第35話 災いの招待状
代わり映えのない日々、あまりにも長く、退屈な時間を過ごしていたルードウィヒは霞む思考に頭を振って、手元に引き寄せた小さな鉢にはぜる炎を覗きこむ。
何かを守るためには何かを捨てなければならなくて――
何かを失くしたために何かが壊れていき――
大事なものを守るために大事なものを切り捨てた――
直前まで見ていた夢のあまりにも曖昧な内容に、ルードウィヒは酷薄な笑みを口元に浮かべる。
何の夢だったのか思い出すことはできないが、思い出す必要もないだろうと思う。
とても大事なことを思い出しかけた気もするが、すべてのことに対して無関心に過ごしてきたルードウィヒの心を動かす程ではなかった。
バノーファの砦の森に移り住み、尋ねる者もなくなってからどのくらいの年月が過ぎたのかさえ分からない。世間から忘れ去られた存在の魔法使いは、ただ投げやりに日々を過ごし、時折、炎で外の様子をうかがう。
なにか退屈しのぎになるものはないか、と――
手を翳しては移り変わる光景の中に、見慣れた室内を見つけてルードウィヒの陰った黒い瞳に緑の光彩がくるりと差し込む。
いつもだったら気に止めることもないが、なぜか胸が撫でつけられたようにざわつく。
炎に映る景色は何十年か前に暮らしていた城の一室。そこで三十代半ばの女性と十七、八の青年がソファーに座り何かを話している。女性は泣き崩れ、青年は困り果てたように嘆く。
それはほんの気まぐれ。何を話しているのか興味を惹かれ、火のはぜる音と共に炎の中に姿を消していた。
※
「舞踏会なんて、出たくないな……」
ソファーにどっさりと座りこみ、ため息交じりに青年がもらした声に、ルードウィヒは皮肉気な笑みを浮かべる。
ここ数年外に出ようとすら思いもしなかったのに、なぜか惹かれるまま炎を通ってドルデスハンテの王城の一室へと姿を現していた。
「ならば、舞踏会に出ないで済むようにして差し上げようか?」
窓の横に掛けられた灯火から姿を現したルードウィヒ体をまとうように煙が上がる。魔法で移動するのが久しぶりだったせいか、いつもは上がらない煙にルードウィヒはわずかに眉をひそめる。
「あなたは……?」
身を預けていたソファーから上体を起こし、警戒心をあらわに青年はルードウィヒを睨みつける。その視線に気づきながらも、気にした様子もなく、ルードウィヒはぐるりと室内を見回し、やはり見覚えがあると思ったのは間違いではなかった。
ほとんどのことに興味などなくとも、目の前で自分をねめつける青年が誰なのかくらいの情報は持っていた。
ドルデスハンテ国第一王子、レオンハルト・エルヴィン・ドルデスハンテ。
どこかの王子とそっくりな鮮やかな銀髪だが、その瞳は澄んだ空の青。
野心のたぎる危うい光がちらりとも見えず、なぜだか安堵する。
だが、そんな感情は表には出さず、ルードウィヒは肩を落として呆れたような吐息をもらす。
「そう警戒しないで下さい。私は、レオンハルト王子のお味方ですぞ?」
「なぜ、そう言い切れる? 初めて会う人間の言葉を信用しろというのか?」
「ふむ、確かに初対面であったな」
顎に手を当てながら、ルードウィヒは目の前の王子を中々面白いと思う。
物事を見極める空色の瞳、思慮深い性格。どこかの王子を思わせるようで違う、正義感にあふれた瞳に、くっと瞳を緑にきらめかせたルードウィヒは優雅な仕草で一礼する。
「私の名はルードウィヒ。“森の魔法使い”と言えば、分かるかな? 最近の者は私の事をそう呼んでいるようだが、できればルードウィヒと呼んで頂きたい」
「やはり、森の魔法使いだったか……」
「王子もご存じとは、私もそれなりに有名な様だ」
「森の魔法使いが、私に何の用だ?」
「王子の望みを叶えて差し上げようと思ってね」
「そう言われて、私が“お願いします”とでも言うと思っているのか?」
強い口調で言うレオンハルトに、ルードウィヒは首をかしげる。
「なぜかね? 舞踏会に出たくないと言っていたではないか。私ならば、舞踏会に出ないで済むようにすることなど簡単なこと」
そう言ってルードウィヒは、底の見えない黒い瞳をきらめかせ、不敵な笑みを浮かべる。
「魔法使いに願いを叶えてもらう時は、必ずその代価を求められる――と、聞いたことがある。是といえば、あなたは何か私に代価を求めるはずだ、違うのか?」
「ふふ、聡明な銀の王子。よくご存じで。しかし、私はそんな無粋なことは言わんよ。私は無類の面白がりでね、退屈を凌げる楽しいことがあるのなら、見返りなど求めずに力を貸すさ。今、私が興味を惹かれているのは言うまでもない――花嫁探しの舞踏会に王子がいなければどうなるか?――だ。だから、否とは言わせないよ」
レオンハルトの口が動くよりも先に、ルードウィヒはパチンと指を鳴らす。
途端にソファーから立ち上がろうとした王子の側で火花が散り、どんどん人の姿から縮んでいく様子を視界の端で確かめたルードウィヒは、酷薄な笑みを浮かべて炎の中へと消えて行った。
※
バタンっ、と扉を勢いよく閉めて、ルードウィヒは肩で荒い呼吸を繰り返す。
走馬灯のように、失った故国、愛する者、ドルデスハンテの王城で過ごした日々、ニクラウスと交わした最後の言葉を思い出し――それと同時に、ゾロリと背後から黒い影が忍び寄ってくる。振り返っても、そこにはいつもと変わらない薄暗い闇があるだけなのに、そこからクスクスと薄笑いが聞こえてくる気がする。
