第9話 義元、尾張で孤立す
豪雨の桶狭間に、再び織田の奇襲が突き刺さった。
だが、前回の無謀な特攻とは違う。黒い眼帯をつけた信長の狙いは、今川義元の首そのものではなく、本隊に随伴していた僅かな「荷駄隊」であった。
「食料を奪え!」
ただでさえ飢えと疲労で限界に達していた今川軍は、完全に戦意を喪失した。
「引けッ! 深追いするな、風のごとく散れ!」
信長は、義元の輿まであと一歩というところで、あっさりと馬首を返した。
怒号と悲鳴が飛び交う中、織田の軍勢は泥濘を蹴立てて、山林の奥へと鮮やかに消え去っていく。
「追え! 織田の鼠どもを逃がすなッ!」
輿から這い出た義元が叫ぶ。
しかし、誰も動けなかった。将兵たちは空腹で膝を突き、雨に打たれて震えている。数万を誇った大軍は、もはやただの飢えた群れに成り下がっていた。
◇◆◇
それからの数日間は、今川にとって地獄であった。
信長は決して大規模な決戦を挑んでこない。その代わり、夜襲、落とし穴、伏兵といった小さな嫌がらせを、執拗に繰り返した。
さらに恐ろしいのは、尾張の民の反抗である。
「今川の連中だ! 信長様がタダにしてくれた商売の邪魔をする奴らは、俺たちが追い出してやる!」
街道を歩く今川の敗残兵に、農民や商人たちが容赦なく竹槍を突き、石を投げつける。
信長によって「税の免除」という恩恵を受けた民衆は、自分の生活を守るために、自発的に今川軍へと牙を剥いたのだ。
「……殿。もはや、軍としての体をなしておりませぬ。三河の松平に続き、遠江の国衆たちも、勝手に陣を払い、国へ逃げ帰っております」
泥だらけの陣幕の中で、家臣が絶望的な声を絞り出す。
義元は、白塗りの顔を歪め、何も言えなかった。
圧倒的な兵力で尾張に居座り、勝っているはずだった。
なのに、兵は逃げ、同盟は崩れ、民衆からは石を投げられる。
(これが、あの小童の狙いか……! 大軍の力など、米一つ、銭一つでこうも容易く崩れ去るというのか!)
義元は、自身の誇りであった「海道一の弓取り」という称号が、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。彼は、広大な尾張の真ん中で、完全に孤立したのだ。
◇◆◇
一方、清洲城。
信長は縁側に腰を下ろし、からりと晴れ渡った空を見上げていた。
「殿、今川の陣はもはや死に体です。義元の本隊は千を切ったとか。ここらで一気に止めを刺しては?」
柴田勝家が、興奮気味に進言する。
しかし、信長は黒い眼帯の奥にある右目で、静かに首を振った。
「権六。手負いの獣を無理に狩れば、こちらも無傷では済まん。それに……俺はもう、刀で血を洗うような真似は好かんのだ」
信長は傍らに控えていた木下藤吉郎に視線を向けた。
「猿。……仕上げの時だ。今川義元に、使者を立てろ」
「使者、でございますか? 降伏勧告でしょうか」
「いや。……『買い取り』の交渉だ」
信長は、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「義元は今、尾張という巨大な檻に閉じ込められた哀れな囚人だ。奴の命と引き換えに、今川の持つものを全て吐き出させる。……それが、俺の戦だ」
大軍を率いて正面から叩き潰す「英雄」の戦い方は、桶狭間で捨てた。
負けた信長が選んだのは、敵の誇りも、財も、未来も、全てを算盤に乗せて奪い尽くす道である。
いよいよ、天下の行方を決める最後の交渉が始まろうとしていた。




