第4話 うつけの帳簿
清洲城の城下町は、異様な活気に包まれていた。
本来であれば、今川の大軍が迫り、戦々恐々としているはずの時期である。しかし、町人たちの顔には悲壮感よりも、困惑と期待が入り混じっていた。
「……本当か? 本当に、津島の関所を通るのに一文も払わなくていいのか?」
「ああ。信長様のお触れだ。それだけじゃねえ。市を開く場所代も、当面はタダにするってよ」
商人の一人が、信長の名が記された高札を指差す。
戦の真っ最中に税を免除するなど、正気の沙汰ではない。家臣たちは皆、「殿は負けたショックで、いよいよ本物の馬鹿になった」と嘆き、あるいは嘲笑っていた。
◇◆◇
その頃、信長は清洲城の一室で、大量の木簡を前に算盤を弾いていた。
左目の包帯が、時折チリリと痛む。右目だけで数字を追う作業は、想像以上に過酷だった。
「殿、熱田の豪商たちが参りました。……皆、顔を引き攣らせておりますぞ」
藤吉郎が、戸口から顔を出す。
信長は顔を上げず、淡々と答えた。
「通せ。奴らの『欲』の重さを測ってやる」
部屋に入ってきたのは、尾張の経済を牛耳る数人の重鎮たちであった。彼らは平伏しながらも、その目は鋭く信長を値踏みしている。
「信長様。関所を廃止するとは、一体どのようなお考えで? 我ら商人に便宜を図ってくださるのは有り難いが、織田家の蓄えが底を突くのではございませぬか?」
代表格の商人が、探るように問いかけた。
信長は算盤を置き、ニヤリと口角を上げる。
「底を突く? 馬鹿を申せ。俺は、貴様らの懐にある金を、織田の『兵糧』に書き換えただけだ」
信長は、一枚の図面を広げた。そこには、尾張から三河、美濃へと続く街道の物流ルートが緻密に書き込まれていた。
「関所を無くせば、人は集まる。人は集まれば、物は動き、金が落ちる。俺は税を取らぬ代わりに、貴様らに命じる。……今川の勢力圏にある村々から、米を全て買い占めろ。値段はいくら吊り上げても構わん。その代わり、織田の領内には安く卸せ」
商人の一人が息を呑んだ。
「それは……今川軍の補給を断つということですか?」
「そうだ。戦は刀だけでやるものではない。義元がどれほど数万の兵を抱えていようと、腹が減ればただの動く案山子よ。貴様らには、関所税の何十倍もの利益を約束してやる。その代わり、俺に『米』と『情報』を差し出せ」
商人の目が、欲と驚愕で輝いた。
この男は、負けて正気を失ったのではない。敗北というどん底で、武力に代わる「経済」という刃を研ぎ澄ませていたのだ。
◇◆◇
一方で、信長のこの動きを快く思わない者たちがいた。
清洲派の家臣、林秀貞らである。
「……信長は、商人に媚を売り、武士の誇りを捨てた。もはや、織田家の当主として認めるわけにはいかぬ」
清洲城の片隅、蝋燭の火が揺れる密室で、秀貞が低く呟く。
彼の前には、信長の弟・信勝が、不安げな表情で座っていた。
「林よ……本当に、兄上を討つのだ。……今川が迫っているというのに」
「今川義元公も、話の通じる信勝様であれば、尾張の自治を認めましょう。……今夜です。信長が商人と酒を酌み交わし、油断している隙に、すべてを終わらせます」
暗殺の計画が、着々と進行していた。
信長が「うつけの帳簿」をつけている間に、身内による刃が、その背後に迫っていた。
しかし、信長はそれすらも「計算」の内であった。
「猿。……今夜は、少し騒がしくなるぞ。清洲の膿を、一気に出し切る絶好の機会だ」
信長は、歪んだ視界の先、暗闇に沈む城内を見つめていた。




