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ワシ、桶狭間で負けたんだがや~それでも成り上がる・信長~  作者: 塩野さち


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第8話 桶狭間の敗者、桶狭間を使う

 松平元康の離反と独立は、今川軍に大きな衝撃を与えた。

 尾張東部に打ち込まれた楔が抜けたことで、今川の陣立てには巨大な穴が空き、そこから織田の経済封鎖の冷気が、容赦なく本隊へとしみ込み始めていた。


「……腹が、減っては戦はできぬ」


 鳴海城に駐屯する今川の将兵たちの間には、士気の低下というよりも、生存への危機感が漂っていた。信長が買収した商人たちにより、尾張領内の米は全てかき集められ、今川軍への補給は完全に止まっていたのだ。


◇◆◇


 知多半島の今川本陣。

 義元は、白塗りの顔をさらに青白くさせ、地図を睨みつけていた。


「ええい、織田の小細工め……! 元康が抜けた穴を埋めるべく、兵を動かせ!」


「はっ! しかし、兵糧の蓄えが……。あと三日もすれば、馬の草すら底を突きまする!」


 重臣の報告に、義元は歯噛みした。

海道一の弓取りと称された大軍が、刀を交える前に、飢えによって自壊しようとしている。


(……信長。武力なき小国が、銭と米でこの余を追い詰めるとは)


 義元は、肩の古傷に触れた。浅い傷だったが、時折、あの日――桶狭間の雷雨の中で見た、狂気の沙汰の信長の目が、幻影となって蘇る。


「……全軍、清洲へ向けて進軍せよ!」


 義元は、絞り出すように命じた。


「補給が続かぬのなら、一気に清洲城を落とし、織田の蔵にある米を奪うまで! これよりは速攻あるのみ!」


 それは、冷静な戦略に基づくものではなく、飢えに追い詰められた末の、乾坤一擲の勝負であった。


◇◆◇


 同じ頃。

 清洲城の軍議の間では、信長が黒い眼帯を指先で弄びながら、ニヤリと笑っていた。


「殿! 今川義元、本隊を動かし、清洲へ向けて総攻撃を開始いたしました! その数、およそ二万!」


 伝令の報告に、柴田勝家が立ち上がる。


「来たかッ! 者共、城門を固めろ! 一歩も引くな!」


「待て、権六」


 信長が勝家を制した。


「正面からぶつかって、勝てると思うか?」


「……しかし、城に立て籠もれば、今川は大軍。いずれは落とされましょう」


「立て籠もらぬ」


 信長は立ち上がり、地図の一点を指差した。

 そこは、かつて自分が大敗を喫した場所――田楽狭間、すなわち『桶狭間』であった。


「猿。……貴様に命じておいた、噂流しの件はどうなっている?」


 部屋の隅に控えていた藤吉郎が、猿のように身を乗り出した。


「へいッ! 抜かりなく! 『信長は桶狭間で左目を失い、恐怖で正気を失っている』『清洲城の蔵を空にして、美濃へ逃げる準備をしている』……。尾張中、そして今川の陣へも、この猿が触れ回っておきましただ!」


 信長は、歪んだ視界の先、地図の上の桶狭間を見つめた。


「義元は飢えている。飢えは焦りを生み、焦りは油断を招く。……奴は、俺が怯えて城に引きこもっていると信じ、最短距離で清洲を目指すだろう。……かつて俺がやったように、な」


 信長の右目が、不気味に輝いた。


「俺は桶狭間の敗者だ。……だがな義元。敗者は敗者なりに、その場所の『怖さ』を誰よりも知っているのだよ」


◇◆◇


 永禄三年六月。

 再び、尾張に雷雨が訪れた。あの日と同じ、天地を裂くような豪雨である。


 清洲へ向けて急行する今川の本隊は、泥濘に足を取られ、列が長く伸び切っていた。兵糧不足による疲労も重なり、大軍の移動は鈍い。


「殿、豪雨により視界が悪うございます! 少し行軍を緩めては……」


「馬鹿め! 雨こそ好機! 織田の鼠どもが震えている隙に、清洲へ突っ込むのだ!」


 輿の中から義元が怒鳴る。

 彼の頭の中は、清洲城にある米のことでいっぱいであった。


 今川軍が、山あいの狭い道、桶狭間へと差し掛かった時である。


「……?」


 義元は、雨音に混じって、奇妙な音が聞こえるのに気づいた。

 それは、雷鳴ではない。……数千の人間が、一斉に泥を蹴る音。


「う、わあああッ! 敵襲! 敵襲だッ!」


 前方の部隊から、悲鳴が上がった。


「馬鹿な……! 織田は清洲にいるはず……!」


 義元が輿から顔を出した瞬間。

 雨のカーテンを突き破り、黒い眼帯をつけた武者が、愛馬を駆って突進してきた。


「今川義元ッ! 桶狭間の敗者、織田信長……! 貴様の首を貰い受けるッ!」


 信長の咆哮が、雷鳴と共に、今川軍の飢えた心に突き刺さった。



 あの日、信長を破った桶狭間の地形と雷雨。

 それを今度は信長が、今川義元を葬り去るための、巨大な罠として利用したのだ。


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