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ワシ、桶狭間で負けたんだがや~それでも成り上がる・信長~  作者: 塩野さち


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第6話 美濃から来た手紙

 翌朝、清洲城の大広間は異様な空気に包まれていた。

 上座には、背中の傷を庇うように座る織田信長。その左目は白く濁り、もはや光を映していない。


「……」


 下座に平伏しているのは、謀反を企てた林秀貞と弟の信勝であった。

 彼らの周囲には、誰一人として味方はいない。信長が商人の情報網を使って彼らの企みを完全に暴露したことで、清洲の武士たちは一斉に距離を置いたのだ。


「秀貞。そして信勝」


 信長の静かな声が響く。


「腹を斬れとは言わん。だが、今日から貴様らに従う兵も、与える禄もない。この城の片隅で、ただ息を吸って吐く虫として生きよ」


 それは、死よりも重い社会的抹殺だった。

 かつての重臣と次期当主候補が、声を震わせて泣き崩れる。信長は残った右目でそれを冷酷に見下ろし、ふいと顔を背けた。


◇◆◇


 内乱という苦難を「孤立」という形で潰した日の昼下がり。

 信長の私室に、正室の濃姫が静かに足を踏み入れた。


「殿。私の故郷、美濃から面白いものが届きました」


 彼女の白い手には、一通の書状が握られている。


「美濃からだと? 斎藤の義龍か、それとも跡継ぎの龍興か。どちらにせよ、手負いの織田を食い殺すという宣戦布告だろう」


 信長は背中の痛みに顔をしかめながら、書状を受け取った。

 しかし、差出人の名を見て、わずかに眉を動かす。


竹中半兵衛(たけなかはんべえ)……? 斎藤家の家臣か)


 書状を開き、視線を滑らせる。

 そこには、宣戦布告などではなく、驚くべき内容が美しい筆致で記されていた。


『今川義元公は確かに強大ですが、尾張の米を買い占められ、足止めを食らっているご様子。武力ではなく算術で大軍を縛るその手腕、見事の一言に尽きます。桶狭間の敗者は、ただの負け犬ではないようですな』


「……ほう」


 信長の右目に、鋭い光が宿る。

 尾張で行っている経済封鎖の真意を、隣国の一家臣が完全に見抜いていたのだ。


「帰蝶。この半兵衛という男、何者だ?」


「美濃随一の知恵者でございます。表舞台には出たがりませんが、その眼力は底が知れません。……どうやら、今川義元よりも殿に興味を持ったようですね」


 濃姫が艶やかに微笑む。

 信長はさらに手紙の続きを読んだ。


『我が主君は尾張侵攻を目論んでおりますが、私が止めておきました。条件があります。織田は今後、決して美濃へ兵を向けないこと。その代わり、美濃も織田の背中は突きませぬ。共に、敵の敵になりましょう』


 それは、不可侵条約の提案であった。

 もし美濃が背後から攻めてくれば、いくら信長でも防ぎきれない。だが、この半兵衛という男は、織田と今川をぶつけ合わせることで、美濃の安全を確保しようとしているのだ。


(……食えない男だ。だが、今の俺にとってこれほど好都合な取引はない)


 信長は、手紙を持ったまま低く笑い始めた。


「くくっ……あーははははッ! よいぞ、美濃の青二才め。俺の算盤に乗ってくるというのなら、歓迎してやる」


◇◆◇


 その日の夕刻。

 信長は木下藤吉郎を部屋に呼びつけた。


「猿。美濃へ行け。竹中半兵衛という男に、俺からの返書を届けるのだ」


「へはッ! かしこまりました! ……して、書状には何と?」


「『美濃には指一本触れん。その代わり、今川の首を獲るための知恵を貸せ』とな」


 信長は、白く濁った左目を手で覆いながら、ニヤリと笑った。


「これで三重苦のうち、内乱と美濃は片付いた。……残るは一つ、尾張に居座る巨大な公家野郎だけだ」


 武力ではなく、情報と交渉。

 新しい戦のやり方を手に入れた信長は、いよいよ今川義元への反撃を開始しようとしていた。


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