ずっと、胸の中から閉めだしていた熱い思いがめぐり始め、闇に囚われていく感覚に、嫌な汗が額ににじんで、それを乱雑にぬぐう。
ほんの気まぐれ――
そのせいで、またしても運命が狂い出す。
ドルデスハンテの王子にかけた魔法、そこには恨みや憎しみの感情があった。直系でもないし、レオンハルト自身に恨みがあったわけではない。遠い昔、故国を滅ぼした王族の血筋というだけで……
閉めだしたはずの反逆の炎がジリジリと音を立ててルードウィヒの中で燃え上がる。そのことに、闇の王が気づいていないわけがない。
闇の中、魔界のどこかで、優美でそのくせ畏怖の念を与える闇の様な笑顔でルードウィヒが闇に染まることを期待して見ている。
闇の王が何を望んでいるのか――
そのことに薄々気づき、利用されようとしている己の存在にも気づいていた。だからこそ、愛しい面影を意識的に外に閉めだし、闇を拒絶した。それなのに悪戯に魔法を使い憎しみの感情を思い出し、闇の王に付け入る隙を与えてしまった。そのことに気づいても、いまさら手遅れだろうか……
闇の王は、このままルードウィヒが闇に堕ちていくのを、じっと待っている。
そうなってはいけないと、思い通りにさせてはいけないと、最後の警鐘が鳴り響く。
どうすればいいのか悩みもがき、それでも思い出してしまった愛しい姿を、もう忘れることはできなくて――
ティルラが愛した世界を守るために、まだ自分にできることがあるはずだと言い聞かせ、ルードウィヒはここしばらく使っていなかった頭を最大限に稼働させ――
世界終焉伝説、闇の王の望み、世界を救う手だてがあることを思い出し――
そんな時、ルードウィヒの目の前に現れたのは、南の小国の姫。
風になびく髪は美しい採光を放つ銀色、鮮やかな翠の瞳、形のよい唇や透ける肌さえも、そこにティルラ本人がいるような生き写しの少女にルードウィヒは気づかれないように吐息をもらす。
ティルラの子が娘を産み、またその子が娘を産み、そのまた娘が生まれ――ティアナの存在は知っていたが、会おうとは思わなかった。愛した人の血を受け継ぎし子、けれどもその血には自分以外の男の血が混ざっていることが恨めしく、血をひこうとそれはティルラではない。子など見れば、ティルラの死を思い知って絶望するだけだ。
だが――
強い意志を宿した瞳。ひたむきさ、誰かのために動く強さ――
目をそむけたくなるほど眩しい瞳がどうしようもなくティルラを思い起こさせて、この娘に賭けてみようと思った。
それにティルラの血をひくのならば、この娘は――……
自分の思考に囚われていたルードウィヒは、陰る瞳を目の前の少女へと向ける。
「……面白いことを言う娘だ。よかろう、ならば取引といこうではないか」
ルードウィヒは自身の考えを読みとられないようにくつくつと不敵な笑みを浮かべ、めまぐるしく思考を回転させる。
「ルードウィヒ、やめろっ! 彼女に手を出すなっ!」
全身の銀色の毛並みを逆立てて尻尾を震わすレオンハルトの叫びに、ルードウィヒは口の端を僅かに歪めて笑う。
「そう焦るでない。この娘には手は出さぬさ。ただ……徴をつけさせてもらうだけだ」
言うと同時に、短く詠唱したルードウィヒの漆黒の瞳が妖しく光り、ティアナの胸元が一瞬、紅蓮に輝く。
レオンハルトにかけた魔法を解く代価にティアナの銀髪を貰い受け、そのついでのように刻印を刻み、そこに真実を隠す。
自分の犯した罪と、守れなかった者への恋慕。
すべてを丸く収める方法、闇から世界を救う一手――
たとえ自分が悪者になろうと守るべきものが目の前にあれば、ルードウィヒは今度こそ目を背けずに向き合うと決めていた。
※
魔王の血をひき、他の魔法使いよりも強大な魔力を持つルードウィヒには、時折、夢のように未来の映像が頭によぎる。
それが必ず来る未来とは限らないが、先を読む力をこれまではうっとおしく思っていたルードウィヒも、今はその力を有効に使うことすら厭わない。
胸に徴をつけられ、ドルデスハンテ国の王城へと向かうティアナの姿を炎の奥に見送り――
ティアナとレオンハルトが王城の西の丘に向かうのを知り、ちょっとした魔法のしかけで時空の裂け目を出現させ――
ロ国の王宮にいるティアナの元に姿を現しては、それとなくティルラの形見を探すように仕向ける。
もう少しですべてが上手くいく。そう思った時、ルードウィヒは胸に感じる痛みに眉根を寄せ、忌々しげに舌打ちする。
ティアナの姿を映していた炎がバチバチと苛立たしげな音を立てながら燃え尽きる。
「くそっ……」
世界の宝珠の半分が揃った、それなのに。
今まで気づいていながら、気づかないふりをしていた。自身の力が弱まってきていることを、認めざるを得なくなる。
近頃、詠唱せずに意のまま操れていた魔法が思うように使えない。十八番の炎さえ、上手く操れない。
世界終焉伝説の通り、世界に危機が迫っている。
それはつまり、光の王が弱まっている証拠――
またしてもここぞという時に役立たない自分の存在に苛立ち、胸に走る激痛に床に崩れ落ちたルードウィヒは険しい表情でなにかを呟き、服の上から胸元を強くかきむしる。
苦しげに上げた視線の先、闇から流れ出た漆黒の青年の真っ赤な口端が忌々しげにつり上がるのを、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞って睨みつけた。




