第3話 三重苦:今川・内乱・美濃
清洲城の周辺は、もはや戦場の最前線と化していた。
南からは今川義元が、桶狭間の傷を癒やす間もなく尾張を「庭」にせんと、じわじわと軍を進めてきている。
さらに悪いことに、信長の敗北を見た美濃の斎藤軍も、国境付近で不穏な動きを見せていた。
「弱った織田を食うのは今だ」という、ハイエナのような殺気が清洲まで届いている。
そして何より厄介なのは、城内に巣食う「味方」であった。
「殿、今川の先遣隊が知多を制圧いたしました! このままでは数日のうちに熱田が落ちまする!」
伝令の悲鳴のような報告に対し、信長は無造作に握り飯を頬張りながら応えた。
「……そうか。ならば熱田の連中に伝えろ。今すぐ店を畳んで、北へ逃げろとな」
「な、何を仰せですか!? 熱田を見捨てると仰るのか!」
報告に来た家臣が目を見開く。
側近の柴田勝家や林秀貞らも、信長の投げやりな態度に、いよいよ愛想を尽かしかけていた。
◇◆◇
深夜、信長は藤吉郎を伴い、清洲城の蔵へと向かった。
(今川、清洲の反乱分子、そして美濃……。正面からぶつかれば、一刻も持たぬ)
左目の包帯が、疼くように痛む。
信長は蔵の重い扉を開け、そこに積まれたわずかばかりの金銀と、兵糧の記録を眺めた。
「猿。……俺たちが今、一番持っていないものは何だ?」
唐突な問いに、藤吉郎は猿のように首を傾げた。
「それは……兵の数にございます。桶狭間で勇猛な者たちが多く散りました」
「違う」
信長は断じた。
「『信用』だ。誰も、負けた織田信長が勝つとは思っておらん。家臣も、領民も、敵もな」
信長は、棚にある帳面を藤吉郎に放り投げた。
「戦で勝てぬのなら、戦わずに勝つ。猿、お前に大役をやる。明朝から、尾張中の寺社と商人を回れ。奴らに『信長は、全ての関所を廃止し、税を免除する』と告げて回れ」
「……はい? 税を取らねば、戦の支度ができませぬぞ!」
「馬鹿め。金を集めるのではない、金を『回す』のだ。通行税を無くせば、商人は今川の支配下を嫌って、俺の領地に集まる。米が動き、噂が動く。……今川義元がどれほど強くとも、食い扶持がなくなれば、ただの肥えた公家だ」
信長は、地図の美濃側に目を向けた。
「美濃の斎藤も、わざわざ泥舟となった織田を沈めに来るほど暇ではない。奴らが欲しいのは、豊かな尾張だ。ならば、尾張を『今食うと腹を壊す毒』に変えてやる」
◇◆◇
翌日。
信長の命を受けた藤吉郎が、泥まみれになって尾張中を駆けずり回る。
「信長様は税を取らぬと仰っている!」
「関所をぶっ壊して、自由に商売をさせてくれるそうだぞ!」
その噂は、絶望に沈んでいた領民たちの間に、小さな、しかし消えない火を灯した。
一方で、清洲城内の不穏な空気は限界に達していた。
林秀貞を中心に、信長の弟・信勝を担ぎ出そうとする動きが表面化し始める。
「兄上は狂われた。税を捨ててどうやって国を守るというのだ。もはや、この尾張を救えるのは信勝様しかおられぬ……」
暗い廊下で交わされる密談を、物陰から見つめる影があった。
信長はそのすべてを知りながら、あえて放置していた。
裏切り者の顔を、一人残らずその右目に焼き付けるために。
「……三重苦、か。いい重さだ」
信長は、手にした扇をパチンと閉じた。
「まずは、家の中の掃除から始めるとするか。猿、準備を急げ。計算通りの『うつけ』を演じるのは、これが最後だぞ」
今川の足音が迫る中、信長は静かに、牙を研ぎ直していた。




