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ワシ、桶狭間で負けたんだがや~それでも成り上がる・信長~  作者: 塩野さち


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第7話 今川の楔、松平を外す

 大高城の空気は、どんよりと澱んでいた。

 今川軍の最前線として、尾張の奥深くに楔を打ち込んでいるこの城だが、守将である松平元康(まつだいらもとやす)の顔に生気はない。


「……殿。本陣からの兵糧が、今日も届きませぬ」


 家臣の悲痛な報告に、元康は重いため息を吐いた。

 織田信長が尾張中の米を商人に買い占めさせた影響は、真っ先に最前線の三河兵たちを直撃していたのだ。


(義元公は、我ら三河の者を捨て駒としか見ておられぬのか……)


 桶狭間の戦いでは先陣を切って武功を立てた。しかし、信長が奇襲に失敗し、義元が尾張に居座ることを決めてからというもの、汚れ役ばかりを押し付けられている。


◇◆◇


 その夜。

 元康の私室に、音もなく忍び込んだ影があった。


「曲者ッ!」


 元康が刀に手をかけた瞬間、その影――泥だらけの小男は、床に平伏して書状を差し出した。


「お待ちくだされ! わしは織田信長様より使いを申し付かった、木下藤吉郎にございます!」


「信長の使いだと?」


 元康は警戒を解かずに、藤吉郎が差し出した書状を受け取った。

 そこには、信長自身の筆で、恐るべき提案が記されていた。


『三河の犬よ。飢えて死ぬか、鎖を引きちぎって故郷へ帰るか、どちらかを選べ』


 元康は息を呑んだ。


『俺は今、尾張の経済を首の皮一枚で締め上げている。今川の本隊ですら悲鳴を上げているのだ、最前線の貴様らが助かる道理はない。だが、もし貴様が今川を裏切り、三河で独立を宣言するなら……俺は決してその後ろから斬りかからん』


 それは、今川という巨大な呪縛から抜け出すための、千載一遇の「出口」の提示であった。


「信長殿は……我らを尾張から逃がすと言うのか」


「逃がすのではありませぬ。独立した一つの国として、対等な盟約を結びたいと仰っているのです」


 藤吉郎の目は、真剣そのものだった。

 元康の手が震える。幼い頃から人質として今川に飼い殺され、三河の民は重税と労役に苦しめられてきた。独立は、元康にとって悲願である。


(だが、義元公の怒りを買えば、三河は火の海になる……!)


 葛藤する元康の心を読んだように、藤吉郎がニヤリと笑った。


「ご案じなされるな。今川の矛先は、全て我が主君である信長様が引き受けまする。殿は『義元は俺が尾張に釘付けにする』と」


 元康は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

 そして、目を見開くと、今川から与えられた陣羽織を乱暴に脱ぎ捨てた。


「……全軍に触れを出せ。これより我らは大高城を捨て、故郷である三河、岡崎へと帰還する!」


◇◆◇


「何だと!? 松平が城を空にして逃げただと!?」


 数日後。知多半島に陣を構える今川本陣に、義元の怒号が響き渡った。

 常に冷静沈着であった義元の白塗りの顔が、怒りで朱に染まっている。


「は、はい! 夜陰に乗じて見事に姿を消し……今頃は三河の国境を越えているかと!」


「ええい、忌々しい三河の犬め! 恩知らずが!」


 ガシャン、と。

 義元は手元の盃を床に叩きつけた。

 尾張制圧のための最も重要な楔であった松平軍が抜けたことで、今川の陣立ては大きく崩れ去ったのだ。しかも、兵糧不足で士気は下がる一方である。


「……織田信長。あの小童、武では勝てぬと悟り、盤面を裏から崩しおったか」


 義元はギリッと歯を食いしばり、尾張の中心、清洲の空を睨みつけた。


 同じ空の下。

 清洲城の縁側で、信長は一人、新しく設えた黒い眼帯に触れていた。白く濁った左目を隠すためのものだ。


「柱が一本抜ければ、どんな大屋根も傾く。……さあ義元、次はどう出る」


 残された右目は、崩れゆく今川という巨城を、静かに、そして楽しげに見つめていた。


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