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ワシ、桶狭間で負けたんだがや~それでも成り上がる・信長~  作者: 塩野さち


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第5話 裏切りの夜、清洲燃ゆ

 その夜、清洲城は不気味なほど静まり返っていた。

 新月の闇が城全体を包み込み、時折、見回りの足軽が持つ松明の光が、石垣を赤く舐めるだけである。


 信長は奥の間で、独り、行灯の光を頼りに書状を検分していた。

 左目の包帯はまだ取れていない。鈍い痛みが、こめかみの辺りで脈打っている。


(……来るなら、今夜か)


 昼間、猿(藤吉郎)がもたらした商人の情報網によれば、林秀貞らの不穏な動きが、極限に達しているという。

「信長を廃し、弟の信勝様を立てる」――その大義名分のもと、彼らは今夜、行動を起こす手筈であった。


 その時。

 城の北側、宿直の武士たちが詰める辺りから、微かに金属が擦れる音が聞こえた。

 続いて、短い悲鳴。


「……フン、案外早かったな」


 信長は書状を置き、傍らに立てかけてあった愛刀、左文字(さもんじ)を手に取った。

 襖の向こうから、ドタドタと複数の足音が近づいてくる。


「殿ッ! 謀反にございます! 林秀貞、林通具らが兵を率いて奥へ!」


 小姓の森蘭丸が、血相を変えて飛び込んできた。

 信長は、蘭丸の慌てようを他所に、ゆっくりと立ち上がる。


「蘭丸、落ち着け。……奴らはどこだ?」


「す、すでに、中庭を抜け、この上の間まで迫っております!」


◇◆◇


 次の瞬間、奥の間の襖が、乱暴に蹴破られた。


「織田の『うつけ』め! 覚悟いたせ!」


 林通具を先頭に、十数人の武装した武士たちが、抜き身の刀を手に雪崩れ込んできた。彼らの目は、逆賊の汚名を被ってでも主君を討つという、狂気じみた決意に満ちていた。


「通具……貴様、兄の秀貞に唆されたか」


 信長は、左文字を鞘から払い、右目で敵を睨み据えた。


「黙れ! お主のせいで織田家は滅びる! 我らが、お家を救うのだ!」


 通具が叫び、斬りかかってくる。

 信長は、左文字の腹で通具の刀を受け流し、そのまま鋭い蹴りを叩き込んだ。


 ドサリと通具が倒れ込む。

 しかし、残りの武士たちが一斉に襲いかかった。


 狭い室内での乱戦。

 信長は、数人の攻撃を凌いだが、背後から迫る刃に気づくのが一瞬遅れた。

 左側の視界がないという致命的な弱点が、ここぞという場面で顔を出したのだ。


「あっ……!」


 背中を浅く切り裂かれる。

 激痛と共に、視界が一瞬、白く染まった。

 無理な体勢で刀を受け続けたことで、左目の傷口からも血が滲み出し、包帯を赤く染めていく。


(……チッ、左が……見えぬ……!)


 信長は、膝をつきそうになるのを、精神力だけで堪えた。

 後遺症の種が、この夜、深く植え付けられた瞬間であった。


◇◆◇


 その時。

 部屋の外から、怒号と地鳴りのような足音が響き渡った。


「者共、出会えッ! 逆賊を一人残らず捕らえろッ!」


 柴田勝家の声だ。

 襖が次々と開け放たれ、勝家率いる織田家の本隊が、中庭から奥の間へと流れ込んできた。


「な、何だと……!? 柴田は、我らに味方するはずでは……!」


 通具が、驚愕の声を上げる。

 清洲派が、自分たちの味方だと信じていた勝家が、信長の側についていたのだ。


 勝家の軍勢に包囲され、林通具らは抵抗する術もなく、その場に組み伏せられた。


 静寂が戻った奥の間。

 血を流し、息を切らす信長の前に、勝家が平伏した。


「殿、遅くなり申し訳ございませぬ。林秀貞以下、首謀者たちは全て拘束いたしました」


「……うむ。上出来だ、権六(勝家)」


 信長は、蘭丸に背中の手当てをさせながら、捕らえられた通具を見下ろした。

 その瞳には、怒りよりも、冷ややかな嘲笑が浮かんでいる。


「通具。……貴様らは、柴田が貴様らに味方すると信じていたようだが、それは大きな間違いだ」


 信長は、床に転がっていた一枚の書状を拾い上げ、通具の前に投げつけた。


「これは、貴様らが『猿』の情報網を通じて、柴田へ送ろうとした密書だ。……貴様らの計画は、初めから俺の手の平の上だったのだよ」


「な……!? 馬鹿な……!」


 通具は、絶望の表情で崩れ落ちた。

 彼らが、武士の誇りをかけて進めていた計画は、信長が張り巡らせた「商人の情報網」によって、筒抜けだったのだ。


「柴田。……こいつらを討つのは、易い。だが、それでは面白くない」


 信長は、左目の包帯を乱暴に剥ぎ取った。

 傷口は塞がっているが、その目は濁り、焦点が合っていない。


「林秀貞、通具。……そして、裏で糸を引いていた信勝。奴らを、明朝、家臣団の前で、徹底的に恥をかかせてやる。……殺すよりも残酷な、孤立という刑罰をな」


 信長の、歪んだ視界の先。

 夜明け前の清洲城が、静かに燃え上がっているように見えた。それは、新しい織田家の産声でもあり、去り行く武士たちの、哀れな葬列でもあった。


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