を否定することはしない。
大変お待たせいたしました<m(__)m>




